その二十三 秦明、悟るのこと
それは劉高と秦明の結婚式が三日後に迫った夜のことだった。
「はい、これで傷は全部かしら」
お堂の中のか細い火に照らされた宋江の脇腹に膏薬を貼り付けてから、楊志はそう確認した。
「すみません、こんなことやってもらっちゃって」
「いいわよ、別にこれくらい」
「そうそう、愛しの男の裸も見れたし」
「余計な茶々をいれないで」
かたわらで気楽に酒を飲んでいる魯智深に楊志が冷たい目で言葉を投げつけた。が、魯智深の指摘は全くのでたらめというわけでもないらしく頬が赤い。一応言っておくと、楊志が見たのは上半分だけだ。
「林冲、あなたももう少し考えなさいよ。こんなんじゃ、劉高とやりあう前に宋江がどうにかなっちゃうわ!」
その恥ずかしさをごまかす意味もあったのだろう、楊志は魯智深とはまた別の壁によりかかって淡々と道具や荷物の点検をしている林冲に抗議の声を上げた。楊志の後ろで宋江が彼女を止めようと小さな声をあげていたが、どうにも迫力不足だった。
「考えた結果、当日に響かないよう今日やったのだ。気持ちはわかるが必要なことだ。私も君も昔やっただろう」
興奮している楊志とは対照的に林冲の顔はいつも通りの冷静なものだ。
兵士の訓練の一環で肉体を散々に痛めつけるという修練方法があるのは事実だ。戦場で多少攻撃や痛みを加えられても混乱しないための措置である。今日一日、宋江は朝から晩までずっと林冲の攻撃を食らい続けてきたはずだ。いや、おそらくは攻撃を受けてなお、立ち上がって自らも攻撃するよう延々しごかれ続けたのだろう。本来はそうした修練方法である。林冲の言うとおり、楊志も昔、少しだけやらされれたことがある。
「だからといって限度というものがあるでしょ。帰ってきてびっくりしたわよ!」
『おそらく』とか『らしい』というのは今日、楊志と魯智深は林冲に言われて朝から城外の市を周って膏薬を買い付けていたので今日の訓練の詳細は知らないからだ。膏薬だけでなく、柴進の屋敷からもってきていた日用品などもぼちぼち尽きてきたので、他にも色々手に入れようと魯智深に引きずり回されたのだが、今にして思えば、魯智深は林冲に頼まれて、自分をこの場から引き剥がしておきたかったのだろう。
もっとも、その魯智深もどうやら具体的に林冲が何をやろうとしていたかは知らなかったらしく、帰ってくるなり慌てて林冲に訓練を止めさせていたが。逆に言えばあの魯智深が慌てるほどに二人が帰って来た時の宋江の様子はひどいものだった。
「実戦ではいつも体調万端で戦えるとは限らないからな。敵から攻撃を受け傷ついても、きちんと覚えているということを実行できるというのが大事になる」
「それでもよ!」
そもそも、楊志に言わせればそんな訓練はある程度修練をつんだ人間がやるべきであって、宋江のような数日ちょっと棒術のさわりをやったような人間がするには過酷すぎるものだ。
「ま、まあ、楊志さん。心配してもらえるのはうれしいんですけど、その辺りで……なんだかんだ言って林冲さんにも手加減してもらいましたし、楊志さんにも手当してもらって動けるようになりましたから」
と宋江が楊志の後ろから声を出してひきとめる。それを聞いて不承不承といった調子で楊志も矛を収めた。確かに宋江の傷の大半は青あざや擦り傷で骨折などの深刻的なけがはない。傷跡が完全に消えるにはしばらく時間はかかるだろうが、日常生活にはそれほど支障の無いものだ。その辺りはくやしいがさすが林冲、と言うべきかもしれない。
「ちょっとー、あたしも手当手伝ったんだけどー?」
「あ、もちろん魯智深さんにも感謝してます。はい」
宋江が慌てたようにそう礼を述べたが、魯智深は不満なようでのそっと宋江の背中に覆いかぶさるようにのしかかった。
「お、重いですよー」
「うるせー、あたしのこと、忘れた罰じゃー」
「けが人になにしてるのよ、あなたは」
そのまま宋江に絡む魯智深を楊志は追い払うように後ろから引っ張った。抵抗なく魯智深があっさりと離れる。その様子を何とはなしに眺めてから林冲が口を開いた。
「ところで、宋江、明日からそろそろ仕上げに入ろうと思うが、その前に一つだけ言っておきたいことがある」
「な、なんでしょうか」
その林冲の口調から何か大事な話らしいと察した宋江が上ずった声を上げた。楊志と魯智深も騒ぐのをやめて林冲の言葉に注目する。
「正直に言おう。残り三日、いや実質的には二日か、私はこれから君が全力を尽くしても、まだ七分三分ぐらいで相手の方が有利だと思っている。技量面は既におおよそ五分にまでもってこれたが、向こうの方が体も大きいし経験もある。何より宋江、何度か君と訓練してわかったが、君は決定的な場面でどうしても攻撃を躊躇してしまう癖があるな」
その林冲の指摘に宋江の表情が暗く沈んだ。
「それはあんたが相手だから、という事ではなくて?」
「そう思って一度、野良犬と戦わせてみたのだがな。結果はあまり変わらなかった」
魯智深の疑問に林冲が答える。言われた魯智深はそんなことやってたの……と少々呆れ顔だった。ちなみにその野良犬は結局宋江が本格的に攻撃を与える前に結局逃げている。
「仮に劉高が君の攻撃を何回か受けてあっさりと降参するようなら問題は何もない。それなら勝負は五分五分になると私は見ている。しかし、問題はそうではなかった時の話だ。宋江、君は劉高が傷を負ってなお立ち上がった時、それをさらに躊躇なく打ち倒すことができるか?」
宋江は即答はできなかったようで、顔を伏したまま沈黙した。そんな宋江を見て林冲は少し慌てたように言葉を付け加える。
「その……断っておくが宋江、私は君を責めているのではない。君の体格と同様、これもまた君の生まれ持った資質だと思っている。無論、それが戦いに向かないことは指摘しなければならないが……」
そこまで言って林冲は軽い咳払いをはさむと言葉を続けた。
「私は君が劉高に勝負が決まる程の一撃を与えられたなら、そこで魯智深に交代するのも一つの手だと思う。周りの連中も明らかに君が優勢で終われば選手を交代してもとやかく言うまいし、仮に言う奴がいたところでどうせ何もできん」
宋江の視界の隅で魯智深が林冲の言葉に同意するように頷いた。
「けど……」
そしてそれでも反論しようとした宋江に林冲は声を一層深く静めて機先を制するように口を開いた。
「宋江、君が滄州であの兵士を殺した後、どれほど苦しんだかを私は間接的にはであるが知っているつもりだ」
そう言われて宋江はあの殺人の瞬間に感じた震えと感触が思わず手の中に再現された気がして、思わず手を握りしめた。
「今更と言われるかもしれないが、私はやはり君が戦うのは反対だ。それは君が死んでしまうかもしれないからではない。そうならないように私は手を尽くしたし、これからもするつもりだ。さらに言えば当日も魯智深も近くにいる。それよりも私は君があの男を殺してしまうことの方を恐れている。より正確にはその後の君のことをだ」
林冲はそこで宋江の目を真っ直ぐに見据えて声を上げた。
「宋江、君はあの男を殺して平気でいられるのか? ちょっと頭に来る相手だからという程度で罪悪感が簡単に拭い去れるほど、君が器用な性格をしているとは私には思えない。ましてや、君はあの男の縁者の顔も知っているのだろう。君のように相手が賊でも敵を殺せない兵士というのは一定数いるものなのだ。そうした者たちもいずれ慣れていくが……それには相応の時間と場数が必要になる。君がそれをできないのは何もおかしいことではないのだ」
林冲がそう話を結ぶとしばらく宋江は沈黙したまま答えを出さなかった。林冲も楊志も魯智深も静かに彼の答えを待った。
「……そう、ですね。林冲さんのおっしゃられるとおりだと思います」
やがて宋江は静かに自分の弱さを認めた。だが同時に宋江は顔をあげると林冲の視線に答えるようにまっすぐに彼女の瞳をみあげた。
「それでも、これは僕がやらなければいけないことだと思っています」
宋江と劉高が互いに決して軽くない負傷を受けてからというもの、秦明は何か奇妙な感覚を目の前の光景に抱いていた。秦明の位置からはちょうど相対する宋江と劉高の横顔が見える。二人は武器を構えて互いの敵をじっと見据えていた。だが、劉高のそれは受けたダメージのせいもあっていささか頼りなげなものである一方、宋江の構えは危なげなく、安定した様子だ。なんとか、体力を回復させようと荒く息を吐いている劉高に上着を脱いで脇腹に巻きつけた宋江が構えを保持したまま、じりじりと近づいている。
夏の炎天下の下で、二人の男はじっとりと血と汗を流していた。群衆も二人の男を包む奇妙な雰囲気に押されてざわめきはあっても喚声をあげるものはいない。これが観劇であれば動きの少なさに野次の一つでもあがったろうが。
秦明もまた群衆とはいささか異なる理由ではあったが、沈黙を保っていた。それは最初に楊志から強く言われたことだった。厳密には自分たちの味方と思われるような言動をしないでほしい、と要請を受けていた。というのも、この作戦で楊志達が失敗するにしろ、成功するにしろ、この事は秦明の意思とは無関係に行われている、という言い訳を用意しておくことは必須だった。宋江達が失敗すれば秦明もただでも済まないし、成功しても秦明の意思が関わっているとわかれば、秦明が元の生活に戻るのは不可能になる。それは宋江も望まないことだ。
ちなみに、一応その原理からいくと劉高を応援する事は問題ないが、秦明は進んでそんなことをしたいとは微塵も思わない。
(でも、本当にそんなことに意味があるのかしら?)
無関係を装うとは言っても自分が宋江の事を全く知らないと抗弁するのは無茶というものだ。確かに自分はこんなことを宋江がしでかすとは思っていなかったからこの計画と自分は無関係というのは一応事実だ。ただ、この事件を終えた後でその説明に納得する関係者がどれほどいるか秦明は疑問だった。その辺りは黄信もいろいろと動いているらしいが、限度があるだろう。
そして本音を言えば秦明はこの作戦に多少の不満を抱いていた。なんだか自分だけが安全な場所にいて宋江や魯智深ばかりが苦労しているというのは特別扱いされているようでひどく落ち着かない。
「ねえ……」
と、そんな理屈を開陳しようと秦明は隣にいる楊志に声をかけ、驚愕のあまり、目を丸くした。楊志はじっと食い入るように宋江の様子を見ている。それだけならまだがいいが、問題は楊志の右手だった。ちょうど楊志の右手首を左手が抑えるようなしぐさをしていたがその左手がよほど強く握られているらしく、楊志の右手は変色しかかるほどにうっ血していた。
「ちょ、ちょっとあなた……!」
慌てた秦明に手を握られて、ようやく楊志は秦明から話かけられていることに気付いたらしい。
「な……なに?」
「なに? じゃないわよ。どうしたのよ、これ」
小声で秦明は楊志によびかけると右手にかけられた指を一本一本外していく。そこで秦明は楊志の手が小さく震えていることに気付いた。
「……ご、ごめんなさい。驚かせてしまって。でも、こうでもしてないとなんだか宋江の邪魔をしてしまいそうなのよ」
伏し目がちに視線を落として楊志はそう答えた。
考えてみれば宋江の事を誰よりも深く思っているだろう彼女がこの出来事を平然と見ていられるはずが無かったのだ。戦いが始まってから、いやおそらくは宋江が戦うと決めてからずっと、彼女は自分の心を押さえつけてきたのだろう。何せ、彼女がその気になれば、容易く劉高を屠る事はできるのだから。それをあえて禁じて宋江が傷つくままを眺めているというのはある意味彼女にとっては自分が傷つけられる以上に、つらいことなのかもしれない。
「だからと言って、やり方があるでしょう!?」
軽く叱責するように秦明はそう叫ぶ。それに対して楊志は顔を伏したままぽつりと口を開いた。
「……あのね、秦明さん。宋江をあの場所に焚き付けてしまったのは私なのよ」
「え?」
「最初、宋江はこの街を出ようって言ってた。けれど、そう決めたときの宋江は本当につらそうだった。だから私はそんな宋江を見ていられなくて思わず背中を押してしまったけど……でもあの時、宋江の言うとおりにしていれば、少なくとも宋江は今ほどには傷つかなかったし、苦しまなかった。もう何を言っても言い訳にしかならないけど、私は宋江にこんなことをさせるつもりはなかったのよ。彼が決断さえすればそれでいいはずだった。そしたら林冲や魯智深や私が実際に動いたでしょう。でも彼は私の想像を越えて大きく踏み出してしまった」
その楊志の言葉は秦明への説明というよりも後悔と悲嘆が無い混ぜになった独白に近いものだった。それが証拠に彼女はこちらを見ていない。宋江の様子をじっと見たままだった。
「少しね、わかった気がする。宋江は多分、普通よりもずっとずっと目の前の人の苦しみや痛みを強く感じてしまうの。まるで自分が苦しんでいるかのように。度を超えて共感能力が高いといえばいいのかしら。だから敵のはずの私も、自分を手酷くあつかった劉高も見捨てることができなかった。だってそうでしょう。どんな立場でもどんなに嫌な奴でも殴られれば痛いし、死ぬのが嫌なのは一緒なんだもの」
その楊志の言葉はまるで彼女が泣いているのではないかと錯覚するほどに、哀切に満ちていた。
「宋江があなたに差し出した手を断られた日、宋江はとてもつらそうにしていた。今にして思えば、あれはあなたの悲しみや苦しみを宋江は感じ取ってしまっていたのね。厄介でひどい性分だと思うわ。自分だけではだめなのよ。あの人は周りの人が苦しんでいたら、幸せになれないの。そしてそこには相手が悪人だとか、敵だとかそういう区別は無いのよ」
秦明はその言葉に思わず視線を楊志から宋江に転じた。そして初めて先ほどから抱いていた奇妙な感覚の正体を唐突に悟った。
それは宋江の動きだ。劉高はすでにふらふらで宋江が攻めれば簡単に、とまでは言わないまでもそれほど労せずとも叩きのめすことができるだろう。だというのになぜ、それをやらない? それは宋江が劉高を殺すことを避けたいと思っているからだ。そしてその一方で、彼はそうなることをどこかで覚悟している。その彼の迷う心の状態がそのまま彼の動きに出ていた。
「駄目よ、それは駄目……」
我知らず、秦明はつぶやいてた。劉高がどうなろうが秦明はかまわない。だが宋江が下手人となるのはだめだ。
仮にここで劉高が死んだら元達は決して宋江を許さないだろう。そうなれば彼女はこの青州の軍勢全てを宋江に差し向ける。そうなったとき、宋江は果たして逃げ切れるだろうか。逃げ切れたとしても、彼の手配は全国に回る。宋江は一生、誰かに追い回されながら生きていかなければいけない。何より楊志の言うことは秦明にとってもうなずけることだ。宋江は目の前で起こる他人の苦しみを他人の事だからとあっさり切り捨てられるような性格をしていない。この場で劉高を殴り殺して宋江は平然としていられるのか? 仮に元達がここにやってきて泣きながら息子の遺体に覆いかぶさったとき、その光景から視線をそむけるだけであっさりと別の方向を向いて進めるか? 無理だ。宋江にはそんなことはできない。
「あなたは、あなたは、いいの!? それで……」
思わず秦明は叫んだ。近くにいる何人かがこちらを見るが気にしてなどいられない。
こちらの疑問、というよりは糾弾に近いその問いに楊志は相変わらず宋江を見据えたまま、静かに答えた。
「……宋江はね、少し前に人を殺してしまったことがあるの。ほとんど事故のようなものだったらしいけど……」
その情報に秦明は思わず目を丸くした。宋江が? あの犬一匹殺せそうにない彼が?
「宋江はそれを敵だからとか、仕方がないであっさりと片づけられる人間ではないわ。彼は何日も何日も苦しんでいた。そして今、それを承知の上で宋江はまた同じことをしようとしている」
そこまで言って、楊志は秦明に氷のように冷たく、炎のように熱い目を秦明に向けた。
「良いかですって? 良くはないに決まってるわ。良いはずあるわけないじゃない! でもね、これは宋江が決意したことなの。人一倍優しくて、たとえ敵であっても冷酷になれない宋江が、悩んだ末に決めたことなの。人を殺すことの苦しみを誰よりも知っている宋江が、それを乗り越えて出した結論なのよ」
楊志は静かなまま、しかし確固たる響きをもってそう言った。だがそれでもなお、秦明を首を横にふった。
「だめ、だめよ、無理。私はあなたのように強くなれない。そこまで彼の意思を尊重することなんてできない。ましてや宋江くんは私の事でこうなってしまっているというのに……」
その言葉に楊志の目からふっと力が抜けた。
「……そうね、私も秦明さんの立場だったらきっと同じように言ったと思う」
意外な事に楊志はあっさりと秦明の主張を認めた。おそらく彼女も結論は違えど今の自分と同じような悩みや苦しみを感じたのかもしれない。
明言はしなかったが秦明にはそれが楊志が宋江を止めてほしいと願っているようにも聞こえた。半ばそれは自分自身の勝手な解釈であるかもしれない、そうしたいと願った自分が楊志の言葉を曲解しているのかもしれない。だがいずれにせよ、秦明はもう黙って待っていることなどできはしなかった。
この場で最も簡単なのは自分が乱入してさっさと劉高を殴り倒してしまうことだ。しかしそれでは宋江や楊志のの努力や悩みは全くの無駄になる。初めからさっさとそうすればよかったのだから。
(考えなさい、秦明! 要は直接的に手を出さずにこの勝負を終わらせる方法を考えるのよ、それも宋江くんの勝利で……!)
秦明はそう自分を奮い立たせてあたりの状況を眺め……ふと、とても簡単で素敵でこの場の状況にぴったりの方法があることに気づいた。