その五 宋清、宋江と共に入浴するのこと
(どうしてこうなったんだろう)
宋江はぼんやりと脱衣所の天井を見上げて自問自答した。背後から聞こえてくるかすかな衣擦れの音も、鼻孔をくすぐる微かな香りも、宋江にとってはひどく現実感がなかった。わずか数十センチ先の天井さえ不鮮明な像として映る。
結局のところ、宋江は様々な理屈を駆使したものの、妹からの願いを拒むことができなかった。いかな理屈も倫理も、妹のあの切なげな視線の前では冬の枯れ枝よりも頼りない。
(やっぱまずいんじゃないの、これ……)
とはいえ、宋江も完全に納得したわけではなく、そんなことをうじうじと考え続けていた。自分は十六、宋清は十二。この国の事情には詳しくないが、日本で考えれば宋清の年齢になれば普通、父親や兄と風呂に入るなんてことは無いだろう。宋江は宋清を引き取るまでは一人っ子だったのでそのあたり、よくわからないが。
おまけにこれが本当の兄妹というならまだしも自分と宋清には血のつながりもない。単に行き場を失った宋清を引き取るにあたって、兄妹という形が最も都合が良かっただけという程度の意味に過ぎない。つまるところ、年齢を除けば血のつながりの全くない秦明や楊志と同じことを行うのとさほど変わらないのである。
先ほどこの浴場へ一度来てから他の女性陣にまず先に浸かってもらいそれを待つ間のおよそ四刻(二時間)、宋江はこんな風に鬱々として考え続けていて既に何度か、やっぱりちょっと、と宋清に切り出そうとしたものの、笑顔でうれしそうに入浴の準備をしている彼女の前では言い出せずにいた。
(というか、何故今日になって?)
昔も東渓村で二人で一緒に暮らしていたが、宋清が風呂に一緒に入ろうなどと言った時は一度もない。まあ、あの頃は大概宋清が風呂に入る時は他の女性(大体は呉用)と一緒というのもあったろうが。
「えへへ、兄様。お待たせしました」
傍らにいる宋清が心底嬉しそうに宋江の腕に抱きついてくる。動作としては先ほどと一緒だったが、今の二人はお風呂に入る格好。つまりほぼ全裸である。宋江は腰に手ぬぐいを一枚巻いているだけだし、宋清もその手ぬぐいが胸元と腰につけているだけだ。日本でいうところのバスタオルのようなものではなく宋江が腰に巻いているのとサイズ的にはほとんど変わらない、スポーツタオル程度の大きさのものである。その状態でそんなことをされてしまったら宋江とて冷静では居られない。心臓はドキドキとうるさいし、腕から伝わってくる感触は暖かくて柔らかいし、良い匂いはするしで思考回路が数本まとめて焼ききれそうだった。
「兄様。こっち座ってください」
もはや木偶と化した宋江を宋清は引っ張って湯船の近くの座椅子に座らせた。そうして宋清が動く度に彼女の胸と腰元を覆っている木綿の手ぬぐいが非常に頼りなくひらひらと揺れるのだ。木綿のというのは基本的にそれほど厚くないし重量もない。だから宋清が動く度にその下が微妙に見えそうになってしまっている。というか見えてる。特に今はこちらに背を向けているので形のいい白くてプリっとした……
「あ、う、うん……」
意味があるのか無いのかわからない呟きをしつつ、宋江はとりあえず宋清の言われるがままにその指定された場所へと腰を下ろした。
「えへへ、兄様。お背中流しますね」
宋清は石鹸を片手に宋江の横から手を伸ばして湯船お湯を手桶で救うとごしごしと宋江の背をこすり始めた。ちなみに石鹸はこの国では結構な高級品である。
「清。そこまでしてくれなくても……」
「清がしたいんです。ずっとずっとこうやって兄様のお世話をしたかたったんですからやらせてください」
気弱に言ってみたが宋清が頑とした口調でそう伝えてくるので、宋江は大人しく宋清にされるがままになることにした。確かにまあ、背中を洗ってもらっている間は宋清の体も視界に入らないので彼としても好都合というのもある。少なくともあの格好で目の前で動き回られるよりは幾分ましだろう。
「かゆいところとか無いですか?」
「うん、平気だよ」
そんなやりとりの後、しばし会話が途絶えた。宋清が宋江の背中をこする音だけがわずかに浴場内で反響する。
「それで……兄様は……結局、結婚されるんですか?」
その微妙に緊張が混じった静寂の中で唐突に宋清がそんな質問を投げかけた。だが、宋江は自分でも驚くほどに落ち着いたまま、返事をした。
「……今のところはするつもりはないよ……とは言っても、絶対にしないって決心してるわけでもないけど……」
宋江は振り向かずに自分の心情をありのままに答えた。結論としては曖昧ではあるが彼なりに率直に答えたつもりだった。
「……そう、ですか」
「……ごめんね。はっきり答えられたらいいんだけど、正直僕もどうしたらいいかわからないでいるんだ」
「いえ。大事なことですから簡単に決められないのはわかります……」
「清は……どう思う?」
宋江が問うと宋清の動きがぴたりと止まった。
「どう、と言うと?」
「ひょっとしたら呉用さんあたりから聞いてるかもしれないし、なんとなく気づいているかもしれないけど、僕はこの国の人間じゃないんだ。ずっと遠い国で過ごしてて、そこに戻れるかどうかは今はわからない」
宋江のその言葉に宋清はあまり反応しなかった。ある意味、彼女は一番自分と近しい人間である。こちらの推測通りなんとなく自分がこの国における普通の人生を歩んでこなかったのは彼女なりに察していたのだろう。
「この国で結婚して家族を作るってことは、その戻るっていう選択肢を完全に閉ざすことだと僕は思ってる。だから、どうしてもその選択を取ることに躊躇してしまうんだ」
「清は……清は、兄様とずっと一緒がいいです。兄様が何になっても、どこに行っても」
それが宋清の自分の疑問に対する答えだったのだろう。言って彼女は彼女はまた動きを再開した。
「うん……僕も清とは別れたくないよ」
その言葉は存外あっさりと宋江の口から出てきた。
「意気地なしなんだろうな。僕は……」
宋清にではなく自分にむけて宋江はそうこぼした。
宋清だけではない。楊志も、秦明も、呉用も、晁蓋も、林冲も、魯智深も。二度と会えなくなってもかまわない等と即答できる人間などいなかった。だが、それは元の世界でも同じことだった。父母や学校の友だち達とだって二度と会えなくなってもいい、と言い切るには宋江には未練がありすぎた。
「うん。でも……そうだね、とりあえず清が大人になるまでは、帰るのはやめようかな」
その決心も今までの葛藤が嘘だったかのように存外あっさりと出てきた。それは結論が出たというよりも、自分の中でいつの間にか既に組み上がっていた、しかしぼんやりとして具体的でなかった思いを形にしただけというほうが宋江にとってはしっくりくる表現だった。
「そんなこと言われたら、清は、ずっと子供のままでいます」
「あはは、どうかなー。清だって後二年くらいしたら反抗期になるんじゃないかな? そしたら考えも変わるかもしれないよ。僕のことも兄様なんて感じじゃなくて、『おい、おまえ』とか呼ぶようになるかも」
「兄様にそんな乱暴な言葉づかいしません!」
からかうように言うと宋清はムキになって反論してきた。
「わかったわかった。じゃあそう思っておくよ」
「もう……腕上げてください。洗いますから」
宋清の声に素直に応じて宋江は腕をあげると宋清がからかわれた意趣返しとでも言うように、少し強めにこすり始めた。やがて宋清は背後から手を伸ばして宋江の肩や首、胸や腹をこちらが恥ずかしくなるほどに丹念に洗いあげていく。腰の手ぬぐいを取ろうとした時はさすがに拒否したが。
「はい。流しますねー」
やがて腕を洗い終えると宋清は手桶のお湯で宋江の体を洗い流し始めた。傾斜した床の上をお湯と泡が滑っていく。
「じゃ、兄様。次、足洗いますね」
「ねえ、清。いいんだよ、本当に。自分でやるから」
そう言ってみたものの、やはり宋清がうなずくわけもない。宋江はやはり妹にゴリ押しされて自分の足を洗ってもらうことになった。
「えっと……どうしたらいいかな?」
「そうですね……とりあえずそのまま足を伸ばしてください」
宋清も手探りなのか、なんとなく自信なさげにそう言うと、宋江の伸ばした足の横にちょこんと正座した。相変わらず、身につけているのは頼りない手ぬぐい二枚だけだ。のみならず、かすかに湿り気を帯びたその木綿の布は宋清の体にぴったりと張り付いて体の線を露わにしていた。下はまだましだろう。太もものラインが露わになっているだけでそれほど、詳細がわかるわけでもない。が、胸に張り付いた布は宋清のなだらかな双丘どころか、その先端の云々の形まで宋江に伝えてきている。宋江は自分の頬がかすかに紅潮するのを感じながら視線をそらした。どれだけ言い訳しても結局、宋清は女の子だ。それもとびっきり魅力的な。
(わー、何考えてんだ! 清はまだ十二歳なんだよ! 日本で言ったら小学生なんだよ!)
宋江は思わず頭を振った。
「少し、足持ち上げてもらいます?」
そんな自分の様子にもこちらの葛藤にも気づいてないのか、宋清はいつもと変わらぬ調子で声をかけてくる。
「えっとこう?」
「はい。で……」
足をあげると宋清は膝枕をするように宋江のかかとを自分の太ももの上に乗せると宋江のつま先から洗い始めた。
「兄様? 体重かけても大丈夫ですよ」
微妙に足を浮かべたままの宋江に気づいて宋清がそう言ってくる。
「え、でも……」
「大丈夫ですよ。そのままではお辛いでしょうし」
「う、うん……」
宋江は遠慮がちに宋清の太ももの上にかかとをのせた。ふにょんと柔らかい感覚がかかとから伝わってくる。
(なんか……すごくいけないことしてる気分……)
今更ながらにそんなことを思う。今、宋江の目の前では十代前半の少女がほぼ裸同然の格好で跪いて足を洗ってくれている。しかも宋江はそんな女の子を踏みつけているというか、足蹴にしているというか、一言ではいいづらいが、とにかくそんな状況だ。かかとから伝わる彼女の柔らかく温かい太ももの感触はどんな高級なソファーやクッションよりも心地よかったし、その少女は自分の足の指の間まで丹念に洗ってくれている。
(漫画の悪役その一ってかんじだ)
もし、自分が下卑たように笑って宋清がちょっと悲しそうにしてたら、これはもう数ページ後には主人公に誅殺されること間違いなしである。
「えへへ……兄様、どうですか」
宋清はそんなこちらの考えなどもちろん気づいてない様で、無邪気に声をかけてくる。
「うん。気持ちいいよ」
あるいは自分が無言だったので心配になったのかもしれない、と宋江は思い直して笑って声をかけた。実際気持ちよかったし。けれどそうするとまた宋清の肢体が目の中に飛び込んできて宋江は少し気まずかった。
「良かったです」
ニコニコ顔で言って宋清は引き続き、丁寧に宋江の指の間まで洗っていく。そうしながら彼女は口を開いた。
「お風呂ができた時からずっとこうして兄様の世話をしてあげたいって思ってたんです。やっと夢がかないました」
「僕はありがたいけど……ずいぶん何ていうか、控えめというか、もっと清自身が幸せになるような夢はないの?」
「兄様に喜んで頂ければ、清は幸せですから」
(そういうことではないのだけれど……)
宋江はそう思ったが、それをうまく説明することができないような気がして、口をつぐんだ。
「もちろん、これだけじゃないですよ。お風呂からあがったら耳かきもしてあげたいですし、今日は呉用さんにああ言われちゃいましたけど、明日になったら清の料理も食べて欲しいです。兄様の服も作りますし、兄様の布団もちゃんと干して毎日気持ちよく眠ってもらって……ああ、それから髪も少し切りましょうか……」
宋清はひたすらうれしそうにそう語る。彼女の語る生活はもう宋江に至れり尽くせりすぎて怖いくらいだったが。
「さ、もう片方の足も洗いますね」
といって宋清はとことこと宋江の前を回ってちょこんとまた宋江の足の横に跪いた。やはりその際に、横から宋清の体の隠すべき部分が見えてしまうので、宋江は咄嗟に目を逸らした。
やがて、もう片方の足もすっかり洗い終えると、宋清はそこでふと思い出したように付け加えた。
「あ、すみません、すっかり忘れてました。頭も洗わないと」
言って再び彼女は宋江の背に回る。彼女が視界から消えて宋江は残念なようなホッとしたような複雑な気分だった。後ろを向いてまた彼女を視界に収めたいという欲望がふと湧いたが、宋江は頭を振ってそれをまた追い出す。さすがにシャンプー等という気の利いたものはなく、宋清は石鹸を器用に泡立ててそれで宋江の頭を洗い始めた。よく考えてみるとそれなのに、宋清だけでなく林冲や楊志もこの状況であの長い髪を現代人と変わらないような艶に保っているから不思議だ。
今度はもうとやかく言うのは辞めて黙って宋清にされるがままに洗ってもらうことにした。
「兄様。石鹸が入ると危ないですから、目は閉じてくださいね」
と小さい子に聞かせるようにそんなことを宋清は言ってきた。頷いて目を閉じると、ごしごし、ごしごしと一定のリズムで髪がすかれ、洗われ始める。背中に回った宋清の小さくて細い指が宋江の頭を刺激するようにあちこちを移動していき。後頭部から耳の後ろ、頭頂部、と余すことなく宋清の指が宋江の髪をすくように洗う。
「前からも洗いますから、ちょっと待って下さいね」
「うん」
ある程度洗い終えると宋清がそういうので、宋江はこくりと頷いた。無論、目は閉じたままである。視界に何も映らないと多少気が楽になった。もっと早くこうしておけばよかったと思う。
「んっと、あれ?」
声の方向からすると右手に回ったらしい宋清が困ったような声をあげる。
「どうかしたの?」
「あ、えっと、手が届かなくて……あ、そうだ兄様、少し足を閉じて頂けますか?」
「ん? こう?」
そう言われて宋江は目を閉じたまま長座の姿勢に近い形で足を閉じる。
「はい。ありがとうございます」
と、宋清が言ってから一旦、宋清の指が頭から完全に離れた。石鹸はまだ頭上に残っているので、目を閉じたままでいるとすぐにまた洗髪が再開される。
(……あれ? これひょっとして、清は正面から洗ってるの?)
洗っている指の動き方で宋江はそんな。試しに閉じた足を少しだけ横に転がすように動かすとすぐに
ひざの辺りで自分よりはるかに細くてそれでいてきちんと温度をもった物体にぶつかる。
(……これ、宋清の足だよね、多分……)
試しに反対側に足を動かすとやはり同じものにぶつかる。宋江の体は男性としては小柄な部類に入るがそれでも足はそれなりの太さをもっている。その両側に足があるということは……
「に、兄様。どうかされました?」
「え? あ、ううん、なんでもないよ、大丈夫」
唐突に呼びかけられてどきりとしながらそう答える。突然自分が足を動かしたから、驚いたのかもしれない。よくよく考えて見れば、故意で無かったとはいえ、足など軽々に触れていい場所ではなかったかもしれない。
「そうですか、かゆいところとかあったら遠慮なく言ってくださいね」
「う、うん……」
宋清の指は額のすぐ上の生え際のあたりから今度はゆっくりと後退していくように、宋江の頭を進んでいく。額の生え際のあたりからやがて頭頂部、側頭部と動いていくに従い、それに応じるように目の前にある宋清の体が接近してくるのが目を閉じていてもわかった。
「あ、あの……清?」
「は、はい……なんでしょう」
心なしか少し遅れて妹の声が帰ってくる。
「えっと……いや、なんでもない」
結局、そう言って宋江は会話を終わらせた。正直言って自分も何を言おうとしたのか、よくわからない。ただ、先ほど背中や足を洗っていた時よりも会話がさらに途絶えがちなことにその時宋江は気づいた。だから何だというわけでも無いけれど。
「そ、そうですか……」
どこかほっとしたような清の声が聞こえて、また洗髪が再開された。
違うんです。と誰に咎められているわけでも無いのに宋清は胸中で言い訳するように呟いた。けれど実際、違うのだ。最初に正面に回った時は純粋に兄の頭をもう少しきちんと洗ってあげたかっただけなのだ。
けれど、正面に回って洗い始めて少し経った時、宋清はふと、自分の目の前にいる兄をしげしげと観察してしまった。
(兄様の、お体……)
兄は目をつむって、気持ちよさそうに自分の洗髪に身をを委ねていた。巻き毛気味の彼の髪の下にある静かに閉じられたまぶた、小さな鼻、それから薄桃色の唇。さらにその下の固くて、けど優しくていい匂いのする胸板。手ぬぐいの上で所在なげに重ねられた手。それから白いけれどもしっかりと筋肉がついた脚。
それらを見ていると不意に宋江が足をすこしだけ左右に動かした。ちょっと座る位置を調整するようなそんな感じで。それで何が起こったかと言えば、宋江の膝頭が自分のひざの辺りに、ほんの少し触れただけだった。
たったそれだけの事なのに、その接触は宋清を無性にドキリとさせた。さっと顔に血が上るのがわかったし、心臓の鼓動はばくんばくんとうるさく早くなる。それはついさっき、兄に胸に抱きしめられていた時と違うようで似た感覚だった。
兄に抱きつくと、宋清はいつだって安心できた。兄が自分の頭や背中を撫でてくれればフワフワとした気持ち良い気分になれる。けれども今のはそれとは真逆と言ってもいい感覚だった。兄の胸の中は宋清にとって安心出来る場所だった。そのまま眠ることだってできそうな柔らかくて優しい感覚。けれども今のは、全身を髪の先まで無理やり叩き起こされるような感覚だった。
ただし、一方でそれらには共通点もあった。それはもう一度その感覚に触れたいという強烈な欲求だった。いや、ただたんに触れるだけでは嫌だった。もっと深く、もっと強く触れたいという欲求があった。
ふと兄の体を見下ろして気づく。兄と自分の間には、服さえ無い。しかも二人の体は絡みあうように、複雑な図形を描いている。
自分の足の間には手ぬぐいの上に置かれた宋江の手があった。宋江が少し手を動かせば、自分の内ももに触れるだろう。自分の顔のすぐ下には宋江の唇があった。自分がもう少し体を前に出したら、宋江の唇は自分の胸に触れるだろう。
そのことに気づくと、体がカッと熱くなった。指は兄の髪をすくように丁寧に洗っている。だが頭の意識は既に別のところに飛んでいた。また兄がさっきの様に体を少しでいいから動かしてくれないだろうか、とそればかり宋清は考えてしまっていた。ほんのちょっとだけ、ほんのちょっとだけでいい。足でも手でも、ああ、顔を前に少し出すだけでも構わない。それだけで自分はさっきの感覚を味わえるのだ。
けれども、宋江はそれ以降、彫像の様に全く動かなかった。
(兄様、兄様ぁ……)
哀願するように、宋清は胸の中で兄のことを呼んだ。それで少しでも兄が自分の気持ちに気づいてくれないかと思って。さすがに今の自分の思いを全て口にしてしまうのは宋清にも恥ずかしいことだというのはわかった。宋清は宋江に本当にちょっぴりでも動いてくれれば十分な様に、自分の体を近づけていった。そう、これは頭の後ろも洗いたいから仕方なく近づいているだけで……そんな言い訳をしながら、宋清の体はどんどん宋江に近づいていった。もう、自分の胸が宋江の鼻先にほとんどふれようとしている。
そこで宋江が再び、声を出して、宋清はこれ以上無いくらい驚いた。声が裏返って何か自分のやっていることがばれないかと心配になったくらいだ。だが、結局、兄は自分に声をかけただけでそれ以上は何も言わなかった。
宋清はまたおずおずと洗髪を再開しようとして、ふと兄は今、目を閉じたままだということを気づいた。つまり、ここで自分が何をしようとも、彼にはわからないのではないだろうか。
宋清は、いつの間にか自分の息が荒くなっている事に気づいた、全力で走ったってこんなふうにはならない、というくらい胸の鼓動も早くなっている。
(兄様、兄様、ご、ごめんなさい。清は……)
宋清はそう心中で呟いて、そっと自分の胸元と腰を覆っている手ぬぐいを自ら剥ぎ取ってしまった。これで正真正銘、自分と兄の間にあるのは何もない。
(あ……)
すごくドキドキした。自分と兄の体勢は先ほどと変わってない。ちょっと兄が動くだけで自分の太ももや胸に兄が触れるかもしれないのだ。それも直に。そのことを思うだけで、先ほどのしびれるような感覚が自分の足元から突き抜けてくる。
(私……すごいことしちゃってる、目をつぶってるとはいえ、兄様の前でこんな……)
宋清はまたそっと宋江の後頭部に手を伸ばし、洗髪を再開した。新たに洗い始めた場所は既に洗い終わった場所だと知っていたけど。
(ず、ずいぶん、念入りにするな……)
数秒ほど中断された洗髪が再開されて、目をつぶったままの宋江はそんな事を考えていた。しかし、それを指摘するのはなんだか妹を急かしているようで気が引けたので無言のままで居た。いや、無言だったのは自分だけではない。宋清もだ。先ほど自分の体を洗っているときは結構色々と話しかけていた宋清はしかし、今は不気味なまでに無言だった。カシャカシャという宋清が宋江の髪をいじくる音と、むやみやたらにうるさい自分の心臓の音だけが宋江の鼓膜に響いていた。
(な、なんなんだろ……?)
目を開けずとも感じる奇妙な圧迫感のようなものに、宋江はもはや息をすることすらためらわれていた。だが、常識的に考えてそんな状態がいつまでも長続きするはずがない。やがて、宋江は耐えかねて目を閉じたまま、深く息を吐いた。するとビクリ、と痙攣したように宋清の指の動きがとまる。
「せ、清? 大丈夫?」
「え? あ、は、はい。……お、おしまい、です。ちょっと待っててくださいね。頭流しますから」
そんな言葉がかけられ、少ししてざばっと頭からお湯がかけられた。それが魔法の合図でもあったかのように宋江はようやく手を動かすことを覚え、顔の辺りを乱暴に拭った。宋清が後ろに回ったので、目の前にはもう誰もおらず、湯気を立てた湯船があるだけだ。
「ええと、これで終わり……だよね」
もう体の隅々まで洗い終えたはずだ。そう思って宋江は後ろにいる宋清をちらりと見た。
「は、はい! 兄様は湯船に浸かってゆっくりしててください」
宋清は赤面して胸と下腹部に巻かれた手ぬぐいをぎゅっと握って言ってくる。さすがに正面から見るのはまずかったかと宋江は慌ててまた正面を見て言った。
「え、えっと……よかったら背中くらい流すけど?」
「だ、大丈夫です。清は自分でやれますから!」
「そ、そう……」
やたらと力強く返されて宋江は少しその反応に驚きながらも強引に彼女の手から手ぬぐいを奪うわけにもいかず、大人しく腰を上げた。
「ん……」
自分で体を洗い終えた宋清は宋江の隣に腰を下ろして湯船に浸かり始めた。
「お風呂は毎日入れてるの?」
「え? ええ、そうですね。余程のことがない限りは……ここは女の人も多いですし」
東渓村の時はきちんとした入浴は三日に一度くらい(これでも農民としては格段に多い)だったからそれに比べればある意味ずっと居心地のいい場所なのかもしれない。
「清は今まで、ここでどんな生活してたの?」
無言でいるのも緊張するので、宋江は妹にそう尋ねた。宋清はさすがに手ぬぐいもとって恥ずかしいのか、少し緊張した面持ちで訥々と語り始めた。
「えっと……基本的にはここにいて皆さんの世話をしながら呉用さんや公孫勝さんのお手伝いをしたり、たまに町に阮小二さんと買い物に行ったりでした」
「お手伝い?」
「は、はい。呉用さんからは文字を教わって、帳簿をつけたりとか、後は公孫勝さんからは薬を作る手伝いをしたりとか」
「そっか。偉いね、宋清は」
そう言って頭を撫でると宋清はびくりと震えた。
「あ、ごめん、嫌だった?」
「ち、ちがいます。あの、ちょっとびっくりしただけで……!」
今までにない妹の反応にそう聞くと、宋清は必死な様子でそう言ってきた。
「も、もう一度、お願いします!」
「う、うん……」
妙な勢いでそう言われて宋江はもう一度、妹の頭を撫でた。宋清は無言だったが、やがて彼女はこつんと宋江の上腕に頭を預けてきた。傾いた体のバランスをとるためか、宋清の手が宋江の太ももに載せられる。ちょっとずれると色々な意味で危ない場所なので宋江としては少し落ち着かない場所であったが。
「兄様……兄様も今まで何をされてたか、教えてもらえませんか?」
その言葉は別段責めるふうな様子ではなかった。冷静で、義務的というのとは少し違うが、好奇心で聞いてくるという感じでもない。あえて近いものを探せば、親しい人が事故にあった詳細を聞かねばならないような口調から、悲壮感だけをごっそり抜いたようなそんな調子だった。
「そうだね……じゃあ、魯智深さんに会った時のことから話そうか」
宋江は宋清の髪を撫でながらぽつぽつと滄州・青州でそれぞれあったことを順々に話していった。
「兄様も大変だったのですね……ごめんなさい。それなのに清ったらわがままばかり言って」
「い、いいんだよ。清はそんなこと気にしなくて」
宋江の話は宋清を刺激しそうな話題は微妙に避けたものであったので、そんなふうに言われると宋江としては非常に居心地が悪かった。
「……兄様の周りにどんどん色んな人が集まってきてるんですね」
「……そうかな? ここにいる人はほとんど晁蓋と呉用さんが集めた人じゃない」
厳密には晁蓋が集めた人間はいない。ただ、劉唐と公孫勝は晁蓋を頼りにあちらからやってきたので宋江はなんとなく晁蓋が集めた人間としてカウントしていた。
「でも、今日兄様が連れてきた人たちはそれと同じくくらい居るんですよ」
「え?」
言われて数えてみる。元々ここにいたのが晁蓋を頼ってきた劉唐と公孫勝、それに呉用が声をかけた阮三姉妹、それに宋清であわせて八人。一方今日、自分と一緒に来たのが楊志、魯智深、林冲、秦明、黄信、花栄の六名だから自分とあわせて七名だ。宋清を除けば確かに宋江が連れてきた人数は晁蓋と呉用の二人が集めた人数を上回る。
「けど、僕は呉用さんや晁蓋みたいに別に目的があって集めたわけじゃないよ。なんとなく一緒になったってだけで」
「それって逆にすごいことじゃないですか? 別に理由もないのに、兄様ってだけで来てくれたんでしょう?」
宋江が謙遜混じりに反論すると宋清はそんな風に言ってきた。
「まあ、そう言えなくもないけどさ……」
「でも、それって兄様と二人でいられる事ができなくなるって事なんでしょうね……」
宋清が寂しそうにそんなことをつぶやく。
「清。それは……」
言いかけると彼女は顔をこちらにあげた。
「わかってます。これは清の勝手な我がままなんです。けれど、やっぱり清は兄様に『清の兄様』以外の役割があることが嫌なんです」
宋清は自分の頭を撫でていた宋江の手をとると、そっとその腕に抱きついた。湯船に浸かる際に手ぬぐいはとってしまったから、今の彼女の体を遮るものは何もない。もっとも宋江はその感覚よりも自分の妹が吐露したその感情のほうに注意が向いていた。
「お風呂に一緒に入りたかったのもそうなんです。今日だけは、誰にも邪魔されず兄様と一緒に居れるってそう考えたらもうほんの少しの間も離れたくなくなっちゃったんです」
その言葉を証明するように宋清の体がぎゅっと一層宋江の腕に密着する。
「うん。まあ、宋清の気持ちはわかったし、理解もできる……と思う。確かに前に比べたら清のために割ける時間も少なくなっていくのも事実だろうし……」
「………」
「けど、それならさ、清のために作った時間は精一杯、清のために使うからさ。それでなんとか許してくれないかな」
「………」
宋清は無言のままだった。それしか兄から譲歩案が引き出せないことはわかっているが、かといってそれをすんなり認めるのも癪といった様子だった。
「じゃあ、兄様。一つお願いしていいですか?」
「なに?」
「またその時はこんな風に清がいっぱい甘えるのを許してください」
「うん、いいよ」
実質的な条件としては何も変わってないはずだが、宋江が頷くと宋清としてはそれで満足したようだった。
「えへへ、兄様ぁ……」
鼻にかかるような甘えた声を出して、宋清は宋江の首に腕を回す。
「ちょ、ちょっと、清。これはさすがに……」
重ねて言うが、今の二人の体を遮るものは全くない。強いて言うなら体の輪郭を多少あやふやにしている風呂のお湯ぐらいのものだ。
そんな状態で正面から抱きつかれるのは非常にまずい。今までだって高速道路を無免許+速度超過で逆走するほどのアウトっぷりだったが、今回のこれはそこにさらに未成年飲酒運転が付け加えられそうな勢いである。とはいえ、引き剥がそうにも宋江には妹の体がどこを触れても爆発しそうな危険物のように見えてしまっていた。この場合爆発するのは妹ではなく、自分の理性だったりなんだったりするわけだったが。
「だって甘えて良いって」
「言ったけどさ……」
まあいいかと、あきらめ、というよりはやけくそまじりに宋江は宋清の裸の背中に手を回した。宋清の体は風呂のお湯とはまた違った温かみを持っていた。
「ん……」
許しを得たといった様子でさらに宋清は体を密着させてくる。
「兄様。ずっと、ずっと一緒にいてほしいです。ずっとこんな風に……」
おそらく宋清はそれが叶わないと、知った上でそう告げた。
「うん。そうだね……」
宋江もまた叶わぬ事を知った上で同じくそう告げる。これから何が起こるにせよ、あるいは自分や宋清がどんな決断をするにせよ、いつまでも平和な日々を過ごす十二の少女と十六の少年のままではいれないだろうという確信が宋江にはあった。
だが、その平穏が破られるのそんな宋江の確信を遥かに超えて早かった。
傷だらけの劉唐が梁山泊に担ぎ込まれてきたのはこの翌朝だった。




