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水娘伝(すいこでん)  作者: 文太
第五話 別離編
82/110

その十 公孫勝、追い詰められるのこと

「おい、おぬしら、生きとるか?」


「死んでまーす」


「そうかそうか。それは元気そうで何よりじゃ」


その日、四人の朝は公孫勝(こうそんしょう)雷横(らいおう)のそんな諧謔的(かいぎゃくてき)なやりとりから始まった。朝、と言っても既に日は南東の当たりまで移動した頃の事だった。ほとんど昼と言っても差し支えないだろう。


 劉唐(りゅうとう)と別れたあの日から今日で十日目となる。劉唐が梁山泊(りょうざんぱく)に出発したその翌朝から四人は馬を潰れるまで走らせ、二日かけて西周山(せいしゅうざん)の麓の森まで到着した。そこからは馬を捨てて、山の中を歩き始めたのだが、やはり体調の万全でない索超(さくちょう)と雷横を抱えての移動は予想通りに困難なものだった。一方、敵の動きは迅速で、その日のうちにはもう濮州の兵たちが山の麓までやって来たのである。とはいえ、そちらの動きについては公孫勝の想定の範囲内であったし、距離もそこそこ稼げていたので、身を隠しながら進む事で事なきを得ていた。そしてこれもまた公孫勝が予想していたとおり、彼らは大軍であることが逆に災いして山の中までこちらを追って来れないようだった。というより、山の中に入ってからの自分達が見つからないのでどちらに進んでいいかわからなかったのだろう。


 四人はそのまま巧妙に身を隠しつつ山の中を進み、ついに西周山を越えた。この頃には文字通り峠を越えた事で、一行にはある程度弛緩した空気が漂い始めていた。四人は西周山を下り、そのまま周王山(しゅうおうざん)との間にある谷間の森を降りていった。ここまではおおよそ順調に進んでいたと言って良いだろう。


 だが、問題はそこからだった。四人の先にはその二つの山と黄河に囲まれた小さな平原があり、そここそが船を連れて来るはずの劉唐と落ち合う場所であったのだが、そこには既に濮州(ぼくしゅう)軍が陣を張っていたのだ。


 これに一行は驚き、どうするか話し合ったものの、結局そのまま森のなかに潜むことにした。敵に見つからないよう、念には念を入れて公孫勝は洞窟まで掘った。と言っても彼女にしてみればそれほど大した手間では無かったろうが。


 理由は二つある。


 一つは無理に眼前の敵を突破したところで意味が無いからだ。今現在、敵の向こうにあるのは黄河のみである。これでは敵を突破したところで、自分達は河岸に追い詰められるだけに過ぎない。劉唐達が船を連れて来なければ、自分達は逃げも隠れもできない状況で、敵に囲まれてしまうことになる。敵の乗って来たらしい船は一応あるが、それは数十人単位が乗る巨大なもので、到底自分達が操船できるような代物ではない。


 そして、二つ目。こちらの方が理由としてはより深刻だったが、そもそも突撃したところで自分達では突破はできないだろう、ということだった。敵兵の正確な多寡はわからないが、どう見ても十や二十どころの騒ぎではない。陣地の大きさから考えると百は下らないだろう。それに比べてこちらは四人。しかも毒を受けていた雷横と索超に加え、その二人を必死で支えていた朱仝までもが倒れてしまい、戦闘行為ができそうなのは公孫勝しかいなかったのである。


 さらに、敵がその場所からこちらに進んで来る気配が全く無かった事もその結論を後押しした。


 これを公孫勝は敵が自分達を見つけてない故の行動だと判断した。見つけているなら、あんなところでぼさっとしていないでこちらに攻め寄せてくればいい。それをしないのはやはりまだ自分達がこの山のどこにいるかわからないからだろう。おそらく彼らは山の全てを包囲しようとしており、目の前に居るのは敵の一部に過ぎないのだ。となれば、ひょっとしたら自分達がどこかから既に脱出してしまったと思って、包囲を解くかもしれない。そんな淡い期待もあった。


「と思ってから今日で四日目か……」


正直に言えば状況は徐々に悪くなりつつある。まず、目の前の敵兵は撤退の気配などまるで見せないどころか徐々に増えつつあった。これだけの兵を何箇所にも展開するためには兵糧も馬鹿にならないはずだが、それを気にした風もない。


 一方で自分達はと言えば、昨日の昼で元々持っていた食料が尽きた。前述の通り、公孫勝達は洞窟の中で過ごしているが、敵に見つかる危険性がある以上(なにせ敵にはあの河清(かせい)がいる)、基本的に夜以外は外にでることもできない。その上、夜になる度に公孫勝がこっそり洞窟を出て野草やら果実をとってきてはいるが、そもそもこの山には食べられるような食材などほとんど無かった。昨日までは細かく刻んだ干し肉や干し飯を野草で水増ししていたが、今日からは純粋に野草のみとなる。不幸中の幸いなのは公孫勝が湧き水を無事掘り当てられたことで、喉の渇きだけは心配せずに済んでいる。


 そしてそれと密接に絡んでくるが、より大きな問題なのは三人の体調だ。まず、索超は引き続き最も危険な状況にある。彼女は毒矢を受けて、本来ならば安静にしてなければいけないのを無理に山歩きをした上に、まともな食事もとれていないのだ。ここまで来ると毒の影響というよりも、それによる体力低下が大きな問題かもしれない。だが何にせよこの四日間この洞窟で休息をとっても改善は見られず、公孫勝も彼女の事は特に注意を払って診ていたが、今のところ、生きているだけで精一杯という状況だ。


 朱仝の状況も決して良くはない。旅の初期において公孫勝と共にろくに動けない二人を必死に支えてきた彼女だが、実は元々肉体的な能力は四人の中で最も低い。本来ならば最も気遣われるべき彼女がひたすらに献身的に徹していたせいで消耗が著しく、四日前は高熱まで出し始めていたぐらいだった。ただ、助かったのは索超と違って疲労が原因であるため、ここで少し休憩したことで次第に体調は回復しつつあった。


 雷横は他の二人に比べればまだ元気な方だと言えるだろう。木内功(もくないこう)によって生命力が底上げされている彼女は毒の影響も軽微で受け答えや日常生活は問題なく送れている。が、それが故に実は彼女はこの四日間、ほとんど食事を取っていなかった。というのも、先程言ったとおり食事量には限りがあったので彼女は自分の食事を他の二人にこっそり回して、自分は水だけで過ごしていたのである。それだからこそ、他の二人がここまでなんとか持ち直した、あるいは生きてこれたとも言えるが。


 最後に肝心の劉唐の救援である。時間的には、劉唐の身に何事も起こって無ければ、そろそろ船がこちらについてもいい頃だった。が、今のところ、そんな気配は全く見えない。もちろん公孫勝も劉唐に何も起こってないと考えられるほどに幸せな思考回路はしていなかったので多少の遅れは覚悟していたはずだったが、目の前の悪化していく状況はその覚悟を削って焦りへと変えていく。


(そもそも、劉唐は無事に梁山泊につけたのかのう?)


考えたくないが、劉唐がどこかで捕まっていたとしたら状況は最悪だ。ここで自分達がこうしているのを気づくものはいない。ひょっとしたら呉用(ごよう)あたりが自分達が帰ってこないことに気づいて、阮小五(げんしょうご)あたりを寄越してくれるかもしれないが、それで自分達がここにいるとわかる頃にはおそらく自分以外は餓死しているか、破れかぶれで敵陣に突っ込んで討ち死にしている。


(つまり、そこは劉唐を信じるしかない、ということか……)


だが、劉唐が無事につけたとして問題はもうひとつある。今、梁山泊に残っている面子で戦闘がつとまりそうなのは劉唐の他は阮小五くらいだろう。阮小二(げんしょうじ)阮小七(げんしょうしち)もやれないことはないが、あの敵陣に突っ込んで無事生還できるかと言われたら厳しい。いや、というよりあの敵陣を突破できそうなのは劉唐と晁蓋(ちょうがい)ぐらいのものだ。


(ひょっとして、劉唐も河の方で手を拱いておるのか?)


そう思って今日一日何も動きが無ければ、公孫勝は明日にでも一人でこっそり河の様子を探ってみようかと考えた。危険ではあるが、左右どちらかの峰に登れば自分なら河まで見通せるだろう。

 公孫勝はそう思いつくと、洞窟の出口からこっそりと左手にある周王山を眺め、そして驚愕した。


「なっ……!」


声を出しかけて慌てて止める。


「どうしたのですか?」


朱仝がぼんやりとした調子でこちらに聞いた。


「い、いやなんでもない」


公孫勝がごまかすように言うと朱仝は納得したというよりも追求する体力も無いのか、それ以上何も尋ねずまた目を閉じて横になった。


 冷静に考えてみれば、公孫勝がごまかす理由は何も無かったのかもしれない。それでも咄嗟に公孫勝が自分の口を封じてしまったのはこの情報を軽々しく扱うのが憚られたからだろう。


 彼女が見たのは旗だった。左手の周王山の上に濮州の旗が翻っていたのだ。旗がある、ということはもちろんそこに軍が展開していることを意味する。地形から行って人数はさほど多くなかろうが、公孫勝が驚いたのは敵が近くに来た、ということではない。公孫勝は次いで恐る恐るといった様子で今度は右手の西周山の方を眺めた。予想はあたっていた。そこにもまた濮州の旗が翻っていたのだ。


 この布陣は当初自分が考えていた、敵は自分達がこの山のどこにいるかわからず、やむなく山全体を包囲しているという推測と矛盾する。敵は明らかに包囲の輪を狭めつつあった。すなわち、大雑把なのか、それとも精緻になのかわからないが、敵は自分達がこの辺りにいることを捉えつつある。


(じゃが、どうやって見つけたのじゃ?)


山に入ってから、特に、西周山を超えてからは濮州軍から自分達の姿は完全に見えないはずなのだ。それについては公孫勝は慎重を期していたし、特にここに隠れてからは火を焚くことさえ控えめにしていたほどである。


(いや、それを考えている場合ではないか)


公孫勝は頭を振って余計な推測を追いだすとこれからの予定を組み変えようとした。こうなった以上、いつまでも劉唐を呑気に待つということはできない。既にかなりこちらの状況は危ういのだ。特に索超は明日の朝冷たくなっていたとしても、何もおかしくはない。だが、だからといって正面の敵に突っ込んでも勝算はまるでない。公孫勝以外の三人はこの状態では走ることすら覚束ないのだ。あるいはいちかばちかで山上の敵に突撃をしかける、という方法も残されているが、勝機があるようには思えなかった。


(どうしようも無い、ということか……?)


結局公孫勝の思考は自分達ではこの状況を無事に越えられる事はできない、という事実を再確認するだけに終わった。


(ぐっ……冗談ではないぞっ! わしはまだまだ死ぬわけにはいかんのじゃ!)


公孫勝は思わず爪を噛みながら頭を回転させたが、この窮地を自分達だけで突破する考えは何も思いつかなかった。


(くっ! 劉唐、頼む!! 早く来てくれ!!)









河清(かせい)殿、別働隊から連絡がありまして、周王山と西周山に兵を展開しおえたとのことです」


「はいはーい。見えてたから知ってるよ」


濮州の総兵管(そうへいかん)の声に河清は気楽な調子で昼飯をかきこみながら、そう答えた。


「事前に念押ししたとおり、突撃したりはさせないようにしてね。山の上で陣取ってて逃がさないようにするのがあいつらの仕事だからさ」


「は、それはきつく言い含めております」


自分の息子より多少年上と言った程度のこの青年に対し、総兵管は腰を低くして答えた。


「ん。ならいいよ。後は異変が起こらない限りは放っておこう」


「よろしいのですか?」


「心配?」


問い返されて総兵管は少し悩んだが頷き返した。


「率直に申し上げれば……」


総兵管は濮州のほぼ全軍をこの男の言うとおりに配置してきた。濮州全土に兵を派遣し、自分達は最も雷横達が潜む可能性が高いと思われたこの周三山(しゅうさんざん)に主軍三百名を率いて来たのである。そして進軍途中で実際に河清が山に入る雷横達を見たと言い、この黄河沿いへと布陣した。


 到着してからしばらくして、河清は雷横達が自分達の丁度正面にいると断言し、徐々に兵を集め始めた。しかし、実は今もって河清以外にその事を確認した人間は誰も居ない。自分達は河清が確認した情報に盲目的に従っているだけなのだ。


 それだけなら総兵管も心配しなかっただろう。だが昨日になって突如、済州の軍勢三百名がここに合流した。河清が呼んだらしいのだが、総兵管はまるで知らされておらず、その事が彼に対する小さな疑念を生み出していた。


 思い直してみると、この男にはいまいち得体の知れないところがあった。どうも済州以外にも色々と使者を走らせているようで、最悪、自分達濮州軍をまるまる囮に使って別の何かを狙っているのでは、という気さえしたのだ。


「雷横ちゃんたちがあそこにいるのは間違いないね。この仕事でもらえる報奨金全額賭けてもいいくらいだよ」


「……後学のためにそう言い切る根拠を教えてもらえませんか?」


「参考になるとは思わないけど……まあ、いいや、教えてあげる」


言い渋るかと思ったがそんなことはなく河清はあっさりとうなずいた。


「俺っちの能力は教えたでしょ。水内功(すいないこう)。障害物さえ無ければ五里(およそ2500メートル)先にいる男が何本指を立ててるかもわかるし、壁の向こうの密やかな話し声だって隣にいるように耳に入ってくる」


「と言うとやはり雷横達を見つけたということでしょうか」


総兵管は言って天幕の出口から外を見上げた。そこからは山間の谷に鬱蒼と木が生えているのが見える。


「見つけてはいないね」


「は?」


河清の言葉に思わず総兵管は頭が真っ白になった。


「おっと、言い方が悪かった。目では見つけちゃいないってことさ」


「声でも耳にしたのですかな」


「残念、そっちでもない」


面白がるようににやにやと河清は笑う。しかし、おそらくこちらをからかっているのでは無いのだろう。総兵管もなんとなくこの数日の付き合いでわかってきたが、この男は根っからの話し好きらしい。こうやってわざともったいぶって結論を引き伸ばす癖があった。


「こっちだよ、こっち」


と河清が指さしたのは自分の鼻である。


「まさか、匂い……?」


「いやー、女の子ってさなんであんな良い匂いするんだろうね。総兵管もそう思わない?」


「いえ、自分は……」


「あ、そう? 残念、趣味合わないね。まあいいか。俺っち、女の子の事だったら結構憶えてられる自信あるのよ。どんな顔でどんな服着てどんなものが好きで、どんな風に笑ったり怒ったりするか、それからどんな匂いがするかも」


犬のようだな、と総兵管は思った。無論、口にはしないが。


「もちろん、雷横ちゃんの匂いも朱仝ちゃんの匂いも索超ちゃんの匂いも覚えてるよ。それ以外にもう一人いるみたいだけど、その子はちょっと良くわかんないな。ていうかなんか子供みたいな匂いがするんだけど。あれかな? 道案内にその辺の狩人の子供でも(そそのか)したかな」


「山の中に入った後もそれを追ってここに来たと?」


「あははは、まさか犬じゃあるまいし、そこまでできねーよ。ここに来たのは単なる偶然。周三山って言うんだっけ? あそこに逃げ込んだのは見つけてたから知ってたんだけど、それで一番まずいのがここからどっか行かれちゃうことだったから、最初にここに来たってだけだね。そしたら正面から雷横ちゃん達のいい匂いがしたからさ、ああ、ここにいるんだなってわかったわけよ。ちょうどこっちは風下だしね」


試しに総兵管は鼻をひくつかせてみたが無論そんな匂いがわかるわけもない。


「ついでに言うとここ数日はずっとあそこでじっとしているね。ほっとけばこっちがいなくなるとでも思っているのかな……?」


河清のその疑問は独り言のようであったので総兵管は無視して質問を重ねた。


「なるほど、雷横達があそこにいるというのはわかりました。しかし、ここでこうして待つ意味は何なのですか?」


そう聞くと河清は箸を置き、少し表情を固くしてこちらを見上げた。


「総兵管、気功使いと戦ったことある?」


「若い時に訓練で手合わせをさせられた事はありますが……」


「ぼろ負けだったでしょ。あ、良いよ。別に言わなくって」


微妙に自分の顔が不機嫌になったことに気づいたのか、河清はそんな言葉を付け加えた。


「気功使いと真正面からやろうと思ったらさ、やっぱ同じ気功使いじゃないと難しいわけよ。中には俺っちみたいなこういう殴り合いじゃ役に立たないやつもいるけど、あそこにいる三人は誰もそうじゃない」


「はあ……」


「兄貴がいりゃ兄貴を突っ込ませるって手もあったけどさ、兄貴は今あの晁蓋(ちょうがい)って男の相手で忙しいだろ。そうそう、あれこそわかりやすい。あの男に何百人か普通の兵士に向けたところで返り討ちにあうだけさ。ましてや一対一で戦うなんて俺だったら絶対やだね」


「同感ですな」


総兵管も遠目にあの男が戦うところを見たが、政庁の本館から鉄の門扉を剥ぎとって投げつけた時は何かの幻術ではないかと思ったほどだ。


「それは今、山の中にいる雷横ちゃん達だって一緒なわけよ。あの晁蓋って男に比べりゃずっとましだけど、それでも下手に兵士なんか差し向けたところで、簡単に捕まえられるような相手じゃない」


「ではどうしようと言うのです?」


また、このもったいぶる悪癖が出たようだが、総兵管は追いすがるように尋ねた。


「気功使いと言っても色々いる。兄貴みたいにとんでもねー早さで動くやつ、晁蓋みたいに馬鹿力を発揮するやつ、索超ちゃんみたいに矢なんて平然と弾くやつ……けどね」


河清はそこで言葉を切り、再び置いていた箸と白米の入った茶碗を持ち上げた。


「飲まず食わずでも動ける奴ってのは、さすがに気功使いでもいないんだよな」


「兵糧攻め、ですか」


たった三人、いや河清の言葉を信じるなら四人の賊にずいぶんと念の入った様子である。とはいえその内、三人が気功使いであることを考えると、総兵管は積極的に反論しようとは思わなかったが。


「ああー、残念だなー、三人共すっごく可愛かったのになー。餓死しちゃうとさ、本当に人間て惨めだよ。人肉だって遠慮無く食いだすしね。うーん、そろそろ降伏勧告とかしてみようかな……」


本気かどうなのか、いまいちよくわからない調子で河清はそんな風に話し続ける。別にこちらの返答を宛てにしてる様子はないので、総兵管は黙っていた。と、そこでふと河清はぴたりと動きをとめた。


「如何致しました?」


「兄貴が帰って来た」


天幕の中で何を言うのかと一瞬考えたが、この男の恐るべき能力は何度も目にしている。おそらく何かあの大男の声を聞きつけたか何かしたのだろう。


「そうですか、ならお出迎えを……」


「あー、いらねーってそんなの。どうせここに来るまで時間かかるしな」


その言葉通り、河濤がその天幕にぬっと入り込んで来たのはおよそ半刻(約十五分)程が経ってからだった。


河濤(かとう)殿がここに来たということは……」


総兵管が言うと彼は無言でどさりと手に持ったその血で濡れた白い包みを放り投げた。ちょうど人間の頭部が入るほどの大きさである。それを見て河清と自分の間にほっとした空気が流れた。


「これで、対処すべき問題はあとひとつですな」


「当座は、だけどな」


そう確認しあうと同時、天幕の入り口に兵士が現れた。


「総兵管、失礼致します」


「何かあったのか?」


「は。詳細は不明ですが、黄河の南岸で狼煙らしき煙があがっていると……」


「なに?」


「どんな感じの狼煙なの?」


自分がその報告の意味を考える間に河清が素早く尋ねた。


「ど、どんなと言われましても、単に白い煙が一条伸びているだけでして……」


それを聞くと河清は答えを既に予期していたかの如く、答えた。


「あ、まずい。それ敵が近々、河から来るって事だぞ。昼夜を徹して警戒にあたれ」


「は……えっと?」


「河清殿の言うとおりにせよ」


義理堅く自分の顔色を伺ってくる兵士に総兵管はそう言い渡した。


「はっ! 承知しました!」


そう応諾の声を上げて、兵士はまた天幕を出て行った。


「雷横達に助けが来たとお考えですか?」


劉唐(りゅうとう)と呼ばれていた赤毛の女が雷横達とは別に、済州にいたる関所を突破したことは総兵管も既に報告を受けていた。仲間割れか何かと考えられていたが、そうでないとしたら助けを呼びに行ったという解釈も成り立つだろう。


「いやー、多分、それは無いんじゃないかな」


だが警戒を厳にせよといった河清は無責任にそう言い切った。


「ならなぜ……」


「だって命令するだけならタダだし」


「まあ、そうかもしれませんが……」


 今の雷横達の対応を見ても、彼女たちが何かを待っているのは事実だった。それはこちらを突破する準備か、こちらが撤退する事だと総兵管は考えていたが、仲間を待っている、という可能性もあるだろう。だが、総兵管の経験上、ここまで窮地に陥った仲間を助けに来るような賊というのは見たことも聞いたこともない。


「多分、近くの狩人の合図か何かを見間違えたってのが妥当じゃないかな。後で念のため、見てみるけどね。ま、本当に来るんなら来ればいいさ。こんだけ兵士もいるし、兄貴も戻って来たんだ。そこんじょそこらの相手じゃ負けないよ。まさか、晁蓋みたいにぶっ飛んだのが何人もいるわけじゃ無いだろうしね」


河清は呑気にそう言うと椀に入った汁物をすすった。


 確かに、ここには昨日合流した済州の兵士を含めるとおおよそ九百名の兵がいる。山の上にいるのも含めればちょうど千名。これだけの規模の軍勢に対処できるような賊がこの辺りにいるという話は聞いたことがない。だが、総兵管はそこまで考えて、今の状況があの黄泥岡(こうでいこう)の事件の直前によく似ている気がした。そんな連中がいるべきで無い時に現れた賊。


 彼は念のため、陣地の中を再点検することにして、河清の前から辞した。

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