その二十四 秦明、叫ぶのこと
「あっはっは、そりゃ劉高らしいや」
林冲が二竜山での劉高の行状を(多少誇張して)伝えると、花栄は腹をかかえて笑った。
「満足か?」
「まあ、残念ながらそこまでひどいと知州も素直に証言としてとりあげなさそうだけどね。けど満足かと言われれば満足だね」
林冲が聞くと、花栄は桃色の髪をゆらして愉快そうに答える。
「それで良いのか?」
「うん。正直、母親が母親だし、劉高を辞めさせられるとまでは思ってなかったからね。最後にいたちの最後っ屁ってやつがしたかっただけなんだよ。もとより好きで軍人になったわけじゃないから辞めるつもりだったし」
花栄はニコニコと笑ってそう言ってのけた。
「んで、それはそれとして、今何が起こってるかなんだけど……そっちは教えてくれないの?」
「その二竜山の生き残りが劉高の復讐がてら花嫁をさらいに来た、と思ってくれればいい」
「ふーん」
林冲はおざなりにそう説明すると、花栄は疑いの視線を向けてはくるものの、それに対して厳しく問いただすことも無いようだった。
「ひょっとしてこの件、宋江って男が関わってる?」
だから花栄が出し抜けにその名を出した時、林冲はぎょっとして思わず棒を構えた。
「なぜ、その名を出した」
林冲は一瞬で緩んだ顔を引き締めると、花栄の喉元に棒の切っ先をつきつけた。弓を蹴飛ばされ、丸腰の花栄はあっさりと壁際に追い詰められる。
「ちょ、ちょっと、落ち着いてよ。さっき言った通り、もうあたし軍を辞める人間だよ。今更点数稼ぎしたってしょうがないって。宋江の名前を出したのはあれだよ。秦明さんの周りでこんなことしそうな奴なんて思いつかなかったから、最近現れたあいつかなって……」
「……そうか、そういえば君は一度、彼に会ったことがあるのだな」
そう言って林冲は棒を外した。いきなり核心をつかれたことで動揺したがよくよく考えてみれば宋江は既に盛大に衆人環視の中、名乗りをあげているだろうから、名前を知られたところで大したことはない。
「あー、絶対寿命縮んだよ、今のは。あんたあたしを本気で殺すつもりだったでしょう」
「ああ」
林冲はあっさりと認めた。
「ああ、って……」
「一瞬だけのことだ。安心してくれ」
「どこにも安心できる余地がないんだけど」
花栄は半眼で睨みながらずるずると腰をその場に下ろした。
「そうだな。君の言うとおりだ。その宋江が今、仲間とともに秦明を奪おうとしている」
「……なるほどね、それであなたは城の兵士がその勝負に乱入しないようここに出張ってるってわけだね」
「そうだ」
花栄のいうことを林冲はあっさりと認める。花栄はなんとなく、この騒動がどういう意図のもとに行われているか、大凡察しをつけてきたらしい。
「とは言え、それは決着がつくまでの間だ。もうそろそろ勝負もつくころだろう。見に行きたいのなら好きにすればいい。弓は置いていってもらうがな」
「見に行く、見に行く。でも、それで劉高が勝ってたりしたらちょっとやだなあ」
「絶対、とは言えないがそれはおそらくないな」
「どうして? 悪いけどそんなに宋江って強そうに見えなかったけど?」
花栄に問われてると林冲は特に気負うでもなく言った。
「仮に劉高が宋江に勝てても、宋江の周りの奴らに勝つことはできないからだ」
その林冲のセリフを聞いた花栄の耳に同時に地をかける蹄の音が響いた。ようやく、黄信が自分達に追いついたらしい。
役者は揃いつつあった。
しばしば、殺人に対する拒否感というのは、過小評価されがちである。経験したことのない人間はそれをベニヤか何かを蹴破る程度のものだと思っている。つまり、簡単では無いだろうが、いざやろうとすれば何とかなるだろう、ぐらいのものだと思われている。だが、実際にはこの抵抗感はかなり強い。
少し前まで、具体的には第二次世界大戦の末期頃まで、戦場ですら人を殺させるという行為は工夫を要していた。例えばある部隊では兵士の小銃の発砲率は20パーセントに満たなかったという。命中率、ではない。発砲率だ。すなわち百人のうち、八十人は戦場で相手が銃弾を撃ってくるという状況においてもなお、引き金を引こうとすらしなかった。これは何も特定の状況下で起こったことでも何でも無い。むしろ、抵抗感を押しつぶして相手を殺せる人間という方は少数派というよりも、一種特別な人間だけだった。今日ではこの事に気付いた軍が、より殺人に抵抗しない兵士を育成する訓練方法を編み出したことで、発砲率は劇的に高まっているが、それでも未だ100パーセントには達してない。
一方で、興味深い事にこの結果は少し前提条件を変えるだけで簡単に変わる。
例えば仲間の監視がある場合。先ほどの礼は小銃であったがこれが大砲のような複数の人間が関わる兵器の発砲率は100パーセントとなる。あるいは指揮官の存在。小銃であっても指揮官がすぐ近くにいた場合は、それほどでないものの飛躍的に伸びる。
あるいは距離。物理的な距離が長ければ長い程、殺人は容易になる。それは単に悲鳴を聞いたり、血しぶきを見たりしなくて済むということからだ。肉を食べるのを拒否する人間は極少数だが、鳥や豚を目の前で殺されることに抵抗感が覚える人間は決して少なくない。
相手の顔が見えるかどうかも大きく関わる。また一般に退却戦が過酷だと言われるのは、逃げながら戦うというのが難しいということだけでなく、攻撃側が相手の背中しか見えないために非常に攻撃しやすい、という要素もあるのだ。銃殺刑に処される人間がしばしば目や顔を布で隠されるのはこうした理由による。
つまり、殺人に拒否感という壁を突破するのは簡単ではないが、一方でその壁にはドアがついている。そして、そのドアの鍵さえ持っていれば誰でも容易に向こう側へと行けるのだ。逆に鍵を持たずに壁の向こうに行ける人間はそう多くない。
そして、宋江はこの鍵を何一つ持ってなかった。彼は誰の命令にもよらず自分の意思でもって、相手と近い距離で、かつ、相手の顔もはっきりと見えている状態で相対しているのだ。宋江に仲間はいるが、彼女たちは決して宋江に殺人を要請しているわけでもなんでもなかったし、むしろそうした行動を避けるように言っていた(逆に誰か一人でも宋江に殺せと言っていれば宋江はそれほど悩まずに劉高を殺せただろう)。
ましてや、劉高を殺すために宋江が行わなくてはいけないのはフェザータッチの引き金を引くことではない。手に持った棒で思いっきり、相手の頭蓋を叩き割る事なのだ。
それでも宋江は武器を振るっていた。あまり勢いのないそれは当たったところで劉高を精々気絶させる程度だったろうが敵も必死だった。大振りとなった宋江の攻撃をたどたどしいながらもかろうじて防いでくる。
「ぐっ、ううぅっ……!」
劉高は弱弱しい声をあげながらも、劉高はまだ降参する気はないようで目はらんらんと燃えている。とはいえ、姿勢としては完全に守りに入ったらしく、こちらを攻撃しようとはしてこない。おそらく、彼は城の援軍を待っているのだ。援軍さえ到着すればなんとかなると自分を鼓舞しているのだろう。
(……まだ、駄目だ……)
宋江は劉高に対して、冷酷になりきれない自分を自覚すると心中で自分を責めた。
息を深く吸い、そして吐く。いくつかの神経を意図的に遮断する(厳密には遮断しようと試みる)。棒が頭蓋を割ってもその感触が伝わらないよう、劉高が泣き叫んでもその声が届かないよう、血が流れてもその臭いを嗅がないよう。心が南極の大地のように凍っていくのをイメージする。
「いくよ」
小さく呟く。おそらくその声は対面する劉高にすら聞こえなかっただろう。だが、劉高は自分の表情からか、瞳からか、それともほかの何かからなのか、とにかく自分の様子を見て、自らの危機を察したようだった。虚勢を張っていた仮面がくずれ、怯えがその色を見せる。
「ひっ……」
(いける)
それを見ても揺らがない自分の心を観察して宋江は密やかに歓喜しながら棒を振り上げた。そして、その時だった。
「宋江くん!」
唐突に上がったその声に宋江の狭まった視界が急速に広がる。思わずきょとんとして宋江は棒を下げるとその声の発生源を探した。
それはすぐに見つかった。周囲の群衆や目の前の劉高もその方向を見ていたのでそちらに視線を向ければすぐわかったのだ。彼らの視線はいつのまにか馬車から出てきて御者台の上に立ち上がっていた秦明に集中していた。
「秦明……さん?」
きょとんとして声をあげる。そして宋江がそれ以上何か考える前に秦明の口から更なる言葉が飛び出した。
「あのね! 私ね! 宋江くんのこと、好きだから!」
そのセリフに宋江の思考が色々な意味でフリーズした。
「ええええええええええ!!?」
と、これは硬直した宋江以外のその場にいた全員が統一してあげた驚きの声だった。何もしらない群衆からすれば、横恋慕してきた悪役は宋江のはずだったし、関係者にしてみれば、秦明がそんなことを言えばどういう影響があるかをよくわかっているからだ。
「本当だよ! そんなね、知州の息子ってだけで自分じゃ何一つ努力してないのに、偉そうにしてて、仕事もろくにできなくって、おまけに自己中の塊みたいな劉高なんかより宋江くんの方がずっとずっとかっこよくて優しくて素敵だよ! 比べるのも馬鹿らしいくらい!」
唖然として誰もが動けない中、秦明の独演は続いた。
「宋江くんが山賊だって言うなら私、山賊のお嫁さんになるよ! ううん、宋江くんが何者でも構わない! 私、宋江くんのお嫁さんになりたいの! だから……だから、宋江くん! 早く私をさらいに来て!!」
しばらくの間、場は静まり返り、そしてややあってうおおおおおおお!! という今日一番の雄叫びがその場を支配した。発生源は宋江達の頭上、すなわち、秦明を子供の頃から見てきて、今回の企みにも賛同していたこの商店街の店主たちだ。
「よく言ったーーー! お嬢ーー!!」
「おい、坊主、あそこまで言われたんだ、男見せろ、男!」
「そうだよ、手加減してねーで、さっさとそんな奴ノしちまえ!!」
「おう、ついでだからツケも払ってもらうからな、玉無し総兵管!」
どうも宋江の知らないところで劉高に対する鬱憤でもたまっていたらしく、それ以降、次々に頭上から罵詈雑言が投げつけられている。
「あ、あは、あははははは……」
宋江は全身の力を抜いて笑い始めた。もう計画は滅茶苦茶だ。この場で自分が劉高に勝ったところで秦明は今までのような平穏な生活は望めない。今、頭上でヒートアップしている商店主たちもだ。
宋江はぼんやりと周りを見渡した。隣の魯智深は何が面白いのか腹を抱えて爆笑している。秦明のすぐ横にいる楊志は傍らにいる秦明を呆然と見上げていた。その秦明は何やら勝ち誇った表情でふんぞりかえっていた。おつかいをうまくやりきった子供のような顔だった。それらを順繰りに見回してから宋江は目の前にいる哀れな男に声をかけた。
「あのさ、劉高」
相手はびくりと慌てた後にこちらを振り向くと慌ててこちらに顔を向けた。表情から察するに秦明が自分の事を愛しているはず、などという都合の良い妄想は流石にもっていなかったようだが、それでも公衆の面前であれだけあからさまに自分のことを罵倒され、裏切られるとは思っていなかったようで顔には小さくない動揺が現れていた。
「正直さ、僕はここで負けても良かったんだ。そうなってもその時の手段は用意してあったから。でもね……」
自分を何か得体のしれない化物でも見るかのような劉高に対し、宋江は言葉を続ける。相手の反応などどうでも良かった。これは会話ではなく、宣言なのだから。
「こうなった以上、これはもう断固として負けるわけにはいかなくなったから」
「ちょ、ちょっとどういうつもりよ!」
無責任な観衆の声が鳴り止まぬ中、ようやく思考を動かし始めたらしい楊志が文句を言って来る。
「まあまあ、楊志さん。そう怒らないで仲良く宋江くんの事は半分こしましょうよ。あ、私、立場とかそう言うのにはこだわらないから妾でいいわよ」
「そういうことを言ってるんじゃなーーーーい!!」
楊志が顔を真っ赤にしながらどなり声をあげてくる。幸いにして周りも大騒ぎしているので、楊志の声に特段注意を払うものはいない。それを確認してから秦明は肩をすくめて端的に答えてみせた。
「だってこれが一番いいと思ったんだもの」
「良いって何がよ! 最初に言ったじゃないの。この件ではあなたは被害者でなくてはいけないって! そんなことしたらあなたも私達の一味に思われるからやっちゃダメだって!」
「もう、そんなにガミガミ言われなくても覚えてるってば」
「だったらどうして!?」
「それはね、こうしないと劉高が負けを認めようとしないからよ」
秦明の言葉に楊志が虚をつかれたように黙りこくる。
「誰の発案か知らないけど、町の人達を巻き込んで劉高に逃げ場を作らせなかったのは面白いと思うわ。でもね、残念ながらそのことで劉高は逃げられなくなったんじゃなく、負けられなくなってしまったのよ」
劉高は人一倍見栄っ張りで虚栄心も高い。その彼がこんな町中の群衆の前で、しかもどちらかといえば、貧弱な見た目の宋江に負けを認めるなどということがあるはずなかったのだ。これがもし仮に人気の無い山中であれば彼はあっさりと負けを認めて逃げ出していただろう。ただし、その場合はそもそも勝負に応じていたかどうかが怪しいのだが。
「だから劉高に負けを認めさせようと思ったらあいつが退く言い訳を与えてあげないといけないのよ。例えば、守るべき花嫁や住民から裏切られた、みたいにね。孫子にもあるでしょう。囲帥は周する事なかれ、よ」
囲帥は周する事なかれ、とは直訳すれば囲んだ軍は完全に封じてはならない、ぐらいの意味合いである。逃げ道のない敵は必死で抵抗するので却って強敵になるということだ。
例えば昔、漢と楚という国が戦争をした時に漢の韓信という将軍は自国の兵士に楚の国の歌を歌わせることで、敵の戦意を削いだ。四面楚歌という言葉で有名な故事だが、この時、四面に敵がいたにも関わらず楚の兵士はかなりの数が無事に脱出している。もしこの時、漢の軍が楚の軍を完全に封じ込めて、逃さなかったら戦の推移はまた異なったものとなったろう。
「……他にやりようはいくらでもあったはずでしょう」
楊志とて兵法の基礎ぐらいは抑えているのだろう。こちらの言い分は納得しつつも面白くないようで半眼でじとっと見上げてくるが、秦明は笑顔でそれを軽く受け流した。
「そうね。やりようはあったと思うわ。でもね、楊志さん……」
そこで秦明は口の端をさらに吊り上げ、表情を攻撃的な笑みに変えると言った。
「自分のためにあれだけしてくれた男の子に何も心が動かされないほど、私も女として終わってないつもりよ」
その言葉と表情に楊志が一瞬気圧されたように後ずさる。それを確認すると秦明はすぐにまた、生まれた緊張を解きほぐすように屈託のない笑みを見せた。
「ふふ、そう怖がらないでよ、最初に言ったじゃない。仲良く半分こしましょって」
しかし、楊志はその言葉に素直に頷くこともなく、未だ不満そうにじっとこちらを見ている。そしてそれ以上どちらが何か言う前にわっとひときわ大きな声があがった。ふとそちらを見やると、いつの間にか劉高の持っていた槍が地面に転がっていて、宋江が持った棒の先が劉高ののどにつきつけられていた。
「ね、楊志さん」
「なに?」
まだ多少警戒心を残した楊志に秦明は微笑んだ。
「好きな人がいるって良いわね。その人を見ているだけでなんか幸せになれちゃうもの」
「……ええ、そうね」
その言葉に楊志もまた微笑み返した。
そんな二人のやり取りが聞こえたわけではないだろうが、その会話が終わるのを待っていたかのように宋江は劉高に武器を突きつけたまましゃべりだした。
「劉高、もう終わりにしよう。その、正直やり過ぎたかなーって僕もちょっと反省してるんだよ。まさか秦明さんがあんなこと言い出すとは思わなかったし」
宋江はそう告げると棒の先端を劉高につきつけた。慌てて下がろうとした劉高がたたらを踏んでその場に尻もちを着く。それを追うように宋江の棒の先を劉高のこめかみのすぐ横においた。
「だから降参してほしいんだ。そうじゃないならここから思いっきり君の頭をはたかなきゃいけない。多分君はすごく痛くて苦しいし、涙も出てくるし、下手したら耳は二度ときこえなくなる。そんなのは君も嫌だよね」
宋江の言葉は脅しと言うにはすこしばかり悲哀に満ちていた。
「だからさ、降参して。秦明さんのことをあきらめるって言えばそれでいいからさ」
それでもなお劉高はしばらく何も答えなかった。だが、その様子をみた宋江がすっと棒を振りかぶると声を上げた。
「わ、わかったよ! こ、降参だ! 降参してやるよ、いいさ、あんな恩知らずもってけばいいぶごっ」
「余計なことは言わないでいいの」
宋江が劉高の頬を棒で軽くはたいてそう言うと、困ったように周りを見渡した。しかしややあって宋江は棒を振り上げると声を上げた。
「え、ええと……勝利!」
周りの群衆はその短い言葉が勝ち名乗りだと気づくのに時間がかかったらしく、少しの沈黙をはさんでから、
「お、おおーー!!」
とばらけた歓声をあげた。
「勝った時に言うセリフとか、考えてなかったの? 登場の時はあんなに凝ってたのに」
「……みたいね」
二人の美女はそんな会話を交わして苦笑した。
本日のNGシーン
宋江「やめてよね。本気で喧嘩したら劉高が僕にかなうわけないだろ」




