その四 宋清、梁山泊を案内するのこと
「で、つい十日ほど前だったかしら? その雷横がこの石碣村にやって来て、財宝と晁蓋を僕州に持って帰っていったわけ。今の話はその時に彼女から聞いたものよ」
呉用は長いその話をそう締めくくった。
「さっきもちらっと言ったけど、もちろん晁蓋が捕まったのはあくまでそういう振りよ。その河清という男に晁蓋が引き渡されたら、公孫勝と劉唐が助けだしてさっさとこっちに逃げ出してくるつもり。ついでに財宝も奪い返すつもりとは言ってたけど」
「……どれだけ持っていったか知らないけど、財宝は結構な量だと思ったけど、それをまた奪い返すつもりなの?」
楊志の質問に呉用は肩をすくめた。
「雷横に渡したのは売り飛ばして交引に替えた分だけだから。持ち運びについてはそれほど大変では無いはずよ。まあ正直奪い返せなくたってどうでもいいわ。正直まだ使い切れないほどお金は残ってるしね」
交引とは簡単に言えば、商品券の事である。とはいえ、流通性が高く簡単に現金に変えられるため、実際の役割としては手形と言った方が適切かもしれない。要は簡単に多数の現金を持ち運ぶための一般的な手段だ。
「本当に……晁蓋は大丈夫なんですか?」
宋江のかすかに切迫感を帯びたその声に対し、呉用は落ち着いた様子で答えた。
「あいつ一人っていうならともかく、公孫勝がついてれば心配いらないわよ。それにこれだけの事件で、禁軍まで出張ってきたってことはどうしたって濮州内で完結するような話じゃないわ。滅多なことさえ無ければ晁蓋は都で裁かれることになるだろうから、護送中にあの二人ならいくらでも奪い返す機会があるはずよ」
「……まあそうかもしれませんけど」
呉用の言い分に、というよりもあまりにも落ち着き払った彼女の態度に宋江は反論の隙を見いだせず、渋々と言った調子で引き下がった。
「いくつか言うべき事は二人に言い含めたし、いざとなったら雷横さんだって協力してくれるって約束したしね」
ダメ押しというわけではなかろうが呉用はそう付け加えた。
「というかなんでそもそも晁蓋がついていくことに? 財宝を返せればよかったんじゃないですか?」
宋江が尋ねると呉用は思い出したくないものを思い出してしまったという調子でため息を吐いた。
「全てを返したわけではないからね。もう使っちゃった分もあるし……だからまあ、犯人も連れてった方がいいだろうって晁蓋が言い出したのよ」
「え? 自分でですか?」
「どうせまたあの悪癖がうずいたんでしょ」
呉用はあきらめ半分と言った調子で投げやりに口を開いた
「ああ……」
呉用のいう悪癖とは晁蓋の戦闘狂的な一面のことだ。リアル『俺より強いやつに会いに行く』であるところの晁蓋は、雷横に警戒心を抱かせるほどの相手と聞いて黙ってられなくなったんだろう。
「けど、なんでその河清って人は雷横さんが財宝の場所を把握していることを知ってたんでしょうね」
「それについては公孫勝は一応心当たりがあるみたいだったわね。きちんと話してはくれなかったけど。……そういえば楊志さんと林冲さんは元禁軍なのよね? その男の事知ってる?」
話を向けられて林冲は少し思い出すように顔を上げて答えた。
「兄の河濤の方はそれなりに付き合いがあったが……弟の方は正直役に立ちそうな情報は持ってないな。一度馴れ馴れしく抱きついてきたのでぶっ飛ばしたぐらいだが……」
林冲の表情はいつもの様な淡々としたものだったが、それに対して楊志はあからさまに嫌悪の表情を浮かべた。
「……あんまり思い出したくは無いわね……確かに雷横さんが言うとおり、得体の知れない男だったわ。気功使いとは聞いたことがあるけど、使った場面は一度も見たことがないし、それより女に声かけまくってたほうが印象に強いわね」
「……そう」
呉用は少しだけ残念そうに眉根を寄せた。つまるところ、河清という男については未だ謎のままなのだ。
「ま、何者だろうと大概の事なら晁蓋か公孫勝がどうにかするでしょ。宋江の質問に対する答えは以上よ。で、わかってくれたと思うけど、そういうわけで楊志さんは今ちょっとややこしい立場に置かれてるから、ほどぼりが冷めるまで、しばらくここにいてくれる? 晁蓋が変なことやらかさなければ、あいつを通して雷横たちに会うのはそう難しい話ではないと思うから」
「ええ……」
呉用の言葉に楊志は小さく頷いた。
「で、残りの人達だけど……」
と呉用は卓の片側に固まっている秦明や花栄、魯智深達を眺めた。秦明が自分の居場所を主張するようにぎゅっと宋江の腕、宋清とは反対側の腕を抱える。
「まあ……その……ここに居たいと言うのであれば、私には止める理由はないから、当事者同士でゆっくり話してもらいましょうか」
「ご、呉用さん!?」
半ば抗議するようにあがる宋江の声を呉用はすっぱりと無視して話を続けた。
「長く居る気がないという方も、今晩ぐらいは宋江を無事に届けてくださったお礼ぐらいはさせてください。お客が来るなんて考えてなかったから正直、居心地はあまり良くないけど……」
「いや、ご配慮痛み入る。風雨がしのげるだけでもありがたい」
宋清と火花を散らすことに必死で使い物にならなくなった秦明に代わって林冲がそう答えた。
「……さて、それじゃ、宋江」
「え? は、はい、なんですか?」
呉用の呼びかけに宋江は思わずぱっと顔を輝かせた。呉用が何か助け舟を出してくれるものと勘違いしたのだろう。
「阮小二さんと私は、皆さんの部屋とか夕食の準備とか色々してるから、身内の事はそれまでに片付けておいてね」
「え……」
事務的に淡々と告げられて宋江は雨の夜に捨てられた子犬のような目つきをしたが、その程度で彼女の態度や方針が変わるわけもない。事実、呉用は既に宋江から視線を外して宋清と別のやりとりを始めていた。
「宋清ちゃん。あなたも今日はもうお仕事しなくていいから、ゆっくりお兄さんと話をしておきなさい」
「はい、ありがとうございます」
宋江は泣きたい気持ちになりながら周囲を見回してみるが、大概の人間がさらりと目をそらしていく。花栄や阮小五には元より期待していなかったが、黄信や林冲にまで同じような反応をされたのはいささか傷ついた。魯智深や阮小七はにやにやと面白そうに眺めているが、彼女らに助けを求めたところで火に油を注ぐような結果になるのは明白で……つまり、自分でどうにかするしかない。
(わ、わざわざ爆弾落っことさなくてもいいのに!!)
心中で呉用に悪態をつくと、宋江は腕にしがみつく宋清や秦明とその背後でおずおずとしかし、ちらちらとこちらを伺う楊志の三人を見て、頭を抱えるのであった。
「えへへ、兄様、こっちですよ、こっち」
結局、宋江は今まで長い間宋清に心配をかけていた事を理由に、秦明や楊志には今日は一旦二人っきりにしてもらった。問題の先送りとも言えるし、三人の中で一番不機嫌であった宋清の機嫌を取ることにしたとも言える。
そうして楊志達の事を阮小二らにまかせて、宋江は宋清によってあの大部屋から連れだされた。宋清曰く、ここには自分達二人のために用意された部屋があるらしく、そこに移動がてら、梁山泊を案内してくれた。自分を優先してもらったのがよほど嬉しかったのか、宋清は先ほどの不機嫌が嘘のように今は明るい笑顔を浮かべている。
非常に乱暴に言えば、現在の梁山泊は人間サイズの蟻塚のようになっている。巨大な岩山の中に細い通路があり、それがところどころにある部屋をつないでいる。先ほどまでいた大部屋から坂を登るように梁山泊の内部を進んでいくと、左手にいくつもの部屋が並ぶ通路へと出る。そこはいわば居住区とも言うべき場所で、その一つ一つがここの住人の個室として使われているようだった。宋清は一番奥にある部屋の扉を開けた。
「はい、ここが兄様と清の部屋ですよ」
そう言って開け放たれた部屋の内部は採光のための窓がかなり大きいこともあってか、意外と暗さや狭さは感じなかった。部屋の中には簡素な寝台と櫃がいくつか、それにござが敷いてある上に何か細々とした道具やざるが置かれている。
「東渓村にあった兄様の荷物もちゃんとこっちに持ってきてありますよ」
と言って宋清が並んでいる櫃の一つをさして言う。
「わあ、ありがとう。ごめんね。大変だったでしょう」
宋江は櫃を開けながら宋清にそうねぎらいの言葉をかけた。中には丁寧に折りたたまれた衣服が並んで入っている。晁蓋のお古であるが間違いなく自分の持ってた衣服で間違いなかった。
「いえ。運ぶのは大体、晁蓋さんや劉唐さんがしてくれましたから」
宋清はそう謙遜するがあの二人がこんなに丁寧に衣服をたたんでくれるとは思えないから、最終的な整理は彼女がやってくれたに違いない。
「そういえば呉用さんから借りた本、家に置きっぱなしだったけど……」
「それはもう呉用さんに返しましたけど……まずかったですか?」
「ううん、ならいいんだ。ちょっと気になっただけだから」
宋江はそう言いつつ、櫃を眺めてふと端の方に見覚えのない円筒形の物体があることに気づいた。
「……これは?」
手にとって見るとそれは藍染めの布がロール状に巻かれたものだった。
「あ、それは兄様の衣服を作ろうと思って、買ってきたんですよ」
「え? 清、裁縫なんてできるの?」
今までも簡単な繕い物をやっていたのは見たことあったがただの布地から服を作れるようなレベルとは知らなかった。
「できますよ。町の仕立て屋さんほどじゃないですけど……けれど、兄様もいつまで経っても晁蓋さんのお古ばっかりじゃなんでしょうから」
宋清は言いながらとてとてと宋江に近寄ってきた。
「自分で言うのもなんですけど、いい色だと思うんです。阮小二さんにも色々教えてもらって。本当は五色くらい別々の色のとか買ってこようと思ったんですけど、まずは一着作ってからにしなさいって怒られちゃいました」
宋清はその布地を持ち上げるとすーっと広げて見せた。
「えへへ。兄様が帰ってきてくれたから、これでようやく採寸ができますね」
宋清のその顔は待ちに待ったお祭りがようやくやってきた子供のような表情だった。
「そっか。ごめんね、ずいぶん待たせちゃったね……」
「……兄様」
宋江が笑いかけると宋清は感極まったように涙を浮かべた。そしてその布地を手放すと、宋江の胸元に抱きついてくる。彼女が手に持っていた布地がござの上に落ちてコトンと音をたてた。
「待って……ました。ずっとずっと待ってました」
「うん……」
「寂しかったです。兄様がいなくて……朝起きた時も夜寝る時も誰もいなくって……だから、一人でこの部屋にいるのが辛かったからこの部屋にはほとんどいなかったんですよ」
「清……」
宋清は過去に一度家族を失っている。その後、紆余曲折があって最終的に自分の妹という形に落ち着いていた。だから彼女にとって一時的とは言え、一人に戻ったことはとてもつらかったのだろう。
「ごめん」
もう一度謝ると宋清は顔を宋江の胸板に押し付けるようにしながらも首を横に振った。
「いいんです。兄様はこうして帰ってきてくれましたから……」
「うん、ただいま、清……」
宋江は改めてそう告げるとぎゅっとその小さな体を自身の胸元に抱き寄せた。柔らかくて青い少女の匂いが宋江の鼻腔を微かにくすぐる。
「はい……おかえりなさい、兄様」
宋清はこれでも今までまだ我慢していたのだろう。二人っきりになって遠慮がなくなったのか、宋江にひっしとしがみついてまた泣き始めた。
「落ち着いた?」
「は、はい。ごめんなさい。服、汚しちゃいました」
ひとしきり泣くことで冷静になったのか少し顔を赤くした宋清がそんな風に謝り返してくる。そんな妹を宋江はぽんぽんと軽く叩くように頭をなでた。
「いいんだよ。そんなこと気にしなくて」
気にするなという風に宋江は妹の髪を撫でた。
「ああ、そうだ。すっかり忘れるところだった。清におみやげ買ってきたんだよ」
「え?」
宋江はそういって宋清を抱いたまま、自分の旅行道具がはいっている袋に手を伸ばして赤い髪帯を取り出した。
「あんまり高価なものじゃないから申し訳ないけどね」
多少照れくさくて笑いながら宋江はそれを宋清の手に握らせた。宋清は信じられないといった様子で自分とその手渡された品物を交互に見ている。
「えっと、き、気に入らなかったかな……」
「い、いえ、そんなことないです! 全然無いです!」
あまりの無反応につい恐ろしくなってそう聞くと宋清は首がどうにかなるのではとこちらが心配するほどに頭を横に振ってみせた。
「ただ、あのちょっとびっくりして。兄様、清の事憶えててくれたんだなって」
「忘れるわけないじゃない」
とはいえ、そんな薄情な人間と思われても仕方ないかな、と思って宋江は軽く自嘲した。
「あ、あの、違うんです! そうじゃなくて、兄様が帰ってきた時、あんなに綺麗な女の人がたくさんいたから、清の事なんかどうでも良くなっちゃったのかなって、それで遅くなったかなって、ああ、違います! 兄様がそんな冷たい人じゃないってことはわかってるんですけど……! ただ、清は呉用さんみたいに学があるわけでもないし……」
宋清は軽く混乱しているようであわあわとしながら拙い調子で言葉をつなげる。
「ごめんね。不安にさせちゃったよね」
それを落ち着かせるようにもう一度、宋江は宋清の頭を撫でた。
「でも、僕にとって清は特別な子だから。例え何が起こっても忘れたり見捨てたりはしないよ。友達が増えたってそれは一緒だから」
「本当……ですか?」
不安げにというよりは自信なさげに宋清が聞いてくる。
「うん」
もう少し気の効いたことを言えればよかったのだろうが、宋江はそれ以上はなんと言っていいかわからず、宋清の頭を撫でた。宋清は応じるように宋江の胸元にまた顔をうずめてくる。
「兄様……良いんですよね。清は、清はまだ兄様の側に居て良いんですよね?」
「うん、もちろんだよ」
そう答えると清はようやく安心したように緊張を解いた。
「ん。兄様ぁ……」
甘える子猫のように顔を擦り付けてくる。宋江も同じように緊張を解いてまた彼女の髪を撫でる。
「えへへ、でも久しぶりに本物の兄様と一緒でうれしいです」
あまりにも幸せそうな笑顔を浮かべる宋清とその言葉がどこか微笑ましくて、宋江はくすりと笑った。
「本物の兄様って偽物の兄様なんて居るの?」
「あ、そういうことじゃなくて……」
「?」
「な、なんでもないです。秘密です!」
宋清のちょっと珍しい態度に宋江はその妹の秘密とやらに興味を覚えた。
「えー? どういうことなのかなー、知りたいなー」
軽く髪を梳くように頭を撫でて冗談交じりに問うと宋清は面白いほどに狼狽した。
「ダ、ダメです。兄様といえども教えられないです!」
「どうして?」
再度問うと、宋清は無言で目をそらした。
「お、怒ったりしないですか?」
彼女に対して一度も怒ったことのない自分が怒るような事をしたんだろうか、とちょっと不安な思いに囚われながらも宋江は笑顔を保持して頷いた。
「うん、怒らないから教えて」
と言ってみたものの、宋清はそれでもまだもじもじとしている。
「あ、あのですね……その、ほら……さっき言ったとおり、夜はここで寝るんですけど……その……一人で寝るのがどうしても怖くって……ええと、兄様の服を布団に入れて寝てたんです……」
(よっぽど寂しかったのかな……?)
その程度の事なら怒るはずないのに、と思いながら宋清の事を見下ろすと彼女は無言の自分に何か不安を覚えたのか、慌てて付け足すように言ってきた。
「あの、ちゃ、ちゃんと洗いましたから!」
「洗ったって……よだれでもこぼしたの?」
「え? ……あ、そ、そうなんです、よだれとかこぼしちゃって! あ、あはははは……」
なぜかわざとらしい笑い声をあげる宋清を宋江は不思議そうに眺めた。
「もう別にそんなことじゃ怒らないのに」
言って宋江はまた彼女の頭をなでた。
「そういや、ちょっと背伸びた?」
「そ、そうでしょうか。でも言われてみれば、少し服とかきつくなってるかも……」
宋江の言葉に宋清は宋江の腕の中で手を広げたり体をよじったりし始めた。
(そういや、そろそろ成長期なのかな……?)
宋清は十二歳である。女性ならば今が一番背が伸びる頃合いだろう。
「でも、兄様もなんだかたくましくなりました」
「そう……かな?」
あまり宋江には実感が無かったがこの国では普通に生活するだけで日本にいる時よりもずっと体力を使う。短い間とは言え、林冲に稽古も付けられたから、それなりに筋肉がついてるのかもしれない。試しに袖をまくってから腕に力をいれてみるとうっすらと筋肉による凹凸が浮き上がる。少し前までは自分の体に起きなかった現象だ。
「そうだ。兄様。せっかくですからもう少しここの中、案内しますね」
出し抜けに宋清が言って立ち上がった。
「いいの?」
「ええ、呉用さんも今日は仕事しなくていいって言ってくれましたし」
「いや、えっと、そういうことじゃなくて……まあ、清がいいならいっか」
そもそもここには色々と楊志や秦明の事を聞き出すために僕を連れてきたんじゃないの、と聞こうとして宋江は寝た子を起こすこともあるまいと考えなおした。
先ほど、梁山泊を蟻の巣という風に例えたが、実際のところその岩山の大きさに比して見ると、公孫勝が生活のために作った通路はそれほど複雑でなければ、広大でも無い。確認のしようがないがおそらく岩山の八割方は全く手付かずのようである。
具体的には現在の梁山泊には大きく分けて三つの部分しかない。一つ目は先程まで宋江達が話していた桟橋近くの大部屋。それからそこからやや上方に登ったところにあるこの居住区。そしてその居住区を通り越してまた降りて行くと炊事場に行き着く。ちなみに大部屋から居住区を通らずにここに来ることもできるらしい。ちょうど炊事場では、阮小七がいて重そうな桶をずるずると引きずっていた。
「お、宋清ちゃん。お兄さんと仲直り出来たの?」
宋江の腕に抱きついたままの宋清を見て、阮小七が声をかけてきた。
「初めから喧嘩なんかしてないですよ」
その宋清のセリフを聞いて思わず宋江は苦笑した。確かに一方的に自分が悪いだけだったのだから、あれは喧嘩とは呼ばないだろう。
「その桶、何?」
「ん? 今晩の料理用に持ってきた鯉だよ。見る?」
宋江が聞くとそう言って阮小七は二人を手招きした。覗きこむと黒々とした魚が何匹も狭苦しそうに泳いでいた。大きさはいろいろだが一番大きいのは体長五十センチほどはありそうだった。
「感謝しなよー。村の男達が捕まえたのをずっとこういう時のためにって取っておいたんだから」
えっへっへと得意げな顔をして阮小七が言ってくる。
「うわ、ありがとう……こんな大きい鯉初めてみたよ」
鯉はこの国では結構な高級魚である。しかも日本と違って周りを海に囲まれているでもなく、魚が棲息するような川も比較的少ないこの国では、魚は全般的に高級な食材だ。
「ちなみに、ちなみに、宋江の旦那……」
と阮小七は悪戯っぽいというよりは、最早悪どいと評するのが適切な笑顔を浮かべて宋江ににじりよった。
「な、何?」
「鯉を食った女からは元気な赤ん坊が生まれるそうですぜ」
「……ちょ、ちょっとやめてよ……」
宋清とそう年齢の変わらない少女にあけすけにそんなことを語られるとこちらの方が恥ずかしくなる。
「そうなんですか?」
「町のお金持ちがそう言ってたよ。だからたまに結婚式のお祝いなんかに送ることもあるんだってさ」
「きょ、今日は別に結婚式でもなんでもないですよ!」
「あはは、だからそれは町の方の話だって。この辺じゃ、普通に……とまではいかないけどちょっとしたお祝いごとがあれば食べる魚だよ。そう不安にならないでもへーきへーき」
慌てたように声を上げる宋清の肩を阮小七はばんばんと叩いて言った。
「まあ、本当は子供がお腹の中に宿ってから食べるものらしいけどね。あ? けどひょっとしてもう心当たりがあっちゃったり?」
「ないよ!」
思わず宋江は声を荒らげて否定してしまった。
「そうなの? んふふー、まあこれからだっていつでも手に入れてあげるからさ。入り用になったらいつでも声かけてくれればいいから」
そんな宋江の反応すら面白がって阮小七はにやにやと笑った。
「ていうかさ、宋江。誰を正式な奥さんにするつもりなの? その位教えてよ」
どうやら阮小七の中では宋江が誰かと結婚するのは規定路線らしかった。
「いや、今のところ、そういう話はないから」
「えー、けちー。いいじゃん、教えてくれたってさー、減るもんじゃなしー」
阮小七はそう言って頬を膨らませたが、さりとてどうしても聞きたいというわけでもないらしく、あっさりとまた話題を変えてきた。
「ところで二人共どうしてこんなとこ来たの? あ、お風呂?」
「お風呂というか……ぐるっと兄様を案内してるところなんです?」
「お風呂? ここ、お風呂なんてあるの?」
「すごいよねー。あのちびっ子師匠が作ったんだよ。あたし達もほとんど毎日使わせてもらってるけど」
阮小七のいうちびっ子師匠とはおそらく公孫勝のことだろう。
「お風呂まであるの? すごいね」
「はい。公孫勝様がぜひ作ろうって言って」
この国にも一応、入浴の習慣はある。とはいえ、現代日本とは違って、毎日欠かさず入るといったようなものではない。理由として大きいのがまずもって自宅に風呂を備えているような家などなかなかない。例えば昔、宋清と共に住んでいた東渓村では風呂があるのは名主の晁蓋の家だけだった。それも村にひとつぐらいはなくてはまずかろうというような調子で設置されたものらしく、実際には晁蓋のというより村の共同管理品といった扱いだった。
それでも宋江の周りには若い女性が多いこともあってかそのおこぼれをもらうような形で宋江も入浴は頻繁にしている。と言っても、それはどこか大きな街に滞在している時の話で、旅の最中は風呂に入るというのは中々難しい。街道の宿にはそんな設備が無い方が普通なので、そういう場合は仕方なく沸かした湯に手ぬぐいをひたして体を拭いていた。実際問題、宋江が最後に湯船に浸かったのは五日ほど前である。
「さっき、呉用先生の話してる途中でお風呂沸かし始めたからね。もう入れるんじゃない?」
阮小七はそう言って通路の奥を指さした。そちらの方向に風呂があるらしい。
「どうせここまで来たんなら入っちゃいなよ。燃料ももったいないしさ」
「え? いいの?」
「いいんじゃない? 今日だけは宋江もお客さんだからね。というか、もてなされる側がいつまでも厨房に居ないでよ。さ、食材も確認したんだし、出てった出てった」
と言って阮小七は宋江と宋清を厨房から追い出した。
「どうせなら二人で一緒に入ってきたら!?」
「ちょっと……!」
宋江は阮小七の無責任な言葉に抗議しようとしたが、それより早く彼女はさっさと厨房に戻っていってしまった。
風呂はちょうど、大部屋と厨房の中間地点あたりに存在していた。
公孫勝が風呂好きだったのか、他の女性陣からの要望なのか、それともその両方なのか、素人目に見てもかなり気合を入れて作成されたらしいことがわかる。風呂の壁や床は基本的に岩であるが、その滑らかさと来たら現代の日本の温泉と比べてもほとんど遜色ないレベルである。しかも水はけを良くするために微妙に傾斜までつけてあった。さすがに銭湯のようにシャワーなどは備え付けられておらず、風呂には中心に湯船が備えてあるだけだが、その広さも詰めれば四、五人ほど入れそうな大きなものである。
そしてその浴槽の横には奇妙な円筒形の金属のオブジェがあった。どういう仕組みなのかよくわからないが、これで水を温めているらしい。宋清にも尋ねてみたが彼女も石炭を放り込めば水が温まる、ぐらいことしかわからないらしい。そのオブジェの下の方にはふいごが備え付けてあって屋外の水車によって動くクランクが自動的に空気をそのオブジェに送っているようだった。
宋清は案内のついでにということで、お湯の状態を確かめるべく浴場へと入っていった。その奇妙なオブジェから突き出た竹の筒にささっている杭のようなものを取ると、竹筒からお湯が浴槽へと流れ始めた。
「あ、確かにいい感じにあったまってますね」
宋清はそのお湯を手桶に取ると慎重に外側から触ってそう結論づけた。
引き込んでいるのは河の水だと聞いて少し気になっていたが(黄河の水はその字の通り、泥の混じった黄色い水だ)、その竹筒から吐き出されるお湯はいたって透明なものだ。後で知ったがこれはどうも河の水を引き込んだ後に巨大な水槽に放置することでその上澄みを引き込んでいるというかなり気合の入った仕組みになっている。
「兄様。せっかくだし、お入りになったらどうでしょう」
「いや、それよりも楊志さん達に先に入ってもらおう。あの人達も長旅で疲れているだろうしさ」
「……それは兄様も一緒でしょうに」
と、そこでふと何かを思いついたかのように、宋清はこちらを見上げた。
「あ、あの、兄様」
「ん? なあに?」
「あの……その、ですね」
と宋清はもじもじと顔を赤くしながら言葉を続けた。
「えっと、他の方に先に入ってもらうのはいいんですけど、その後、兄様も入られるんですよね」
「え? うん。問題なければ、だけど」
「も、問題は無いんですけど……あのそれだったら、清は兄様と一緒に入りたいなって……」
宋江が妹の言葉を理解するには、かなり長い時間を要した。