その二十一 林冲、戦い方を伝授するのこと
「人体には急所というものがある」
作戦の大枠を決めた翌日から林冲の指導は始まった。朝日を半身に受けながら彼女はゆっくりと語り出す。傍らでは楊志が心配そうな目でこちらに視線を送っていた。
「上から脳天、目、こめかみ、人中、首、水月、それから男なら金的、主な部分で言うとざっとこんなところだ」
凛とした女性の林冲の口から金的という言葉が出ることに少し違和感を抱きながら宋江は頷く。ちなみに人中とは鼻と口の間にある溝のような部分をさす。
「勝負というのは突き詰めれば、この急所と呼ばれる部分をどちらがより早く攻撃できるか、という一点に尽きる。特に一対一の時は、だ」
「はい」
「これは相手が誰であっても変らない。その辺のごろつきから武術の達人まで全て急所に一撃が当たればそれまでだ。気功使いには若干例外も居るが、まあ似たようなものだ」
「達人でも……ですか?」
宋江が脳裏に晁蓋の姿を描いて問い返した。晁蓋が水月だろうがなんだろうが、どこかに一撃受けただけで戦闘不能になるというのはひどく想像しづらい光景だった。無論、数日後に対峙する劉高は晁蓋なんかよりずっと弱い相手だが今の時点でそんなことを心配する必要はないのだが。
宋江の問いに林冲は軽くうなずいた。
「達人であっても、だ。彼らがそう呼ばれるのはこの急所を容易に攻撃させてくれないからであって、決して急所を攻撃しても大丈夫だからではない。だからこそ急所と呼ばれている」
林冲はそこで一度咳払いをした。
「話がそれたな。ゆえに戦闘における技術は二つに大別される。この急所を攻撃するためのものとその攻撃を防ぐためのものだ。例外は無い。というかそれ以外の技術は戦闘においては不要だ」
「はい」
「そして君にはそのうち、後者、つまり攻撃を防ぐ手段をまず学んでもらおう」
「え、そうなんですか?」
「意外か?」
「まあ、攻撃は最大の防御と言いますし……」
野球だってどんなに投手が優秀でもヒットを打って点を取らなければ勝てない。
「今回、君が最も重視すべきは勝つことじゃない。生き残ることだ。それに攻撃の手段は狙ったところを叩くだけだから最悪、練習しなくともなんとかなるが、防御はそういうわけにはいかない。知識と技術と経験が必要になる。だからそちらを優先する。いいな」
林冲の確認に宋江は無言で頷いた。
「うむ。ではまず適当に構えてみたまえ」
「……適当でいいんですか?」
「それが一番君の自然体に近いはずだからな。構えは疲れない方がいい」
宋江は少し迷った末に腰を落として、棒を水平に構えた。
「そうだな、もっと私に対して、半身になったほうがいい。そのままだと、さっき言った急所が良く見えてしまう。ああ、足は開き過ぎるな。股間が狙われやすい。腰はあまり落とすな、動くのに不自由だからな。棒は先端をもう少し上にもちあげろ。それと、腋はしめる」
まず最初に林冲はそうやって細かに指摘していく。そしてそれが終わると林冲自身も棒を構えた。
「では今から君に攻撃する。攻撃を防ぐのに失敗したらその時点でどこが悪かったのかを一つ一つ指摘していこう」
「わ、わかりました」
「心配するな。ゆっくりとやる。とは言え、いずれ君が対応できる速度まであげていくがな。無論、そちらは普通に動いていいぞ」
林冲の攻撃は宣言どおり、ゆっくりとしたものだった。いつだったかテレビで見た太極拳のような速度である。
まずは横なぎ。宋江はそれを上体を後ろに引いてかわす。ところが林冲は棒を振り切ること無く、途中でその速度を殺し、棒を腰だめに構えるとそのまま一直線に突き出した。宋江は慌てて自分の棒で跳ね上げようとする。が、逆にそれを察した林冲によって棒をぐいっと下に叩き落されてしまった。
「あ……」
そのまま動けずに居た宋江に林冲はすっと棒を持ち上げ、そっと触れるように宋江の喉にふれた。無論、林冲が本気だったら良くて呼吸困難、悪くすれば死んでいる。
林冲はそこで棒をすっと引くと話し始めた
「宋江。当たり前だが、下から弾き飛ばすよりも上から弾き落とす方がはるかに楽だ。川の水は高いところから低いところに流れていくだろう。力も一緒だ」
言われてみれば確かにそのとおりだ。そのほうが重力を味方につけられるのだから、遥かに容易い。
「だが君は最初に私の横なぎをかわすために上体をそらした時、棒の先を下げてしまった。まあ、私もそういうつもりで振ったのだがな。だが、そのままの角度でいれば私の棒を逆に弾き落とせただろう。つまり君は最初の横なぎの時点でもっと後ろに素早く引くか、棒自体を縦にして引いておけばよかったのだ」
「な、なるほど」
「それからもう一つ、君は私の棒しか見ていなかったろう。武器だけを見ることなく、敵の全身を目に入れておけ。もし君が私の足を見ていたら私の最初の一撃が不自然なことに気づけただろう」
「え? 足ですか?」
「そうだ、もう一度やってみようか」
林冲はそう言うともう一度先ほどと同じ体勢をとった。
「あ」
「気づいたか?」
林冲の棒は左から振られていたが、そのくせに左足が前に出ている。左足が前に出ている、ということは奥から棒を移動させようとした時に左からの動きが小さくなることを示す。
「そうだ。本当に振り切るつもりなら右足を前に出してなくては不自然だ。そうでないと振り回した時に腰の回転が使えないからな」
右、左と林冲は棒を振ると再び宋江に向き直った。
「さあ、時間は有限だ。早く棒をとってもう一度構えたまえ。言っておくがあまりにひどいようなら当日は縄でふんじばってでも君をここにおいていくからな」
「りょ、了解しました!」
その林冲の言葉に宋江は慌てて棒を拾うと持ち直した。
「宋江、さっき言ったことを思い出せ、そのままでは急所が丸見えだ」
そしてすぐに林冲の指摘が飛んだ。
劉高はまずじっと宋江の様子を観察した。不用意に飛び込むことはしない。ここまで手の込んだしかけをして待っていた以上、相手は少なくとも、この状況に追い込めば自分に勝てると思っているほどには自信があるはずなのだ。それに自分には勝負を急ぐ理由は何一つない。時間をかければ、そのうち誰かが城の兵士を呼んでくるはずだ。ならば、自分はそれまで守勢に回っていればいい。
しかし、相手もそんなことは承知のようでじっと構えるこちらに対し、向こうから仕掛けてきた。宋江はゆっくりと手に持った棒の先を正面から真横へと移動させてくる。
(来るかっ?)
「づあっ!!」
裂帛の気合と共に宋江のもった棒がぶんとうなりをあげて横に振られる。だが、その棒はどう考えても劉高の体には届かない。その軌道の描く先は劉高の槍の穂先。
(武器を飛ばそうってか!?)
劉高は瞬時にそう判断すると条件反射的に槍の穂先を下げてそれをやり過ごす。
(もらった!!)
あれだけの大振りだ。体勢を立て直すには時間がかかるはず、この槍をちょいと持ち上げて突き出せば……
そこまで考えて急いで槍をもちあげようとした劉高の前で宋江の振った棒がピタリと止まる。
(振り切ってねぇ!?)
「らっ!!」
劉高が槍を上げて防ぐ間もなく一歩踏み出した宋江の体と共に棒の先が劉高に迫る。
「ぐっ!」
だが劉高はそれを後ろに飛んでかわした。無傷とは言わないがそれでも間合いが遠くなった以上、宋江の棒は彼の腹を軽く突くだけにおわる。
(こいつ、本気か?)
腹に小さな痛みを感じながら、劉高はふとそんなことを思った。
劉高は油断しているつもりなどなかったが、それでも自分が負けるとまでは考えていなかった。ましてや殺されるなど論外である。それは一つには実力云々以前に、自分を殺したり、怪我をさせれば只では済まないことを知っているからだ。今の時点でも相当にまずいのは確かだが、ここで自分が宋江に殺されたりすれば、宋江は死罪だ。町のど真ん中では逃げきるのは相当に難しい。だが、宋江の今の攻撃の鋭さはそんなことなどまるで斟酌していないように劉高には感じられた。
「降参する?」
「ふ、ふざけんな!」
自分の恐れを見透かしたように投げかけられた宋江の言葉に劉高は激しく反発した。
すると、宋江は何も言わずに再度棒を振ってくる。劉高はそれを槍の柄で受け止めた。手にびりびりと衝撃が伝わる。
「く、くそぉっ!」
劉高は反射的に槍を突き出すが、宋江はそれを躱し、棒を唐竹に振り下ろした。
(死……)
戦場で死を見てきた劉高にとって次に続くだろう光景は現実味がありすぎた。あの棒が自分の脳天に当たれば下手をすれば即死。そうでなくてもどの道、続く攻撃を自分は防げない。だが、実際には宋江の狙いは外れ、棒は彼の肩口のあたりを打つだけに終わった。
「ぐっ!」
それでも、体に走る痛みは相当なもので、劉高は思わず棒を取り落とし、片膝を着いた。わっと周りの群集から悲鳴とも歓声とも突かぬ声が上がる。
「くっ……そぉっ……」
だが、体への損傷は思ったり少なかった。しばらくするとしびれは残るものの、体を動かすことに大した障害はなくなっていた。この分ではおそらく、骨は折れていないだろう。劉高は再度槍を持ち上げると宋江に向かってかまえた。
「まだ続けるの?」
「当然だ!!」
自らを鼓舞するためにも劉高はそう吼えた。
「街中に山賊が出た?」
始まったか、と思いながら、黄信はそ知らぬ顔でその部下の報告に怪訝な表情を示した。
「は、はい、東二条の通りに出まして、ちょうど現場に居合わせた劉総兵管が対応されているとのことですが……なんでも二竜山の山賊がなんとか」
「……その情報に間違いないのか? 街中に山賊が出たなどと聞いたためしが無いぞ? 大体二竜山といえば先日、劉総兵管自ら賊を滅ぼしたばかりではないか。この情報はどこからあがってきたんだ?」
黄信はとても信じられないというような表情を作ると、何も知らないその兵士に矢継ぎ早に尋ねる。
「えっと、なんでも住民の何人かが政庁にやってきたとかで……」
「住民? 巡回の警邏は何と言っている?」
「そ、そちらからは特に何も……」
「だれでもいいから警邏から確認をとれ。それと敵の規模もだ」
と黄信はそしらぬ顔で言ったが、それが既に不可能であることを知っている。というのも巡回中の警邏は既に魯智深が事前に張り倒しているからだ。しかしもちろんそんなことは知るはずもない哀れな部下は黄信の質問に、あわあわと慌てて確認しますと言いながらまた部屋を出て行った。
それを確認して黄信はほっと息を吐いた。
(大丈夫だ。今の対応には問題ないはず)
この城には現在約千人の兵が居る。当たり前だがこの兵が全て出撃すれば宋江の立てた計画はあっさりと水泡に帰すだろう。それを防ぐのが自分の役目である。このために秦明の結婚式も断って(周りの人間は劉高と黄信の仲がどれだけ悪いかを知っているので怪しまれはしなかった)今日もこうして政庁に詰めているのだ。だが一方でその妨害はあくまで周りに言い訳できる程度のことでやらなくてはいけない。自分は宋江が勝とうと負けようとこの町に居続けなくてはいけないのだ。
宋江が勝てば劉高と秦明の婚約は破棄される。だが、それは所詮その場での劉高の口約束にすぎない。それを後からきちんと正式な形にするのが自分に課せられた使命である。そうである以上、黄信は現在の立場を追われるような事はしてはいけないのだ。ある意味、これはこの計画の中で最も困難な部分かもしれなかった。
先ほどの兵士が帰ってきたのは半刻(十五分)ほどしてからだった。警邏からの確認はとれなかったが、間違いなく山賊を名乗るものが少なくとも二名、いるとのことらしい。
(人数を確認できたか)
黄信にとって一つ困るのは話に尾ひれがついて、五百の山賊が攻めてきました! 等という報告があがってくることだった。そうなると自分はこの城の兵士、全てに出撃を命じなければいけなくなる。それを思えば人数が正確に伝わったのは幸運なできごとだった。
「二名程度であればそう人数もいるまい。私が十名ほど兵を率いていくとしよう。残りのものは別命あるまで待機。夕刻までに私が戻らない時は花栄の指示に従え」
「そ、それが……」
「……どうかしたのか?」
何かもの言いたげな部下に黄信は怪訝な表情で尋ねる。今の指示に何もおかしいところはないはずだ、と思いつつも、緊張して部下の口が開くのを待つ。
「実は……その花栄様ですが、話を聞くや否や、状況を確認してくると既に単騎で向かわれまして……」
「な、なんだと!?」
その情報に黄信は動揺を隠せずに思わず叫んだ。
花栄は元々、近くの山で猟師をしていた娘である。その弓の腕にほれ込んだ秦明の前任の総兵管によって半ば無理やり連れてこられ、ついでに頭の回転も悪くないので読み書きや算術も仕込まれてたらあれよあれよという間にいつの間にか今の地位にのしあがってしまったという人物だ。
そんな花栄だから、仕事に対する態度は総じて悪い。有能ではあるのだが、やる気というものが皆無なのである。
秦明の事も部下として最低限、命令は聞いていたが、敬意や遠慮といったものは全く無く、その部下とは思えない態度に黄信は内心いらだたしさを覚えていた。
そんな彼女のことだから、今回のこの結婚の件について黄信は利用はしても相談しようとはしなかったし、実際彼女は社交辞令的に一言、秦明と劉高に祝いの言葉を投げかけただけでそれ以上、この件について何もしようとはしなかった。良くも悪くも花栄は一貫してこのことについては中立・無関心を貫き通してきたのだ。
(そんな奴が、何故この時に限って!?)
黄信は内心の混乱を押さえつけられず、思わず席を立った。
先ほど言ったとおり、花栄の職業意識はお世辞にも高いものとは言えない。だから今日になって突然、職務に目覚めて率先して騒ぎを沈めに行こうとしている、等という楽天的な考えは黄信には浮かばなかった。
「あ、あの、それで、どうしたらよろしいでしょうか」
やかましく部下が再度問いかけてくる。
「さっき言ったとおりだ。十名程度の兵を率いて私も状況を確認する! 急ぐぞ!」
この宋江の作戦を楊志や林冲が承諾したのは一つの前提として何かあったとしても、実際にこの状態では兵を率いていくのが自分だからということがあったからだ。すなわち実質的に宋江の計画を邪魔するものは訪れない。だが、その前提がここで狂ってしまった。
(花栄、貴様、何を考えている!?)
もとより気の食わなかった同僚の事に心中で悪態を付きながら、黄信はいらだたしげに政庁の廊下を走り出した。
林冲は宋江達がいる場所とはまた別の通りに立っていた。あたりに人影はいない。山賊が出たという情報は風よりも早くこの場を駆け抜け、ここにいる人たちは既に家の内側に引きこもってしまった。明らかに真っ当でない(何せ武器を構えている)出で立ちの林中が通りの真ん中に陣取っていることがそれを後押ししだのだろう。それは林冲にとっても都合が良かったが。
彼女の視線は前方にある青州の政庁舎に向けられつつも耳は後方の騒ぎに集中していた。ときおりわっと叫び声があがるのが聞こえるだけだが、勝負がついたのならもっと大声が出るはずだった。それがない、ということはすなわち、まだ勝負は続いているということだろう。
そして林冲が立つこの通りは政庁と騒ぎの起こっている場所とを結ぶ最短の道筋である。林中の役目はこの場で黄信が率いてくる兵士を足止めすることだった。黄信がどこまで頑張って足止めできるかはわからないが、黄信は宋江の勝負の成否にかかわらず、この町に残っていなければならない。そのためにあからさまに自分たちの味方をすることはできなかった。従っていずれこの町の兵士たちとことを構えるのはわかりきっていた。
だから、馬の蹄の音が前方から聞こえた時、林中は慌てなかった。ただ、思ったより早いな、と思っただけだ。
視覚だけでなく、聴覚も前方へと集中させる。と、そこで馬の蹄の音がひとつしかないことに気づいた。それだけではない。足音も他に聞こえない。
(一騎?)
黄信一人で来たのか? と一瞬考えた林冲がふと構えを解きそうになった時相手は現れた。
(黄信……じゃない!?)
現れたのは桃色の髪の小柄な女だった。黄色い大きな髪帯で髪を無造作にまとめている。だが甲冑を着ているということは間違いなくこの青州の兵士だろう。
それは花栄だった。しかし林冲は彼女に会ったことがない。この場にいたのが彼女と会ったことのある宋江か秦明だったら何事も起こらなかっただろう。だが林冲は彼女のことを何一つ知らなかったし、花栄もまた林冲のことなど知る由もなかった。
しかし、皮肉なことに、林冲と花栄は互いが互いに相手が自分の目的を妨害するためにいるのだということだけはわかってしまった。花栄はこの場を通り抜けるために、そして林冲はこの場を誰も通さないために。
それでも花栄と林冲のどちらかが、並みの腕前の持ち主であれば問答の余裕もあったろう。だが不幸にして二人は共に一流の武人で、しかも瞬時に相手の力量を察してしまった。問答の余地はない、一瞬でも戦闘という手段から目をそらしたら、その瞬間やられる。二人は同時にそのことを悟り、互いに武器を構えた。花栄は弓に矢をつがえ、林冲は棒を低く構える。
「邪魔するなら、押し通る!!」
「やってみせろ!」
二人は同時にそう叫び、次の瞬間、花栄の矢が放たれた。