その二十五 宋江、理由を語るのこと
宋江は歓声に包まれならもどこか呆然としたままだった。勝てたのはいい。だが、予定とはだいぶ違う終わり方になってしまった。もっと悪役然としたまま終わるはずだったのに、なんだか可哀想な女の子を助けにきたヒーローのような扱いを受けることになってしまっている。
というかこれから秦明はどうするつもりなのだろう、と宋江は思った。あんなことを大声で言ってしまった以上、元達が治めているこの町で生きていくのは難しくなる。そうすると、宋江としては彼女にどのように接するべきなのか、とっさには答えが出なかった。
助けを求めてちらりと隣の魯智深を見る。彼女はなんでこっちを見るのよ、というような顔をしてくいくいっと自らの横を指差す。糸で操られる人形のように宋江は魯智深の指の先に視線を追いかけた。すると、その先には何か期待に胸をふくらませて、にこにこと笑う秦明がいる。
その笑顔を見てようやく宋江はやるべきことを悟った。どうすればいいのかなんて決まっている。さっき秦明が言ったとおりに、彼女が望んだ通りにすればいいじゃないか。その言葉に比べたら自分の立てた稚拙な計画など、路傍の石のようなものだ。
宋江が秦明に向かって歩み進み始めると無責任な群衆がおめでとー、などと茶々を入れてくる。せりあがる気恥ずかしさに少し顔を染めながらも宋江は秦明の前に立った。せめてもの矜持として少し余裕をもった微笑みを浮かべようとする。成功したかどうかは自分ではいまいちわからなかった。
「お待たせ、しましちゃいましたね」
「ふふ、大丈夫。大して待っていないから」
緊張気味な自分とは対照的に秦明は朗らかな微笑みを浮かべる。
「それじゃ、ええと……とりあえず、城門まで行くってことでいいですかね」
「あら、お山の砦には連れて行ってくれないの?」
その秦明の言葉に宋江は軽く吹き出すと冗談めかして答えた。
「そちらはお望みでしたらいずれ。山の上じゃなくて湖の中、になると思いますけど」
宋江は頭の中にかの梁山泊を描いてそう語った。
「湖の中?」
「まあ、そこはいずれまた詳しくお話ししますよ」
「ふうん?……じゃあそっちはいずれのことってことで楽しみにしておくけど……」
と、そこで秦明はちょっと真面目な顔を作って声を潜めた。
「どうして、こんなことしたのよ。あなた自身がどうなるか、わからなかったわけじゃないでしょう?」
少し責めるような秦明の言い方に少し気圧されながらも宋江は笑って答えた。
「そうですね……また、秦明さんの料理が食べたかったから、かな」
が、その答えを秦明はふざけていると思ったのか、顔を一層険しくしてみせた。
「……真面目に聞いてるんだけど」
「僕だって真面目ですよ」
宋江はそういいつつも、奇をてらった表現であることは自覚していたので少し笑った。
「確かに料理は失敗しちゃいましたけど、でもとても楽しい時間を過ごせましたから。僕はまた秦明さんとあんな時間を過ごしたかったんです。それが不満だって言うなら前にここに来た時のようにまたここでみんなに囲まれて困りたかったから、でもかまいません」
宋江はそう言うと秦明に手を差し伸べた。
「もう少し言うと、僕はまた秦明さんと屈託なくしゃべったり、なにか作ったり、笑いあったり……そういうことをしたかったんです。あんまり楽な道のりではなかったですけど、僕はそのことにそれだけの価値があると思ったからこそ動いたんです」
その言葉に対し、秦明はしばらく押し黙った後にそっと宋江の手をとった。
「宋江くん。まずお礼を言わせてね。ありがとう、私のためにここまでしてくれて。あなたのかっこいいところも素敵なところもたくさん見れて今日は楽しかったわ」
「素敵だなんてそんな……」
直截的な賞賛を受けて宋江は頬を赤らめた。
「でもそれだけにちょっと残念」
「残念?」
きょとんとした宋江に秦明は微笑む。
「そう、残念よ。だってこんなに素敵な男の子が助けに来てくれた理由が、私の事が好きだから、じゃないんだもん」
そこで宋江はいつの間にかこちらの手をとった秦明の手が誘いを受けたというよりも何か強固な意思をもってがっちりと掴んでいることに気付いた。
「あ、えっと、それは、その……」
「ふふ。まあ、今日はいいわ」
気まずそうに視線を逸らした宋江に対し、秦明は笑った。
「さっきから面白くなさそうにこっちを見ている人もいることだし、宋江くんにも考える時間が必要でしょうし」
そう言われて宋江は秦明の後ろに視線を走らせた。そこには急かすように、あるいは責めるようにこちらを睨めつけている楊志がいる。
「こーら」
とそこを秦明がぐいっと強引に顔を引き寄せて自分に向けさせる。
「花嫁さらいに来ながら他の女に色目を使うなんて悪い子ね」
「そ、そんなつもりじゃ……」
大体、そっちに話を向けたのは秦明さんじゃないですか、と言おうとしたが、それよりさきに秦明の唇によってその口は塞がれてしまっていた。
「おおおおおお!!」
と、群衆がどよめきの声を上げる。囃し立てるような口笛の音がした。
「し、秦明さん?」
「あ、あはは、ご、ごめんね。なんだか自分の体がいう事を聞いてくれないのよ。体のあっちこっちがね、あなたと触れ合いたいってずっとわがままを言ってるみたいな感じがしてて……」
秦明はごまかすように笑ってから、多少恥ずかしそうにしつつも満面の笑みで笑った。宋江にしてみれば許すも許さないもないのだが、そんな思考すら吹き飛ばすほどに秦明の笑顔は綺麗だった。
「いっつ!!」
だが直後に感じた激痛によって宋江は秦明に見とれることができなくなってしまった。
「あのさ、そろそろ退散すべきだと思うんだけど」
不機嫌という言葉が生ぬるく感じるほどのオーラを発しながらぐいっと楊志が自分と秦明の間に割り込みながらこちらをにらみつけてくる。痛みの原因は彼女がどうも自分の腕をつねっていることらしかった。無論、それについて宋江は抗議できるような立場でも状況でもないことはさすがに自覚している。
「え、えっと、そ、そうですね。早く逃げないと」
宋江が思いだしたようにそう言って秦明から目を離すとようやく楊志は宋江を開放した。そのまま彼女はこちらにくるりと背を向けて秦明の背を馬車に向かって押し出し始めた。
「ほら、さっさと乗った乗った」
「はーい、わかりました」
ぐいぐいと楊志が秦明の背中を押すと秦明は抵抗することもなく、馬車に近づく。と、その時だ。
「どけぇっ! どけっ! 道を開けんか!」
不意に宋江達が進もうとした方向、すなわち城門の方角から数名の兵士が現れた。その様子にお祭り騒ぎでいた群衆に緊張が走る。
「……あ、まずっ」
「大丈夫よ。今は私の他に楊志さんや魯智深さんもこの場にはいるのよ。今更数人の兵士が現れたってどうってことないわ」
慌てたように声を上げる宋江に対し、秦明が自信満々に笑う。ふと後ろを見れば魯智深も小走りにこちらに駆けつけていた。
兵士たちは群衆を無理やりどかして道を作ると、しかし、宋江達に飛びかかるようなことはせず、そのまま間合いを保持した。
「これはどういう騒ぎなのか……もちろん説明をもらえるんでしょうね」
そしてその兵士達の最高尾から現れたのはこの街の支配者、元逹だった。
「……私が説明いたしますわ」
周囲の動揺を沈めるようにすっと元達の前に秦明が進み出る。元達は不機嫌な顔をして秦明を睨みつけてくるが秦明はそれに臆する様子もない。
「あなたには目をかけてきたつもりだったのだけど」
「私もそれには応えてきたつもりです。あくまで軍人としては、という意味ですが」
そう言って秦明は意味ありげに口元に笑みを浮かべた。
「元達様。信じて頂けないでしょうが、今でも私はあなたのことは尊敬していますよ。ただこちらにも官僚としては、という一言がついてしまうのですが」
「どういう意味かしら?」
「私人としてのあなたは見るに耐えないということです。この場合、特に母親として、というべきでしょうかね」
秦明は笑顔のまま、辛辣な一言を放った。
「前々から遠慮してて言わなかったのですけど、私、あなたの息子さんは大っ嫌いだったんです。ですから、この結婚、土壇場になってなんですが、お断りしたいと思ってます」
元達の顔はまるで時が止まったかのように険しい顔をしたまま、眉一つ動かさない。だが宋江は元達の全身が微かに震えていることに気づいた。それでも彼女が怒鳴り散らさないのはまだ群衆の前というこの場所で激情を晒すのがみっともないと思っているからだろう。その程度の理性はまだ持ち合わせているようだった。
「秦明。それは理屈に合わないのではなくて。もしそうだというならなぜ婚約を受けたの」
声を震わせたまま、元達はようやくと言った調子で反論した。
「それに関しては仰られるとおりです申し訳ないと思っています。でもこの場に置いて婚約を破棄したのはそちらにいるあなたの息子さんの方ですのよ」
「高が?」
息子の名前を読んだ元達の顔がこわばった。それは息子のことをようやく思い出したというよりも、息子がこんなところにいてほしくないという願望を否定されてしまった、という様子だった。
「か、母さん……」
宋江の後方にいた劉高が声を上げる。彼は相変わらず頭から血を流し、くやしさのせいか、頬には涙の跡がある。
「あ……あ……こ、高?」
そしてその息子の様子を見た瞬間に元達のわずかに残っていた理性も吹っ飛んでしまったようだった。わなわなと震え、目を丸くしてその光景を見ている。その元達の動揺を無視するように秦明は言葉を続ける。
「彼は私を賭けた決闘に応じ、自ら敗北を認め、婚約を破棄しました。それはこの場にいる皆が証人です」
一応、元達はその秦明の言葉を聞いていたようだった。ただ既に彼女の思考は既にこの場の混乱を治める方向になど向かっていないのは明白だった。そこにいたのは息子の名誉と体を傷つけられ、その下手人を憎む一人の母親でしかなかった。
「どうして! どうして高が傷つけられなきゃいけないのよ! 結婚が嫌だったなら他にいくらでも方法があったでしょう!! なぜここまでしなきゃいけないのよ! 答えてみなさいよ!」
元達の金切声に誰も答えない。そして、そのことが益々元達の憎悪をかきたてていくようだった。だが、秦明はそうなるのがわかって意図的に沈黙を保っているのだろう。宋江の目には顔を伏した元達が噴火直前の火山のように見えた。
「い、いいでしょう。高もあなたも結婚を望まないということであれば、婚約破棄でもなんでも勝手にしなさい。あなたのような嫁などこっちだって願い下げです……」
そこまで言い終えた元達が顔をあげた、彼女の目は怒りに燃え、顔は憎悪のあまり醜く歪んでいた。数日前に宋江が見た理性的な為政者の面影はかけらも残っていない。
「けれど、それと私の息子を傷つけたことは全く別よ! 衛兵! この場にいる全員を捉えよ!!」
その命令に群衆と衛兵がざわついた。
「ぜ、全員といいますと?」
「全員です! 下手人も!それを見ながら止めなかったものも! 許すものかぁ!」
その宣言に群衆は一旦静まり返った。ややあって、自分達が無責任な野次馬ではいられないと気づいたのだろう。わっと声を上げて、慌てて逃げ出そうとした。
「何をぼさっとしているのです! 追いなさい!」
「は? ……はっ!」
元達の叱責が飛び、少々理解を超えた命令に呆けていた衛兵がそれでも動こうとした刹那だった。ふっ、と秦明の横から風のように飛び出した影があった。その人影があっと言う間に群衆を追おうとしていた兵士たちをまとめて打ち倒してしまう。
「残念だけど、それがしたかったなら、この百倍は兵を連れてくることね」
その人影、魯智深は笑いながらそう言うと倒れた兵士の腰から剣を抜くと元達に突きつける。
「丁度いいわ、あなたには私達が無事なところまで動く為の人質になってもらおうかしら」
この頃になってようやく、群衆達は兵士が無力化された状況に気づいたらしく、混乱を抑えて事態の推移を再び見守るようになっていた。その様子を見渡しながら、魯智深は言葉を続ける。
「あるいは、ここで息子共々あなたを殺せば、そんな心配をしなくていいのかしら」
「ひっ!」
突きつけられた剣に元達は震える。
「止めておきなさいよ、魯智深。知州閣下。我々は無事この場から安全に移動できると言うなら、これ以上あなた方に迷惑をかけるつもりはありません」
楊志が落ち着いた声音で怯える元達に話しかける。
「元より我々が用があるのはあなたの息子であってあなた自身では無いのです。ここらで手打ちとして我々が町の外に出るまでの安全さえ、保証していただければ、あなたも息子さんもこれ以上、怪我をせずにすみますし、お互いにとってそれがいいと思うのですが、どうでしょう」
しかし、元達にはその言葉が聞こえていないようだった。一瞬で自分の部下達が打倒され、自分と息子が命の危機にあるというこの状況を理解するので手一杯のようであった。
「ダメよ、そんな難しいこと言っても。いい、声も出すな、あたし達が命じた以外の一切の行動をとるな。それであんたも息子もこれ以上は傷つけられずに済む、わかった? わかったならうなずけ」
何故かやたらと手慣れた様子で魯智深がそう言い伝えると、元達は壊れた人形のように元達はかくかくと首を縦に振った。
「よし。これで本当に万事解決ね。あんたたちも変な動きしたら、子供作れない体にするわよ」
と、後半は周りの兵士に向かっていった魯智深がが元達から視線を外し、こちらを、すなわち宋江の方を振り返る……や否や、彼女は鋭く表情を変化させて、叫んだ。
「宋江! 後ろ!」
「え?」
宋江の視界でゆっくりといくつかの光景が断続して流れた。魯智深と楊志がこちらに駆け出すのが見えた。続いて彼女たちより少し手前にいる秦明がこちらを振り返る。名も知らない群衆が何か指差しながら叫んでいる。そして、憤怒に染まった劉高の顔が宋江の視界を占領した。彼が右手に持つ剣が太陽の光を受けて鈍いきらめきを見せる。
迂闊だった。元達が登場し、彼女の言動によって群衆が動揺して、逃げ回る中で、一人こっそりと近づいていることに誰も気づけなかった。もう、誰もが彼はとっくに退場したものと勘違いしていた。単にそいつは傷ついた体を癒やすために沈黙を保っていただけだったのに!
「宋江!」
再び呼びかけられたその声が誰のものなのか、宋江にはもうわからなかった。
鮮血が、舞った。