その十七 宋江、秦明の料理を食すのこと
意識が覚醒すると同時に宋江は柔らかな匂いを感じた。うっすらと目を開けると、目の前にぼんやりとした輪郭があり、それがわずかに動いて音を発した。
「あ、起きた?」
目をこすってその輪郭をもう一度見据え、宋江はようやくその輪郭が秦明だとわかった。
「秦明さん?」
「ごめんね、まさかあそこから顔出してると思わなかったから頭痛くない? あごも大丈夫?」
言われて宋江はあごをさわると膏薬が貼ってあることがわかった。触ればまだじんじんと痛みを訴えてくる。が、逆に言ってしまえばそれだけだ。頭も意識を向ければずきずきと痛んでいるが、特にこぶができているということもなさそうである。
「いえ、大丈夫です」
「そう、なら良かったわ。本当にごめんなさいね」
「いや、もとはといえば、僕が覗き見みたいなことしてたからよくないわけですし。気にしないでください」
そう言ってむくりと宋江は起き上がり、周囲があまり見覚えの無い場所であることに気づいた。
「あの……ここ、どこです?」
「え? ここは私の寝室だけど入ったこと無かったっけ? 宋江君たちのいた客間のふとんはもう片付けちゃってたからここに運んだんだけど」
宋江はかぶりを振った。
「どこかの誰かとは違いますから断りも無しにあがるようなそんな無作法なまねはしませんよ」
「そうねえ。宋江くんはそんなことしないもんねぇ」
宋江の劉高を揶揄した言葉に秦明は笑った。宋江も釣られて、はにかんだ後にふと気づいたように言う。
「ところで、林冲さんと黄信さんは?」
「林冲は一度、楊志さんたちが待ってる寺の方へ帰ったわ。あなたの帰りが遅くなると楊志さんが心配するから一度状況を報告しに戻るって。黄信も林冲が門を出入りするためについていったわ。二刻(一時間)くらい前に出たからもうそろそろあっちについている頃じゃないかしら」
宋江は反射的に窓の外を見上げた。まだ青い空に太陽がまたたいている。丁度、昼……を少し過ぎた頃らしい。おそらく、午後一時頃。とすると自分が気を失っていたのはおおよそ、三時間くらいだろうか。
太陽で時間を確認するとそれがスイッチだったかのように、宋江の腹の虫がぐーと鳴った。
「あ……」
思わず顔を赤らめてちらりと秦明を見上げる。彼女はそんな自分の様子がよほど面白かったのか、肩を震わせて笑っていた。
「ご飯食べていくでしょ?」
ひとしきり笑い終わって、それでもまだ笑い足りないのか、秦明は口の端に笑みを浮かべながら宋江に確認するように問いかけた。
「……すみません。お言葉に甘えさせてもらってもいいでしょうか」
「全然、かまわないわ。私もなんだか、お腹すいてきちゃったし。……ってしまった。さっき、曹さん、買い物に行かせちゃったんだわ」
この家の食事は全てあの老女中が作っていた。宋江は台所に入ったことすら無いし、秦明が料理をするという話も聞いたことがない。
「あの、もしお邪魔じゃなければ、帰ってくるまで待たせてもらいますけど?」
宋江が慌てて秦明に呼びかけるが、彼女はそれに対して何かを考え込んでいるようで、こちらの言葉に反応しなかった。宋江が彼女が聞こえてなかったのかと思い、もう一度声をかけようとしたとき、秦明が振り向いて話しかけてくる。
「あ、えっとね、宋江くん、これはお願いなんだけれど……」
と、そこで言葉を切る。秦明は言い出しにくそうにこちらに視線を合わせず、指先を弄んだ。一言で言うなら、もじもじしている、という表現が当てはまるだろうか。滅多に無い、というか初めて見る秦明の様子を怪訝に思いながらも宋江は彼女の次の言葉を待った。
「私の料理、食べてみてくれない?」
もちろんかまいません、むしろ光栄です。と宋江は返事をしたのだが実際に出てきたものを見て、少し後悔しはじめた。
まず、出てきたのが赤ペンキでも突っ込んだのかと疑いたくなるような真っ赤なスープ。それから、野菜と肉のいためもの……らしきもの。野菜の大きさがちぐはぐで黒焦げのものと、生焼けのものが混在していた。最後に、おかゆ……なのだろう、多分。なぜ、ボールのように米の塊が湯の中心に浮いているのかはよくわからないが。幸いなのはどれも量がそれほど多くないということだった。
「あ、え、えっと、つ、作り直そうか?」
その不安な感情がついそのまま顔に出てしまったようで正面に座っていた秦明が強張った笑みを浮かべた。こんなときに限って林冲は帰って来る気配も無い。
「いえ、ちょっと見たこと無い形の料理だったから、少し驚いただけですよ、あはははは……」
いまほど、真剣にこの世界で助けを呼んだことは無い。晁蓋か、魯智深か、とにかくあの辺の傍若無人組がここに居たら。きっぱり『こんなまずそうなの、食えるかーー!』と言ってくれるだろう。
(でも実際にあの人達がいてもしそんなこと言ったら、結局僕がフォローしなきゃいけなくて……ってダメじゃん)
宋江はどうやら自分は何がどうあってもこういう状況でノーを突きつけられる人間ではないらしい、ということをしょんぼりと自覚した。
「え、えーと、本当にいいのね?」
「はい」
秦明の確認に、うまく笑えているだろうか、と思いながら宋江は承諾の返事を返す。そしてれんげを取り、スープを掬い取って口に運んだ。
(!)
外見からして辛いだろうと思っていたので辛いのはまだいい。いや、よくは無かったが、そこはまだ我慢すればいい。問題は辛いだけで塩味も何もないことだった。ただの刺激物を飲み込んだようなその味だった。
恐る恐るちらりと見上げると、秦明も自分と映し鏡のようにれんげを口に運んだまま固まっている。
「ご、ごめんなさい!」
こちらが何かを言い出す前に、秦明がものすごい勢いで頭を下げてきた。
「お、美味しくなかったでしょ! というか不味かったでしょ」
「え、えーと……」
ぶっちゃけ、少し助かったと思ってしまった。
「待ってね。捨ててくるから!」
「そ、そこまでしなくても……多分、少し手を加えれば美味しくなりますから」
「そ、そういうものなの?」
「台所、ちょっと使わせてもらっていいですか?」
台所には大鍋が残されていて、そこには真っ赤なスープが並々と入っていた。
「随分、大量に作りましたね」
「え、ええと、実は、ちょっと唐辛子粉を入れすぎちゃって、それで慌てて水を足したらこんなことに……」
どうやらそれが辛味以外に何も味がしなかった理由らしい。多分、唐辛子粉を大量に入れなければそこそこいいものができたのではなかろうか。
「まあ、これだけあると火を起こすのも大変ですし、なんかもっと小さい鍋に食べる分量だけうつしましょうか」
宋江はそう言って小鍋を探しだすとそこに二人分の分量だけを移し替える。その時、初めて気づいたが、スープには結構な量の魚介類が具としていれられていたようだった。
(だしとかとれてたろうに……ちょっともったいないな)
「えーと、火、火をつけないと」
「ああ、それくらいなあら私がやるわ」
そう言うと、おもむろに秦明がかまどにむかって手を伸ばす。宋江が何をするのかと訝しげに思っていると秦明の手の先から魔法のようにぼっと火が燃え上がり、かまどにいれていた薪に燃え移る。
「あ、そう言えば秦明さんも気功使いでしたっけ」
「そうね。私は火と土の内外両方」
少し得意げに秦明は微笑んでみせる。
「四つも使えるなんてすごいですね」
「ただの器用貧乏よ」
宋江がほめると秦明は照れて謙遜して見せた。
だが秦明のつけた炎は火力が少しばかり、強すぎたようだった。多分、あの黒焦げの野菜炒めやおかゆの失敗の原因はこれだろう。宋江は少し太目の薪を足して意図的に火力を抑えていく。
秦明がおずおずと覗き込む横で、宋江はその小鍋に水と塩と醤を少しずつ放り込みながらスープをぐるぐるとかき混ぜていく。
ある程度、できたところで、宋江は味見をしてから秦明の分として小皿に一掬いいれて秦明に差し出した。
「どうでしょう、味見してみてください」
「あ、すごい! 全然違う」
「大げさですよ」
宋江は苦笑しながらも改めてスープ皿にできあがったものを取り分けていく。正直、あまりうまくいったとは思っていなかったが秦明が承諾するならいいだろう。
「ついでですし、さっきのもう一個の料理も少し手直ししましょうか」
「や、やっぱり、あっちもダメだった?」
秦明が泣きそうな顔でこちらを見上げてくるが宋江はこれを機にきっちりと言っておかないと、と心を鬼にして厳しく言う事にした。
「ま、まあ、ちょっとほら、野菜の大きさがばらばらだったでしょう。あれじゃ多分、火が通ってないのがあるんじゃないかなーって」
とはいえ、この程度の言い方が宋江の限界ではあったが。
「う、そ、そうなんだ」
ちなみにおかゆは火の通り方がばらばらで、やはりこれも作りなおしたほうがよさげだった。よくよく聞いてみれば炊いている途中に鍋の蓋を開けてしまったのだという。それに高火力があわさってあんなことになってしまったのだろう。
ということで時間はかなりかかってしまったが、手直しした料理を二人は改めて食卓を囲んだ。
「すごいわねー、宋江くんは何でもできるんだ」
「いや、そんなことはないです。できないことの方が多いですよ。それに秦明さんの料理の腕だってそこまでひどいってわけじゃないですから」
「ありがとう。お世辞でも少し救われるわ」
「お世辞なんかじゃないですよ。もし本当にひどかったら手の施しようがなかったですから。僕が手直しできたのは最初に作った秦明さんの腕がある程度しっかりしてたからです。多分、火加減が強すぎるんじゃないですかね?」
「わ、わかった。次から注意してみる」
宋江の指摘に秦明は少し力んで答えてみせた。
一通り、食事を終えて、茶を入れた秦明がほうっと息を吐いた。
「でも、本当にごめんね。私のわがままなんかに付き合ってもらっちゃって」
「これくらいのことならお安い御用ですよ。でもどうして今日に限って突然料理を作るなんて言い出したんですか?」
宋江が尋ねると秦明は視線を少しそらした。
「あ、別に何か、言いにくいことだったら言わなくていいんですけど、そんなに深い意味のある質問じゃないですから」
「ううん、まあ、ちょっと恥ずかしい話なんだけどね。わかってもらえると思うけど、私ほとんど料理したこと、無いのよ。というか家の事、全般そうね。全部、曹さんにまかせっきりだったから」
確かに秦明の立場ならそうした事をする必要も無いだろう。よいところのお嬢様でしかも軍人という収入もあった。結婚したって女中を雇うことはできただろうから、普通に考えれば一生、縁の無い分野と言ってもいい。
ちなみに、似たような境遇の楊志もこの手の事は苦手としている。逆に現在一緒に旅をしている中で一番料理がうまいのは意外にも魯智深だ。ちなみに林冲が飯の担当になった時は兎を焼いたものがそのまま出てきた。
「でも、結婚しようって決めたときね、仮にも家庭に入るんならさすがに何にもできないのはまずいかなって思って曹さんにも手伝ってもらいながら、練習を始めたのよ。料理だけじゃなくて他にもいろいろね。信じられないかもしれないけどこれでも大分ましになったのよ」
そこまで話した後に秦明は寂しそうに笑って言葉を続けた
「……多分ね、くやしかったの。そうやって色々包丁で手を切ったりとか、なれない作業を必死でやって来たのに、でもその結果がこんなことになっちゃったから。だからせめてあいつ以外の誰かに私の努力の結果を見て欲しかったんだと思う」
秦明の声がわずかに震えるのを聞いた時、宋江はこの件について初めて秦明の本音を耳にした気がした。
「僕、また秦明さんの料理食べたいです……」
「良いわよ。そんなこと言ってくれなくても。おいしくなかったでしょう?」
「けど、うれしかったです」
宋江がそう言うと秦明の動きが止まった。
「その……あんまり、いい例えじゃないかもしれないですけど……親戚の小さな子に自分の絵を描いてもらったような感じ……って言ったらいいんでしょうか。できたものの良し悪しとかそういうのものとは関係なく、そういうことをしてくれたっていう事実が僕にはうれしかったです」
「も、もう、宋江くんたら大げさだなー!」
出し抜けに秦明は朗らかな大声を上げた。今までの沈鬱な動きとのあまりの差に宋江は驚いて彼女の顔を見上げた。
「無理して、そんなこと言ってくれなくてもいいのよ! 私はね、ただ単に料理の腕をちょっと試してみたかっただけなんだから! ごめんね、変なことにつき合わせちゃって!!」
ごまかすような笑みを浮かべながらも、秦明の声は明るかった。そして、悲しかった。
「秦明さん……」
「何よ、もう! そんな暗い声だしちゃって! ひょっとしてあれ? 私に惚れてたの? もー、だめだぞ。宋江くんにはちゃんとした人がいるのに。私も罪な女だなー、あはははは」
その底抜けに明るい秦明の声を聞いて、宋江はいつの間にか涙を零していた。
秦明が笑えば笑うほどに、その裏で彼女が泣いている姿が幻視される。それでも笑う彼女があまりにも悲しくて、宋江はあふれる涙をおさえることができなかった。
「や、やだな、宋江くん。そんな泣くほどの事じゃないでしょ。そ、そんなに、私のことが好きだったの、な、なんちゃってー……」
「………」
「ほ、ほら、男の子なんだから泣いちゃだめでしょ。みっともない……」
「す、すみばせん……」
ぐすっと宋江は鼻をすすりながら顔を上げた。秦明の意図とは違うが確かに彼女の言うとおりだ。本当に泣きたいのは秦明だと言うのに自分が泣いてどうしようというのだろう。
「しょうがないわねぇ。ほら、おいで。特別よ」
「え?」
宋江が顔をあげると、抵抗する間もなく、ぐいっと暴力的に体が引き寄せられた。気づいたときには目の前で秦明の柔らかい髪がふわりと揺れていた。
抱きしめられているんだ、と遅れて理解する。ひどく冷静に頭の中でその情報を反芻した後、自分が認識した言葉の意味を遅れて理解した。
「し、秦明さん!?」
慌てて声を出すが。同時に宋江は秦明の体が小さく震えているのに気づいた。
その事に気づいた宋江の全身から力が抜けていく。宋江は赤ん坊に触れるようにそっと秦明の背中に腕を回した。宋江の肩に熱いものが落ちてくるのに、そう時間はかからなかった。
「ありがとう。おかげでだいぶ落ち着いたわ」
抱き合っていたのは三十分程度だろうか。それほど長くないうちに秦明は宋江から離れた。
「秦明さん、今なら……」
「大丈夫。楊志さんには秘密にしておいてあげるから。ありがとうね、おかげで色々覚悟も決まったわ」
「覚悟なんて決めないでくださいよ!」
その大きな声に秦明は驚いたようだった。宋江も自分がそんな声を出したことに驚き、少し戸惑ったが言葉を続けた。
「やめたらいいじゃないですか。あんな奴との結婚なんて。今ならまだ間に合いますよ。どうしてもって言うなら黄信さんが他の町でいいお婿さんがいないか探してくれているし、なんなら……」
宋江は少しそこで言い淀んだ。いいのか、この一言を言ってしまって。だが、宋江は覚悟を決めると口を開いた。
「なんなら僕に立候補させてください」
「お断りするわ」
だが秦明はそれをあっさりと否定した。さすがに宋江も即断で否定されるとは思わず聞き返してしまった。
「だ、だめですか……?」
「ええ、だめ」
秦明は微笑んで否定した。
「なぜかというと宋江くんは私を好きなわけじゃなく、私に同情して結婚しようとしてるから。財産と面子のためだけに申し入れてきた劉高とそう違いは無いわ。ううん、ある意味ではそれよりひどい事よ。だって、あなたは私に何も期待していないんだもの。あなたは私に優しくしてくれるだろうけど、ただそれだけ。そういうのが好きな女性もいるだろうけど私は嫌だわ」
「………」
宋江は思わず絶句した。そして秦明の発言を否定できなかった自分に絶望した。
「誤解しないで欲しいけど、劉高なんかよりずっとあなたの方が魅力的よ。百人が百人、そう言うと思うし、私もそう思う。でも、だからこそなの」
秦明は宋江の頬に優しく触れた。
「宋江くんの気持ちはすごくうれしかった。でも私はそれを受け取るわけにはいかない。劉高と結婚することになったら、私は傷ついてもあの男を軽蔑して恨むだけで済むわ。でも宋江くんと結婚したら私はもう私でいられない。ただの無力な女になってしまう。それは私には耐えられない」
「そんなことないです! 考えすぎですよ!」
宋江が反論すると秦明は寂しそうに笑った。
「その言葉はできたらちょっとだけ前に聞きたかったけど……まあ、いいか。あのね、宋江くん。私はあなたと対等でありたいの。でもここであなたを結婚させたらそれはもう望めないわ。私はどうしてもあなたに負い目を感じてしまう」
秦明は固まった宋江の体を解きほぐすように彼の両手を包み込むように握った。それからちょっと表情を厳しくして言葉を続ける。
「それにあなた、もう一つ大事なことを忘れてるわよ。宋江くんがここで私に対してそんなことをしたら劉高だけでなく顔を潰された元達からも恨みを買うわよ。結婚ということはもう個人と個人の間の話ではないのだから。そうしたら、あなたがせっかく元達から協力をとりつけた楊志さんのことはどうなるの?」
「そ、それは……」
その言い分に宋江は思わずひるんでしまう。楊志のことを考えると宋江は強引に事を進められるほどの決断はできなかった。
「もし、私の願いを聞いてくれるというなら私とずっと友達で居てくれないかしら。それなら私はあなたに負い目を感じずに済むから。それに結婚したからって別に会えなくなるわけでもなんでもないでしょ。遠慮せず、また遊びに来てちょうだい」
「秦明……さん……」
秦明の笑顔は先ほどのような痛々しいものではなかった。だが、彼女の顔には決して日の射さない深い森のようなかげりが生まれていた。
「さようなら、私の旦那様になったかもしれない人。そしてまた会いましょう、私のかけがえの無い友達」
秦明は宋江から手を離すと振り返りもせずに部屋を出て行った。