その二十 黄信、作戦を知らされるのこと
宋江が秦明から結婚の申し出を断られた翌日、黄信が彼のいる廃寺を尋ねたのはまだ薄明のころであった。非常識なのは承知の上だったが、黄信には自宅でおとなしく待っていることなど耐え難かったし、宋江に動いてもらうためにはこうやって少しでも自分の誠意を見せるべきだと思っていた。ただ、それは自分にはそんなことしかもう今はできないという証左でもあるのだが。
当初、彼女は門の外で宋江達が起きてくるまで待つつもりだった。が、意外な事に彼女が寺につくと、中では既に人が活動している物音と気配がしていた。
(随分と早起きなのだな)
黄信はそう思いながら開け放たれたままになっている木戸に近づくと中を覗き込んだ。
「あら、おはよう。随分と早いのね」
いきなり、話しかけられ、黄信はぎょっとする。しかもその声の主は昨日まではこの寺で見たことのないはずの人物だった。黒髪を短く切った尼のようだが、壁に寄りかかっているその所作は尼と言い切るにはあまりにも粗野だ。
「だ、誰だ? お前は。昨日までここにいた人はどうした?」
警戒も顕にそう呼びかけるとその人物は面白そうに笑った。
「失礼ね。あたしだって少し前からここで寝泊まりしている人間よ」
よくよく考えてみれば、朽ちかけとはいえ、寺なのだ。尼がいるのは自然なことに思える。しかし、黄信がそういう理屈を持ちだしても納得できなかったのは彼女の持つ雰囲気が仏門にいるべき人物のそれとはまるで趣が違ったからだろう。
「あたしの名前は魯智深っていうのよろしくね、黄信ちゃん」
その尼の格好をした女性はそう名乗った。
「どこで自分の名前を?」
「宋江と林冲から聞いてるわ。今、あいつらなら裏手にいるわ。ついてきて」
魯智深はそう言うと、こちらの返事をまたずにすたすたと歩きだした。確かに物音は魯智深の進む方向からしているし、林冲らしき声も聞こえているが、黄信は警戒を解くこと無く、彼女の後ろを慎重に進んだ。
「あ、黄信さん、おはようございます」
果たして宋江はいた。林冲とそれからもう一人、こちらも昨日までは自分が見ていない、青い髪の女性と一緒だった。なぜか宋江は朝っぱらから汗だくだった。
「おはようございます。宋江殿。あの失礼ですが、こちらの方々は?」
「あー、えーと、僕の友達の魯智深さんと楊志さんです。今回、ちょっと秦明さんの一件で手を貸してくれる人たちですね」
宋江の言葉に黄信ははたしてどこから指摘すべきかしばし頭を硬直させた。友達というが、いつの間にここに現れたのか。そこにいる楊志という人物はひょっとして少し前に手配書が回ってきた人物ではないか、さらに言えば秦明の事で彼女たちに一体何をさせるつもりなのか。
「宋江。ちょうど黄信殿も来たところだ。休憩がてら朝食にしよう」
そう言ったのは奥で棒を構えている林冲である。それに対して宋江は少し救われたような顔を浮かべて頷いた。
「秦明様をさらう!?」
実は楊志だけでなく魯智深と林冲も罪人として追われている身だとか、数日前まで彼女らが全員、秦明の家で寝起きしてただとか、色々、衝撃的な事実を聞かされたが、宋江の一言に比べれば黄信にとってそんなのは瑣末な出来事だった。
「はい」
対する宋江は淡々としたもので冷ました白湯をすすりながら、黄信の大声に動じた様子もない。それは宋江だけでなくこの場にいる人間全てがそんな調子であったが。
「そ、それは、一体どういう……」
「言葉通りです。もう少し詳しく言うと、結婚式当日に無理やり劉高に婚約を破棄させた上でかっさらいます。そうなれば、劉高と秦明さんは夫婦でも何でもありませんから、財産を好き勝手に動かすこともできないはずです」
確かに宋江の言うことに理屈は通ってるが、そのあたりは黄信にはもとよりどうでも良かった。もう少し穏便な手段は無いのかと言いたい。だが宋江はそんなこちらの様子を気にした風もなく、淡々と作戦の説明を始めた。
「当日、劉高以外の護衛……まあ、そんなに大した数はいないでしょうけど、彼らについては魯智深さんが相手をしてくれます。その上で僕が劉高に一騎打ちを挑みます。秦明さんを賭けるという形で、ですね。勝てば堂々と秦明さんをかっさらうし、仮に僕が負けても隙を見て楊志さんたちが秦明さんをさらいます。もちろん、負ける気は無いですけど」
「いや、しかし、宋江殿……そうは仰るが、町中でそんな騒ぎが起こればすぐに兵士が集まってくる。それはどうされるおつもりか」
「そこを黄信さんにお願いしたいんです。あくまで職務内の範囲でかまいませんから、事情をきちんと確認するとかなんとかでなるべく兵士が出てこないようにしてくれませんか。最悪出てきた場合でも林冲さんが時間をかせいでくれますし」
「む……」
「僕はその時は二竜山の山賊を名乗ります。表向き、秦明さんに横恋慕した山賊がむりやり街までおしかけて花婿に喧嘩をふっかけるという形にするわけですね。これなら万が一、僕らが失敗しても秦明さんに累は及ばないはずです」
宋江の落ち着き払った声が伝染してきたのか黄信の加熱していた頭も次第に冷えてきた。少し考えてみれば、荒っぽくはあるがそれほど無茶な作戦とも思えない。何より秦明のことを第一に考える黄信にとっては宋江が自分が失敗した時のことまで考えているという点に好感を持った。
「わかった。その程度で良ければ、協力いたしましょう。が、その前にいくつか確認させてください」
「ええ、どうぞ」
宋江の承諾を得ると黄信は人差し指をあげた。
「それではまず一つ目、兵の動きを妨害するのはあくまで通常の武官の動きを超えない範囲で、でかまわないのですね」
黄信が挑むように確認すると宋江はこくりと頷いた。
「ええ、それでかまいません。というか絶対に超えないで欲しいです。僕らがやるのはあくまで劉高に婚約を破棄させるまでで、その後はこの町に入ってこれないですから、その後に秦明さんを手助けしてくれる人が絶対に必要なんです」
宋江の答えに黄信はうなずくと二本目の指をあげる。
「わかりました。それから二つ目。劉高と一対一の勝負に持ち込むと言いましたが、失礼ですが、そうなった場合、宋江殿には勝算がどの程度あるのですか?」
黄信が見る限り、宋江はとても武術を修めた人間には見えない。気功使いとは聞いているから無力というわけではないだろうが、劉高とてひ弱なもやしっ子というわけではないのだ。
そして自分の問いに対して宋江は、たらりと汗を流している。あまり自信のある回答ができるというわけでもないらしい。
「ほーら、やっぱり聞かれた。宋江、ちゃんと答えなさいよ」
魯智深が呆れ半分、面白半分と言った調子で外野から声をあげる。
「あの、その、武術は今朝から林冲さんに習ってます」
消え入りそうな声で宋江が答えた。その答えにお堂の中が静まりかえる。と言っても今まで主に喋ってたのは自分と宋江だけなので、それが二人共黙れば自然とこうなるのだが。
「えっと、その、林冲殿。その宋江殿の腕前というのは……」
黄信は平時の彼女を知る人物がいればひっくり返って驚くほどにおずおずと林冲に質問を投げかけた。林冲はそれに対して普段と変わらぬ調子で答える。
「もちろん現状では素人同然だ。今まで武術はおろか喧嘩すらまともにやったことがないからな。逆にこちらから聞きたいのだが、劉高の力量はどの程度なのだ?」
林冲に問われて、彼女は記憶を掘り出すように、自分の頭を軽く叩きながら答えた。
「武術の腕は十人並みと言ったところです。気功も使えません。ただ、仮にも兵士として訓練を受けた身で、その上、体格だけはいいですから……その、仰られる通りなら宋江殿が相手するには少々荷が重いかと……」
黄信はそう言って助けを求めるようにちらりと周りを見渡した。失敗しても秦明の安全は考慮されているとはいえ、自分が巻き込んだ人物が明らかに危険性の高い作戦を実行しようとしているのにそれに何の忠告もしないというのはさすがに良心が咎める。
「まあ、それについては昨日の夜にさんざん話し合ったんだがな」
と林冲が黄信の視線に気づいてか、言葉を発する。
「うちのご主人は決まるまではうじうじしているくせに、これと決めたら梃子でも動かんという難物でな……結論から言うと、我々は根負けした」
「だって、劉高は林冲さんや魯智深さんの実力はすでに知ってるんですよ。二人が出て行ったら一目散に逃げちゃいます。そこで逃げられちゃったらまずいんですよ」
林冲の言葉に抗弁するように宋江は口を尖らせる。一応彼なりの理屈があってのことらしい。しかし、だからと言って黄信の不安が消えたわけではない。
「まあ、先ほど言ったとおり、宋江が負けたら、次善策として我々……具体的には楊志が秦明を拉致する。それに短期間だが宋江には私が武術を教える予定だ。兵士として十人並み程度の相手ならどうにか互角にはやっていけるだろう」
黄信の不安がモロに顔に出たのだろう。林冲が横から口を出した。それで不安が解消されたと言ったら嘘になるが、どのみち、宋江をこの場で翻意させるのは簡単ではないようなので、黄信は次の質問に移ることにした。
「では最後の三つ目ですが……仮に首尾よく宋江殿が一対一の状態に持ち込めたとしても、そこであの男がわざわざ決闘に応じるでしょうか」
「……応じませんか? あいつは僕の事を侮っているから誘いにのってくると思ったんですけど」
宋江の不安そうな顔に、黄信は首を横に振った。
「劉高は人格的には下劣極まりませんが、能力まではそうでもありません。勝っても得るものは少なく、負ければ失うものは多い。そんな状況で真っ当に勝負に乗るとは思いません」
「二竜山の山賊を名乗ってもだめでしょうか」
劉高は二竜山の山賊を殲滅した、ということに公式的にはなっている。そこに偽物だろうが、本物だろうがその滅ぼしたはずの山賊が現れたとなれば、無視したり、ましてや逃げたりはできない、というのが宋江の考えのようだった。
「着眼点は悪く無いと思います。が、もう一押しほしいかと。何かもう少し、劉高が逃げにくくなる状況が必要ですね」
「逃げにくくなる……ですか」
宋江はそう言ってしばし押し黙ったがふと何かに気づいた顔をした。
「……そう言えば、黄信さんて昔は秦明さんの屋敷で暮らしてたんですよね」
「は? え、ええ、それは事実ですが、それが何か……」
突然、明後日の方向にとんだ質問に黄信は若干目を白黒させて答えた。
「じゃあ、秦明さんのお父さんが商売していた時の関係者なんかとも面識ありますよね」
そう言って宋江は笑みを浮かべたが、それは黄信にとって、ひどく得体のしれないものに見えた。
大通りの中心で宋江が名乗りをあげた直後、その宋江の大声をはるかに上回る轟音があたりに響いた。秦明だけでなく劉高や周りの市民までもがなにごとかとその轟音の発信源、すなわち彼らの頭上を見上げた。
それはそれは通りに面したいくつもの商店の窓が一斉に開いた音だった。一つ一つならば、大した音ではなかったろうが、宋江の名乗りによって静まり返った通りで、何十という扉と窓が一斉にひらかれたために、まるで雷でも落ちたかのような音が上がる。そしてそこからは、何人もの人々が顔を出しており、彼らは口々に叫び始めた。
「山賊だ! 山賊が攻めて来たぞ!!」
「秦家のお嬢さんが狙われてるってよ!!」
「何、そりゃ一大事だ!!」
「見ろよ、あそこにいるのは劉総兵管だぜ!!」
「総兵管てなんだ!!」
「この町で一番えらい軍人さんのことさ!!」
「じゃあ、劉高様に任せときゃ安心だな!!」
「んだ! 劉高様が町も秦家のお嬢さんもこの町も守ってくれるに違いないさ!! なんてたって自分の花嫁なんだからな!!」
「そうだそうだ! 山賊なんかやっちまえ! 敵はたった二人じゃねーか!」
口々にわいのわいのと大声を張り上げてそんなことを言い出している。秦明は思わず唖然とした表情でその様子を見上げた。
そしてふとよく見てみれば、いやよく見なくとも、その騒ぎ立てている連中は秦明のよく知っている人物たちだった。彼らはかつて、父の部下としてここらの商店を取り仕切っていた連中だったのである。
「あ、あんたたち……」
秦明はそこでようやく、この場所がかつて宋江とやってきた時に囲まれてしまったあの通りだということに気がついた。
(黄信の仕業ね!)
彼らが意味ありげにこちらを見て笑ってくるのに気づいて秦明はその考えにいたる。ああして騒ぎ立てることで、状況を野次馬にも知らせ、劉高が逃げられないようにしているのだ。宋江が山賊だと名乗ったのもその一環なのだろう。
「と、いうわけで、悪いけど、大人しくしてもらってていいかしら」
いつの間にか、馬車の傍らにいてそう話しかけてきたのは楊志だった。
「楊志さん!? これはどういうことなの!?」
気色ばんで噛み付くこちらに対し、相手はきょとんとして、答えた。
「聞いてなかったの? 講談なんかであるでしょ。悪い山賊が街の綺麗な娘をさらったりするくだり。あれと一緒よ」
「お芝居のあらすじを聞きたいなんて誰も言って無いでしょ!」
秦明は花嫁衣裳のまま、ばんばんと馬車の窓枠をたたく。
「なら聞くけど、見てわからないの?」
その楊志の声が特段大きかったというわけでも荒っぽかったというわけでもない。だが、秦明は思わず一瞬言葉につまった。もちろん、秦明にだって自分のために宋江達がこんなことをしでかしたというのはわかってる。もちろんそのことは嬉しかったが、しかし単純に感謝するにはあまりにもこの状況は問題が多すぎるのだ。
「そういう意味でもないわよ! 自分達のしてることの意味がわかってるのって聞きたいの! こんな事しでかして一体これからどうするつもり!? あなたの無実を晴らすっていう目的はどこ行っちゃったのよ! 言っておくけど元達に睨まれたら私もかばうことはできないわよ!」
こんな白昼の街中であんな風にどうどうと、しかも山賊とまで名乗って、知州の息子にしてこの町の総兵管に喧嘩を売るなど正気の沙汰ではない。もし、ここで負けて捕まってしまえば死罪だって有り得るし、いや、例え首尾よく勝てたとしても、宋江がお尋ね者となってしまうのは火を見るよりも明らかだ。
「それについては折角協力してもらったのに申し訳ないと思ってるわ。ごめんなさい」
そこで始めて楊志は少ししおらしくなった。
「でも、そ、その、詳しくは言えないけど、宋江とも話して決めたことだから」
しかし、続く言葉が弱々しかったのはそのしおらしさの延長ではなく、何か別の理由があるようだった。頬が赤いし。
(どんな説得をされたのよ……)
秦明が楊志と宋江の間にあったことを邪推してしまったのも無理からぬ話であった。
「と、とにかく私も宋江もきちんとその辺りは覚悟した上で来ているの。秦明さんにも迷惑をかけないように色々手は打ってあるから。お願い、少しだけ、宋江の思うとおりにさせてあげて」
そう言われては秦明も黙るしかない。そう、この状況は確かに素直に喜ぶには問題が多すぎる。
「わかったわよ。もう、宋江くんのばか……」
しかし、同時に単に怒るにしてはあまりにも秦明にとって嬉しすぎたのもまた事実ではあった。
ここまでは順調だ、と宋江は油断無く劉高を見据えながら事態を確認する。護衛の兵は魯智深が吹き飛ばした。楊志も秦明の馬車のところに行って今頃作戦の詳細を伝えているだろう。そして、林冲と黄信もここからは見えないが、それぞれ自分の役割を果たしていてくれているはずだ。
だが、問題が一つあった。劉高が動かない。どうやら彼の面の皮の分厚さは想像以上だったようで、周りからさかんに期待の声をあげられているにも関わらず(どうやら無関係の人々はこれが芝居か催しとでも思っているようだ)、こちらに向かってくる様子が見られない。逃げるべきか戦うべきか、迷っているのだ。
(まさか、ここで逃げることの意味がわかっていないのか?)
ふと棒を構えたままそう考える。劉高は今やこの青州の総兵管なのだ。民を守ることが彼の属する州兵の職務であり、彼はその責任者である。ここで逃げることは、日本で言えば県警の幹部クラスの人間が町で高校生(しかもたった一人)にかつあげされたとか、そういう意味合いを持つ。いやそれよりもひどい。何せ彼が差し出すのは小遣いではなく、花嫁だ。彼の威信は地に落ちる。
(それがわからないほど愚かでは無いと思ったけど、ひょっとして見誤った?)
宋江がそう心配し始めたときだ。
「ちっ、くそっ。やるしかねえってか……」
劉高はようやく、自分の立ち居地を把握できたらしい。覚悟したとも言うが、彼は魯智深に吹っ飛ばされた兵士が持っていた槍を拾い上げると、こちらに構え、
「やってやるよ、このくそったれが」
宋江の術中に飛び込んできた。




