その十九 秦明、不満を呟くのこと
(本当にあっという間ね……)
秦明は姿見に映った自分を見て思わずため息をついた。身に着けているのはこの国の古来からの伝統である朱色の絹でできた花嫁衣裳だ。親戚のお古を急いでとりよせたため、若干秦明の体よりも寸法が大きく、動きにくい。
婚約から婚礼までわずか七日という電撃的という言葉すら通り越していっそ無謀といったほうがいいこの計画はしかし、やってみればなんとかなってしまうものであった。なんとかしてしまった自分が憎い。どうやったらこれが達成できたのか中心で動いていたはずの秦明本人ですら不思議に思っている。おまけに婚礼の準備だけでなく、総兵管の引継ぎまでも平行して行なっていたのだ。ここ数日、きちんとした睡眠どころか休息すらまともにとれていない。しかしその忙しさのために式の後の事を想像することが全く無かったのは怪我の功名というべきだろう。
形式上の引継ぎは丁度、一昨日終わり、今の秦明は公的にはなんの肩書きも無い一人の娘である。とはいえ、総兵管の職務の引き継ぎが数日であっさりと終わるわけもなく、これから実務面のことで劉高とは色々と話し合うことになるだろうがそれについてもまだ考えを至らせることもない。
一方、肝心の結婚式は準備期間の短さから簡略化に簡略化を重ねたものとなり、参列してもらう招待客も極々わずかなものである。
元達はそれが至極不満だったようで何度も息子に延期を求めていたが彼は頑としてそれを受け付けなかった。秦明としてもそれほど大規模に人を呼びたいわけではないので劉高の提案は丁度いいものだったが。
(それにしても疲れたわ……)
はたしてどんな気持ちでこの日を迎える事になるのかと思っていたが、良くも悪くも何の感情もわいてこない。しいていうなら眠気だった。とにかくとっとと終わらしてとっとと寝たい。
(結局、来なかったわね、宋江くんは……)
ぼんやりした頭でそんなことを考える。宋江はあれっきり自分の前には姿を見せなかった。廃寺に食料はまだ送り届けている(はずだ)からおそらくまだあそこに滞在しているはずだが。
(嫌われちゃったかしら……)
仮にも結婚の申し出をあんな風に無下に扱われては、温厚な彼もさすがに怒ったのかもしれない。
(……まあそれならそれでしょうがないし……別にいいか。宋江くんを私の事情に巻き込むわけにもいかないものね)
そう、別にいいのだ。というか、仮に来ていたとしても忙しくて彼のために割ける時間などほとんど無かったろうし、この間の繰り返しをされても自分としては困る。だから宋江が来なかったことは別に悲しんだり、怒ったりするようなことではない、と秦明は自分を納得させてみた。
(……でも一回、ちょっときついこと言ったぐらいで、顔も見せないなんて、案外意気地ないわね)
が、納得させたはずの秦明の心は数瞬もしないうちに不機嫌に彩られた。
(そりゃ、追放処分を受けた身だもの。そう軽々しく入って来れないのはわかるわよ。でもこっちも色々大変で、おまけに打ち合わせやらなにやらで四六時中、あの男と顔向き合わせて、あの耳につく声まで聞かされて大変な時なのよ。顔くらい見せに来てくれたっていーじゃない!)
結局、やかんの湯もわかないほどの時間の間に秦明の心は最初に自分を納得させたはずの結論と真逆になってしまった。自分でもあんな態度をとっておいて身勝手だと思うがそれはそれ、これはこれである。秦明は自分がひどくわがままだと自覚しつつも心の中はそのまま暴走するにまかせた。そんなところまで自制させていては頭がどうにかなってしまう。
「お嬢様? 険しい顔をしてどうなされました?」
「へ? そんなすごい顔してた?」
自分の髪を結っていた女中の曹がそう声をかけてきて、秦明は慌てて自分の顔を触る。
「鏡の前にいらっしゃるのに、何を仰いますのやら」
さすがにあきれはてたような声をその老年の女中はあげた。そう言われて正面を見ると頬の当たりにわさわさと手をやった自分の間抜けな顔が映っている。
「……お嬢様、今からでも遅くありません。このたびの結婚、中止してもよろしいかと」
「あ、違うの。今考えていたのは全然別のこと」
秦明は苦笑して手を振る。劉高との結婚についてはあの宋江と最後に会った時におおよそ自分の中で区切りを付けた。
(あーあー、変な意地張ったの失敗だったかなぁ。でもなー、あそこで宋江くんの話、承諾してたらどんなことになるかわからなかったし、楊志さんとは絶対気まずくなるし、仮に楊志さんを迎えるにしても結婚早々、お妾さんがいるってのも体裁悪いわよねー)
……少なくとも付けたつもりでいる。
「おい、いつまで準備に時間かかっているんだよ」
遠慮のかけらも無い調子でそこに乗り込んできたのは自分の夫である、厳密にはこれから夫になる劉高だ。
「劉高様。古来より女の身支度には時間がかかるものでございます」
老女中は劉高の方を見向きもせずにそう言った。客人に対する態度としては無礼極まりない行為だが、秦明も特に咎めようとはしない。
「んなもん、知ったことか。こっちはもう二刻(一時間)近く待たされているんだぞ。とっととしろ」
そう言って彼は手近な椅子に乱暴に腰を下ろした。
「大体、茶くらいださねーのか、この家は」
「客人ならともかく、身内になら必要ないでしょう、そんなもの」
秦明は冷たく言い返した。
「ちっ」
いらだたしげに舌打ちをする劉高を見て、秦明は老女中に伝えた。
「曹さん。そろそろ切り上げてしまいましょ。確かにあまり念入りにすることでもないしね」
「……承知いたしました」
彼女は少し不満そうであったが、表立って秦明に異議を唱えようとはしなかった。
この国の結婚式(正しくは親迎と呼ばれる)は新郎が新婦の家にやってくるところから始まる。新郎は新婦の家の両親と先祖に挨拶を行い、しかる後に、新婦を馬車に乗せ、自分の家まで引き連れていく。そして新婦が家の門に入ればそこで婚姻は完了だ。実際にはその後も宴会が行われたりして結婚式は続くのだが、厳密に婚礼の正式な部分だけ抜き出せばこのようになる。
化粧を済ませた秦明は劉高に手を取られ、門の外で待つ美しく飾り立てられた婚礼用の馬車に乗りこんだ。周りにはホクホク笑顔の親戚が並んでいてその周りには近所の人々や野次馬が何人かいる。秦明は反射的にその人々の顔を見回した。だがいない。宋江も、林冲も、楊志も、魯智深もいなかった。黄信と花栄も姿を見せていないが、これはあの二人は今日は政庁に勤めているからだろう。
(さびしいのかしら、私……)
つい集まった人たちの中に彼らの顔がいないか探してしまった自分自身に対して秦明は少しばかり落胆した。強い人間などと自惚れていたつもりはないが、それでもこんな時に毅然としていられるくらいの精神力は持ち合わせていると思っていた。
馬車は一人乗りのもので、それほど大きくは無い。そこに腰掛け、秦明は自分が乗り込んだ戸口をぱたりとしめる。
「おい」
唐突に馬車の外から秦明の考えを中断させる声がしてくる。劉高だ。
「何?」
「窓ぐらい開けたらどうだ」
「別に閉めてたって問題ないでしょう」
秦明はぴしゃりと言い切る。何か言ってくるかと思ったが劉高はそれ以上、何も言ってこなかった。
この馬車は秦明の家から一直線に劉高の家を目指すわけではなく、この町を各所をぐるりと回って彼の家につくことになっている。このことは別に特別なことではない。これは女が家を移るための儀式であると同時に町の人々に慶事を知らせる儀式でもあるのだ。
通常であるならば道行く人々はお祝いの言葉を新郎に、あるいは新婦に投げかける。秦明が窓を閉めるというのはある意味、それを拒否する無礼ともとられかねない行為だった。しかし町の人たちに姿を見せるのは、彼らに悪気が無くとも今のこの状況では、秦明は自分が見世物になっているような思いをどうしても拭うことができなかった。
窓を閉めきった馬車の中は自分の手さえ見ないほど暗い。だがそれでいいと秦明は思った。何かを見る必要などどこにも無いのだ。聞く必要も、感じる必要も。苦痛があるときに心を開く人間がどこにいるというのだ。そういう時、人は外界の情報を遮るのだ。できるのならば完全に。
そんな秦明の心持ちと関係なく、馬車はからからと空疎な音を立てて進みはじめた。周りは窓を閉め切っているせいか不気味なほどに静かだった。だがその静寂が秦明には心地いい。このまま誰にも騒がれず、深夜のねずみのようにひっそりとこの行進を終えてしまいたかった。
「あは、いいじゃない、面白そう! あたしは賛成だわ!」
宋江の計画に、というか花嫁強奪、という言葉に真っ先に賛意を示したのはやはりというべきか、魯智深だった。寺の外にまで響き渡ったのではないかという大声とともに彼女は宋江の肩をばんばんと叩いた。
「い、痛っ、痛いですよ。魯智深さん……」
「これから人妻、分捕ろうとしてる奴が情けないこと言うんじゃないわよ!」
そんな二人の様子を見て渋面を深くしたのは林冲だ。
「魯智深、お前は宋江が何を考えているかもわかってないのに……」
「もし、宋江の考えていることがあたしが考えていることと違うなら無理やり修正させるから一緒よ」
「ええー……」
あんまりといえばあんまりな魯智深のセリフにさすがの宋江も苦りきった顔を見せた。
「ま、まあ、とりあえず、宋江の話を聞きましょうよ」
楊志がそうやって間を取り持つと宋江は改めて話を進めた。
「ことを起こすのは結婚式当日です」
宋江は咳払いをして話を続けた。
「結婚式では秦明さんの家から劉高の家にあいつ自身が連れて行くんですよね。そこを狙って強襲します」
「え? 白昼にことを起こすの?」
林冲と並んでさすがに顔を少し曇らせた楊志に宋江はうなずいた。
「ええ。安全に終わらせようと思えばそりゃ他にも手はあるんですけど、やっぱりこの方法が一番いい気がして……」
「まあ、強奪というからには夜中に忍び込んでさらうというわけではないだろうとは思っていたが……」
「あ、あのね、宋江。あなたをけしかけるようなこと言ってしまったけど、私はあなたに先頭に立てって言いたかったわけじゃないのよ。ただ秦明さんを助けるっていう決断さえしてくれれば良かったの」
そうしたら後の実行は自分たちが請け負うものと考えていた楊志はおろおろと落ち着かない様子でそう言うと、助けを求めるように傍らの林冲を見上げた。
その視線を受けて、林中が言葉を話す。
「宋江。私と楊志はお前に返しきれない恩義がある。お前に言われれば大抵のこと、例えば劉高の殺害であっても引き受けよう。それでもなお、お前はその方法が一番いいと言うんだな」
「今の時点で劉高が死んだら秦明さんが疑われるでしょう。だから犯人とその動機はわかりやすく見せたほうがいいんです」
宋江がそう言うと林中は少し考え込んだようだが、結局宋江の話を聞くことを優先させたようだった。
「……確認させてくれ。具体的に君は何をしようとしているのだ」
「結婚式の当日、衆人環視の中で劉高と僕が戦います。そこで僕が勝った上であいつ自身に秦明さんの婚約を破棄させます」
車輪が小石か何かを挟んだのだろう。ガタンと馬車が揺れたことで秦明ははっと目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしい。連日連夜、ほとんど休み無しに動いてきた反動が今になって来ていたようだった。懐から手ぬぐいを取り出すと額に書いていた汗を拭く。
(うわ、寝汗がひどい……化粧落ちてないわよね)
窓を完全に閉め切ってしまった馬車の中はひどく蒸し暑い。女中もこれを見越した汗で落ちにくい化粧をしてくれただろうが、少し不安になる。
(そういう意図ではなかったけど、窓閉めておいてよかったわ)
もし閉めていなければ、ねむりこけているアホ面をさらして街中を移動する羽目になっていた。
(でもさすがに少し暑いし、窓開けようかしら……いや、でも……)
しばしの間、秦明の中で意地と快適さのどちらをとるか、葛藤が生まれる。だがそれは一瞬のことで、戦いはあっさりと快適さのほうに軍配が上がった。
(ま、ちょっとだけ……)
自分からも外が見えないほどわずかな隙間を秦明は窓に作った。ふわりとした優しい風とひそやかな喧騒が窓の外から入ってくる。
外からは様々な声が聞こえている。どうやらいつの間にやら住宅街を抜けて商店が立ち並んでいる通りまで来たらしい。無邪気に集まってくる子供たちの声や、威勢のいい物売りの口上、少し興奮したような値段交渉のやりとりが聞こえてくる。
(どのあたりまで来たのかしら?)
秦明がそう思ってさらに窓をもう少し開けようとした。そのときだった。
「おい、お前ら、そこをどけといっているのが聞こえないのか!!」
不意に飛び込んできたその大きな声はこの花嫁行列の先頭にいるはずの騎兵のものだった。
彼らはれっきとした青州軍の人間である。本来、総兵管が新郎とは言え、私事なのだから、彼らを動員するのは厳密には権力の濫用なのだが、この程度のことはどこでもやっているため、今更、それを問題視する声は無い。
その大声が響くと周りの喧騒もざわりとその発生源を目指して指向性をもったものに変る。
どうやら、行列の先でたむろしている連中でも居るのを騎兵がどけようとしているらしい。
(そんなに急ぐ必要も無いのに)
そう思いながら秦明は頬杖をついてぼんやりと外から入る光を眺めていた。それが不意にふっと陰る。
(?)
陰ったのは一瞬ですぐに光は戻ってきた。どうやら窓の外で何かが通過したらしい、と認識した直後、後方でどしんと音がして、窓の外が急にさわがしくなった。
「な、なんだ、今の!?」
「飛んだ! 人が飛んだぞ!!」
続いてそんなふうに騒ぐ人々の声を耳にし、秦明は思わず、窓を全開にした。そして、その眼前を丁度、おそらくは二度目の出来事なのだろう、完全武装した兵士が地面と平行に飛んでいった。
「は……?」
思わず呆然とした声をあげてその兵士を目で追う。兵士は立ち並ぶ群集を飛び越えてずだんと背中から地面に落ち、そのままごろごろと転がって、やがて止まった。ぴくぴくと痙攣しているのだから、生きてはいるようだが。飛んでいった兵士の横には計算しつくされたかのように、別の兵士が同じような体勢で寝転んでいる。さきほど馬車の横を通過していったのは彼だったのだろう。
「な、何もんなんだ、あの短髪の姉ちゃん!?」
「おい、こら! 押すな、馬鹿!」
辺りが一層騒がしくなる中、秦明は慌てて兵士の飛んできた方向、すなわち、馬車の前方に振り返った。
振り返る前、秦明は何が起こっているのか状況をほとんど何一つ把握していなかった。だが、彼女には確信があった。後から思い出せば、理性的な理由をいくつかあげることができる。例えば、人が水平に飛ぶ原因がこの町にそういくつもあるわけがない。しかし、秦明が確信に至ったのは決してそんな理性的な推論ではない。彼女を確信に導いたのはもっと曖昧で青臭いものだった。それは期待だった。
思わずほころぶ顔を必死にとりつくろいながら、秦明は窓から身を乗り出して、行列の最前列を眺める。周りに居る何人かがこちらに視線を向けるがかまっていられない。
秦明の視線の先、そこでは、乗り手を失った馬がむなしく駆けていく様子を背景に人影が大声を上げた。
「そこにおわすは青州総兵管の劉高殿とお見受けする!!」
人影は数日前、秦明が最後に目にしたときから何も変っていない。ただ、右手に彼の肩の高さ程度の木の棒を握っているのが唯一の違いだった。そしてその傍らにはこちらと目を合わせた途端ににやりと歯をのぞかせて笑ってくる袈裟姿の女が居た。
「我が名は宋江!! 百八の魔星が一つ、天魁星の化身にして、青州は二竜山を根城にする大盗賊なり!! 此度は麗しいと評判の貴様の花嫁、頂戴に参ったぞ!! 男子としていくばくかでも矜持があるならば、この場で尋常に勝負いたせ!!」
その滑稽な程に芝居がかった名乗りはしかし、ひどく凜とした響きを持って秦明の耳に届いた。