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水娘伝(すいこでん)  作者: 文太
第四話 騒乱編
67/110

その二十二 宋江、一撃を加えるのこと

 元達(げんたつ)は花嫁である秦明(しんめい)を迎える準備を済ませた我が家を点検して回りながら、今回の結婚についてもう一度思いを馳せた。


 正直に言ってしまうと秦明が劉高(りゅうこう)と結婚することに元達はあまり乗り気になれなかった。


 それは秦明が嫌いだからではない。むしろ、逆だ。元達は部下としては秦明のことを非常に気に入っていた。そして、それゆえに息子の嫁には相応しく無いと考えていた。


 当然のことながら元達にも夫が居た。だが家庭関係はあまり良好なものとは言いがたかった。元々、色んな事情と打算があって結婚したものだったし、当時、出世という野望に燃えていた元達には夫も子供もわずらわしいものとしか映らず、家庭を省みることはなかった。


 しかし、その甲斐あって、元達は女性としては異例なほどの出世を遂げた。競争相手を出し抜き、上司を飛び越えた。しかしある時、彼女の出世物語は何の前触れも無く終わりを告げた。


 原因は派閥争いだった。この国の官僚はその思想的立場から大きく二つに分かれた争いを続けており、官僚である以上、元達もまた無関係ではいられなかった。彼女の属する派閥は政争に負け、しかももう一方の派閥は女性の登用には消極的だった。そして都に居た彼女はこの青州(せいしゅう)への移動を命じられた。厳密には移動するか、辞職するかという決断を迫られた。


 夫は当然のことながら青州に移ることに反対した。彼にも都での生活があり、仕事があった。しかし、元達には今更仕事をやめることなど考えられなかったし、それ以上に自分を追い落とした連中と同じ町にいることは苦痛でしかなかった。


 話し合いの結果、事実上の離婚となった。まだ籍は入れているが、今頃夫は新しい女を囲っているだろう。それについては何も言う気にならないし、言う資格があるとも思っていない。


 劉高をこの町に連れてきたのはほとんど自分の我侭だった。あまり省みていなかったが、それでもお腹を痛めて産んだ子供を夫に任せてしまうのは、何かひどく負けた気分になったからだ。だが、結果的には連れて来て良かったと思っている。都では子供の間でも親の関係が直接的に影響しており、たまたま自分の派閥の上層部の孫たちと同世代となっていた劉高はあまりいい思いをしていなかったようだ。


 自分はそんなことにも気づかずに塾に行きたく無いと泣く息子を引っ叩いて追い出すように行かせていた。ひどい母親だったと思う。


 だから、この町についてそういう過去のしがらみが亡くなった劉高は驚くほど明るくなった。そして軍人になりたいという夢を持ち、努力してきた。


 親として息子のことには極力協力してあげたかった。それが過去、家庭や息子の事をまったく顧みなかった贖罪である事は自覚していたが、純粋に息子に何かしてあげたいと思っていたのも事実だった。


 そしてそんな自分に秦明は良く似ている。よく言えば自立している、悪く言えば夫がいなくても平気な種類の人間だ。


 元達が秦明の結婚に口を出す一方で息子をその相手として挙げなかったのは両者が性格的に合わないと思っていたからだ。息子の妻はもっとおしとやかな、自分と真逆の性格の人間がいい。奥ゆかしいというか、外で疲れた彼を助けてくれるような、そういう昔ながらの女の方が望ましいと思っていた。


 だから劉高が総兵管(そうへいかん)になることが内定したと同時に、秦明との結婚について言ってきた時は大いに驚いた。正直、心配だったし、当初は反対もしたのだが、息子がどうしてもと言うので元達は結婚を認めることにした。


宋江(そうこう)くんが無事戻ってきて、外で(こう)の仕事を手伝ってくれれば、いいのだけど)


 劉高は軍内部であまり味方が居ない。息子が頼み込むので秦明に無理を言って、総兵管にまで押し上げたが、正直、元達は息子には荷が重いのではないかと感じている。だが、きっと秦明だって息子には協力してくれるだろうし、それに加えて秦明が推挙したという形で宋江が来てくれたのなら、それでもなんとかなるのではないかと元達は淡い希望を抱いていた。


(ちょっと得体の知れないところがあるけれど……)


 数日前に彼と一度だけ話をしたが、彼の経歴はほとんど嘘だろう。彼は滑稽な程に嘘をつくのが下手だ。しかし、それとわかっていながら、元達があえてその事に踏み込まなかったのは彼が滄州(そうしゅう)柴進(さいしん)の元で働いていたからと言ったからだ。


 面識は無いが名前は良く知られている。かつてこの国が作られる前の皇帝の一族の末裔、柴進。


 あのように名前を出したということは、たとえ身分の照会が柴進のところに行っても、彼女が宋江の身分を保証してくれる、という確信があったからだろう。つまり、何者かは知らないが、宋江は柴進の信用をそれなりに得ている人間なのだ。ならば、それだけで十分である。柴進とのつてなど正直、息子の事を別にしても元達にはほしいものだった。大地主である彼女が治めてる一帯は一種の治外法権でそこからあがる収益にかませてもらえれば莫大な財を築くことができる。


 惜しむらくは、宋江もまた劉高と反りがあわなかったことだ。それも決定的に。おそらく、二竜山(にりゅうざん)で二人の間に何かあったのだろう、と元達は思っている。宋江の嘘はわかりやすいので逆に言えば、彼の情報で本当だという部分もわかってしまうのだ。


(二竜山の山賊に捕らえられていたのは本当。その間に罪を犯していないのも本当。火事の時に逃げ出したのも本当。でも、そのときに高に捕まったのは嘘)


 それが元達の分析結果である。つまり、宋江と劉高は単に捕まった・捕まえられたという間柄ではなく、もっと別の関係があったのだろう。


(宋江くんはあの時、それを意図的に隠した。多分、(こう)にも宋江くんにも何か、隠すことがあるのね。宋江くんは高が何か言うなら自分もそれを暴露するつもりだとあの時、言外に高を脅したんでしょう)


彼はあの時、こちらに向かって弁解をしながらも、ちらりと一瞬、鋭い視線を劉高に送る仕草を見せていた。あれは明らかに脅迫の視線だった。


 得体の知れないところがあるのは事実だ。しかし、同時に彼の持つ能力や人脈はそれに目をつぶってもおつりが来るほどのものだと元達は評価している。正直、息子が部下になるのを拒否したとしても何らかの形で手元においておきたいほどに。


(……っと、そこまで考えるのは気が早すぎるわね。まずは今日の婚礼をしっかり終わらせないと……)


と、元達が意識を遠い未来から目の前の出来事に持ってきたとき、


「奥様っ!」


慌てた様子で若い女中が駆け込んできた。


「どうしたの?」


「大変ですっ! あの、花嫁さんの行列が山賊の集団に襲われて、劉高様が一人奮戦してるらしいんです!」


「ちょ、ちょっと、ちょっと、落ち着きなさい。なんですって?」


これがどこか別の町から向かってくる花嫁というならわかるが町の中を移動しているだけの花嫁行列を山賊が強襲するなど、普通に考えてありえない。


「ですから山賊ですっ! 今、近所の方が大慌てで教えてくれて……」


往々にしてこうしたできごとは尾ひれがつきやすいことを元達は知っていた。が、何にせよ、秦明と劉高がこちらに来る途中でなんらかの問題が発生したのは事実のようだ。


「ど、どうしたらよろしいでしょうか!」


「落ち着きなさい。まず、馬を用意して。それと屋敷にいる兵をかき集めなさい。私も直接現場へ出向きますから」


「は、はい!」


元達は若い女中が命令を理解して走り出したのを見ると、深呼吸をし、気持ちを落ち着けた。


 町の中で山賊が出るはずも無い。だが、火のないところに煙は立たない。一体、何が起こっているのか、元達は頭の中で推論を並べ始めた。








(さて……大見得は切ってみたものの、いささか辛いな……)


こちらに向かって駆けてくる騎馬を見つめながら林冲(りんちゅう)は心のうちでつぶやいた。


 騎兵と歩兵が一対一で戦ったらどうなるか。戦いに絶対など無いし、状況次第でいくらでも変わるが、普通に考えれば騎兵がはるかに有利だ。馬というのはそれ自体が凶暴な武器である。まず人とは体重差が段違いだ。女性としては長身な林冲の体重を多めに見積もって60キロとしても、馬の体重はどんなに小さくとも300キロはある。これが人よりも遥かに早い速度で突っ込んでくるのだ。体重と速度だけで考えると、小学生とアメフト選手が戦うようなものである。


 おまけに林冲の相手は弓までもっている。射程範囲の差は歴然だ。それでも並みの相手であれば林冲は互角以上に戦う自信があるが相手は見るからにただものではない。


(しかし、弱音は吐いていられんな)


恐ろしいほど正確に林冲の足元めがけて飛んでくる一本目の矢を叩き落としながら林冲は己を鼓舞した。例え相手が何者であったとしても、林冲は宋江にこの場を任された戦士なのだ。彼女にはそれに応え、使命を遂行する義務があった。


「ふっ!」


一息吐くと、林冲は相手に向かって走り出した。見たところよほど急いで出てきたのか、弓以外の武装は帯びてない。近づけば勝機があると林冲は見ていた。


 それに対して相手は矢筒から矢を取り出すと第二射、第三射と素早く撃つ。


(早い!?)


その一連の流れには狙いをつけるという動作が全く含まれていないように見えた。相対している林冲ですら、一瞬だけ自分に向けられた鋭い視線がなければ、相手がでたらめに撃ったと思っていたろう。だが実際にはその二本の矢は林冲の肩とももを正確に狙ってきている。


 その早業に林冲は自分が勘違いしたことを思い知らされた。相手が弓しか持っていないのは別に慌ててたからでもなんでもない。それだけで十分だからだ。


「だからと言って!」


林冲もその矢を棒で二つとも弾き落とした。ここで初めて相手が驚いたように目を丸くする。


(もう矢は持っていない!)


矢を放つには当たり前だが、矢筒から矢を取り出すという動作が必要不可欠だ。今の二連射は予め抜いておいた二本の矢があったからこそできた芸当でそれを失えば、相手に攻撃の手段はない。林冲は馬と交差するように横にそれると、馬上にいるだろう相手に棒を付き出した。


「ハアッ!!」


だが繰り出されたその先は空を切った。疑問に思う間もなく、不意に視界が陰る。上だ。


(飛んだ!?)


馬に騎乗したまま、上空に飛び上がるとはなんという馬術の腕前か。内心で舌を巻きながら林冲は相手を確かめるため、というより、ほとんどつられるようにして頭上を見上げる。


 そして林冲は自分が驚くのはまだまだ早かった事を悟った。更に驚くべきことに飛んでいる最中に矢筒から矢を抜き出した相手はそのまま、宙返りをしながら林冲に狙いをつけていた。その曲芸のような美しさに林冲は一瞬見惚れた。


 だがそれも一瞬のこと。相手の攻撃の意思を確認した林冲は思考するより早く、体を動かす。正直言ってこの時の動きは全くのデタラメだった。しかし、矢が飛んでから避けるのでは間に合わない。当然、矢がどこに飛んでくるかなどわかるはずもないので、この時、矢が林冲に当たらずその横をかすめただけで済んだのは全くの幸運だった。


「うそっ!?」


(ああ、私もそう思う)


驚愕の声を上げる相手に心中で笑いながら同意した林冲は背をひねりながら反らしていた体の勢いに逆らわず、ブリッジをするように両手で地面をつくと足をふりあげた。そのまま両手でだけ全身を跳ね上げさせると、つま先が相手の腹部に当たる。


「ぐえっ!」


 相手は潰れたカエルのような声を出したが、その割に大した怪我も無いようで少し後方に飛びながらも、難なく着地してみせた。だが、林冲はその機を逃さない。相手が弓をつがえる前に林冲は手に持った棒でその手を地面に押さえつけていた。遠くで相手の乗っていた馬がどうすればいいのか不安そうにこちらを見ている。


「素晴らしいな」


と林冲は素直に賞賛の声を上げた。


「いやいや、おねーさんこそ。そんな腕があるなら、劉高なんかの用心棒になってるの勿体なくない? 字読める? うちの兵士にならない?」


まさかここで就職の斡旋を受けると思っていなかった林冲はしばし呆けたが、ややあって咳払いをすると律儀に答えた。


「私は劉高の用心棒ではない。ついでに言えば兵士になるのも御免こうむる」


「あれ、違うの? 確かに町でもあんま見たこと無い顔だなーとは思ってたけど」


「一度ひどい目に合わされてから上司は慎重に選ぶようにしててな。悪いがあんな奴の下など死んでも御免だ。それに今の上司は気に入ってるのでな」


林冲がそう言うと、相手は何故か大笑いした。


「あはははは、そうだよね、うんうん、確かに上司は大切だよね、おねーさん。ん? ということはあなたが町に出たっていう二竜山(にりゅうざん)の山賊? だいぶ想像してたのと違うね」


林冲はどう答えるべきか少し考えた後、答えをはぐらかすという手段に出ることにした。


「その前に答えてもらおう。お前は青州の兵士だろう。お前こそ、劉高の助太刀に来たのではないのか?」


「あ、ひょっとして、あたしったら必要もないのに無駄に頑張っちゃった? やだねー。ねえ、落ち着いて話したいし、この棒どけてくれない?」


相手は笑いながら地面に縫い付けるように押さえたこちらの棒をさしてくる。


「それは断る」


が、林冲は即答した。


「あら、とりつくしまもない」


「弓を持ったお前を野放しにして無事でいられると思うほど、自惚れることはできないのでな」


冗談めかして林冲は答えた。すると相手も苦笑して握っていた弓を手放す。林冲はそれを蹴飛ばしてからようやく、相手を開放した。彼女はぽんぽんと軽く膝についた土を払いながら話し始める。


「あのね、あたし、町に出たっていう二竜山の山賊に会いたくて来たんだ」


「……何のために?」


「さっきおねーさんも言ってたじゃん。上司って重要だねって。今度、あたしの上司が劉高……のことは知ってるんだよね、あいつになっちゃうんだけど、その手柄となっているあいつの二竜山の山賊退治、これがどーにも納得できなくてさ」


「納得できない、とはつまり……」


「そ。あいつにそんなことができるはずないってこと」


肩をすくめてその小柄な桃色の髪の女性は答える。


「だからさ、町に二竜山の山賊が出たっていうから、そいつらをひっ捕まえれば面白いこと聞けると思ったんだよ。んで来てみたら明らかに用心棒! ってかんじのあんたがいるから、これは当たりだ! と思ったんだけどね……」


林冲はそんな彼女の様子を見て嘘は言っていないようだと判断した。


「……そういえば名前は?」


花栄(かえい)。こう見えてもこの青州の歩兵都管(ほへいとかん)だよ」


「ああ、君が……」


「知ってるの?」


「まあな」


直接面識はないが一度、秦明から名前は聞いたことがあった。


(これは……仲間に引き入れたほうがいいんじゃないか?)


今の攻防から見ても彼女を敵にまわすのは厄介極まりない。話を聞いた限りでは協力できる余地があることも考えると林冲はその方が得策だと判断した。


「……なるほどな。良いだろう。あいつが二竜山で何をしていたかは教えよう。私と君とは微妙に目的は異なるが、それで君の目標は達成できるはずだ」


「え、本当?」


「ああ、そもそもだが……」


林冲はどこまで話すべきか慎重に考えながら口を開いた。








 宋江は弾む息を整えながら劉高と対峙していた。

 既に劉高との間で十回近く、短い攻防のやりとりを断続的に続けている。そのどれもがお互いに決定的なダメージを与えられていなかった。


 しかし、今までこんな修羅場の経験の少ない宋江にとっては劉高の持つ刃物の前に立っているだけで相当なプレッシャーだった。包丁やハサミであっても誰だって自分に対し悪意をもって突きつけられれば、平静ではいるのは難しいだろう。ましてや、今宋江が対峙しているのは槍。人を殺すために作られた道具だ。


 長期戦は不利だ。それは黄信(こうしん)が時間を稼いでいるものの、いずれ兵が大勢やってくるというだけでなく、長引けば自分の精神力がもたない。それを宋江は誰より自覚していた。


 さらに言うなら、相手は自分より遥かにこういう場になれており、技量も体格も上の人物だ。変な動きをすれば自分はあっさりと負ける。宋江は自分にそう言い聞かせると慎重に劉高の様子を視界に入れた。


 救いは劉高が待てばいずれ兵が来るというのを相手もわかっていることから、積極的に攻勢に出てこようとはしない事だった。もし、劉高が一気呵成に攻め立てていたらとてもこんな状況では済まされなかったろう。


「りゃっ!!」


(!?)


だが劉高はここで初めて彼の側から攻勢に出た。鈍く光る槍の穂先を突き出す。宋江はそれを思いっきり後ろに飛ぶことで避けた。しかし、これは本来悪手だ。劉高がそのまま進んで二撃目、三撃目と放ってくれば、いずれ串刺しにされる。だが幸運にも劉高は二撃目を放ってこず、その場で止まった。


(まずい……)


劉高の動きがだんだんと手強くなってきている。当初はいきなり戦いに巻き込まれた驚きや困惑、そして宋江の力をおそらく侮ったことによって受けたダメージが劉高の動きを鈍くさせていた。


 だがそうした劉高にとっての悪条件は時間が経つに従って、次第にクリアされてきてしまっている。こうなってくると二人の間に隠れていた地力の差が明確になりつつあった。この国の最高峰の武人の一人に習ったと言っても宋江のそれは数日で身につけたにわか仕込みのものだ。兵士としてそれなりに戦場を歩き、訓練してきた劉高とはやはりまだ差があるのだろう。それが証拠に逆に宋江はそんな劉高とは逆に徐々に自分の動きが次第に鈍くなっていくのを自覚していた。


「らぁっ!」


流れを引き寄せたというやつかもしれない。勢いに載った劉高はそのまま槍を横に振る。宋江がそれをがっと受け止めると相手は槍をもったまま一気に間合いを詰めてきた。


(っ!?)


宋江の頭に混乱が生まれる。林冲との訓練では想定していなかった事態だ。後から思い返してみると林冲の戦い方は綺麗すぎたのだろう。


「くらえっ!」


結果として密着した状態から劉高が放ってきた膝蹴りを宋江は腹にまともにくらってしまった。肺から空気が無理やり押し出され、視界が一瞬ブラックアウトする。


 劉高の攻撃は終わらなかった。宋江の力が抜けたことを察すると彼は槍の柄を宋江の顔に思いっきりぶつけてくる。膝蹴りほどクリーンヒットとはいかなかったものの、頬にあたった一撃で宋江の視界は揺れた。


「ぐう……」


「死ねやぁっ!!」


たまらず後退した宋江に劉高が鋭く刺突を繰り出してくる。宋江はとっさに横に飛んだ。


「おおっ!!」


そしてそのまま、ぐるりと体を回転させる。劉高の必殺の意思を込めて放たれた一撃はこちらにとっても好機になった。伸びきった劉高の体はすぐには動かない。体を回転させた宋江の目の前に劉高の無警戒な後頭部がさらされる。宋江が棒を振る直前になって慌てたように劉高がこちらを振り向こうとするが、間に合わない。


「ぎゃっ!」


結果として宋江の振った棒は劉高の側頭部にあたり、劉高は二三歩、後ろによろめいた。そこで宋江はふぅっと息を吐く。


「宋江! 腹!」


ふと、そこで魯智深(ろちしん)に呼びかけられ、宋江はようやく脇腹から血が出ているのに気づいた。どうも先ほどの突きをよけ損ねたらしい。臓器が傷つくほど深いものではないが、出血は結構なものだ。自分の着ている麻の衣服は破かれそこを中心に赤い染みがじわりと広がってくる。


「もう、無理よ!」


そう言って出てこようとする魯智深を宋江は手で制した。まだやれる。劉高に体を向けたまま、手と視線だけでそう意思表示をすると、魯智深はしばし迷ったようだったが、結局それ以上は何も言うことなく後ろへ一歩下がった。


「う、ぐう、う、うう……」


劉高はまだ動くことなく、顔を抑えて呻いている。しばらく、そのまま劉高が動かないことを見て取ると、宋江は上着を素早く脱いでそれを血の出ているあたりに適当にまきつけた。裸になった上半身に風があたり、少し心地よさを感じる。


(思ったほど痛くない……)


じわじわと赤く染まる自分の上着を見ながら宋江はそんなことを思った。


(林冲さんとの特訓が役に立ってるのかな)


一度、林冲に一日中叩きのめされるという訓練をされたことがあった。林冲は多少傷を受けても平静を保っていられる訓練と言っていたが、それが今になって生きてきたようだ。林冲の一撃に比べれば今の一撃などなんでもない。


「ぐ、あ、あ、い、痛え、やりや、がったなああああ!! てめえ!」


そこでようやく憎悪と憤怒に染まった劉高が吠えた。涙を流しながら、鼻水をたらしながら、しかし戦意だけは失っていないようだった。側頭部にあたったと思ったこちらの攻撃はどうやら劉高の頭の皮膚を切ったらしく、だらだらと凄惨に血を流している。その迫力に宋江の周りの群衆が少しおののくように後ろに下がった。


 だが正直な話、宋江は猛り狂う劉高の様子にひるむよりもむしろ哀れみを感じてしまった。それ以上にこのまま戦いが続けば、彼の命を奪うことにもなりかねない。あくまで劉高の口から秦明との婚約破棄を口にさせたい宋江としてはそれは本意ではない。


「劉高。もう降参したら? 秦明さんのことさえ手放せば僕はもう君の命まで奪おうとは思わないから」


今までは均衡を保っていた勝負の行方は今の攻防の結果で宋江のほうが大分有利になったと見ていい。宋江が浅く腹を切っただけなのに対し、劉高は頭に深刻なダメージを負っている。血で視界が充分でないことも考えれば、このまま順当にいけば宋江が勝つだろう。おまけに見るからに劉高は冷静さを失っていた。戦場にいたことはあってもあんな怪我をしたことはどうも彼の経験に無いようだった。


「ふざけんなああああ!! んなこと、できっかよ!!」


だが、劉高はさらに激高してそう告げてきた。


「そう……残念だよ、とても」


本意ではない。しかし今は手段を選んでいられるほど、安易な状況でもなかった。宋江は覚悟を決めると改めて棒を構えた。


「実はね、ちょっと後悔しているんだ。君のことだからもっと早々に降参すると思ってたから」


息を整え、心を凍らす。余計な思考を頭から追い出す。


「でもそう言うならひどく気は進まないけど……続けようか。例え、どんな結末になったとしても」


例え再び人を殺すことになっても。宋江は心中でぽつりとそう付け加えた。

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