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水娘伝(すいこでん)  作者: 文太
第五話 別離編
83/110

その十一 宋江、花栄に諭されるのこと

「うまく伝わるといいのだけど」


秦明(しんめい)は一人ごちて上空に昇って行く狼煙を見上げた。花栄(かえい)から教わった通りに作った狼煙台は、白い一条の煙を延々と吐き出し続けている。


 とはいえ、あらかじめ何か取り決めがあったわけでもないのでこちらの言いたいことが向こうにどの程度伝わるかは全くの未知数だった。敵をむやみに刺激してしまう可能性もあったのだが、その危険を犯しても秦明は向こうで待っているだろう人達に自分達が来たという事を伝えたかった。


 首を上げるのに疲れて、視線をおとすと眼前には黄河がその名に反して黒々としたゆらめきを見せている。ちょうどこの対岸に濮州(ぼくしゅう)軍が展開しているはずであり、その向こうに宋江や楊志の友人達がいる、と思われた。確証は無いが。


「秦明様。そこに立っていては見つからないとも……」


「そうね」


傍らにいる黄信(こうしん)に声をかけられて、秦明は素直に狼煙台の横に作った即席の塹壕に身を隠した。敵の河清(かせい)という男がどの程度の範囲を見渡せるかわからないが、確かに目立つようなまねは避けるべきだろう。


「神経質すぎるんじゃない?」


そんな二人の態度に魯智深(ろちしん)は不満そうだった。そうは言いつつも彼女も対岸からも見つからないように塹壕に腰を下ろしているが。


「というかあんなでかい船がある以上、今更って気もするわよ」


「まあそれも一理あるけど……私達が見つからなければ、漁師の船って普通は判断すると思うわよ。なにせ本当に漁師の船なんだから」


秦明はちらりと塹壕から顔を出して、河岸に停泊している船を見下ろした。ちょうど、明日に備えて船の調子を見ていた阮小二(げんしょうじ)阮小五(げんしょうご)が河原をこちらに向かって歩いてくるところだった。この五人が今ここにいる全員だ。


「もう一度、確認しましょうか」


秦明はその二人が同じように腰を下ろすと話を始めた。


「今、宋江(そうこう)くんと楊志(ようし)さん、花栄(かえい)林冲(りんちゅう)の四人は東周山(とうしゅうざん)周王山(しゅうおうざん)の間の渓谷を北上しています。阮小二さんが聞いたとおり、敵兵がその辺りに展開していないとすれば、明日の朝には山を超えられるはずね」


「ええ。距離的にもそれほど問題無いと思います」


秦明が聞くとこの辺りの地理に詳しい阮小二がうなずいた。一昨日、阮小二は漁師間の情報網で、既に軍が西周山(せいしゅうざん)周王山(しゅうおうざん)の間の渓谷を囲む様に陣形を敷き、それ以外の場所からは撤退し始めていた事を聞いていた。劉唐(りゅうとう)から聞いた話と総合するとおそらくこの囲まれた三角形の中に公孫勝(こうそんしょう)達がおり、敵も凡そそのことを察しているらしかった。


「林冲が潜むのはこの辺り。周王山がなだらかになる敵陣のすぐそば」


カリカリと地面に簡素な地図のようなものを描きながら秦明は言葉を続ける。


「そして宋江くん達はさらに北上して周王山の敵を突破し、公孫勝さん達と落ち合うつもりよ。時間は今言ったとおり、明日の朝」


 今回の作戦で宋江達は大雑把に三つに分かれていた。この秦明を中心とした五名。宋江、楊志、花栄の三名。そして単独で行動する林冲である。


 宋江達三人の目的は救出対象である公孫勝達を見つけ出すことだ。何しろ、公孫勝達の位置は渓谷の中というだけで未だ定かではない。全員で突撃したあげく、救出対象が見つからない、では話にならない。うまく落ち合えればいい、という考えもあるのだが、何せ秦明達は公孫勝達の顔を全く知らない。彼女らと面識があるのは宋江、楊志、阮小二、阮小五の四名だが阮小二は基本的に船を離れられないし、阮小五は阮小五で別の彼女にしかできない仕事がある。乱戦の中でうまく落ち合えるかもわからないとなれば、宋江と楊志が予め彼女達を見つけておくのが最も安全であった。


 もう一つ、これには公孫勝達の支援という意味も含まれていた。索超(さくちょう)雷横(らいおう)は毒をうけており、ろくな装備も無い状態で山に突入している。最悪、一刻を争う事態になっていた時のことも考えて、宋江達は公孫勝に頼まれた薬を含めて少ないが救援物資の類も運んでいっている。乱戦の中ではそんなものを受け渡しする暇も無いだろうし、敵を混乱させても彼女達の体力が尽きて出てこれないかも知れなかった。


「だから私達はそれまでに船をなるべく対岸まで近づける。宋江くんによれば、明日の朝はこの辺りは霧が深くなるらしいから見つからないギリギリ近くまでね。そして花栄からの合図がありしだい、動くわ」


 公孫勝達に接触しようとしている宋江と楊志に花栄が同行しているのは二つ理由がある。一つは二人が山を突破する際の補助だ。宋江と楊志の二人は山を越えてl森の中で公孫勝達と、しかも敵に見つからないように接触しなければいけないのだが、この二人は一行の中でそうした野外活動を最も苦手としているのである。それを補うために元狩人であり、山についても詳しい花栄が同行することになったのだ。


 そして、もう一つの役割が林冲と秦明に突撃の合図を送ることだった。


 無事に楊志と宋江が敵に見つからず、公孫勝達に接触できた場合は問題ない。向こうの準備が整ってから宋江や楊志が合図を送っても良いだろう。だが、問題は宋江達が敵に見つかった場合だ。


 秦明の経験から言って、山の上にそれほど多くの兵が配置されているとは思えなかった。せいぜいが五十名といったところか。しかしそれでも宋江達三人にとっては殺到されれば脅威だし、その上、山のすぐ下には多数の兵が(秦明の見たところ、ざっと八百人と言ったところか)ひしめいている。宋江達が見つかればこの兵士達も包囲に加わる事も考えられる。


 もし宋江達が敵に見つかった場合、公孫勝との合流を待たずして秦明や林冲は動かなくてはいけない。最低でも宋江達が無事に脱出するだけの時間は稼がねばならないのだ。その判断を秦明は花栄に求めた。これは宋江は元より、楊志にも任せられない事である。なんとなれば、それは公孫勝達を見捨てるということにもつながるのだから。


「花栄の合図が周王山からあがったら、宋江くん達は公孫勝さん達と接触できなかった、と思って間違いないわ。その場合は私と魯智深と黄信の三人がとにかく敵陣をかき回して一人でも多くの兵を屠りつつその合図のあった場所に近づく。阮小二さんと阮小五さんは私達を船から下ろしたら即座に岸から離れて、適当な時にまた船を近づけてちょうだい。その後は二人の判断に任せるけど、最悪、二人だけで撤退することも視野に入れておいてね」


「はい」


秦明の言葉に阮小二が固い顔で頷いた。


「逆に周王山と西周山の間から合図が出た場合は、無事、接触しているものと考えましょう。その場合の役割だけど、まず林冲は河清の暗殺」


 この作戦を大雑把に練ったのは秦明であるが、彼女は種々の情報を総合した結果、河清を殺さずにこの場を安全に脱出することは不可能だと考えていた。現状を見てもあの男は気功使いとして手強いだけでなく、軍人・指揮官としても有能であることは明らかである。この場で全員脱出できたとしてもあの男が無事なままでは、梁山泊まで追撃されてしまうだろうことは容易に想像できた。


 そのため、河清の顔を知っており、かつ個人の戦闘能力が最も高い林冲が単独行動をとって、河清を殺す事となっていた。


「阮小五さんは敵の船に火をつけて、敵の足を奪う。阮小二さんは船に残ってこの船が壊されたりしないようにして。それから黄信、あなたは二人を援護しつつ上陸地点の確保を。魯智深さんは敵陣に飛び込んで極力相手をかく乱させてちょうだい」


そこで秦明はぐるりと全員を見渡し、異論が無さそうな事を確認すると再び口を開いた。


「私は宋江くんや楊志さんの撤退路を確保するために森に一直線に向かいます。後は公孫勝さん達を拾った宋江くんと楊志さん、それに任務を終えた林冲が戻ってきたら逃げるわ」

秦明はそこまで一気にしゃべると、再び四人に顔を向けた。


「何か質問はある?」


「あのよ。もしずっと花栄さん……だっけか? その人から合図が無かったら?」


阮小五が聞くと、秦明は少し考えてから口を開いた。


「そうね……考えづらいけど、明後日の夜を迎えても何も動きが無ければ、おそらく何か不測の事態が三人に起こったという事だと思う。その前に林冲が動いた場合は彼女の補助に回るけど、もしそれもない場合、私は周王山に向かうわ。ただしこれは私のわがままに近い行動だから、他の人達は先に帰ってもらってもかまわない。そこまで経って何も無ければ、多分作戦は失敗だから」


「じゃあ、何のために、あんたは行くんだ?」


「最低限、宋江くんの生死だけでも確認するためよ。妹さんとの約束もあるしね」


と、秦明は神妙な面持ちでいった。


「……あのさ、こんなこと聞くの、すっげー野暮だってわかってるんだけどさ、なんであいつなんだ?」


小五(しょうご)ちゃん」


と阮小二が咎めるような口調で言うが阮小五はそれを無視した。


「いや、喧嘩売るつもりねーぜ。俺は……あれだ、礼儀とかしらねーからそう聞こえたら、謝るけどな」


阮小五は少し遠慮がちにそう前置きして、再び口を開いた。


「純粋に不思議に思ってるんだよ。姉貴も呉用(ごよう)先生もあいつには一目おいてる風だし、あの青髪の女やあんたにいたっちゃべたぼれだ。元禁軍の師範代だとかいう奴まであいつにゃ従ってる。従ってるどころか、顔も知らない連中のために、ただあいつが言ったってだけで、こんな危険な場所までくっついて来てる。いったいあいつは何なんだ? 悪いが俺にはあいつがそんな大層な奴には見えない。強いて言うなら変わり者の世間知らずってことぐらいだ」


「小五ちゃん、言い過ぎよ。申し訳ありません、秦明様」


と慌てた様子で阮小二は秦明に頭をさげた。


「良いのよ。気にしてないから。それと様付はやめてちょうだい。そんな大層な人間じゃないもの」


ころころと笑って秦明は阮小二に頭をあげさせた。


「そうねえ、どう思う?」


「なんであたしに聞くのよ。聞かれたのはあんたでしょう?」


秦明に話を向けられた魯智深は思いっきり迷惑そうな顔をした。


「多分私が答えるより、あなたが答えた方が阮小五さんにとって説得力のある回答が出そうだからよ」


そういわれて魯智深は居心地が悪そうに頬をかいたが、結局は話し始めた。


「うーん。あたしはそんな事考えたこと無いな。元々、所謂(いわゆる)まともな人間じゃなかったし、こうしてあいつに協力しているのも半分以上は成り行きだからね。……けど、そうだね。強いて答えを返すんなら……これは林冲が言ったことだけど、安心できるんだよ、あいつは」


「安心?」


とその単語は阮小二にとってもいささか意外な単語だったらしく、首をかしげて反芻した。


「そう。阮小五ちゃんだっけ? 色々言うけどさ、とりあえず宋江が善人ってことはあんたも認めるだろ。まあ行き過ぎて困ることもあるけどさ」


「呼び捨てでいいよ」


ちゃん付けされたのが気に入らなかったのか、阮小五はそう言ったが、魯智深の言葉自体には同意したらしく頷いた。これは後で知ったことだが、阮小五は昔、姉に対してもそう呼ぶなと散々言ってたようだが、どうしても変わらないので根負けしたのだという。それはともかく、魯智深はこの場でそんなことを追求したりはしなかったので、わかったよ、と言って頷いたのだが。


「昔、あたしは軍人だった。林冲もね。で、ある時から色々あってそうじゃなくなったんだけど……」


魯智深はそこでぎゅっとこぶしを握って話を続けた。


「軍人てさ、意外と気が滅入る事も多いんだよ。凶悪犯だって言われて捕まえに行ってみたら、単に上司がそこの家と諍いを起こしていただけだったり、山賊だって言われて攻めに行ってみりゃ実際にはついこの間まで農民だったけど、田畑を地主に奪われて食うに食えなくなった哀れな連中だったりする。そんなの日常茶飯事だ」


「それで……?」


「林冲が言う安心てのは、宋江とならそういう事は無いだろうって意味さ。阮小五の言うとおり、あいつは世間知らずのところも多いよ。けど義理堅いし、たまに暴走するけど基本的には思慮深くて、乱暴じゃない。何より意外かも知れないけど、暴力を嫌う上司って結構軍人的には嬉しいんだよ。特に林冲はあたしと違って、そう言った暴力沙汰が好きじゃないからね。そんなところがあるから林冲は宋江に従ってるんだろう。元禁軍の師範代なんて御大層な肩書きがついちゃいるが、本音のところは意外と臆病だからさ、あの子は」


 その言葉に今度は阮小五が首をかしげた。


「臆病?」


「自分が力を奮った結果に怯えてるってこと。わからないでもないけどね。凶悪犯と聞いてぼこぼこに殴り倒した後で、そいつが何の罪もないやつだってわかったら良い気持ちしないでしょう?」


「そこはわかるが、おかしくないか? それだったら尚更こんな鉄火場には来たがらないんじゃないの?」


阮小五が更に問うと、魯智深は少し言葉を探すようにうーんと唸って続けた。


「なんて言ったらいいかな。林冲は暴力が嫌いな一方で、実はそれを躊躇なく振るえる場所を探してるんだよ」


「なんだそりゃ」


「もうちょっと言うと、暴力をむやみやたらに振るうのは嫌いだけど、自分自身が身につけた能力は別に嫌ってないし、逆に誇りに思ってるくらいってこと。自分の力を発揮したいという欲求はある。けど、それがもたらす結果は怖い。じゃあどうしたら良いか。誰かに判断してもらえばいい。ここは遠慮なく自分の力を使っていい場所だってね。そういう面で言えば、林冲以上に暴力が苦手だけれども周囲の状況に首を突っ込んだ結果、それに頼らざるをえない宋江っていう存在は、穿った言い方をすれば都合のいい存在なわけだ」


 魯智深はそこまで言って肩をすくめた。


「ま、あの子の場合それだけが理由でも無いんだろうけど……要は自分の力を正しく使ってくれる、という風に考えているんだろうね。善悪の判断を宋江に丸投げしてるとも言えるから、あたしはあまり褒められたものじゃないと思うけど。だけど、今まであたしが宋江について一番共感できたのはその林冲の話だな」


魯智深がそう話を締めくくると、あたりが沈黙に閉ざされた。


「ちょっと、黙りこくんないでよ。なんか恥ずかしいじゃない。酒も入ってないのに、こんな話させて。ほら、秦明、あんたの番」


「え? 私? そうねえ、皆が宋江くんを評価する理由?」


秦明はうーんと口に指をあてた。


「林冲についてはだいたい魯智深さんの言った通りだと思うわよ。けど私と……多分だけど楊志さんも彼がすごいから好きになったわけじゃないと思うの」


それを聞いて阮小五は少し意外そうだった。


「そうなのか?」


「少なくとも私は宋江くんが完璧な人間だなんて言うつもりはないわ。臆病だし、泣き虫だし、騙されやすいし、恥ずかしがり屋だし、それに何よりはっきりしないし、責任感あるんだか無いんだかわからないし、自分が着る服にもっと気を使ってほしいし……」


と後半はだんだん内容が愚痴っぽくなっていく。


「けどね、だから良いのよ」


「……ごめん、よくわかんない。欠点なんて無い方がいいだろ?」


困惑を浮かべて阮小五は言った。さらにそんな自分を阮小二と秦明は可愛い子供を見るような表情で微笑むものだから、彼女は少し居心地悪そうにした。


「欠点のない人間なんていないからね。秦明が言ってるのは逆に言えば、そういう許せる程度の欠点しか無いってことだよ」


「ちょっと、そんな言い方したら、私が単に我がままなだけみたいじゃない。私の言いたいことはそうじゃないの」


魯智深の言葉に秦明が口を尖らした。


「まあ、背の高さとか服の事はさておき……宋江くんはね、自分にそういう欠点があるのをわかった上で、それを抱え込んだまま他の人のために必死になってくれるの」


秦明はそう言って同性の阮小五ですら、どきりとするようなほほ笑みを浮かべた。


「私は宋江くんのそういうところが一番好きなの」







「くちゅん!」


と、宋江はやたらと可愛らしい少女のような音をたてて、くしゃみをした。


「宋江。風邪でもひいたの? 夏と言っても山は結構冷えるし、なんならもう少し着込んだほうが……」


「い、いえ、大丈夫です。おかしいな? 寒気なんて感じてなかったんですけど」


即座に心配げに覗きこんでくる楊志に慌てて答えて宋江は確かめるように自分の身体を抱きしめるように触ってみた。森によってだいぶ遮られているとはいえ、夏にろくに道も整備されていない山を登っているせいで、自分の身体は汗だくだった。程度こそ違えどそれは林冲や楊志も一緒であるが。


「大方、秦明あたりが君の噂でもしているのではないかな」


まさか自分のことも話題になっているとは思いもしていない林冲がくすりと笑って声をかけてくる。


「どっちでもいいけどさ、そろそろ敵軍も近いんだから注意してね。そんなくしゃみで見つかったとか言ったら笑うに笑えないから」


「す、すみません……」


先頭を歩く花栄に注意されて宋江は縮こまる。


「謝らなくても、わかってくれるんならそれでいいよ」


花栄は肩をすくめて無感動に言うと再び注意を前方に向けた。


 今朝方、秦明達と別れて宋江達は周王山と東周山の間の小さな平野の下流側から上陸すると数時間にわたって獣道のようなところを北上してきた。今はおおよそ山の六合目あたりまで登ったと言ったところだろうか。


「まあ、後は汗をふいて、風邪など精々ひかぬように気をつけるといい。花栄ではないが、肝心なときに風邪などひかれても困るからな」


林冲はそう言うとふと気づいたように辺りを見回して口を開いた。


「少し、来すぎてしまったようだ。私はそろそろここで別れるとしよう。花栄、後の事は任せたからな」


実は林冲が潜んでいるべき場所はとうに通り越してしまっている。だが、彼女は比較的非力な(というか林冲や花栄が超人的過ぎるのだが)宋江と楊志のために、彼らが持つべき荷物を持ってここまで歩いてきてくれたのである。


「あいよ」


林冲の言葉にやる気の全く見えない調子で花栄は請け負う。とはいえ、宋江も楊志も彼女がそんな態度とは裏腹に仕事をきっちりとこなすことを知っていたのであまり不安に思う事は無かった。


「宋江、楊志。済まんな最後まで付き合ってやれなくて」


「いえ、そんな……こちらこそすいません。荷物持ってもらっちゃって」


「ありがとうね。林冲。あなたも大変なのに」


宋江と楊志はそう言って林冲から荷物を受け取った。中身は朱仝(しゅどう)達のための食料や水で見た目以上に重さがある。


「林冲も気をつけなよ」


「ああ、そちらもな」


花栄の言葉に短く答えて林冲はまた来た道を戻って行った。今回、安全な場所に居れると言い切れる人間は一人もいないが、それでも敢えて誰が一番危険かと問われればそれは林冲だろう。なにせ彼女は単独で敵陣の奥深くに切り込んでいかなくてはならないのだから。


「あ、狼煙が上がってる」


林冲を見送るために後ろを振り向いた時、宋江はそのことに気づいた。煙の根本は彼からではわからないが、青い空に白い帯が一本だけ昇っているのがよくわかる。


「案外良く見えるものなんですね」


「そうじゃなきゃ狼煙の意味が無いからね。けどまあ、ここで見えるってことはあんたの友達もきっと気づくはずだね。後はそれが自分宛てのものだって気づいてくれるかどうかだけど……よほど、鈍くなきゃわかるはずさ」


花栄は言い終わるとまた二人に声をかけた。


「さ、そろそろ日が落ちるし、あたし達も急ごう」


 その後、花栄がここで今日は夜を過ごすと宣言したのは、林冲と別れておよそ三時間ほど後だった。太陽はまだ西に傾きかけただけで、日が完全に落ちるにはさらに二時間ほどかかりそうな頃合いである。


「宋江、お願いね」


「う、うん」


花栄に言われて宋江が息を吐き、地に呼びかけると何本かの低木が三人を囲むように生えてきた。申し訳程度であるが、敵兵に見つからないための目眩ましである。


「これでいいですか?」


「いいんじゃないかな、ちょっと狭い気もするけど。さ、夜になったら火は使えないから、今のうちに手早くご飯すませちゃお」


花栄は言って手早く火打ち石で木炭に火をつけた。


「ずいぶん、手馴れてるのね」


「言ってなかったっけ? あたし軍人の前は狩人だったからね。こういうのは慣れっこ」


楊志の疑問に答えて花栄は干し肉を軽く炙ると二人に渡した。


「食べながらで良いんで聞いて欲しいんだけど、明日のことね。これ食べ終わったら日が沈む前に寝て、夜中のうちに出発しようと思うんだ」


「夜に山の中を移動するなんて危険じゃないの?」


「そのためにあたしがいるんじゃない。そりゃ、安全とは言わないけど、真っ昼間に敵陣に突入するよりはいくらかましでしょ」


花栄は事も無げに答えた。


「けど、案外二人とも歩くの速いから、多少ゆっくりめで行っても朝日が本格的に昇る前に山頂にはつけると思う。敵陣の配置なんてわかんないから、基本的にそこからは出たとこ勝負だね」


言いながら花栄はその小柄で可愛らしい体躯に似合わぬ乱暴さで干し肉をぶちっと噛みちぎる。それから花栄は唐突に宋江に顔を向けて口を開いた。


「明日は霧がかかるんだって?」


「う、うん。朝のうちだけだと思うけど、多分……。河の方にもですけど」


「まあ、その通りになればいいんだけど……」


「信じてないの? 花栄さんだって今まで何度か宋江が雨が降るのを当てたの見たことあったじゃない」


楊志が言うのは、青州(せいしゅう)を出発して、梁山泊に至るまでの旅の時のことだ。確かにその際、宋江は雨が降るおおよその時間を当てるという異能を見せていた。今のところ、それは百発百中である。


「いや、いまさら疑ったりはしてないよ。その霧がかかるっていう予測を信じて、明日に山を越えようとしてるんだし。ただね……」


花栄は頬をかきながら、やや言いにくそうに言葉を続けた。


「これはあたしの経験則なんだけど、こういう面倒な仕事の時ほど、天気も味方してくれないもんなんだよ。だから、明日の朝に霧がかかるっていうのが、少し落ち着かないんだよ。都合が良すぎてさ。そもそも山の天気って変わりやすいしね」


花栄は頭を振って宋江に再度尋ねた。


「ねえ、宋江今はどう? 今もまだ、あんたは明日の朝、この辺りに霧がかかると思う?」


「え……と……」


と宋江は言われて空を見上げた。そうして宋江の瞳に映る景色はおそらく他の人間と何か違うわけではない。しかしそこに宋江は流れのようなものを感じていた。視覚、というよりももっと体の真芯に訴えかけてくるようなその流れを感じて宋江は結論づけた。


「はい。かかると思います。多分明け方直前から二刻(約一時間)ほどだと思いますけど」


「わかった」


宋江の珍しく断言するような口調に花栄はすんなりと頷いた。


「一応言っておくけど、霧が出なくても手段はいくつかあるからそうならなくても慌てなくていいし責任感を感じる必要もない。良いね」


花栄の言葉に宋江はこくりと頷いた。簡素な言葉だが、こちらを慮ってくれているらしい事は察せられた。


「まあ、とりあえず最悪の場合だけ想定しておこう。明日、もし霧がかからず、あたし達が敵陣突入前に発見されてしまった場合のこと」


「その場合はどうするの?」


「基本的には強硬突破。二人はとにかく自分が無事に敵陣を通り抜けることだけ考えて。後はあたしがなんとかする。もし万が一、あたしが追ってこなかった時は、とりあえず森にいるっていうあんたの友達と合流して可能な限り早く、まっすぐに山を降りて。後は敵陣に接触する前に大声を上げれば林冲が来ると思うよ。多分、あの人なら山が騒がしくなった時点で、もうあんた達の手助けをしなきゃいけないことを考え始めると思うから」


「わかりましたけど、花栄さんはどうするんです?」


「逃げ出せた場合は、あたしはあんた達に合流を試みるけど、それが無理だった場合はちょうど真昼に合図をあげる。もしどうにかして林冲との合流を遅らせたい場合はそこまでが猶予だという意味でもあるけどね。……逆に言えば真昼に合図があがらなきゃこっちの事は死んだと思って欲しい」


宋江の質問に花栄は自分の生死に関わる話を淡々と続けた。


「え、そんな、それは……」


反論しようとした宋江を花栄は押しとどめて口を開いた。


「気持ちだけはありがたくもらっておくけど、まさかあたしを探しにもう一回山を登るわけにもいかないでしょ」


花栄にそう言われても、なおも宋江は承服しかねると言いたげに視線を花栄に向けた。


「あのさ、宋江。余計なお世話だろうけど、あんたは妹さんにちゃんと帰るって約束したんだろう? その約束をどの程度重く受け止めるかってのはあんた次第だろうけど、頼むからあんまり自分の命を粗末にしないでよね。あんたが死んだりでもしたら、あたしも秦明さんから怒られるだけじゃすまないだろうし」


「それはそうですけど、そのために花栄さんを見捨てるってのはやっぱり……」


なおも強情にそう言う宋江に花栄は困ったように楊志に視線を移した。とは言え、妹の事を持ちだされて彼の意思は大分ぐらついたようだったが。


 楊志もまた無言で苦笑すると、宋江に話しかけた。


「平気よ、宋江。花栄さんはわざわざ秦明さんがこの状況にピッタリだと言ってこっちにつけてくれた人よ。信じて任せましょう。花栄さんなら多少難しい状況になってもちゃんと自分で面倒見れるだろうし、そうよね?」


楊志は安心させるように微笑んで宋江にそう言い聞かせると、最後に花栄に振り向いて確認するように問うた。


「あんまり信用されても困るけど……別に自殺志願者ってわけじゃないから、まあなんとかするつもりはあるよ」


「そう……ですよね、うん。そうですね、花栄さんなら大丈夫ですもんね。任せられますものね。弓だってすごい上手だし、山のことだって詳しいし、冷静だし……」


宋江は理屈の上では自分が間違っているのを自覚していたらしく、なんとか自分を説得しようと試みているようだった。ただ、目の前で自分の長所をずらずらと並べられて花栄は少々居心地が悪かったが。


「おだてても何も出ないよ」


「あ、ごめんなさい。そういうつもりじゃなくて……」


「ああ、うん。いい。わかったから。こっちもちょっときつく言い過ぎた」


言って花栄は疲れたように顔を抑えて呻く。楊志はとみれば、そんな二人の様子を見てくすくすと面白そうに笑っている。


「宋江、これは忠告だけど、あんた優先順位を決めておいたほうが良い」


「優先順位?」


「そう、例えば、あたしと楊志さんのどっちかしか救えない。そんなときになったらどうする? 楊志さんを救うだろ。そういうこと」


「それは……」


「別に誰を一番にしろとは言わないよ。でもいざってときに決めておかないと判断に時間がかかる。明日はそんな贅沢な時間の使い方ができるとは限らないからね」


「………」


花栄の言葉に宋江は顔をうつむかせた。それは命に順番をつけろと、そういうことなのだろう。本能的に拒否する言葉を探したが、しかし、うまい言葉が思いつかない


 そんな宋江の様子に花栄は肩をすくめた。


「悪い、作戦の直前に言うことでもなかったね」


花栄はそう言うが、宋江は彼女の言うことがおそらく誤りでないことを直感的に悟った。ひょっとしたら、あまり考えたくないが、明日、自分は楊志と秦明のどちらかを見捨てるであるとか、そういった決断をくださなくてはいけないのかもしれない。


「……ちょっと早いけど、さっき言ったとおり、夜のうちに出るからもう寝よっか」


少しして気を取り直したらしい時刻的にはようやく太陽が沈むといった頃合いだったが、花栄はそう言うと燃えている炭にばさりと土をかけた。夜に火を焚いていては敵兵に見つかってしまうからだ。


「あんまり不吉な事言うつもりはないけど、これが最後の夜になるかもしれないから話すことは話しておきなよ」


花栄はそう言って気をつかったつもりなのか、囲われた低木の隅で毛布にくるまるとこちらを背にしてごろりと横になった。


「最後……」


花栄に言われて、宋江は今更ながらにその事を意識した。考えてみれば公孫勝達が全員五体満足であったとしても、十五人前後の人間で千名近い兵士達を相手取らなければいけないのだ。しかも戦うのはほぼばらばらの場所。これは滄州(そうしゅう)の時や、青州(せいしゅう)の時とは全く違う状況だ。そんな状況で誰一人欠ける事無く無事に終えられるなんてどうして言えよう。ましてや一番頼りになる晁蓋(ちょうがい)がいないこの状況で。


「宋江」


不安そうに自分の拳を見つめていると、楊志がそっと触れてくる。


「心配するのもわかるけど、花栄の言うとおり、寝ておいた方がいいわ。明日は何があるかわからないし、今日、消耗した体力も回復させないと」


宋江の不安を取り除くように楊志は努めて明るい声を上げてきた。


「そう、ですね……」


宋江は幾分、説得されるような調子ではあったものの、結局は頷いた。だが、最後に彼は楊志の目をじっと見て確認するように口を開いた。


「楊志さん。明日は絶対、皆で一緒に帰りましょうね」


「ええ、そうね。うん、必ず」


楊志は少しはにかみながらも、そう答えた。

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