その二十七 宋江、青ざめるのこと
「くそう……くそっ!」
馬に揺られながら痛む腕を抱えて劉高は 悔しそうに声を上げている。
あの宋江との決闘の後、花栄らによって二竜山での劉高の行状も明らかにされてしまい、劉高はその地位を追われた。元達が本気になれば彼をかばい切れたのかもしれないが、元達はそうすることにさほど意味を見出せなかった。既に劉高の威信は宋江との一件で地に落ちている。いたずらに地位を保持させたところで部下からも侮られ、今以上の苦労を背負うのは目に見えていたからだ。
元達は潔く劉高と自分の職位を返上すると、息子とともに町を出た。ここまで破滅的な状況であればいっそ、息子は新天地でやり直したほうが良いだろうという元達の提案に劉高は不承不承ながらも頷いた。
「あいつら、今に見てろよ、絶対いつかぶっ殺してやる……!」
だがしかし、町を出てからとずっとこんな調子で劉高はブツブツと呪詛を吐き続けていた。彼にしてみればあと一歩でつかめたはずの栄誉などが不意に手から消えてしまい、彼らに対して恨みつらみがあるというのは当然だろう。それは元達も同じだが、同じようなつぶやきをずっと聞かされている彼女としてはいくら息子のこととはいえ、いささか鬱陶しいというのが偽らざる本音であった。
けれども、元達はそんな息子に積極的に何かをしようとは思わなかった。今の息子は熟れた鳳仙花のように触れただけでも爆発しかねない気配を漂わせている。普段ならまだしも、元達も今はここ数日のできごとで疲労困憊の極みにあり、息子と言い争いをしたいとも思わなかったので、実害がない限りは息子の事も放っておくことにしたのだ。最もその実害を真っ先に受けかねない周りの兵士は助けを求めるようにこちらをちらちらと見てくるが元達はそれも努めて無視した。
彼ら、兵士たちは劉高の後任となった総兵菅が、せめてもの手向けとして、あるいは手切れ金代わりにつけてくれた護衛だった。彼らに守られて元達と劉高は僅かな家財道具を積んだ馬車と共に青州の西の林の中をがらがらと進んでいる。向かっているのはこの国の都、東京開封府だ。そこには自分の夫、すなわち劉高の父親がいる。
こうなった以上、頼れるのは夫しかいない。彼にだってそれなりの人脈はあるのだからなんとか息子の就職先くらいは紹介してもらおう。彼にとっては血を分けた息子なのだからそれくらいはしてくれるはずだ。最悪、それさえ叶えばなんとか……
「賊だ!」
そこまで思考を伸ばした時、不意にそれを中断ち切るような声が聞こえた。そして次の瞬間、元達は胸の辺りに鈍い痛みを感じて目を見開く。そこには、自分の胸に質の悪い冗談のように深々と矢が刺さっていた。馬車の窓から飛び込んできたらしい、と頭のどこかが他人事のように分析する。
(痛……苦し……い……)
声をあげることさえかなわず、ごぼっと血を一度だけ吐いて彼女の意識は闇に消えた。
「母さん! 母さん!」
劉高は無事な方の一本の腕で馬車から投げ出された母親の体を助け起こしたが、既に元達は事切れていた。胸にささった矢が痛々しい。
「おやおや、これは懐かしい顔だ」
そう聞き覚えのある声で呼びかけられて、劉高は思わずはっと背後を仰ぎ見た。
「久しぶりだな。我らが将軍様」
そこにいたのはかつて自分が二竜山で下働きをさせられた時に自分の上役だった男だ。燕……下の名前はなんと言っただろうか。無論、彼一人ということもなく、周りに粗野な格好をした荒くれを何人もつれている。
「てめえ、生きてたのか」
「左目は失っちまったが、お陰様でな」
そういって彼は眼帯をさしながらにやりと笑った。だが劉高はそれを見て逆に戦意を燃やした。こちらには護衛の兵がいる。この程度の族なら蹴散らしてやる。
「そうだって言うなら、今度は殺してやるまでだ! おいお前ら……!」
と、そこまで言って劉高はふと周りが静か過ぎることに気づいた。おかしい。護衛の兵士はどこへ行った?
「味方ならとっくに逃げたぜ。大した人望だな」
げっへっへっへっ、と燕の皮肉に周りにいる毛むくじゃらの男達が笑う。
「ぐっ!」
それでも劉高は抗おうとして剣を抜こうとした。だが、劉高が腰の剣に手を伸ばした瞬間、それより早く山賊の一人が振るった剣が彼の手首から先を切り飛ばしていた。
「え? あ? あ、あ、あ、う、腕が、腕がーーーっ!!」
「おっと殺すんじゃねえぞ」
と泣き叫んで倒れこむ劉高の髪を引きずりあげて燕が薄く笑う。
「さて、劉高。お前には今から、うちの山塞まで来てもらおうか」
なぜ、と劉高が痛みをこらえながらも視線だけで問い返すと相手は酷薄な笑みを浮かべた
「お前が二竜山の大将を追っ払った後、おれたちは新しい頭領のもとで山賊をやってるんだが……新しい頭領の好物は、人肉、特に生き胆なんだが、これが調達になかなか苦労してな……」
その言葉が意味するところを察して青ざめる劉高に燕は優しく語りかけた。
中国では古代より人肉食の風習が、あまり表向きではないものの、存在している。大概の場合は、飢饉の際の最終手段や怨敵を殺した際の呪術的な意味合いが強いが、好んで人肉を食べるものも少数ではあるが存在していた。
「安心しろよ。頭領がお前を食い尽くすには時間がかかる。これから数日は生きてけるさ」
劉高の末路は一言一句違うことなくその男の言葉通りとなった。
宋江がその手紙を受け取ったのは劉高との戦いが終わって五日程が経過してからだった。あの戦いが終わってから宋江は戦いで負った傷を癒やすために、秦明の家で養生している。手紙を受け取った時も彼は寝台の上にいた。
魯智深から手渡された手紙を受け取った宋江は差出人の名前を見ておずおずと封を切ると、内容を読みはじめ、やがて青ざめながらカタカタと震え始めた。
「どうしたのよ」
手紙を渡した魯智深が怪訝そうに尋ねる。
「ま、まずい、まずいです。呉用さんが怒ってる。すっごく怒ってる」
「……ああ、そうらしいわね」
宋江とは対照的に落ち着き払った声で魯智深が肯定する。その声の調子に宋江は思わず顔を上げて質問した。
「知ってたんですか?」
「手紙を届けた人が教えてくれたからね。これを届けた人はあなたを一発ぶん殴っといてって言われたらしいわよ。流石にそれはとめたけど」
元より手紙を届けた人物もそれを実行するつもりは無かったらしいが。
「ど、どうしてそこまで知ってたのにすぐに教えてくれなかったんですかぁ!!」
「知るのが数日遅くなったところで一緒よ。どうせ、傷が塞がるまではあんたはここにいなきゃいけないんだし」
ちなみにだが手紙を届けた人物は実はあの結婚式の日の数日前に既に青州に到着していた。彼は宋江達が廃寺にいることを知らず、秦明の屋敷を訪ねても結婚騒ぎでばたばたとしていて、ずっと町中を探しまわっていたらしい。その彼は既に柴進の元へ向かってこの街を出て行っている。
「き、傷ならもうだいぶ癒えてますし、出発しませんか?」
「ちょいや」
誤魔化すような笑いを浮かべた宋江に魯智深が気の抜けるような言葉とは裏腹に痛烈な一撃を宋江の一番の重症である脇腹に放った。
「へ、へへ、へ、平気、です、から……」
青い顔でぶるぶると震えながらも宋江は気丈に声を上げるが魯智深は宋江を無理やり寝かせる。
「そんな脂汗をたらしながら言っても説得力無いわよ。いいから寝てなさい。一ヶ月もここにいろというつもりはないんだから。安静にしてれば数日後には出発できるでしょ」
「うう……でも……でも……」
「妹さんが心配なのもわかるけど、まずはきちんと養生してからよ。旅の途中で変な病気にでもかかったら、それこそとりかえしがつかないことになるんだから」
「うう……わかりましたよぉ」
魯智深にそこまで言われてようやく宋江はかくりと肩を落とした。
「宋江。少し今大丈夫か?」
と、そこに現れたのは林冲だった。部屋の扉の向こうから、顔だけ覗かせている。
「え、ええ。もうだいぶ良くなったんで」
魯智深がちらりと何かいいたげにこちらを見てくるが、とりあえず宋江は無視して林冲と会話を続けた。
「何かご用事ですか?」
「ちょっと会わせておきたい人間がいてな」
「あ、そうですか、じゃあ、えっと……」
と寝台から立ち上がろうとした宋江を林冲が押しとどめた。
「そのままで構わん。別に礼儀にうるさい人間でもないしな。入れるぞ」
林冲がそう言って部屋に入ると、小柄な人影がその後に続く。
「どうもー」
「花栄さん?」
それは花栄だった。彼女はいつもとかわらず、へらへらと無気力な笑みを浮かべている。
「えっと、花栄さんが、何か」
「雇うことにした」
林冲が簡潔に言い切った。
「雇う? 雇うって……え!?」
「お世話になりまーす」
頭に疑問符を浮かべる宋江の前で花栄が軽い調子で手を振る。
「あの、花栄さんはここの軍の人なんじゃ……」
「一昨日辞めたよ」
狼狽したまま、尋ねる宋江に花栄はさらりと告げた。
「や、辞めたって……どうして? えっと劉高も結局、一昨日ぐらいにこの街を出て行ったんでしょ?」
「やー、元から宮仕えは性に合わなかったからどの道、そう遠くないうちに辞めるつもりだったんだよね」
花栄がそう答えると、その後を引き継ぐように林冲が口を開いた。
「それで聞いてみれば行く宛も特に無いと言うのでな。君もほら、濮州から来た手紙は見ただろう」
林冲が言うのはこの街に来た初日に秦明が濮州の朱仝へ楊志の指名手配について問い合わせ手紙の返信だ。そこには簡潔に朱仝は既に濮州の騎兵副都管の地位から退いたとだけ書かれていた。
「何やらきな臭くなりそうだしな。腕の立つやつがいるのにこしたことはない」
「でも……雇うって言ってもお金はどうするんですか?」
「柴進からもらった金はまだ余裕がある。君が故郷に送った金も突っ返されて戻ってきたし、商店街の店主達からお祝い金代わりに結構な金をもらっている。それがあれば濮州までならまかなえるだろう」
「そうなんですか……」
少し不安に思うところが無いわけでも無いが、宋江はあまり深く考えないことにした。これが魯智深あたりだと少し不安だが、林冲なら後先考えずに行動しているということもあるまい。
「それなりに頑張りまーす。心配いらないと思うけど、一応言っておくと、戦闘と狩り以外の仕事はしないから、そこんとこよろしく」
「それはいいんですけど……ええと、花栄さん。知ってるかもしれないけど、僕らあんまり大手を振って外を歩けない身分だけど、そこはいいの?」
「ご飯くれて、無理難題も押し付けないんなら誰だろうとかまわないよ、あたしは」
仮にも手配のかけられている犯罪者の集団に仲間入りしようとするにしては彼女の態度は軽かった。
「宋江、安心しろ。こんな奴だが弓の腕は一級品だし、給与分の働きぐらいはする程度の義理堅さも持ち合わせている」
「ええと、はい、わかりました。じゃあ、花栄さん、これからよろしくおねがいします」
「はいはい、よろしく」
宋江が軽く頭を下げると花栄も申し訳程度に返礼した。
「話は以上だ。邪魔して悪かったな、宋江。ゆっくり養生しててくれ」
「お大事にー」
花栄の徹頭徹尾、無気力な声をあげながら林冲と共にその場を去った。
それからしばらくして魯智深も部屋からいなくなり、それと入れ違いのように次に宋江の元を訪れたのは黄信だった。
「本来ならばすぐにでもお伺いすべきだったのですが、色々と事後処理をせねばならないことがあり、遅れてしまって申し訳ありません」
部屋に入るなりそう言って黄信は深々と頭を下げた。
「いえ、そんな、黄信さんが一番面倒なところを引き受けてくれたおかげで僕らも今こうして安穏としていられるわけですし……」
実際のところ、あの作戦で地味ながらも最も重要で困難な役回りをこなしてくれたのは彼女だった。当日、兵士を巧妙に足止めしたのはもちろんのことだが、その後も、花栄に協力して劉高を追い落としつつ、一気に青州の軍部を実質的に掌握することで劉高が宋江達に捕手を出そうとしたのを未然に防ぎ、同時にあの事件を公式文書からもみ消していた。今こんな風に宋江が秦明の屋敷でのんびりとしていられるのも彼女の働きがあればこそである。
「ありがとうございます。ねぎらいのお言葉はありがたくいただきますが、元を正せばこれは自分のわがままから始まった出来事。この程度のことは礼をしていただくほどのことではありません」
少しくすぐったそうに笑いながら黄信はそう答えた。
「ところで、宋江殿はこの後、故郷にお帰りになると伺いましたが、その後またこの町に戻り、ずっとお過ごしになられるつもりはないのでしょうか」
「それは……多分無いと思います」
「左様でございますか」
言いにくそうに返答した宋江に対し、黄信はあっけらかんと相槌をうった。その表情は特に動揺も落胆もしていない。
「あ、あの、ごめんなさい……」
「なぜ謝られるので?」
「え、だって戻ってきて欲しいということじゃなかったんですか?」
宋江が尋ね返すと黄信は少しだけ首をかしげて、ああ、と声を上げた。
「確かにそれはそうですが、別に宋江殿にそのご意思がないというのであれば説得するほどのことでもございません。秦明様と自分が宋江殿についていけばすむ話ですから」
その黄信の答えに今度は宋江はきょとんと首をかしげる番になった。
「え? ついていく? 秦明さんと黄信さんが?」
「自分は秦明様にお仕えする身です。それは秦明様が軍人であろうが、市井の人間であろうが変わることはございませんので」
黄信の説明はわかりやすかったが、宋江の疑問は半分しか解決していなかった。
「え? でも秦明さんはこの町に残るんでしょう?」
「いいえ。ついていくに決まってるではありませんか。既にこの屋敷を処分する準備も進めていますよ、あの方は」
口にこそ出さなかったが、黄信の呆れ返ったような色合いが滲んでいた。
「え? ええー!? 来るの? 一緒に?」
「もちろんです。何かご不満でも?」
「いや、あの、不満じゃないけど……えっと、『どうして?』って聞いたら怒るよね、やっぱり……」
「そこまでおっしゃるのなら答えをいう必要も無いかと」
宋江がおずおずと伺うように声をだすと、黄信は淡々と答える。
「でも、黄信さんも知ってるでしょ。僕は元を正せば盗賊の一味なんだよ。ついてきちゃったら秦明さんや黄信さんまで仲間に思われちゃうかもしれないのに、それでもいいの?」
「はい。秦明様もご納得の上でのことですから全く構いません」
反論の余地が無いほどきっぱりと黄信は言い切る。
宋江が押し黙ると黄信はずいっと距離を詰めた。
「それにですね宋江殿。考えてもみてください。衆人環視の中、あれだけ盛大にあなたへの愛を語った女性がですね、その後、結局相手にされずに置いてかれたなんてことになったら、秦明様はいい恥さらしではないですか。もちろん、秦明様があなたについていく理由はそんな虚栄心ではありませんけれども」
「………」
黄信の言葉に宋江は黙るしかなかった。そんな宋江に黄信は若干言いにくそうにしながらも口を開いた。
「宋江殿。その……元はといえば自分があなたに助けを要請した事が発端ですので、こういったことを申し上げるのはだまし討ちのようで気がひけるのですが……」
そこでこほんと黄信は咳払いをして、彼女の気性そのままにまっすぐ宋江の目を見つめた。
「ちゃんと責任、とってあげてください」
黄信が去ってから宋江はぼんやりと天井を見上げてもう一度秦明の事を考えた。
確かに、秦明がついてくると言い出すのは予想してしかるべきことだったのだろう。自分や楊志はあまりおおっぴらに歩きまわることができない人種だが、秦明がそれを気にするような人間であればそもそもこの町に来た当初にこうして屋敷に招き入れてはくれなかっただろう。おまけにあの劉高と戦ってた最中に秦明は宋江に山賊だってかまわないと高らかに言ったのだ。今更それを問いなおすのはいくらなんでも野暮だという気がした。
(けどな……)
しかし秦明がついてくるということは自分とこの世界の関わり方について考えることは避けられなかった。彼女は事情があって一時的に手助けしてくれる魯智深や林冲とは違い、秦明は純粋に宋江を追ってくるのだ。そのために平穏な生活を過ごす機会を捨ててまで。となれば、宋江はそれに応えなくてはいけないだろう。
(そろそろ、覚悟を決めなきゃいけない時なのかな……)
この世界にやってきてから既に三ヶ月程度が経過している。そしてその間、何か元の世界とのつながりを感じさせるようなことは何一つ起こっていない。自分が元の世界に戻るのは無理なのかもしれない。そしてまた自分を取り巻く周囲の関係を見ればたとえ出来たとしてもそうした選択をとるべきではないのかもしれない。
「宋江くん、ごめんね。帰ってくるの遅くなって……怪我は大丈夫なの?」
ふとそこまで考えた時、秦明が部屋に入ってきた。
「いえ、お忙しいのはわかってますから」
元達と劉高、すなわちこの町の行政組織と警察組織のトップが揃って消えてからというもの、秦明は度々政庁に出かけていた。というのも二人が逃げるようにしていなくなってしまったのでろくな引き継ぎもされず、業務が滞っており、政庁は軽い混乱状態に陥っているらしい。面倒見の良い秦明はそんな状況をほうっておくことができず、公式には既に引退した身であるにも関わらず、政庁でその混乱を鎮めるべく走り回っているようだった。
「やっぱり、色々と大変なことになってました?」
「まあね。でも、だいたい今日で片付いたよ。あと、一回か二回ぐらい行けば大丈夫。まあダメでも宋江くんの怪我が治るまでには意地でも終わらせるから心配しないで」
「あの、そのことなんですけど……ついてくるおつもりなんですか?」
「うん。そのつもりだけど……」
秦明の言葉が宋江の何か言いたげな表情で途切れる。
「……ひょっとして、迷惑だったり……する?」
「そんなことはないです」
宋江は即答した。
「けれどなんだか、申し訳ない気がして……秦明さんはちゃんと平穏な生活を営む事ができるかもしれないのに、って思うと」
「いいえ。多分私は平穏な生活はもうおくれないわ」
「どうしてです?」
宋江が尋ねると秦明はいたずらげにくすりと笑った。
「もう、宋江くんのこと、好きになっちゃったから」
そのストレートな言葉に宋江は一瞬虚を打たれたように固まった。
「宋江くんの言ってる平穏な生活ってこの街で今までどおり、暮らしていくことでしょ。そこに宋江くんがいるなら別だけど、いない時点で私にとっては平穏でもなんでもないもの」
そう言われて宋江は苦笑せずにはいられなかった。形はだいぶ違うが、楊志同様、秦明もまた、自分によって人生のレールを崩されてしまった人間なのだ。であるならば、結末がどうなるかはわからないまでも、決着がつくまでは自分は真摯に彼女に向かい合うべきなのだろう。
「そっか……じゃあ、仕方ないですね」
「うんうん。仕方ない、仕方ない」
笑いながら秦明は頷く。
「それじゃ、こんな僕ですけど、よろしくお願いします」
「えへへ、よろしくね。大体、私はもう宋江くんにさらわれちゃったんだもん。今更荷物になるから捨てるなんて許さないよ」
「ごめんなさい。そんなつもりは無かったんですけど……」
宋江は曖昧に笑みを浮かべてそう弁解する。しかし内心、確かにそう思われても仕方ないかなとも反省していた。
「じゃあ秦明さん。改めてですけど、僕にさらわれてもらえますか」
「ええ、喜んで」
宋江が冗談めかしてそう聞くと秦明もそれに笑顔で応じた。
「えへへ……」
「どうしたんですか?」
唐突に笑い声を出した秦明を宋江は怪訝な表情でみやる。
「あ、ううん。なんでもないの。あ、そうだ宋江くん。なんかしてほしいこと無い?」
「して欲しいこと、ですか? えっと特には……」
突然そう聞かれても宋江には咄嗟には思いつかず、そう答えを返すと秦明はあからさまに落胆した。
「あ、あれだよ。ちょっとぐらいならこう、胸触ったりとかそういうのでもいいけど……?」
「い、いいです! いいですから……!」
羞恥心に顔を真赤にして宋江は首を振る。
「むー……恥ずかしがり屋さんなんだから。あ、じゃあ、あれは?」
「?」
楊志が宋江の部屋を訪れたのは暑さが和らいできた夕刻のことだった。いつもこの時間に彼女は宋江の包帯を取り替える作業をしている。
「宋江。そろそろ包帯替えようと思うんだけど……」
「しー」
扉をあけて話しかけた楊志に声を潜めるよう指示を出したのは秦明だった。
「秦明さん? どうしたの?」
同じく小声を出してそう問いを発したが、秦明の様子を見た楊志にはその原因がわかった。秦明の膝の上では宋江が安らかな寝息をたてていたのだ。
「今さっき、ようやく寝ついたところなの」
「そう……」
秦明の言葉に小さく相槌を打って楊志はそっと宋江の寝顔を覗きこんだ。ただでさえ穏やかな顔立ちの宋江だが、それが今のように安らいで寝ているさまは赤子のように無邪気であった。浅く律動する胸とそのおだやかな顔が夕日にかすかに照らされている。見ているだけでも心が安らいでいくような光景だった。
「こうして見ると可愛いところもあるのね。宋江くんて」
「うん……」
秦明の感想に頷き返して楊志は我知らず自分が微笑んでいることに気づいた。そっと手を伸ばし彼の髪に触れる。
「宋江。早く怪我治そうね。あなたの妹さんも友達も済州で待ってるんだから」
楊志が寝てる宋江にそうよびかけると彼は言葉にならない音を微かに返した。
宋江が去った後、彼の地では黄泥岡の事件が予想外の展開を見せていた。雷横と朱仝が必死に事態を収めようとする中、状況は彼女たちの思いもよらぬ方向へと動いてき……
一方、宋江はようやく梁山泊に帰還。懐かしい面々との再会を喜ぶことになる。だが、それは宋江にとって別れのはじまりでもあった。
中華幻想戦記、別離の歌の第五話でございます。ご期待ください。