その一 宋江、梁山泊へ帰還するのこと
「あの、呉用さん……」
宋清がおずおずと遠慮がちに呼びかけると、部屋の主である銀髪の女性は文机から視線を外し、くるりとこちらを振り向いた。
「何かしら?」
その流れるような銀髪をなびかせる彼女のことを宋清は少しだけ羨ましく思っていた。その銀髪と整った目鼻立ち、さらに何より内面にある知性によって形作られた銀細工のような美しさは多分、どんな手段を使っても自分には身に付けられないものだろう。
「あの、もし今日これ以上用事が無いのなら……その……」
用件を切り出そうとして、宋清が躊躇してしまったのは、自分の申し出に対し呉用があまりいい顔をしないのを知っているからだ。しかし、その自分の態度で呉用はこちらの言いたい事を察したらしく、額を抑えると深いため息を吐いた。
「今日も行くの? ここのところ、毎日じゃない」
「でも、あの手紙を出してからそろそろ一ヶ月以上が経とうとしてます。……兄様もそろそろ来るかもしれません」
「それで石碣村の入り口まで迎えに行くって?」
こくりと宋清は頷いた。呉用はそれに対して呆れたようにまたため息を吐くと、宋清の顔をじっと正面からみつめた。
「あのね、宋清ちゃん。確かに私は青州との往復なら一ヶ月もあれば十分だろうって言ったわ。ただね、それは道中何事も無かった場合の話よ。極端な話、雨が降っただけでも通れなくなる山道だってあるかもしれないんだから。それにねもっと根本的な話として私の手紙を見たところで、宋江がすぐに帰ってくるとも限らないわ。だからあなたが迎えに行っても十中八九、空振りに終わることになると思うけど?」
呉用の言うことは全て正しく、宋清に反論の余地は全く無い。宋清には呉用の言葉にうなだれる以外の手段を取れなかった。しかし、それは同時に反論できなくとも自分が前言を撤回しないことの証でもある。
そんな自分の様子を見て、呉用は三度目のため息を吐いた。
「夕方までには戻ってくるのよ」
それが外出の許可の言葉だと気づくのに宋清はいくばくかの時間を要した。
「許可もらえたんだね」
「はい」
宋清が呉用と共に寝泊まりしている梁山泊の山塞の外に出るとそこには小舟に乗った阮小七が待っていた。彼女は毎日、この梁山泊に日用品やら食材やらを持ってきてくれており、その時に宋清も村の入口まで連れてってもらっているのだ。
「いつもありがとうございます」
「いーのいーの、なんか家にいても気が滅入るばっかりだしさ、宋清ちゃんについていくって言えば、お姉ちゃん達もうるさいこと、言わないし」
彼女の活発さを象徴するような左右で分けられた二つの長い栗色の髪を揺らして、阮小七は気楽に笑った。
「大金が手に入ったのはいいんだけど、なんかねー、それでもう働かなくていいってなったところで暇なだけなんだよね。小五お姉ちゃんなんかずっとごろごろしてるし」
「そうですか……ええ、そうかもしれませんね」
阮小七の言うことについては確かに宋清にも思い当たる節はあった。大金を手に入れたからと言って何か暮らしが劇的に変わったわけではない。そりゃ多少便利なものや新しい服、呉用はそれに付け加えて本を何冊か買ったようだが、それくらいのものだ。
そんなことよりも宋清にとっては、兄がいなくなったことの方が影響としては大きかった。今のこの大金を手に入れた生活と貧乏でも宋江がいた時の生活、どちらをとるかと言われれば宋清は迷うことなく後者を取っただろう。
二人はほぼ定位置となっている村の入口にある石の上に並んで腰を下ろした。阮小七は先ほど自ら申告したように家にいるのが煩わしいのか、宋清が来るといつもこうしてついてきて彼女が帰るまで話相手になってくれていた。
「手紙を出してからもう一月以上経ってるんだよね」
「ええ。それにしても兄様はなんのために青州まで行かれたのでしょう」
「んー、そだねー……女……とか?」
「女!?」
「だって大体男が動く理由って、金か女か酒か、後は精々博打じゃん。でも宋江は金の心配なんかしなくていいし、酒も博打もやんないでしょ。じゃ、後は女だよねー」
面白げに阮小七が笑いながら言う。
「そ、そんな事は……」
「どうかなー、わかんないよ。あの河に落ちて助かるのは自力じゃ無理だろうし、助けてくれた村の娘にころっとそのままいかれちゃったり……」
「う……」
仮に阮小七の推測通りなら宋江が青州まで行かなくてはいけない理由は非常に薄いのだが、そこに頭を回す余裕は宋清には無かった。
「それどころか、宋江、帰ってきたら、大金持ちじゃない? 奥さんどころかお妾さんまで連れてくるかも」
「に、兄様はそんなふしだらな方ではありませんっ!」
宋清は抗弁したが阮小七は笑いを崩さないまま、からかう口調で言葉を続ける。
「宋江はそういうつもりじゃなくてもさ、あれだけ大金持ちの若い男がいたら周りの方がほっとかないんじゃないかな」
「う、うう……」
宋清が否定しきれなかったのは彼女自身、そんな疑いを持ったことが皆無ではなかったからだ。
「た、確かに兄様は優しくて穏やかで、おまけに物知りで頭も良くて、しかもいざって時にはすっごく頼りになって格好良くて、そのくせ、偉ぶらないし、誰にでも丁寧で暴力的なところもない、そんな素晴らしい方ですが……」
「いや、誰もそこまでべた褒めはしてないんだけど……」
軽く引いた阮小七に気づかずに宋清は兄の姿を脳裏に思い浮かべて頬を赤らめた。
「ああでも……兄様はあれで少し抜けている上にお人よしですから……ちょっと心配です。悪い女に引っかかったりしてなければいいんですけど……」
「うん、そうかもねー。今の宋清ちゃんの前だと、誰だろうが悪い女認定受けそうだけど」
と、投げやりに言った阮小七の耳にふと聞こえてきたのは複数の馬の蹄の音だった。珍しいな、と思いながらその音のする方向を見る。
「え? あ……」
阮小七がその先頭にいる人間を認めたとほぼ同時に宋清はその横で駆け出していた。
「こっちであってるの?」
「えっと、多分……」
宋江は魯智深の問いに曖昧に答えながらごそごそと懐にある紙片を探った。取り出したのは少し前に宿泊した宿の主人が書いてくれたこのあたりの大雑把な絵図面である。
呉用から集合場所で指定された石碣村は宋江も滞在していたことがあるが、陸路で入るのは初めてなので、周りの風景にも全く見覚えがない。わかりやすい看板などもないので、書いてもらった地図もどきや時折現れる別の旅人だけが唯一の手がかりだった。宋江はその地図もどきから目をあげ、周囲を見回したところで、ふと道の向こうからこちらに向かって走ってくる人影に気づいた。
「兄様ぁっ!!!」
「清……?」
大声を出してこちらに駆け寄ってくる妹を認めると宋江は馬の背から飛び降りた。
「兄様っ! 兄様っ!」
そこに宋清が手を広げて駆け寄ってくる。彼女はそのままこちらの首にしがみつきながら体をほとんどぶつけるようにして彼に抱きついてきた。
「せ、清、ちょっと落ち着いて……」
「うぇぇ、兄様、ご無事で良かったです。清は、清は、もう二度と会えないかもしれないと思って……えぐっ……」
「……ごめん。心配かけちゃったみたいだね」
宋江は泣きじゃくる宋清の背中に腕をまわし優しく彼女の体を抱きすくめた。
「ふぇぇぇぇぇん、うぇぇぇぇぇん、うわああああん! 兄様っ、兄様ぁっ!」
そのまま、泣き出してしまった宋清を見て、宋江はようやく、彼女がどれほど心配していたのかを思い知らされたのだった。
「ごめん。本当にごめんよ、清」
「うぐっ、うええ、うええええええん! もう、えぐっ、もう一人で、ひぐっ、おいてっちゃやです」
「うん、うん……」
「い、いっぱい、言う事だって聞いて、ぐすっ、もらいます」
「うん、わかった。ごめんね」
「うえ、うええええええ……」
宋清は、中々泣き止んでくれなかった。
阮小七達の船で梁山泊に近づくと、呉用は既に桟橋でこちらを待ち構えていた。後で知った事だが彼女の部屋の窓からは阮姉妹達のいる村が見えるらしく、宋江達の接近もそれで知ったらしい。阮小七の漕ぐ船に揺られて宋江は緊張した面持ちで彼女の顔を見据えた。
秦明や楊志達も別の船に乗っている。阮小七や阮小五は宋江のすぐ横に楊志がいることにひどく驚いていたが、彼女に対する疑問は阮小二によって後回しにさせられていた。阮小二は好奇心を隠せない妹達を抑えて、ただ一言、呉用さんに引き合わせても? とだけ、聞くとそれ以降は何も言わずに船の準備をしてくれた。正直、彼女の事をどう説明したものか宋江も決めてなかったのでこの対応はありがたかった。
「おかえりなさい」
言葉の字面だけはなんてことないものだが、呉用の顔は阿修羅ですら裸足で逃げ出したくなるような、凄絶な無表情だった。林冲いわく、禁軍でもあれほどの威圧感が出せる人物はちょっといない、らしい。
「た、ただいま、も、戻りました」
そんな呉用を目前にして逃げ出さななかっただけ、宋江はほめられるべきだろう。もっとも、その様子はといえば猫に捕まったネズミだってもう少し元気にしている、という位の怯え様だったが。
「私が今何考えているか、わかる?」
呉用がその表情を一切崩さぬまま、問いを発する。
「え、えっと、その、皆々様に大変ご迷惑とご心配をおかけしたことは大変申し訳なく思っております」
「そう。そこまで、わかってるんなら良いわ。歯、食いしばりなさい」
言って呉用はすっと手を振り上げた。
それを見て宋江は殴られることを覚悟すると、言われたとおりに歯を食いしばり、ついでに来たるべき衝撃に備えて目を閉じた。そしてその頬にぺちりと、殆ど触れるような優しさで呉用の平手が放たれる。
「えっと? あ、あの……」
きょとんと目を見開いて宋江は呉用の事を見つめた。
「言ったでしょう、そこまでわかってるんだったら良いわ、って」
言いながらはあ、と何かを諦めたように呉用が嘆息する。
「呉用さん……」
「言っておくけど、怒ってないわけじゃないからね。長旅で疲れているあんたをいきなり殴り倒すほど、私も鬼じゃ無いってだけだから」
しかし、そうは言いつつも、呉用の表情は目に見えて緩んでいく。
「よく帰ってきたわね。改めておかえりなさい、宋江」
そう言って微笑んだ呉用に宋江もまた微笑を浮かべた。
「はい、ただいまです、呉用さん」
「ところで宋江、後ろにいる方達は……お友達ということでいいのかしら?」
呉用は小柄な体をひょいっと横に倒して宋江の後ろにいる秦明らを視界に収めた。
「あ、えっと、こっちは僕の旅の最中に色々お世話になった人たちなんです」
「そう……ご挨拶が遅れて失礼いたしました。呉用と申します。うちの宋江がお世話になりました」
と呉用が秦明達に軽く一礼をする。
「ご丁寧な挨拶痛み入ります」
と、とりあえず来訪者の代表として秦明が応じる。
「ですが、礼には及びませんわ。宋江くんの護衛は私達から申し出たことですし、私自身、彼には危ないところを救ってもらった身ですから」
秦明は殊更ににこにこと笑って、言葉を発した。
「あら、あんたそんな活躍してたの? やるじゃない」
「えへへ……」
呉用がそう褒めると宋江が照れたように頭をかく。それを視界に収めながら秦明が再び口を開く。
「それと一言、申し上げると私は宋江くんのお友達ではありませんの」
「え……と仰られますと?」
その秦明のやや硬質を帯びた言葉に呉用がわずかに驚愕の表情を見せた。
「え? あれ? ひょっとしてさ、それってなに? そーゆー関係だったり?」
「こら、小七」
にやにやと薄笑いを浮かべながら宋江に問いただす阮小七を阮小二がたしなめた。
宋江がなんと答えるべきか困惑していると秦明がくすりと笑みを浮かべて誰にというわけでもなく、答えを返す。
「そうですね。そういう関係になりたいのですが、宋江くんからは有耶無耶にされてまして……実はちょっと傷ついてたり……ねぇ、楊志さん」
と秦明が言葉の最後で唐突にくるりと後ろを振り向く。その場の視線が一斉に刺さるように楊志に集中した。
「え、あの、えっと……それは……」
楊志は明言しなかったが、赤い頬とちらちらと宋江を伺うような視線が何よりも雄弁に彼女の心情を語っていた。わあお、と興味深げな目で阮小七が宋江と楊志を見やる。
「あ、あの、秦明さん、そういう話は長くなるし、またちょっと、後で、ね……」
それまで固まっていた宋江が慌てたようにおろおろと秦明と呉用の間に立って秦明を抑えるように手をわたわたと振る。
「ふふ、宋江くんが言うならそうしようかしら」
慌てる宋江の言葉に秦明が無邪気に微笑む。
「宋江、あなたね……」
「いや、これは、あの! 色々行き違いというかなんというか……」
呆れたようにため息をつく呉用に宋江が言い訳をしようとした時だった。
「兄様」
その声は宋江のすぐ横から聞こえた。とはいえ、その声の主を誰何する必要は無いだろう。宋江を兄と呼ぶ人物は一人しかいないのだから。
「えっと、清、何……かな……」
宋江の言葉が後半とぎれとぎれになったのは彼が自分の義妹が醸し出している尋常ではない雰囲気に気づいたからだ。
宋清は笑っていた。ひどく綺麗な笑みを浮かべて宋江のことを見上げていた。だが、その笑顔はひどく寒々しい。にこりと笑った口元は彫像のように微動だにせず、瞳は底のない沼のように黒々と深かった。
「どうしてこういうことになったのかは後でゆっくりと伺わせて頂きますね」
「い、いや、違うんだよ、清。そんなんじゃなくて、その道中色々あってさ……」
「兄様」
ぞっと底冷えがするような声で宋清は呼びかけを繰り返した。その宋清の小さいながらも反論を許さぬ断固とした口調に宋江の舌が止まる。彼女はその笑みを貼り付けたまま、一言一言を区切るように言葉を続けた。
「清は、後で、伺うと、申し上げました」
「……はい」
線香花火のような小さな承諾の声を出した宋江を確認すると宋清はくるりと秦明達の方を向いた。
「先程は名乗りもせず、失礼いたしました。この度は兄様の面倒を見てくださって本当にありがとうございました。私は妹の宋清と申します」
「あ、ああ。宋江からよく話は聞いているよ。良くできた妹さんらしいな」
たどたどしいながらもそんな宋清の言葉に対応したのは林冲だった。うっすらと冷や汗をかいている。
「まあ、そうでしたか、兄様、そんなふうに思ってくださったのですね」
「え、いや、まあ、あはははは……」
宋清は今度は正真正銘、花のような陰りのない笑みを浮かべて宋江に向き直る。宋江は乾いた笑いを出すのが精一杯だった。
「ただ、兄妹と言っても血はつながってないんですけれど」
その宋清の言葉に場の気温が下がった。比喩でなく。
「おや。そうだったのですか?」
発された黄信の質問は宋江に聞いたつもりだったのだろう。だが、宋江が冷や汗をたらしている間に、宋清がにこやかに笑って答えた。
「ええ、兄様は孤児になった私を引き取ってくれた方でして、最初は結婚するかっていう話もあったんですけど、年齢も若かったってことで、仮に兄妹っていう形で一緒に暮らしてたんです」
やたらと特定の単語を強調するように宋清は話す。どの単語を強調したかについては宋江の脳が認識を拒否した。
「なんだ、じゃあやっぱりただの兄妹ってことじゃない。ね、楊志さん」
秦明が挑むように言う。隣にいた花栄が大人げないなー、と呟いたが直後に秦明に足を踏みつけられて、悶絶するはめになった。一方、いきなり声をかけられた楊志はおろおろとした様子である。
「じゃあ、改めましてよろしくね、宋清ちゃん。長い付き合いになりそうだし」
「そうですね。末永く、兄様の『友達として』お付き合いしてくださいね。秦明さん」
「あらあら、そんな他人行儀じゃなくてもいいのよ。おねえさん、って呼んでくれても構わないし」
「いえいえ、恐れ多いことです。家族になるわけでもないのに、そんな不躾な呼び方はできませんよ」
ゴゴゴゴゴゴ、と秦明と宋清の間の空気が重くなり始めた。両者の中間地点で火花が飛び散っているのが見えるのは幻覚だと信じたい。
「ま、まあ、その、あれよ、立ち話ってのもなんだし、中へどうぞ」
呉用ですら、二人の雰囲気に圧されたのか慌てたように話題を逸らした。
「そ、そうだな。お言葉に甘えさせて頂こう」
そして慌てたように林冲がそれに応じたことで、一行はぞろぞろと桟橋から移動し始めた。宋清と秦明も互いに少しにらみあった後、申し合わせたように視線をそらして、後に続く。宋江も当然のごとく連行されるように引きずられていく。そのすぐ後ろに揚志が不安そうな表情で続いた。
「いやー、もてる男はつらいねー、宋江」
宋江の横に並んだ阮小七がにやにやと笑いながら彼を見上げて笑う。
「つーか、お前、本当に今まで何やってたんだ?」
あきれ返った阮小五の声がひどく耳に痛かった。
本日のNGシーン
宋清:兄様、どいて。そいつ殺せない。




