その二十六 宋江、悲嘆にくれるのこと
その光景を宋江は目を開いて凝視した。舞い散る血の一滴一滴までもを鮮明に瞳孔に映しだして。
劉高が持っていたのは長剣だった。おそらく、彼が先ほどまで使っていた槍同様、最初に魯智深が倒した兵士が持っていたものだろう。
その剣は既に彼の頭上から一直線に振り下ろされていた。だがその剣が切り裂いたのは自分ではない。剣が振り下ろされる直前にその軌跡から逃れるように自分は突き飛ばされていたらしい。肩に残る小さな衝撃としたたかに尻を打った痛みがそのことを教えてくれた。そして何より目の前で血を吹き出す彼女の姿が。
彼女の体がバランスを失い、徐々に倒れ始めた。その動きはスローモーションの映像でも見ているかのようにゆっくりと動いているというのに自分は手を差し伸べることすらできなかった。体が、動かない。呼吸が、できない。
やがて、彼女の体がどさりと地面に倒れた。そうなってようやく宋江の金縛りは説かれ、息を吸った彼の肺が彼女の名を叫ぶべく喉を震わせた。
「秦明さん!」
周囲の喧騒がひどく遠かった。
魯智深は咄嗟に元達を捨てて走り出した。後から考えればそれは敵の親玉を自由にしてしまうという一つ間違えば危険な行為ではあったが、その事に気づく余裕すらその時は無かった。
彼女が宋江達に走り寄る時間はおそらく、十と数える暇もなかったろう。しかし、その間に立て続けに複数の出来事が起こった。宋江の一番近くにいた秦明が彼を突き飛ばす。劉高が剣を振り下ろす。秦明が倒れる。宋江が何か叫ぶ。順序としてはこうなるが、魯智深からするとそれらがほとんど同時に起きたようにも見え、それによって彼女は一瞬混乱しかけた。
(ああもうどこから手を付けりゃいいのよっ!?)
皮肉にもその魯智深の混乱を押し留めたのは劉高だった。
「てめぇっ、邪魔すんじゃねえよ!」
そう言って劉高は再び剣を秦明に向かって振り上げる。そのことが魯智深に真っ先に対処すべき問題を明確にさせた。
魯智深は倒れた秦明の体を飛び越えると、劉高の剣を受け止めるべく錫杖を頭上に構えた。が、相手がその鉄の塊を振り下ろすより早く、
「何やってんだよおおおお!!!」
そんな怒声とともに魯智深の視界から劉高が吹き飛ぶ。
(……はい?)
いささか間抜けなつぶやきを心中で発しつつも、魯智深は反射的にその姿を追った。重い剣を振り上げてたことによって重心が不安定だったのだろう。劉高の体は面白いように無様に倒れると、そのまま地面を転がっていく。
「秦明さんは……?」
そう荒く息を吐きながら問いかけたのは劉高と入れ替わるように魯智深の正面にいた宋江だった。だとすると先程の雄叫びは彼のものだったのだろうか。理性的に考えれば他に選択肢などないのだが、魯智深はそれでも、先ほどの乱暴な声と目の前の人物が中々結びつかず、唖然とする。
「……え、ええ。出血はひどいけど、腕を切られただけで、骨には達していないみたいだし、止血をしていれば治ると思うわ」
そう答えたのは自分ではなく、その後方から聞こえた。振り向くと自分の後ろにいた楊志が
倒れた秦明をちょうど助け起こしていた。若干返事が遅れたのは彼女もまた今の宋江の雄叫びに驚いたからだろうか。しかしそれでも彼女は律儀に宋江の問いに答えてみせた。
「う、うん。だ、平気よ、大丈夫。宋江くんも、へ、いき、そうね……」
秦明も痛みをこらえるために顔を少し歪ませながらもそう答えてくる。強がりが多少混ざっているのは事実だが、傷を負っているのは楊志の言うとおり、腕だけだから、少なくとも命に関わるということはなさそうだ。医者を呼べ! と群衆の一人が叫んでいるのが聞こえる。
「そ、そうですか、良かった」
一方、宋江はそんな楊志と秦明の返答を聞いてほっとした表情を浮かべる。その穏やかな表情のまま、彼は再び問いを発した。
「楊志さん、魯智深さん、申し訳ないんですけど、少し秦明さんを診ていてもらえますか?」
「それは……いい、けど……」
「ありがとうございます」
魯智深が曖昧に頷くと宋江は即座に視線を三人から劉高の方向へと向けた。
その時見えた宋江の横顔に、魯智深は思わず背筋をぞくりと震わせた。宋江の目は、いつもは静かで透き通った夏の湖水のようなその目は、今はまるで荒れ狂う冬の海のようだった。氷のように冷たく、汚泥のように濁り、夜のように暗く、虎のように荒々しい。にもかかわらず、その顔面は岩のように微動だにしなかった。
これが一月ほど前に人を一人殺してしまったと泣いていた人物と同一なのか? つい先ほどまで朗らかに笑っていた人物と同一なのか? 非現実的とは承知しながらも魯智深は目の前にいるのが宋江に乗り移った何か別のものではないかと思わずにはいられなかった。
そんな魯智深の疑問を振り切るかのように宋江は劉高に向かって歩みを進める。たまたま劉高の近くにいた群衆が彼を残して蜘蛛の子を散らすように逃げた。その事が宋江の怒気の状況を何よりも明確に物語っていた。十名弱の人間がたった十六の小柄な彼をまるで鬼か何かのように恐れて逃げ出したのだ。
「立て」
切り立った岩のような峻厳さで宋江はそう倒れている劉高に告げた。その声に応えてというわけではないだろうが、劉高がようやくといった調子でふらふらと立ち上がる。彼にはまだ戦意があったのか、片手に剣を携えたままだ。だが、劉高が顔をあげたその瞬間、宋江の手に持った棒がうなりを上げて劉高の腕に襲いかかった。それは先ほどのどこか迷いのあった攻撃とは全く異なるものだ。フォンという風切り音の直後にぼきりと鈍く骨が折れる音が鳴る。
なぶり殺しにする気だ。何も証拠は無かったが魯智深は頭のどこかでそう確信した。
「うぎゃあああああ!!」
劉高が哀れな悲鳴をあげてその場にうずくまる。その光景に人々に緊張が走った。武器をもって相対する二人の男。そこだけ切り取れば先ほどと変わらないが、何かが先ほどと決定的に違うことを誰もが本能的に察していた。
「立てよ」
そんな悲鳴などまるで聞こえないといった体で宋江は再びそう命じる。だが今度は劉高も痛みをこらえるのに必死でそんな余力がないらしく折れた腕をかばうようにその場にへたりこんだままだった。劉高がそのままでいるのを見ると、宋江は無言で劉高の顔面を蹴り上げた。ガンと音がして劉高の頭がむりやり打ち上げられる。
「うっ、ひっく、ゆ、許してくれよぉ……」
遅ればせながら、劉高もまた宋江という虎の尾を踏んでしまったことにようやく気づいたようだった。先ほどの威勢が嘘のように泣きながらそう懇願の言葉を述べる。今の宋江の蹴りで鼻を潰されたらしく、彼の鼻は妙な方向にねじ曲がっている上に血を吹き出していた。
「そう言われてお前を放っておいたのが僕のミスだったよ」
だが宋江はその劉高の言葉を言外に拒絶するとゆっくりと棒を振り上げる。
「だから今回はそんなのは無い。さすがに三度も同じ間違いは繰り返したくないんだ」
「ひっ」
劉高は、それが唯一今彼ができることだったのだろう、恥も外聞もなく、その場で背中を丸めて亀のように地に這いつくばった。
「ごめんなさいぃ、ごめんなさいぃ、俺が悪かったです。もうしませんからぁ……」
だが宋江はその言葉に取り合うつもりは毛頭ないようだった。棒を振り下ろすたびに彼は糾弾するように声を張り上げた。
「うるさい! あんた、本当に何考えてるんだよ! どうして秦明さんを攻撃しようとしたんだ!! 女の人なんだぞ!! 結婚しようとしてたんだろ! どうしてだよ! どうしてなんだよ! どうして! そんな簡単に! 自分の都合だけで! 人を傷つけたりすることができるんだよ!!」
そう言いながら劉高を殴り続ける宋江は群衆からしてみればわけのわからない存在に見えたかもしれない。だが彼との付き合いの長い魯智深にはわかった。人を傷つけることにあれだけ躊躇していた宋江だから、自分本位な理由で簡単に人を傷つける劉高のことがわからないのだ。そう考えると今の宋江の様子は劉高を撲殺しようとしているというよりも、得体のしれない妖怪の類をなんとかして封じ込めようと奮闘しているようにも見えた。
「おい、魯智深。どういう状況なんだ、これは……」
不意に後ろから声をかけられて振り向くとそこには林冲が居た。さしもの彼女も目の前の光景に理解を及ぼすので精一杯のようだった
「あ、え……と……」
魯智深は彼女にしては珍しく、歯切れの悪い返事を返した。宋江のあまりの変貌ぶりに唖然として頭がうまくまわらなかったのだ。だが、林冲はこちらの答えを待つでもなく、傷ついた秦明や周りの状況を見ておおよそ事情を察したらしく、なるほどなとつぶやいた。同行していたのか、林冲の後ろから現れた黄信が傷ついた秦明に駆け寄っていく。
魯智深はそこでふと林冲の後ろに別人影がいるのを見た。見たことのない小柄な桃色の髪の女性軍人をつれている。
「黄信!? 花栄!?」
と今度はこちらに近づいていきた元達が声をあげてくる。どうやら花栄というのがその見知らぬ小柄な女の名前らしかった。
「あ、どうも知州さん、ちっす」
花栄というその女がうらやましくなるほどに無神経なあいさつで元達に答える。
「あ、挨拶などしてないで、あいつを止めてください! 高が、高が……! 兵は連れていないの!?」
「申し訳ありません。まさかこのような事態になっているとは思わなかったので、残りのものは一旦待機させて我々のみで……」
そういう黄信の言葉はおそらく半ば本気なのだろう。宋江の様子に混乱しているのがありありとわかった。
「な、ならどちらでもかまわないから、高を助けて!」
その元達の叫びに答えたのは黄信でもなければ花栄でも無かった。
「では、私が」
進み出たのは林冲だった。
「あ、あなたは?」
初対面の人間が意外にも応えたことで元達は少々混乱しているようだった。
「名乗る程のものではございません」
林冲の先ほどの宣言は元達に対して、というよりもその場の全員に手出しをしないで欲しい、という意味で述べたようだった。
「林冲?」
「一度目は止められなかったのでな」
その言葉は自分の呼びかけに対する答えだったのだろうか、それとも彼女自身の何気ないつぶやきだったのだろうか。林冲はそれを曖昧にしたまま、無造作に宋江に向かって歩いていた。魯智深がそちらを見るとちょうど宋江がまた再び劉高に棒を打ち下ろしたところだった。ひぐう、と劉高が小さな声をあげる。彼は一応、まだ生きているようだった。
「宋江。もうそのあたりにしておけ」
林冲は横から宋江の棒を握った手を優しく取る。意外なことに宋江の手はそれであっさりと止まった。ゆっくりと宋江の視線が劉高から林冲へと向けられる。
「林冲……さん……?」
そう言って林中を見上げた宋江の顔は先ほどよりもだいぶ険がとれていた。それが劉高をある程度叩きのめしたことで気が晴れたからなのか、それとも相手が林冲だからああいう顔なのか、そこまではわからなかったが。
「それ以上やると本当に死んでしまうぞ」
「………」
「二竜山でこいつを逃したことを気にしているのか?」
林冲の問いに宋江はしばらく黙っていたが、やがて小さくこくりと頷いた。
「宋江。それは君の責任じゃない。いや、君だけの責任じゃないというべきだろうな。私だってあの時、君の反対を押し切ってこいつを殺すことだってできた。それ以前に秦明や黄信ならこいつがここまで増長する前に手を打つことができたはずだ」
「でも……僕がちゃんとトドメをさしていれば秦明さんは傷つきませんでした」
「それだって一緒だ。何が起こったか知らないが、この場にいた連中の誰か一人がうまくやっていれば、どうにかできたことなんじゃないか」
「……それは……そう、かもしれませんけど……」
言いよどむ宋江に林冲は追いすがるように口を開いた。
「私が言いたいのはな、なんでもかんでも一人で責任を背負い込む必要なんか無いってことなんだ。君は一人ではないのだから。辛いことや傷つくことを全部一人でやる必要はどこにもないんだ」
林冲の言葉に宋江の瞳が揺れる。
「君が好きでこの男を殺したいというのなら私は何も言わない。だが違うだろう? 宋江、君のやらなきゃいけないことは終わったんだ。終わったんだよ。つらい思いまでしてもうこれ以上、こいつに関わることなんかないんだ」
林冲がそう言い終わるとそれがまるで何かの呪文であったかのように宋江の握っていた棒がからんと乾いた音を立てて地面に転がった。何かが抜けていくようにがくりと宋江の膝が折れる。その彼の体をそっと林冲が正面から受け止めた。
「林冲さん、僕、僕……」
膝をついた宋江は肩を震わせていた。おそらく泣いているのだろう。
「いやです……もういやです。殺したくなんかないです……殴ることだって嫌でした。すごく気持ち悪いんです。骨が折れる感触とか、血が飛び散るのだって見たくありません……」
「そうか……そうだな」
林冲はそれだけ言うと宋江と同じように膝をつき、彼の背中をぽんぽんと叩いた。
「なんでですか? なんでこんな奴がいるんですか? なんで殺さなきゃいけないような人がこの世にはいるんですか?」
「……どうしてだろうな……」
混乱しているらしい宋江の問いに林冲は真摯に答えようとして、それでも答えが見つからないようだった。彼女は宋江の背中を幼子をあやすように優しく叩き続けていた。
「この勝負! それまで!!」
静まり返った場の雰囲気をすべて塗り替えるかのように突如、花栄が大声を上げた。周囲の視線が彼女の桃色の髪とそれをまとめる大きな髪帯に集中する。彼女は登場当初の気だるげな印象とは全く異なった凛とした雰囲気を備えている。
「勝者は宋江とし、約定により劉高は秦明との婚約を破棄! ……で、いいんだよね」
「え、ええ……」
突然花栄がこっちを向いて自分に話を降ってきたので魯智深は少々驚きながらも頷く。
「よし。んで! 事前に合意された決闘であるため、この決着を持って、両者遺恨無しとし、この決闘における互いの損害については蒸し返しを禁じる! これもいいね!」
花栄の確認の言葉に魯智深が頷き、元達も多少渋る様子を見せたが、魯智深の眼光と花栄と黄信がどうも自分の味方はしないらしいことを悟って、頷いた。
「はい、じゃあこれでおしま……」
「待った」
そのまま話を切り上げようとした花栄を秦明がとめる。いざこざが終わるまでに、治療も終わらせていたのか、切られた右腕に包帯を巻いていた。ただし応急処置には間違いないようで巻かれた包帯は赤く染まっていた。そんな秦明を怪訝な顔をしながらも花栄は彼女に場を譲るように一歩引いた。いや、怪訝な表情をしていたのは花栄だけではない。黄信も林冲も楊志も、そして宋江も魯智深も、彼女の意図をはかりかねて大なり小なりその疑問を顔に浮かべていた。
それらに対して秦明はぐるりとその場を見回すと、声を張り上げた。
「皆さん! 今日は私の結婚式に来て頂いてありがとうございました! まあ、結局は式の直前で、婚約は破棄ということになりましたが……」
群衆もまた秦明の真意がいまいち読めないようでざわつきながらお互いに顔を見合わせていた。
「でも、今日が慶事であるという事実は私にとっては変わっていません。多くの人が私のために動いてくれたことを思えば、それは予定されていた慶事よりもずっと私にとっては嬉しい事です」
そこで秦明は仰々しく手を広げた。州兵を率いるという立場にいた彼女にとってはこうした演説のたぐいは得手なのだろう。
「さて、そこでささやかなお礼として慶事に不可欠なものを私から皆さんへ提供させてください」
そこまで口にしたところで秦明の雰囲気ががらりと変わった。すましたような笑みではなくどこか得意げで朗らかで若干イタズラじみたその笑み、秦明という人間の本質が見える笑みだった。彼女はかちどきをあげるようにぐっと拳を振り上げると宣言した。
「今晩この場所で、大宴会やるわよ! お金は全部、知州と私持ち!! 全員仕事切り上げて街の人間集めてこーい!!」
その秦明の宣言にうおおお!!!と群衆がこの日一番の歓声をあげた。
「な、なんであんなことを……?」
林冲の腕に抱きかかえられるように座りながら宋江は秦明の宣言に目を丸くした。その問いに後ろにいる林冲が苦笑混じりに答えた。
「おそらく、あいつは君が始めたこの戦いの結末を明るいものにしたてあげたいんだろう。あいつらしいやり方だ。ちゃっかりと知州を支払いに巻き込んでいるあたりも含めてな」
最後の言葉は林冲なりの冗談だったのかもしれないが、宋江は笑う余裕は無かった。
「それって、あんな風に僕が泣き出したりしちゃったのがいけないってことなんでしょうか」
「そういうことではない。秦明はな、君のやったことが間違いなく善いことであったというのをみんなにも認めて欲しいのさ」
少し顔をうつむかせたこちらの頭をくしゃりとなでながら林冲は言葉を続ける。
「例えは悪いかもしれんが、お気に入りの玩具を自慢したい子供のようなものだ。まあ、許してやれ」
そう言われても宋江は自分の弱さを克服できなかったようであまり晴々しい気持ちにはなれなかった。その宋江の様子に気づいたかのようで林冲は再び口を開いた。
「恥じることではないさ。人を殺してそれを誇るのは軍人とやくざ者だけだ。君はそのどちらでもない。そんなことよりほら見ろ」
そう言って林冲が指差した先には秦明がいた。宋江にも見覚えのある店主の何人かと何か問答している。
「とにかく、酒も料理も、量よ、量! 倉庫にしまってる分、全部吐き出しなさい!」
「秦明ちゃん、でもよお、そうは言っても今晩までになんて人手がたんねえよ」
「もう、しょうがないわねぇ、じゃあ私も手伝ってあげるから」
「そいつは堪忍だぁ!! 秦明ちゃんが厨房に入ったらうちの店が半年は使い物にならなくなっちまう!!」
「ちょっとそれどういう意味よ!! 私だって多少は上達したんですからね!」
秦明の抗議に周りの町の人たちが大声を上げて笑った。つられるように秦明も苦笑を浮かべる。
「宋江、君が誇るのはあいつの笑顔だけで十分だ。それに比べたら敵を一人倒せたかどうかなんて、一顧だにする価値もないさ」
林冲がぽんと宋江の頭に手を置く。宋江は若干のくすぐったさを感じながら彼女の顔を見上げた。
「林冲さん……」
「ほら、心配してた奴もいるんだ。元気な顔を見せてやれ」
そういって今度は林冲は宋江を抱いていた腕を解くと宋江の背中を軽く押して彼を立ちあがらせた。
「あ……」
そうして立ち上がった宋江の視界に入ってきたのは逆光にさらされた青い髪の乙女だった。
「楊志……さん……」
宋江がその名を呟いても楊志はしばらく何も言わなかった。その顔は今にも泣きそうでぎゅっと手を胸元で握っている。
「ごめん……なさい。心配かけちゃいましたね」
「ううん。いいの」
ややあって宋江から口を開く。すると楊志は首を軽く横に振るとそっと宋江の手をとるとそれを自分の頬にあてて慈しむように撫でた。楊志の涙が宋江の手についた血と混ざり合う。宋江はふと自分の手が次第に浄化されていくように感じた。物理的な意味ではなく、もっと本質的な意味で。
「お疲れ様、宋江」
「……はい。楊志さんもありがとうございました」
「私、何もやってないわ」
「そんなことないです。背中を押してくれたのもずっと見守ってくれてたのも楊志さんです。お礼、言わせてください」
宋江がそう言うとそっとその手で楊志の頬を撫で返した。
「宋江……」
「……ってこらー!!」
とそこに魯智深が雄叫びをあげて無理やり二人を引き剥がすようにつっこんできた。
「ろ、魯智深さん?」
「ああもう! 林冲も楊志も言わないからあたしが言わなきゃいけないじゃない! いい! もうこんなこと金輪際ゴメンだからね! 人にさんっざん心配かけさせて!! その上、あんな凶暴な雰囲気まで撒き散らしてるし! あげくの果てにそんなこところっと忘れたようにちちくりあってるんじゃないわよ!」
わめきながら魯智深は楊志から宋江をひっさらうと彼のこめかみに自分の拳をぐりぐりと押し込み始めた。
「いたたたた! ちょ、魯智深さん! 痛い! 本当に痛い!! 冗談抜きで!!」
「やかましい! あたしが心配したり、怒ってるのが冗談だとでも思っていたの!!?」
「お、思ってないです! 思ってないですから! すいません、本当やめてください!!」
「ちょ、ちょっと、魯智深! けが人に何やってるのよ!」
「あのね! あんた達がそうやって甘やかすから、あたしがこういう役回りになっちゃうんでしょうが!!」
止めようとする楊志に吠えてから魯智深は宋江のこめかみを押し続けながら口を開く。
「いい! もう危険なことも物騒な事もやっちゃダメ! 人を殺そうとするなんてもっての他! わかった!?」
「ご、ごめんなさいぃー……えぐっ」
「魯智深。そこらでやめてやれ。本気で泣きそうになってる」
あきれた林冲が静かに言うと魯智深はようやく宋江のこめかみから拳を放した。しかし、彼女はそのまま宋江を開放するつもりは無いらしく、彼の肩を握りつぶすような勢いでつかみながら、宋江の目を正面から見据える。
「次やったら許さないからね」
「は、はい」
「うん。ならよし」
そこで魯智深は笑うと宋江の頭をぐいっと自分の胸元に引き寄せた。あ、ずるい、と楊志が小さく声を上げる。
「よくやったわ。頑張ったわね」
「う、ぐす、は、はい……」
涙目の宋江が魯智深の胸の中で小さく応答すると魯智深はようやく宋江を開放して言った。
「ほら、あなたは勝者なんだからいつまでもそんなめそめそしてないの」
「泣かしたのは君だが」
林冲の突っ込みを華麗に無視して魯智深は手拭いで乱暴に宋江の顔を拭くとひょいっと子猫でも持ち上げるかのように宋江の首根っこを捕まえて持ち上げた。
「え? え?」
「ほら、いくわよ、秦明!!」
突然呼ばれた秦明が何事かとこっちを振り向いたの瞬間、魯智深は乱暴に戸惑いの声を上げていた宋江を放り投げた。
「どわぁー!!」
「きゃ、な、何?」
慌てつつも秦明は宋江を受け止めようとしたが、あっさり失敗してそのまま地面に折り重なるように倒れる。
「なんだ! いきなり初夜か!?」
「こんな真っ昼間からか!! さすが山賊は一味違うな!?」
「勝手なこと言い出さないで!!」
「いくらなんでも無茶がすぎんか?」
慌てて宋江を助け起こそうとしている秦明とそこに駆けつける楊志を眺めながら林冲が嘆息してそう言うと魯智深は林冲の懸念などまるで動じない様子で呵々と笑った。
「主役が端っこにいたらだめじゃない」
もはやこの友人に何を言っても無駄かと林冲が再度嘆息した時、唐突に彼女は背後からの視線を感じた。
「もし、林冲様、魯智深様」
その視線に気づくと同時、そう呼びかけられて林冲はその声の方向へと振り向いた。横にいた魯智深もほぼ同時に。彼女たちの振り向いた先には見覚えのある男がいた。それは柴進の屋敷で働いていた男で、記憶に間違いがなければ、宋江の手紙を届けに彼の故郷へと向かったはずの人物だった。
「ようやく見つけましたよ」
その男は疲れ切った表情でそうこぼした。