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水娘伝(すいこでん)  作者: 文太
第五話 別離編
79/110

その七 公孫勝、逃走方法を模索するのこと

「着いた!!」


濮州(ぼくしゅう)の馬屋、と言ってもそこにあるのは騎兵用のものではなく、主として政庁にくる将官が使う馬が置いてあるだけの小さなものである。従って居並ぶ馬は軍用では無いので、大きくはあるが、どこか鈍重そうである。その中で三人は適当によさそうな馬を選び出すとそれぞれに飛び乗った。馬は見慣れない人間が現れたことに多少落ち着かない様子だったが、無理矢理に(くつわ)を引くと一応ついてくる。


「よし、一気に町の外まで出るよ!」


雷横(らいおう)朱仝(しゅどう)索超(さくちょう)が共に馬に乗ったのを確認すると、馬の横腹を蹴って走り出させた。馬屋から出て突き当りを右に曲がり、そのまま壁沿いにまっすぐ行けば、この政庁から脱出できる。後は城門まで一直線だ。


 雷横が馬を急かそうと鞭打つと馬は少し苦しそうであるが速度を上げた。やはり軍用でないだけあって、中々速度をあげるというわけにはいかないらしい。


 そうこうしているうちにすぐにその突き当りが見えてくる。雷横は馬体を傾けさせて、速度をほとんど落とすこと無く角を曲がる。が、その時だった。


「なっ!?」


角を曲がった瞬間、雷横が見たのは自分に向けて降ってくる無数の矢だった。ありえない。雷横は今、角を曲がったばかりなのだ。こんな事を実現しようと思ったら予め雷横が出てくる瞬間を知った上で予め矢を放っておかねばならない。


「ぐっ!」


雷横は驚愕の声をあげつつもとっさに持った槍で矢を叩き落とした。だが、間に合わず一本の矢が右肩につきささる、と同時に踏ん張っていた鐙がぐらりと傾いた。見れば雷横の騎乗していた馬の脚にも矢が刺さっている。


(しまったっ!?)


馬はそのまま前足を折り、地面に激突するような勢いで倒れていく。後悔の暇もなく、雷横は咄嗟に前方に身を投げ出した。そのままだと馬の転倒に巻き込まれる可能性があったし、下手に他の方向に動けば索超や朱仝の乗る馬に激突されかねない。


 空中で回転しながら前方を確認する。正面に弓矢を構えた敵兵がいた。といってもその距離は今なお雷横から十丈(約三十メートル)ある。回転する世界の中でそれを見つめていると、その中心に河清(かせい)の憎たらしい顔が映り、その口が動いた。


「第二射……」


まずい、と思った時にはもう遅かった。雷横が地面に前転するように着地したと同時、


「斉射!」


雷横は咄嗟に身構えたが、その矢の大半は雷横を狙ってのものではなかった。矢は雷横の頭上を通り越して背後へと飛んで行く。自分に飛んできた少ない矢を撃ち落としつつ、雷横はその矢の行く末を見て、叫んだ。


「避けて! 待ちぶせされてる!」


雷横が叫んだ瞬間にはその矢の先には誰もいなかった。そのままであれば、矢は虚空を飛んで地面に虚しく落ちただろう。だが、雷横は自分の後ろから朱仝と索超が付いて来ているのを知っていた。となれば……


 雷横の嫌な予感は現実となった。まるで引き寄せられるかのように、矢が飛んで行くその先に角を曲がってきた索超と朱仝が現れたのだ。自分の声が聞こえ無かったのか、それとも聞こえたとしても即座に反応できなかったのか、二人は矢の雨の中に飛び込むように突進していく。しかし、矢が二人を貫く寸前、索超が体をひねり、朱仝に抱きつくようにして、馬から落ちつつ彼女をかばった。二人が乗っていた馬は矢を受けて、雷横が乗っていた馬と同様、前のめりに崩れ落ちる。


「第三射……」


河清が再び出す声を聞いて彼女たちがどうなったかもわからないまま、雷横は慌てて正面を向く。


「斉射!」


雷横は少しだけ目をつむると深く呼吸し、両眼を見開いた。自身の火内功(かないこう)を開放させる。すると三十本ほどの矢が雷横の視界の中でゆっくりと飛んでくるのが見えた。


(全て叩き落とす!)


雷横は心中でそう宣言すると、わずかに時間差のあるその矢の大半を槍で超人的な速度で弾いていく。矢傷を受けた右肩が悲鳴をあげるが、雷横はその訴えを押しつぶして体を動かし続けた。それでも一本だけは間に合わず、雷横の後方、しかも、索超と朱仝が倒れているだろう方向に飛んでいこうとする。雷横は咄嗟に自分の左腕を盾にしてその矢を止めた。


「へえ、すごいじゃん。禁軍でも雷横ちゃんほどの使い手、中々いないよ」


ぱちぱちと拍手しながらそう言う河清の声の調子は呑気に世間話をしているふうでもあった。それが雷横を無性にいらだたせる。


「ぐっ……」


「雷横!」


自分のうめき声と後方からの朱仝の声が重なるように耳に入る。ちらりと後方を見やると朱仝は索超によってかばわれたのか、傷ひとつ無い。索超もまた先程のように金内功を使って矢を弾いたのか、傷はあっても軽いもののようだった。が、立て続けに気功を使いすぎたのか、多少、呼吸が荒く、体勢を崩したままだった。


「索超さんのことは頼んだよ!」


雷横は朱仝にそう言って、正面にいる河清を突破すべく睨みつけた。


「ん? なんで雷横ちゃんがこっちに出てくる瞬間がわかったって? 教えてあげなーい」


その視線を何か勘違いしたのか、河清は聞いてもいないことを軽薄な口調で答えてくる。


「はい全員、今度はよく狙ってー」


「ぐっ……!」


玉砕覚悟で河清に突っ込むか、雷横は一瞬自問自答したが、すぐにその問いをすること自体が間違いなのだと気づいた。本当にそうしたかったら考える間もなく、距離を詰めなくてはだめなのだ。


(もう一度、矢を叩き落としたら、すぐに突っ込まないと)


両腕が十分に動かない状況でそれができるかはわからなかったが、それ以外に最早手立ては無いだろう。雷横がそう思い腕に力を入れると同時、河清が合図するように振り上げた手を下そうとして……


「あん?」


不意に影が現れた。余裕綽綽だった河清がそれに気づいて呆けた声とともに上空を見上げ……そこで血の気が引いたように青ざめた。


「退避っ! 退避だっ!」


影が現れた、ということは当然ながら、何か日を遮るものが出てきたことを意味する。雷横も朱仝も索超もそしておそらく河清もそれがなんだか最初はわからなかったに違いない。平たい鉄の板で、端に木の角柱がくくりつけられており、どこか見覚えのある……それは政庁の建物の扉だった。牛十頭分はあろうかという、その鉄の塊が空から落ちてきたのだ。


「ぎゃあああああっ!」


恥も外聞もなく叫んで雷横は後ろに、つまり朱仝達のいる方向に飛んで地面に伏せた。ずずーーん! と重苦しい音を立てて、門はちょうど雷横と河清の中間点あたりで、地面に突き刺さっている。


「おう、まだ生きてたか」


もくもくと土煙が起こる向こうで声がする。その人物の体躯さえ判然としないが正体はすぐにわかった。というかこんな状況で平然と話しかけてくるような人間が何人もいては困る。


「今の助けたつもりなの……晁蓋(ちょうがい)さん」


「いや。ただ人数が集まってた場所にぶん投げただけだが?」


晁蓋は平然とそんなことを告げてくる。その投げた先に自分達がいたらどうするか、などということは一切考慮してないらしい。あるいは適当に避けるとでも思っていたのか。もっとも、雷横はそんなことを今更議論しようとは思わず、本題に入った。


「わかった。じゃあお願い! 助けて!」


 晁蓋の背後には地面に突き刺さった鉄扉があり、その向こうで混乱に陥った濮州兵とそれを必死に鎮めようとしている河清と彼の直属の部下である禁軍兵の声が聞こえた。いきなり重量物が降ってきたことによって生じた混乱は簡単に落ち着きはしないだろう。逃げるのならば今が好機なのだが、索超や自分も矢傷を受けてしまったし、馬は全てつぶれてしまった。もちろん馬小屋に取りに戻るような時間もない。


 雷横がそう言うと、晁蓋はちょっと高いところにおいてあるものを取るような気安さで頷いた。


「いいぜ。と言っても、俺はちょっとやることがある。さっきのあの俺の顔をガンガン地面にぶち当ててくれたあのでかいのも、どっかいったまんまだしな。つーわけで、おい公孫勝(こうそんしょう)!」


「んな、でかい声を出さなくても聞こえとるわい」


と晁蓋の声に応じてすぐに鈴のような軽やかな声が雷横の背後から聞こえた。その声の主を探して雷横は振り向き、そして目を剥いた。そこにいたのは十歳にも満たないであろう緑色の髪の童女だったからである。そもそもいつの間に現れたのやら。


劉唐(りゅうとう)とお前でこいつらの面倒見てやれ。細かいところは全部、お前に任せた」


「やれやれ、人使いの荒いやつじゃのう。まあ任されたわい」


と老人のような口調で言ってその童女はすたすたと傍らの壁に近づくと、無造作に左手の壁に手をかざした。と、音もなく壁に人一人が通れるほどの穴が開いた

「なっ……!?」


これにはさすがに冷静な朱仝も驚いたようで目を丸くしている。庁舎の壁ともなれば、それなりに気功についての防護柵も施してある。具体的にはこの壁は表面は漆喰で固められているがその内部には鉄板や格子状の木材が埋め込まれている。これを突破するには晁蓋のような常識外の力で打ち砕くか、木・土・金の三種類の外気功を使用して、それぞれの素材を丁寧に取り除くしか無い。童女のとった方法は後者であろうが、これを瞬時に行うには相当の修練を必要とするはずだ。少なくとも年齢がようやく二桁になるかならないか、という娘に出来る芸当ではない。


「ほれ、ぼさっとしとらんと、とっとと来ぬか」


あっけにとられた雷横達の前で、公孫勝というその童女が壁の向こうから手招きした。恐る恐ると入った調子でまず朱仝が入り、それに索超が続く。


「じゃあ、あたしらは行くからね、晁蓋さん。あー……一応礼は言っておくよ」


素直に礼を言っても良いものかどうか、少し疑問に思うところも無いではないが、雷横はそう声をかけた。


「何、助けてもらった礼だ。気にするな」


晁蓋は面白そうに目を細めるとにやりと笑って言った。


「ちぇっ、よく言うよ。あたしが何もしなくても大丈夫だったくせに」


「そうむくれるなよ。ほら、置いてかれるぞ」


言われて雷横は慌てて後ろを振り向いた。


「雷横さん雷横さん、早く早く」

穴の中から索超が手招きをしてくるのを見て雷横は穴に近づき、


 ガイン! と出し抜けに頭上で発生した金属音にぎょっとして顔を見上げた。いつの間に近づいてきたのか、河濤(かとう)が自分に向かって剣を振り下ろしていたのである。そしてそれを晁蓋が横から槍の柄で防いでいた。


「ほら、ぼやぼやしてるから追っ手が来ちまったじゃねーか」


言いながら晁蓋は蹴りを放つが河濤はそれを受け止めて後方に飛ぶ。今の蹴りは晁蓋も本気では無かったのだろう。


「へ、平気なの?」


「さあな。だがお前に心配されるほど落ちぶれちゃいねえ」


「賊は既に外に逃げたぞ、城門から出て奴らを追え!!」


距離をとった河濤がよく通りそうな大声をあげる。あんな声も出せるのか、と雷横の心に場違いな感想が生まれた。


「雷横さん!」


「ぐっ、行くからね!」


雷横は晁蓋の背中に声をあげると穴に飛び込んだ。晁蓋からの返答はなく、すぐに背後から剣戟の金属音が鳴り響きはじめる。


「よし、閉めるぞ!」


雷横が出てきたのを確認すると公孫勝が再び壁に手をついた。するとまた時間が戻るかのように無音で壁の穴が塞がれていく。


 雷横は慌てて左右を見回した。政庁の壁の外であるそこは左右に道が続いてるだけの場所で幸いな事に人目もない。正面には壁があり、その向こうには誰のかは知らないが別の屋敷があるようだった。


「こっちじゃ!」


雷横がそんな風に周りを観察していると公孫勝が叫んで走り始める。彼女の手足は自分達よりだいぶ短いはずだが、走る速度にはそれほど遜色ない。むしろ矢傷を負った自分や索超の方が遅いくらいだった。


(あれ?)


走り始めた雷横の視界がふらふらと左右に揺れる。おかしい、こんなにふらふらになるほどの重症を自分は負っていただろうか。


「公孫勝! ここにいたか! お、さっきのお嬢ちゃんも一緒?」


ぼんやりとした視界の中で前を走る索超に続くと不意に横から先ほどの赤毛の女が馬に乗って現れた。どこで調達してきたのか知らないが、彼女は別に馬を二頭引っ張っていた。


「劉唐、丁度よいとこに来たの! 町の外にすぐでるぞ。今ならまだ門の警備もそれほどではないはずじゃからな!」


公孫勝がそう叫ぶと、劉唐は自分達をざっと見回して、おおよそ何が起こっているかは掴んだらしく、頷いた。


「わかった、おい、あんた達馬には乗れるな」


赤毛の女が聞くので頷いたが、できたかどうか、あまり自信がなかった。立っていることすら辛かったが、まさかここで倒れるわけにもいかない。だがそんな覚悟をあざ笑うように、雷横の世界は輪郭があやふやになっていく。そうこうしているうちにすぐ前にいた索超が不意にどさりと前のめりに倒れた。


「索超さん!?」


さらにその前にいた朱仝が慌てた様子でこちらを振り向き、


(ごめん、も……限界……)


雷横もまた鈍い痛みを頭部に覚えつつ、意識を手放した。









「毒矢じゃな」

雷横の肩に刺さっていた矢を抜いた公孫勝が下した結論を朱仝は自分でも驚くほど冷静に受け止めた。


「容態はどうなのですか?」


「……一言では言いにくいの。まず大前提として毒の種別がわからんからこれから先に何が起こるかわからん。とはいえ、毒矢というのは一般的に受けてからすぐが最も危険じゃ。そういう意味では既に峠は越しておる」


見た目は童女だが道士であり朱仝達の数倍は生きているというその人物は、慎重に言葉を選んでいるふうであった。


「そして、峠は越したと言っても、予断を許さない状況は続いておる。毒によって体力が落ちればその間に別の病魔を引き寄せるかもしれぬし、そうでなくてもこのままの状況では衰弱死してもおかしくはない」


現在、公孫勝と朱仝は濮州の町からほんのすこし離れたあばら屋の中で会話をしていた。索超と雷横が相次いで倒れた後、劉唐と共に彼女らはなんとか町を脱出してここへ落ち着いたのである。四刻(約二時間)ほど前にここに到着した朱仝と公孫勝は、倒れた索超と雷横を寝台に運んで応急処置を執り行い、今しがたようやく一息ついたところだった。


「贅沢をいうのであれば、どこか今から暖かい場所に移って薬を処方しつつ、滋養のあるものを食べさせたい。断言はできぬがそうなれば峠を越した以上、大抵の毒ならば問題無いはずじゃ」


「けれど、今から町に戻ることはできない」


朱仝は自分に言い聞かせるように、いや、実際言い聞かせるためにわざと言葉に出して確認した。公孫勝はそんな朱仝の内心を悟ってか、大仰に頷いた。


「そうじゃ。言っておくが町の外のあばら屋ではここと大して違いはないし、栄養のつくものも置いておらんじゃろ。病人食を探すならやはり街の中までいかねばな」


「で、ついでに言えば、多分、他の街にも手が回り始めてるな」


とそこであばら屋の玄関に立っていた劉唐が割りこむように話しかけてきた。その彼女に朱仝と公孫勝が視線を向けると劉唐は話を続けた。


「お前らがあいつらの治療している間、外を見張ってたんだけどよ、馬が何頭も街道を東に走って行くのが見えたぜ。多分、近隣の村や近くの町にあたしらのことを知らせに行ったんだろ」


「どうして、今まで黙ってたのですか?」


「治療の邪魔になるだろうと思ってたからな」


少しだけではあったが不満を滲ませるように言った朱仝に対し、劉唐は肩をすくめて動じること無く答えてくる。


 確かに、劉唐が馬を見つけた瞬間に自分達に知らせたからといって何になったろう。索超や雷横を動かすことはできなかっただろうし、よしんば動かしても、自分達のこの状況では伝令用の軍用馬に追い付くことなど不可能である。そこまで考えて、朱仝はどうやら今の自分が想像以上に疲労しているらしいことを自覚した。


「……仰られるとおりですね。失礼しました」


「別に謝られることのほどでもねーけどよ」


と劉唐は気にした風もなく頬を掻く。


「なあ、公孫勝。こうなったら、もう梁山泊(りょうざんぱく)につれていくしかないんじゃねーか?」


「そうじゃな。あそこならわしが作った薬も置いてある。下手な町医者よりもきちんと治療できるじゃろ」


「梁山泊?」


「ん? 晁蓋の旦那から何も聞いてねーのか? あたし達は今、そこにいるんだよ」


聞き覚えのある地名に朱仝が問い返すと劉唐は気負い無く答えた。


「随分とまた目立つところにいらっしゃるのですね」


その地名だけは朱仝も聞いたことがあった。黄河の流域にある広大な湖、梁山湖(りょうざんこ)、そしてその中心にそびえたつ山とその一帯の名称である梁山泊。この辺りの人間なら誰もが知ってる景勝地だ。


「けどさ、公孫勝。そうなってくると気になるのはあの野郎のことなんだけど……正直どうだっだ?」


「うむ。概ね予想通りと言ったところじゃな。いやある意味それ以上かもしれん」


「……失礼。誰についてお話されているのです?」


何やら指示語で会話を成立させる劉唐と公孫勝に朱仝は口を挟んだ。話の流れからして自分達に無関係な事柄とも思えなかったからだ。


「あの男、河清というたか? あの男の正体……というのはやや大げさじゃな。まあ、あの男についてじゃよ」


「と、おっしゃいますと……」


その内容には朱仝も興味を覚えてみたので質問を重ねた。


「雷横殿からは呉用(ごよう)殿経由……おっと、呉用殿の事は知らぬか、うちの知恵袋じゃが……とにかく間接的に雷横殿から聞いた限りではまるで人の心を覗くような、しかしそう言い切るには少々的の外れた言動も多い……そんな男じゃということじゃったな」


雷横が呉用という人物に一体何を話したのか、朱仝は知らないが、その公孫勝の印象は言い得て妙だと思った。あの男、河清は何か常人に見えないものを見ているような、しかし何を見ているのかいまいちはっきりしない、そんな男だった。


「実際に遠くから観察していてわかった。あの男は水内功(すいないこう)の使い手じゃ」


「水内功?」


その技能自体は朱仝も知っている。水内功。肉体を強化する内気功の中でもやや特殊で、視覚や聴覚といった五感を強化する技術である。常人よりも遥かに遠くのものが見えたり、小さな音でも間違いなく聞き分けたりすることが可能だという。しかし、逆に言えばそれだけであって、別に人の心の中を覗けたりするわけではない。


「人というのはの、じっと座っておるだけでも意外と色々な音を立ておるものじゃ。そして、表面上笑っていても緊張したり嘘を言っている場合はその辺りに明確に変調がでる。そういうことはわしも知っておったが、しかし気功を駆使してそれを察するのはかなり高度な技術じゃな。あの男、単に気功の能力が高いというだけでなく、図抜けて頭も良い」


その言葉から察するに公孫勝は河清の能力についておおよそアタリをつけていたらしかった。


「なるほど……」


「とはいえ、今、問題にすべきは奴の頭の良さよりもその水内功の方じゃな。おそらくわしらが逃げたおおよその方向はばれていると考えるべきじゃろう。そうでなくても城門は派手に馬で突破したしの」


そう言われて、朱仝はふと不安を覚え、思わず窓の外を見た。とはいえ、朱仝からはあばら屋のすぐ外にある木々が見えるばかりなのだが。


「一応町から離れてここまで来たのはじゃ、ここが濮州から一つ丘を超えた先で向こうからは見られる事はないじゃろうと思ったからじゃ。とはいえ、逆に言えば丘を登るまでは見られていたぐらいに思っておくべきじゃろう」


「つまり、あれだ。このままここにいたとしても、追っ手がここに来るまでそう時間はかからねぇって話だな。それも常識で考えられるよりかなり短い時間だ」


「うむ。遅くとも明日の昼頃じゃろう」


 その結論に朱仝は思わず顔を曇らせた。明日の昼までに雷横や索超が回復する見込みはかなり低い。特にひどいのは索超だ。雷横が受けた傷はたったの二本分だが、索超のそれは十数本分だった。金内功でもって弾き飛ばした故に、当初はむしろ傷の深い雷横の方が重症に見えていたが、あの矢が毒矢だったとなれば、話は別である。


「せめて、雷横の意識が復活すればいいのですけど……」


「? どういうことじゃ?」


「雷横は木内功(もくないこう)が使えます。完治は無理でも、一人で歩けるぐらいには回復してくれるでしょう」


木内功もまた内気功の一種で、体の体力や回復力、総じて生命力というべきものだが、それを強化することができる、と言われている。見た目に効果が非常にわかりにくいので、朱仝も詳しいことは知らなかったが、今まで何度か、普通なら傷跡が消えるのに一月は掛かりそうな傷を雷横がその半分の期間できれいさっぱり治してしまったのを知っていた。しかし、気功である以上、それは当人の意識が回復して自主的に使おうと思わなければ、効果はない。


「公孫勝殿、伺いますが、木内功というのは毒にも効果があるのでしょうか」


「ある。が、しかしおぬしの言うとおり、よほど気功の水準が高くなければ今日明日に完治するということはありえぬぞ」


釘を刺されるように言われたが、朱仝はある程度、そうした答えを予期していたので落胆の度合いはそれほどでも無かった。


「にしてもよ……晁蓋の旦那、全然来る様子がねえな」


ふと劉唐が思い出したように(実際、朱仝は既に彼のことは忘却の彼方だった)、晁蓋の事を話題に出しながら濮州の方向に目を転じた。濮州はここからおおよそ北西方面にある。ただし、そちらに目を向けても見えるのは林の先の丘だけで町が見えるわけでもなんでもない。後はせいぜい、太陽が低くなって空が赤くなり始めていることぐらいのものだ。


「勝手に一人で帰ってしまったのでは?」


「それは無いな。梁山泊に帰るんなら普通はここから見えるあの街道のどっちかを通るはずだ。けどその道はさっきからあたしがずっと見ている」


朱仝はそれを聞いて、劉唐が外を見ていたのは敵兵の動向だけでなく、そうした意味合いもあったのだと気付かされた。確かに少し小高くなっているこのあばら屋からは北と西にそれぞれ道が見える。


「となると、まだ濮州の町中にいると?」


「そう考えるのが妥当じゃが……さて何を考えておるのか……あの男が何か窮地に立っているというのも考えづらいがのう」


「それには同意ですわね」


「……とりあえず、晁蓋殿の事は一旦忘れるとしよう。濮州も小さな町ではない。劉唐やおぬしの面相はばれとるだろうし、今の状態ではわしはこの二人から長時間離れられぬ。僕州の町に行って奴を見つけるというのはこの状況では諦めたほうが良い」


「……ですね」


と言ったものの、朱仝には少し不安が残った。この雷横達を打った毒矢。もし、晁蓋が同じものを受けたらどうなるだろうか。おそらく彼とてさすがに戦う事ができなくなるのでは無いだろうか。おそらく、公孫勝や劉唐もその可能性に思い当たって無いわけでは無いだろう。


 だが、朱仝はすぐにその不吉な考えを切り捨てた。仮にそうだとしても、今の三人……いや、公孫勝がここから離れられない以上は、自分と劉唐の二人ででは濮州の兵や河清・河濤の両名を前にして、晁蓋を救うことは難しいだろう。ここは彼が無事であることに期待するしか無い。もっともその場合は一体何をやっているのだと言いたくもなるが。


「状況を整理するぞ。こちらは病人を含めて五人。最低でもその病人の二人をここから南東にある梁山泊に運びこむことが目的じゃ。あの河清という男の追跡を振り切った上で、じゃな」


公孫勝の言うことに朱仝はこくりと頷いた。


「ここから梁山泊にいたる道筋は二つある。一つは東の街道を使い、陸路で石碣村(せきけつそん)まで行く方法。そしてもう一つはこのまま南下し、黄河で船を手に入れそのまま河を下る方法じゃ」


言いながら公孫勝は荷物の中から雑記帳を取り出すと、この辺りの大雑把な地図を描いた。


「ここからはわしの提案じゃが、わしらはこの二つの方法のどちらも使わぬ」


言って公孫勝は今の自分達の現在地点と梁山泊を直線で結んでいく、周りの図から察するにおおよそ南東方面を直進しようということになる。


「それは難しいのでは無いかと……」


雑記帳に描かれた地図の上にはその通り道には何も無いようにみえる。だが、実際の道程まで何も無いわけではない。ここから南東方面に直進すると周三山(しゅうさんざん)と呼ばれる山にぶつかることを朱仝は知っていた。その事を公孫勝に告げると彼女はわかっていると言いたげな様子で頷いた。


「……まさか……」


「そうじゃ、わしの提案はこの山を超えて梁山泊に向かうことじゃ。……理由はいくつかある」


反論しようとした朱仝を手で制して公孫勝は言葉を続けた。


「まず、東の街道を行く方法。これは論外じゃ。既に、劉唐がこちらに向かう伝令を見ておることから考えても、厳重に警戒がされておるじゃろう。劉唐、こっちにはどれほどの兵が行った?」


「二百騎ぐらいかな。先に言っておくと南の方にも同じくらい行ったぞ」


「ふむ。なら、こちらから行く場合はこの二百騎を相手取らねばいけないということじゃな。この兵を単に突破するならまだしも病人を引き連れて、というのはいささか厳しかろう。何より、わしらの馬は軍用馬でもなんでもない。一度見つかったら最後、梁山泊に行くまでに確実に追いつかれてしまうじゃろう」


「おい、けど二百ぐらいなら時間かければ、全滅させられるだろ」


「馬鹿者。戦ってるうちに敵の援軍が集まってくるに決まっておるじゃろ」


劉唐の言葉に公孫勝が乱暴に反論した。


「次に南に行き、船に乗る方法。これは街道よりは少しましじゃな。見つかったとしても河に出てさえしまえば、そう簡単に逃げ場がなくなるということも無い。じゃが問題は船を手に入れられるかどうかじゃ。なにせ、こっちにもある程度の兵が展開されているからのう。船が見つかるまでは逃げる場所も無いわけじゃ。ついでに言えば、この中に船の扱いを心得ている人間はおらぬじゃろ? 素人でもどうにかなるかもしれぬが、嵐でも吹いたら多少泳げるわし以外は全員溺死じゃな。それを避けれたとしても、河の上に障害物はない以上、あの河清という男には絶対に見つかる。そうなれば戦いの場がここから梁山泊に変わるだけじゃ」


「……それで山ですか」


「そうじ、ゃ利点は三つある。一つは山の中に入ってしまえば障害物が多いから、一度入ってしまえば発見されにくい。山に入るまではちと厳しいかもしれんがな。二つ目に仮に見つかったとしても大軍では追いかけることはできぬ。そして三つ目。山を超えてしまえば奴らからある程度身を隠す時間も確保できる。そうすれば、梁山泊まで行く時間も稼げよう」


なるほど、確かに公孫勝のいうことはある程度すじが通っているように聞こえた。


「ただ、問題は、あの二人が山越えに耐えられるかどうか、ですわね」


朱仝がそう言うと、公孫勝は重々しく頷いた。


「そうじゃな。じゃが、他の道筋を行けば二人が安全というわけでもあるまい」


「とはいえ、三つの山を超えるというのはさすがに……」


と唇を噛んで朱仝はその絵図面を見下ろした。周三山は厳密に言えば山の名前ではない。上からみるとちょうど『小』の字の様に南に向かって放射上に広がっている三つの山脈を総称して呼ばれるそこ一体の地域名だ。つまり周三山を超えるということは三つの山を連続して超えると言っているのに等しい。きちんと準備しているか、あるいはそうでなくとも皆が体調万全なら朱仝も反対はしないが、雷横と索超は病人。しかも自分も含めてほぼ着の身着のままで逃げてきた人間だ。牢屋から直接でてきた自分と索超はまともな靴さえ履いていない。


「あのよ、それなら一つ超えるんならどうにかなるかもってことか?」


そう声をあげたのは劉唐だった。彼女の真意がわからず朱仝がまごついていると、それを承諾と見て取ったのか劉唐は話を進めた。


「要はさ、公孫勝が心配してるのは敵が梁山泊まで追いかけてくることだろ?」


そう言って劉唐は地図で周三山のうち、最も西、つまり自分達に近いところにある西周山(さいしゅうざん)を指さした。


「なら速攻でここだけ超えてから船に乗ればいいんじゃねーの」


劉唐が言うのはその西周山と一つ隣の周王山(しゅうおうざん)に挟まれた小さな平地だ。丁度二つの尾根と黄河にはさまれた三角形の地形だ。


「おぬし、簡単に言うが、この辺りに集落なんぞないじゃろう。どうやって船を手に入れるんじゃ」


阮小二(げんしょうじ)達に迎えに来てもらえばいいだろ」


また新たに朱仝の知らない名前が出てきたが、話の流れから察するに彼女らの協力者だろう、と当たりをつけて、朱仝は黙って聞いていた。


「何を言うとるんじゃ、向こうはこっちの状況なぞまるで知らんのじゃぞ。迎えに来てくれるわけがなかろう」


「馬鹿。それはあたしが伝えに行くんだよ」


と言って劉唐は最初の議論で既に放棄されたここから真東の街道を指さした。


「あたしがここを突破して、梁山泊に行って阮小二を連れてくる。その間に公孫勝達は三人を連れてこっちに来てくれればいい」


「できるのか? それをしようと思ったら少なくとも石碣村に兵を入れさせてはならぬのだぞ」

つまり、二百の兵を突破し、追ってくる兵がいればそれを最低限、撒いた上で、梁山泊に到着しなければならないのだ。


「二百だろ。全滅させろってんならともかく、突破するだけならあたしだけならどうにかなる」


朱仝は、そう言って公孫勝をじっと見つめる劉唐の横顔を眺めた。とりあえず、雰囲気から察してそのまま自分一人でどこかに逃亡、ということはなさそうだった。そういう思考をつい思い浮かべてしまう自分に少し自己嫌悪してしまうが。


「ううむ。できたらおぬしにはこっちに残って欲しい気持ちもあるが……」


劉唐の言葉に公孫勝はぶつぶつとうなる。


「朱仝殿はどう思う?」


結局一人では答えを出しきれなかったらしく、公孫勝は結局、朱仝に顔を向けて、そう聞いてきた。


「そうですね……」


朱仝は少し考えて答えを出した。


「劉唐殿のご提案通り、迎えをこちらに寄越して頂くのが良いと思います。超える山が一つなら、私が補助すれば雷横と索超さんもどうにか超えられると思いますし。敵の追手を蒔くには公孫勝殿の言うとおり、それが一番良いでしょうから」


「決まりだな」


朱仝の言葉を受けて劉唐が頷いた。


 その後、いくつか細かい点を話し合って、劉唐は出発することとなった。公孫勝と朱仝は明日の朝までここで過ごした後に動く。追いつかれる危険性は高くなるが、夜を徹して移動するには肝心の雷横と索超が消耗しすぎていた。


「薬を持ってくるのを忘れんでおいてくれよ」


馬の手綱をとった劉唐に公孫勝は念を押すように告げた。


「ああ。わかってるって。宋清にこの紙を見せればいいんだろ」

劉唐は言って、荷物の中から竹筒に入ったその紙を取り出した。雷横達が今後どうなるかわからなかったので、公孫勝は最悪、船が着いた直後にその場で薬を飲ませることも考えていたのだ。


「うむ。あやつはわしの手伝いをしてくれたからの。薬の原料がどこにあるかは、だいたいわかっているはずじゃからな」


劉唐は最後にもう一度、わかったよ、というと馬に鞭を打って駈け出した。

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