その九 呉用、礼を言うのこと
その後、阮小二はまだ呉用と話したいことがあるということで、そのまま二人で呉用の部屋に移動し、阮小五は自分達の持ってる船では小さいということで村の別の船を借りに行くべく走っていった。宋江達もまた準備をすべく部屋を出たので、結果として現在、梁山泊の居住区の通路に宋江と秦明と楊志の三人が残されていた。
「えへへー、宋江くーん」
そしてその途端に、がばっと秦明が甘えるように宋江に抱きついてくる。先ほど凛として呉用と話していた時とは声と表情がまるで別人のように甘ったるくなっていた。
「わ、な、なんですか!?」
突然抱きすくめられて宋江は少し驚いて声をあげた。
「『なんですか』じゃないよー、私すっごく嬉しかったんだからー」
そう言いつつ秦明は自分の頬と宋江の頬をすりすりと重ね合わせくる。
「え? え? え?」
だが、そう言われても宋江はなんのことかわからず、戸惑いの声をあげるばかりであった。
「わかってないの? 側にいたいって、二人だけを危険な目に合わせるわけにはいかないって言ってくれたじゃない。本当はね、言われた時、すぐにこうやってぎゅってしたかったんだけど、皆がいるから我慢してたんだよ。すっごく嬉しかったんだから」
秦明は年齢に見合わぬ無邪気さで宋江に体と顔をぎゅうぎゅうと押し付けてくる。もちろん、その子供のような態度とは裏腹に胸の膨らみはかなりの存在感を誇っていたが。
「あ、あの。えっと、秦明さんが喜んでくれるのは僕もうれしいですけど……」
自分の胸板にぐにぐにと押し付けられるその膨らみと秦明の匂いにくらくらしながら、宋江はかろうじて声を出した。
「もう、遅いからね。聞いちゃったもんね。側にいたいって宋江くんから言ってくれたこと、ずっと忘れないよ。やだ、絶対今もう顔にやけちゃってる。でも幸せ、えへへ……」
そんな風に自己申告しながら秦明は宋江の頬に自分の頬を押し付けてくる。一応、宋江からは秦明の表情は見えない格好だ。
「あ、あうあう……」
宋江はもうまともな声すらあげることができず、そんな風な奇妙な言語をうなることしかできなかった。
「実はね、今だから言えるけど、ちょっと不安だったの」
「?」
不意に秦明が微妙に憂いを帯びた声を出して宋江は耳を傾けた。
「ほら……元々私ってほとんど強引に宋江くんにくっついて来ちゃった人間だったから、そもそもここにいていいのかなって思っちゃって……」
「………」
まさか人一倍快活な彼女がそんなことを考えていたとは露知らず、宋江は言葉を失った。
「あ……ご、ごめんね。こんなこと言うつもりじゃ無かったんだけど……あはは、ちょっと気が抜けちゃったみたい」
無言になった宋江に対して秦明は気遣うように明るい声を上げた。
「ごめんなさい。秦明さんがそんなふうに思ってるなんて全然気づけなくって」
「あっ……」
言って宋江はゆっくりと秦明の背中に手を回した。そして彼女の体をしっかり掴んで引き寄せる。今までに無い感覚に秦明が少し戸惑ったような声をあげた。が、すぐに秦明もまた前以上の力で宋江の体を抱きしめてくる。
「えへへ、やっぱり私、宋江くんのこと、大好きだ。大好きだからね、宋江くん」
「ありがとう……ございます」
と、ふとそうしていると宋江の服の袖がぐいぐいと後ろから引っ張られた。そちらを見やると何かを訴えかけるような目でこちらを見てくる楊志がいる。
「あ、いや、あの、忘れてたわけじゃないですよ。ただ、えーと……」
「秦明さんばっかりずるい。私だってすごく宋江の言葉うれしかったんだよ。手握ってくれてあんな風に言ってもらって。だからずっとお礼言えるの待ってたのに……」
拗ねながらも、珍しく楊志はストレートに自分の思いを伝えてきた。とはいえ、恥ずかしがり屋の彼女らしく、頬は真っ赤で視線も落ち着かなくそっぽを向いている。
「ごめんね楊志さん。ほら、私我がままだから……」
と言いつつも、秦明は悪びれた様子もなくぺろっと舌を出して悪戯げに笑った。
「ずるいよ。私だって宋江のことだけは我がままでいたいのを我慢してるのに……」
楊志は秦明と宋江の間に無理やり割りこむようにして、ぎゅっと宋江に抱きついてくる。とはいえ宋江の体はそんなに大柄というわけではないので傍目から見たら宋江がもみくちゃにされているようにしか見えないだろう。
「よ、楊志さんまで……」
「いいじゃない。嬉しいでしょ、お大臣にでもなった気分にならない?」
宋江は戸惑った声をあげるが、秦明はあっけらかんとした調子で答えた。
「そうよ。どっちかを、その……お、お嫁さんにするっていうならともかく、そこをはっきりさせないんなら二人同時に受け止めるぐらいしてよ」
楊志も引き続きすねた調子でそんなことを言ってくる。
「あ、あのですねおふたりとも……気持ちは嬉しいですけど、ほら、阮小五さんがいつ船を取りに帰ってくるかわからないから、支度しませんと……」
宋江はかろうじてそう反論すると、二人は渋々と言った調子で体を離した。口には出さなかったが、彼が出発前に妹とも話しておかなければいけないことを思い出したのだろう。
「そうね……索超や朱仝さん達も大変な目にあってるんだから、こんなことばかりしていられないものね……」
「残念、もっと堪能してたかったのに……」
楊志は自分に言い聞かせるように言い、秦明はあくまで残念そうに言う。もう一度最後に軽く抱きついてから、二人は梁山泊の通路を下って行った。彼女らの荷物は入口近くの大部屋におかれているのでそちらに向かったのだろう。
「モテる男は大変ですね?」
「どわあぁっ!!」
二人を見送っていると、いきなり背後から声をかけられて、宋江は妙な叫び声をあげてしまった。振り向くとそこにはいつもと変わらない穏やかな表情を浮かべている阮小二がいた。
「げ、阮小二さん!? い、いつの間に!?」
「部屋から出たのがいつか、というならつい今しがたですけど?」
小首をかしげて阮小二は答える。
「あ、そ、そうなんですか……」
どうやら一番見られると恥ずかしいところは見られてないらしいと知って宋江はほっと安堵の息をついた。
「ええ。でも、声は最初から聞こえてましたけど。愛されてますね」
が、その安堵も阮小二のその一言で、途端に消え失せたわけだが。
「そ、そう言えば、何をお話されてたんですか、中で」
「気になります?」
慌てて話題を変えると、珍しく阮小二はくすりと悪戯げに笑ってみせた。こういうところを見るとあの阮小七の姉なのだな、と意識させられる。
「いえ、話せないというなら無理に聞こうとは思いませんけど……」
「冗談ですよ。晁蓋さんのことについて少し呉用さんと話してたんです」
「晁蓋の?」
宋江が聞くと阮小二はこくりと頷いて少し声を潜めた。
「小七はここに残る劉唐さんや呉用先生のために梁山泊に置いていきますけど、私か小五のどっちかでも濮州に行って晁蓋さんの事を調べた方がいいんじゃないかって呉用先生に言ってみたんです」
「あ。なるほど」
今のところ、阮小二や阮小五は劉唐や楊志と違い、指名手配もされてないから濮州には普通に出入りできる。だから、晁蓋が濮州にいるとしたらその動向を調べることはそんなに難しくないのだ。
「それで、阮小二さんが行くことになったんですか?」
しかし宋江がそう尋ねると、阮小二は小さく首を横に振った。
「それが……呉用先生に反対されたんです。宋江さん達の方はいくら人手があっても足りないんだから、そっちに二人とも回ってほしいって」
「へ……?」
宋江はその結論に驚いて目を丸くした。阮小二はちらりと閉じた扉を見つめてさらに声を潜めて話した。
「呉用先生が言うにはね、晁蓋の方は何があっても自業自得だし、最悪死んだって一人で済むけど、宋江さん達の方にはたくさん人が関わってるし、船の専門家が必要だからということでしたけど……」
「本当にそんなことを?」
「本気ではない、と思いますが……」
宋江が聞き返すと、阮小二は少し困った顔で答えた。
「うーん……」
思わず宋江は腕組みをして考えこんだ。
呉用の言うことはわからなくもない。そもそも劉唐の話を聞く限り、晁蓋がうまくやる……いやうまくやらなくてもいい、普通に大人しくしてればこんな切羽詰まった状況にはなっていなかったのだ。そうしていたら劉唐と公孫勝は怪我すること無く無事に帰ってきて、今頃は楊志が雷横達と会うための算段をつけられていれたかもしれない。
さらに言えば、そもそも晁蓋が本当に危ない状況にあるかもわからない。極端な話、わざわざ様子を見に行ったら、平然とそのへんで酒でも飲んでる、という可能性もあの男の事を考えると捨てきれないのだ。そういう事を考えると、この切羽詰まった状況において阮小二や阮小五という貴重な人手をそっちに割けない、というのはある意味、正論だろう。が……
「あの、呉用さん、ひょっとしてなんか意固地になってません?」
「やっぱり、そう思います?」
宋江はどちらかと言うと、そっちの方が呉用がそう主張した本当の理由ではないかと思った。
先に述べたような考え方が間違っているとは言わない。しかし、そんな割り切った考え方はあの身内に対しては意外と甘い呉用のパーソナリティとは今ひとつ一致しなかった。先程だってあれだけ宋清の事を気にかけて、宋江がここから出て行くのに難色を示していたぐらいだ。が、呉用が冷酷な計算ではなく、晁蓋への怒り半分にそうした決断を下したというのならうなずける気もする。彼女はこの梁山泊の軍師的立ち位置ではあるが根は直情的なのだ。
厄介なのは呉用の決断が純粋に怒りだけで出されたものではなく、きちんと理由があってのものだということだ。正直、先の理屈はちょっと宋江にも否定しにくい。阮小二や阮小五がいることで楊志や秦明の負担が減ると思えば尚更だ。大体にして、楊志達と晁蓋、どちらが危ない目に陥りそうかと言ったら誰だって晁蓋の事はあげないだろう。
「まあ、呉用さんの気持ちもわからなくないですけど……」
宋江だってどうしてそんな無茶苦茶をしたのか、晁蓋に小一時間どころか丸一日問い詰めたいぐらいだ(大した理由は無いに決まっているが)。とはいえ、晁蓋の事が全く心配でないといえば嘘になる。自分よりずっと付き合いの長い呉用ならそれは尚更そうのはずだ。それを呉用は晁蓋への怒りに囚われて自分の中にあるはずのそうした感情を見失ってしまっている気がする。また今更気づいたところで彼女の決断にきちんと理由がある以上、前言を翻すのは簡単なことではない。
「あの、阮小七さんを行かせるっていうのは……」
「それはちょっと……劉唐さんが動かせない以上、毎日ここに食料を運ばなきゃいけないですし、第一、あの子一人で濮州まで旅をさせるというのは……」
「あ、そっか。すみません」
濮州はここから歩いて数日かかる上に、途中の道には野盗の類もいる。阮小七は同年代の子に比べて頭も回るし、弓の扱いもうまいが、それでも十三歳の女の子だ。一人でそんな遠くまで行かせるのは姉としては心配だろう。
(しかし、そうなると……)
選択肢はほとんど残されていない。同じ理由で呉用や宋清を動かすわけにもいかないし、無関係な人間においそれと頼めるような内容でもない。となると今出発しようとしている公孫勝救援隊(仮称)の中から人手を割かねばいけないということになる。
「となると一番いなくても大丈夫な僕が行く……?」
自分で言ってそれはちょっと無いだろう、と心中で反論した。そうした決断を下すなら一体さっき秦明や楊志に言ったことは何だったのか、ということになる。第一、野盗への対応力という意味では恥ずかしながら自分も阮小七も大差はなかった。
「反対ばかりして申し訳ないんですが、私は宋江さんにはできたらこちらに回ってほしいと思います。正直、私は宋江さんが来てくれると聞いてほっとしてますし」
「え? どうしてです?」
そう聞きつつ、宋江はそう言えば先ほど楊志が最初に宋江は行かないといった時、阮小二がやや緊張した顔をしたことを思い出した。
「いえ、大したことでは無いのですけど、宋江さん以外は昨日会ったばかりの人たちですから……」
「え?」
宋江が驚いたように首をひねると阮小二は慌てたように言葉を付け足した。
「信用出来ないとかそういう意味では無いですよ。けどやっぱり昨日会ったばかりの人たちだけと危
険な場所に行って、切った張ったをするのはやっぱり落ち着かないというか……」
「でも、黄泥岡の時は……」
「あの時は呉用さんが居ましたから。一人で良いんですよ。前回は呉用さん、今回は宋江さん、と言ったふうに一人でも知ってる人が居ると居ないとでは全然違いますから」
そうか、と宋江は思い直した。
自分にしてみれば、楊志や秦明、林冲といった面々は気心のしれた相手だが、阮小二にしてみれば、昨日突然自分が連れてきた……遠慮のない言葉を使えば、得体の知れない連中なわけだ。これがちょっとそこまで買い物に、というような牧歌的な用事であれば阮小二もそんな事は決して言わなかっただろう。だが、これから行うのは下手をすると正規軍と事を構える……すなわち、命の危険性もある行為なわけだ。頭では裏切られたりはしないとわかっていても心理的には少し抵抗があるだろう。
「けど僕だって、阮小二さん達とそんなに付き合い長いわけじゃないですよ」
「それはそうですけど、でも宋江さんは黄泥岡でもう一回協力し合った仲ですから」
まあ、その理論はなんとなくわかる。いくら付き合いが長くたって、挨拶しかしたことのない近所の隣人よりも、同じ教室で一月過ごしたクラスメートの方がずっと心理的な距離は近いという事だろう。
「それに、これはもっとあやふやな理由ですけど、宋江さんがいればなんとなく今回の事もうまく行く気がするんです」
「? どういう意味です?」
「験担ぎ、みたいなものでしょうか。例えばですけど、河に落ちた宋江さんは無事生きてた上に私達の事を追いかけてた楊志さんまで味方につけちゃいました。もちろん宋江さんの人徳というのもあると思いますけど、それだけじゃ説明つかないと思うんです。迷信深いって思われるかもしれないけど、何か宋江さんにはもっと大きなものが味方している気がするんです」
阮小二はもともと漁師である。現代でもそうだが特にこの時代の漁師はその収入がかなり運によって左右されることも多い。だからそんな思考になるのだろう。もっとも宋江もそうしたオカルトやスピリチュアルなものを全て否定する気にはなれない。東京で高校生をやっていた自分がこんなところにいる時点で十分にファンタジーなのだから。
「まあそうしたものを無視しても、呉用先生や秦明様も先程言っていたとおり、宋江さんは十分に頼れる人間だと思っています。私は宋江さんの気功や棒術がどの程度かは知りませんが、あの天候を予測できる能力だけでも十分以上に助かりますから」
にこりと微笑んで阮小二はそう言葉を続けた。
ただ、評価してくれるのはありがたいが、そうなると本格的に晁蓋の様子を調べるための人は出せないということになってしまう。元々、公孫勝達を救いにいくのだって、この人数では十分とはいえないのだ。
「晁蓋がもう一人いてくれたらなぁ……」
宋江は思わずそんな非現実的な願望を口に出した。だがそんな宋江に対して、阮小二は少し困ったように笑ってみせるだけだった。
宋江はその後一旦、呉用の事は脇に置いといて、宋清の元に向かった。探してみると彼女は公孫勝の部屋にいて、敷物の上に小さな麻袋をいくつか並べていた。おそらくあれが公孫勝に頼まれた薬なのだろう。
「清」
「あ、兄様」
宋江が声をかけると宋清はすぐに顔を上げた。
「ごめん。忙しいかな、ひょっとして」
「いえ。今最後の確認を終えたところですから。後はこれを全部一つの袋に詰めるだけです」
「うん、お疲れ様。あの……じゃあ、それは僕が持って行こうと思うんだけど……」
「え……?」
宋江がおずおずと言うと宋清は怯えたような顔つきを見せた。これを持っていくということはすなわち、ここから離れて公孫勝のいるところまで行くということを意味する。彼女は先程の劉唐の部屋でなされた会話を聞いていなかったから、阮小二達だけが行くのだと思っていたのだろう。
「兄様が……行かれるのですか?」
「……うん。……ごめんね、せっかく帰ってきたのに」
宋江はそう言いつつ宋清の正面に腰を下ろした。
「な、なら、清も……」
妹のその言葉に宋江は首を横に振った。
「ごめん。今回は黄泥岡以上に危険な事になるだろうから、清の事は連れていけないんだ」
「そんな……」
きっぱりと拒否されて、妹は呆然とした様子でこちらを見てくる。
「本当にごめん。でも、僕がここで待ってるわけにもいかないから……」
宋江はそう言って頭を深々と下げた。
「に、兄様、顔を上げてください。そんなふうにされるわけには……」
慌てたような宋清の声を聞いて、宋江はふとこうしている自分がひどく卑怯な存在に思えた。誠意からと思ってさげた頭だが、よくよく考えてみれば宋清が頭を下げた自分に否と言えるような人間ではないと知っていたはずではないだろうか。
宋江は頭をあげると宋清はその薬の入った袋を誰にも渡すまい、とでも言うように抱きしめていた。
「清……」
許しを乞うように名前を呼ぶ。だが、宋清は動かなかった。
「今度はちゃんと戻ってくるから。ほんの少しだけ、待ってて欲しいんだ」
宋江がそう言うと、袋を抱えた宋清をそのままぎゅっと抱きしめた。宋清は抵抗せず、腕の中で震えたまま、無言でいた。
「ずるいです、兄様。兄様にそんなふうにされたら……」
それ以上は言葉にならず、宋清はひしっと袋から手を離して宋江の背中に手を回した。いつもの甘えるような抱擁ではない。まるで、宋江の体に自分の跡を残そうとするほどにきつく固い抱擁だった。
「……今度は、寄り道なんてしないでくださいね」
「……うん」
そのやりとりだけ終えると宋清は宋江から離れて、その薬の入った袋をそっと兄の手に渡した。
「お気をつけください」
「うん、必ず戻ってくるから」
「はい、お待ちしております。兄様のこと、待ってます。ずっと、待ってますから……」
言って再び宋清は兄のことをぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう。今度はちょっとお土産とかは持ってこれなさそうだけど……本当に少しの間だけだから……」
「そんなの気にしないでください……兄様が一日でも早く戻ってくることが清の望みですから……あ! そ、そうだ。兄様の旅の準備しておきますね!」
宋清は突然大きめの声をあげると、宋江の返事も待たずに公孫勝の部屋を出て行ってしまった。
「あ……」
宋江がその姿を追って部屋の外にでると、ばたんと通路の先で自分達の部屋が閉められるのが見えた。そしてその手前には呉用が立っている。
「宋清ちゃん、泣いてたわ……」
「はい」
呉用がそう言いながら近づいてくる。宋江はふと彼女に殴られるかもしれないと思って身を固くした。だが呉用はそんな気配は一切見せずはあ……とだけ、ため息をつくと、口を開いた。
「こんな事言うぐらいなら最初から行かせるな、って自分でも言いたいけど……それでも言わせて」
言って呉用はほとんど睨むような様子で宋江の顔を見上げ、再び口を開いた。
「信じるからね、あんたはちゃんと戻ってくるって。この上、あんたまで戻って来ないなんて事になったら……私、何があっても絶対にあんたを許さないわよ」
「……はい、わかってます」
その後、宋江は魯智深達に改めて協力を願い出た。彼女たちがそのつもりであるということは既に秦明から聞かされて知っていたけれども、だからと言って自分が何も言わないのはやはり違うだろうという思ったからだ。彼女らは秦明から聞いていたとおり、二つ返事で引き受けてくれた。厳密には花栄だけは多少嫌そうな顔を見せていたが、横にいた黄信が無理やり首を縦に振らせた。
旅支度を終えると一行は船着場で阮小五が船を引っ張って来るのを待った。阮小二の話ではこの規模の人員が乗れる船というと、村に一隻あるだけなのだという。それで少し時間がかかっているようだった。
「ろくに歓待もできなかったというのに、ここまでして頂いて申し訳ありません」
「いや、気にされることはない。ここにいる連中は元より多かれ少なかれ、宋江には世話になっている身だからな」
と頭を下げた呉用に林冲が応じる。
「というか、宋江。良いのか? 私達だけに任せてくれて、君はのんびりしてても構わんのだぞ」
と林冲は呉用の傍らにいる宋江に目を向けた。そしてその宋江の腕には宋清がぎゅっと怯えるように抱きついている。
「気持ちはうれしいですけど……皆さんを危険なところに放り込んでおいて、そういうわけにも行きませんよ。元はといえば僕らが起こしたことが発端ですし……それに阮小二さんと阮小五さんは多分、船に残ってないといけないでしょう? そうしたら上陸する人の中で師匠……公孫勝さんの顔知ってる人が誰もいなくなっちゃいます」
宋江がそう言っても、林冲はまだ少し納得しかねるように、苦い顔をした。その林冲の表情を見上げて、ふと宋江は林冲にも妹が居たことを思い出していた。その人と宋清を重ねているのかもしれない。
「いいじゃない。本人が行くって言ってるんだから、外野はとやかく言わなくて」
と言ったのは桟橋の先でちゃぱちゃぱと足で水を跳ねさせて遊んでいる魯智深だ。
「それにあんたやあたしがついてる限りはそう簡単に死なせたりしないわよ。今回は青州の時と違って宋江が矢面に立つ事もないだろうしね」
未だにそのことを根に持っているのか、魯智深は最後のセリフをにやりと笑って付け加えた。宋江としては苦笑を浮かべるしか無い。
そうしていると楊志がこちらに近づき、宋清に視線を合わすように軽く腰を折った。
「そう言えば……ばたばたしててずっと謝れてなかったわね。ごめんなさい。前は私のせいでお兄さんを引き離してしまって」
「いえ、兄様から聞きました。楊志さんのおかげで兄様も無事戻ってこれたって聞きましたから、恨んだりはしておりません」
「ありがとう……。その罪滅ぼしというわけでは無いけど、今度はちゃんとあなたのお兄さん、連れて帰ってくるから」
そう言って笑いかけた楊志に宋清はちょっと戸惑ったように宋江に顔を向けてきた。
「うん。宋清、心配しないで。皆すごい人ばっかりだからさ、ちゃんと無事に戻ってくるよ」
「そうそう、女だてらに州の総兵管を勤めてたのは伊達じゃないのよ」
宋江が答えると秦明も近づいて答えてくる。
「私も約束するから、宋江くんはちゃんとここに戻って来るって。だからね、お兄さんを信じてあげて」
宋江と秦明に言い聞かせるようにそう言われて、宋清は笑いはしなかったが、固く緊張した表情を少しだけ解きほぐした。
「兄様のこと、よろしくお願いします」
そして秦明と楊志に対して、深々と頭を下げた。
その宋清の動きに続くように呉用もまた秦明達に頭を下げた。
「恐縮ですが……私からもお願いします。私にとっても……」
とそこで呉用は少し言葉を探すように視線を上に向けて、また口を開いた。
「まあ……弟のようなものですから」
「呉用さん……」
「晁蓋が一人増えた気分よ、もう……」
宋江が彼女に目を向けると、呉用はそう言って嘆息した。
「あそこまで自由気ままじゃないですよ、僕は……」
「似たようなものよ。散々人の事心配させておいてけろっとした顔で戻ってくるところとかそっくりなんだから」
宋江が少し口を尖らすと、呉用は天を仰いでそうもらした。
「ところで晁蓋は大丈夫でしょうか。行方知れずのままですけど……」
宋江は探るように呉用に尋ねた。結局、阮小二と少し話をして以降、今に至るまでこの件について呉用と話すことはできてないでいたのだ。
「さてね」
宋江の質問に、そっけなく呉用は言い捨てる。だが宋江としてはその呉用の反応に少しだけ驚いた。てっきり呉用の事だから平気に決まってるでしょ、と言い切る気がしていたのである。というか、むしろ、宋江は彼女がそう返してくれることを期待していたところさえあった。だが彼女の口から出たのは曖昧で、そのくせ触れれば崩れてしまうような脆く儚い言葉だった。
宋江は呉用の横顔をふと眺めた。いつもの冷静な彼女の顔だ。銀髪をなびかせ、しっかりと前を力強く見ているあの顔だった。けれど、それはやはり先程の彼女の言葉同様、それはどこか曖昧で、もろくて、そして儚い雰囲気を帯びていた。
「……呉用さん」
「なに?」
「僕、出来る限り、晁蓋の事も探ってみようと思います」
そう言うと呉用はじろりと自分の事を睨みつけた。
「さっき、宋清ちゃんに何言われたのか、忘れたとは言わせないわよ」
「わかってます。そのためにこっちに戻るのを遅らせたりはしません。あくまでついでですよ」
「……好きにしたら。多分放っておいてもどうせ何食わぬ顔で帰ってくるだろうけど」
呉用の口調は無駄に終わるわよ、と言わんばかりの様子ではあったが、結局のところ彼女は反対はしなかった。
やがて船が近づいてきた。阮小五と阮小七が漕いできた船は宋江が想像していたよりもかなり大きいもので二十人くらいは軽く乗れそうな帆船だった。とはいえ、今は進行方向である西側が風上ということもあって、帆は閉じていた。となると実質的な動力は人力ということになるだろう。その証拠に、船縁には櫂がいくつもついていた。
「荷物は真ん中において、力が左右均等になるように別れて櫂のあるところに座ってください!」
阮小七と入れ替わるように船首に陣取った阮小二が声をあげる。漕手を連れてくるわけにはいかないかったので自分達が漕ぐことになるのだ。
まず花栄と黄信が、ついで魯智深と林冲が乗り込んでいく。
「じゃあ、宋清。僕も行ってくるから」
「はい……。お気をつけください」
最後にまたぎゅっと宋江に抱きついて、宋清は残っている秦明と楊志に向けて再度、無言のままに頭を下げた。二人もまた応じるように無言でこくりと頷いて船に乗る。そして最後に宋江が船に乗り込んだ。
「皆さん! 掛け声に合わせて櫂を漕いでくださいね。バラバラになるとその分、遅れますから!」
板を通しただけの簡素な座席に座ると阮小二からの声がとんだ。言われて宋江は軽く緊張して櫂を握る。
「宋江」
ふとそこで自分を呼ぶ声が聞こえて宋江は頭上を見上げた。桟橋にいる呉用と宋清がこちらを覗きこんでいるのが見える。声を上げたのは呉用だろう。
「ありがとね」
少し冷たい風が吹く中、ほんの小さく呉用がそう呟いて、船は桟橋をゆっくりと離れた。