その十五 黄信、事情を語るのこと
「改めて、名乗らせていただきます。自分は黄信。この青州で騎兵都管を勤めております」
流麗な美人である。それは顔かたちがというよりも彼女のもつ凛とした雰囲気がそう感じさせるのであろう。亜麻色の髪を後頭部でまとめ、背筋をぴしりと伸ばして板間の上に座る彼女はそれだけで一つの絵になるのではないかと思えるほど美しかった。彼女がそうしているだけで荒れ果てたお堂が何故かひどく趣きのあるものに見えてくる。
ただ、こんな暑い日に完全武装の鎧を着込んでいるのかは生真面目さを通り越して酔狂にも思われた。
(花栄さんとは対照的だな)
少し前にあったあのだらりとした桃色の髪の女性を思い浮かべて宋江はそんなことを思った。
今、お堂の中には黄信のほか、自分と林冲だけがいる。楊志と魯智深はすぐ近くにいてこちらを見ているはずだが、どこにいるかは宋江もわからない。顔を見られて手配人物だと悟られては困るので隠れているのだ。
林冲は自分の下座、すぐ横に座っていた。しかし座り方は正座ではなく片膝を立てた状態ですぐ横に棒を置いていた。素人の宋江にもその意図はすぐわかる。何かあれば、即座に黄信に飛びかかれる位置だ。それを隠そうともしていない。
「失礼ですが、そちらの方は?」
それに軍人の黄信が気づかぬはずもない。訝しげな目で林冲を見る。
「張と申します」
張、というのはこの時代の中国によくある苗字で、日本で言うところの『鈴木』だとか『山田』に近い意味合いを持つ。ぶっきらぼうにその姓だけ名乗り名前も名乗らない林冲の態度は言外に名乗るつもりはない、と言ったも同然だった。
「昔、命が危ういところを宋江殿に助けられましてな、せめてもの恩返しと思い、こうして彼の旅の間、付き従っている次第です」
林冲はそれだけ言うと口を閉じた。黄信は訝しげな顔を崩しはしなかったが、それ以上は何も言わなかった。こんな廃寺に林冲のような、人目でただものではないとわかるような人物がいれば誰だって経歴を知りたくもなるだろうが、それが本題ではないのだろう。
「ところで、こちらからも伺いたいのだが、宋江殿がここにいるということを誰から聞いたので?」
逆に眼光鋭く林冲は問い返す。そこは宋江も気になっていたところだ。自分たちがここに住んでいることを知っているものはそう多くないはずだ。というか教えたのは秦明だけである。
「曹殿から伺いました」
誰だったろうか、と少し考え、宋江はそれが秦明の家にいる年老いた女中の名前だということに気づいた。秦明の家に長年使えており、秦明自身も信頼をおいている女性である。宋江達の素性を知っているこの街では数少ない人間だ。
確かに彼女は宋江達のことを秦明から聞いていてもおかしくはない。となると、少なくとも黄信はあの女中から少なからず信頼されている、と思っていいだろう。報奨金目当てに主の客人を裏切るような真似はしない女性だ。だが、林冲の偽名を聞いても何の反応も示さなかったとうことは宋江の同行者については特に聞いてないということだろう。
「ええと、それで、御用件はなんでしょうか」
うっかり自分が林冲のことを本名で呼びかねないことを危惧した宋江は早々に話題を切り替えること
にした。
「は、はい。そのことなのですが」
黄信は慌てて林冲からこちらに視線を動かした。
彼女とは初対面だが、名前だけは聞いたことがある。自分と秦明が婚約中だといいふらしたという軍人だ。そして秦明や花栄はもっともそんなことをしそうにない人物だと宋江に話していた。今、こうして向き合って、宋江も同じ印象を持つ。全身からこれ生真面目、といった雰囲気をかもし出す彼女は軽々に情報をもてあそぶような人種からは最も遠い気がした。
「まずは謝罪させて頂きたいことがあります」
黄信はその場でいきなり手を床につけると頭を下げた。宋江がそれに反応する間も無く、伏したまま喋り出した。
「故あっての事とはいえ、宋江様に関してあることないこと、この青州の町の内外に吹聴いたしましたこと、お詫び申し上げます」
宋江が反応できたのは黄信がそう言い切ってからさらに五秒ほど経った後だった。その間、黄信は微動だにしない。
「あ、え、えっと、秦明さんとのことですよね。僕は特に気にしていないというか……被害を被ったわけでもないので、と、とりあえず頭をあげてくれませんか。元より怒っているわけでもありませんから」
宋江は慌てて言葉を返す。あの程度の事で、そんな風に頭を下げられても宋江にとっては逆に居心地が悪いだけだった。その宋江の言葉を受けて黄信はゆっくりと顔をあげる。
「……寛大なお言葉、ありがとうございます」
「あの……故あってのこととおっしゃいましたがどんな理由かお伺いしても?」
「はい、もちろんです。ただ……」
黄信はそこでちらりと林冲に視線を走らせた。あまり人には聞かれたくないことなのだろう。が、言ったところで林冲がこの場から去るとも思えないし、宋江も追い出すつもりはなかった。
「安心してください。り……ごほん、この人は信用できる人ですから」
林冲、と言いそうになって慌てて、言い直す。ちらりと彼女の方を見るが、彼女は何も言わず座したままだった。黄信も特に突っ込んではこない。
「……それではお話しさせて頂きます。少々迂遠ではありますが、まず、自分の自己紹介をさせてください」
宋江は無言で頷いた。
「自分は孤児です。両親の事は何も知りません。出世した後に何人かそう名乗ってきた人間はいましたが……全員無視しました」
黄信は淡々と物語る。
「推測ですが、赤ん坊の自分を食べさせることができないと思った両親が、この町のある富豪の家の門の前においていったのではないかと思っています」
「ある富豪?」
「はい。それが秦明様のお屋敷になります。もちろん当時は秦明様もまだ子供でしたので、厳密には秦明様のご両親のお屋敷ということになりますが」
「え?」
思わぬ告白に宋江は目を丸くした。その宋江を見据えたまま、黄信は言葉を続ける。
「ものごころついてから成人するまで、自分はあの屋敷で過ごしていました。僭越ですが秦明様のご両親は自分にとっては親も同然、秦明様は姉も同然と思っております」
「そ、そうだったんですか……」
意外なつながりだった。だが、この情報は宋江の混乱を助長した。先ほど黄信は謝罪したが、例の噂で迷惑を被ったのは宋江よりもむしろ秦明だろう。何故、彼女は自分の姉と慕うような人間にそんなことをしたのだろうか。
「その上であの噂を流した理由を申し上げますが、私があんな噂を流したのはあわよくばあなたと秦明様が結婚しないかと思っていたからです。そうならなかったとしても、秦明様が結婚を考えている相手がいるという情報があるだけでも良かったのですが」
確かに実際、あの晩、劉高が飛び込んでこず、元達がさらに執拗に宋江と秦明の仲を取り持とうとしたらそうなっていたかもしれない。しかし、それではますますわからないことがある。
「あの……黄信さんは僕と会うのは今日が初めてですよね」
その質問を予期していたのか、黄信は即答した。
「お名前は伺ってましたが、会うのは初めてです」
とすると、この目の前の女性は会ったことも無い男と姉と慕う人物をくっつけようと画策していた、ということになる。宋江はその疑問をストレートに尋ねた。
「どうして、僕を?」
「失礼を重々承知の上で率直に申し上げますと、宋江殿である必要は全くありませんでした。ただ一応、町の信頼できる知り合いからはあなたがどんな人間であるかは聞いていましたので、あなたがそう変な人間でないことはわかっていましたが」
黄信が言う知り合いとは、秦明と一度、町に行ったときに取り囲んできたあの連中だろう。秦明は彼らと子供の頃から知り合いだったというなら一緒に暮らしていた黄信もまた長い付き合いであることは容易に想像がついた。
「自分がそうまでして秦明様と宋江様の結婚をもくろんだのには理由があります。宋江様は劉高という男を知っていますか? この青州を治める元達の息子です」
「……うん、知ってるけど」
不運にも、と心の中で付け加える。
「彼は秦明様を我が物にせんとの野望を抱いております」
「………………………………はい?」
ただの相槌であったがそれを返すことすら宋江にはいくばくかの時間が必要であった。それほどまでに黄信から出てきた言葉は突拍子もない事実だったからである。
「ど、どど、どういうこと?」
「言葉通りの意味です。より具体的に言えば、あの男は秦明様の財産と秦明様自身を手に入れるため、色々と手を打っていました。自分はたまたま、彼が政庁でその事を仲間に話しているのを聞いてしまったのです」
話しているだけでその光景を思い出し、何か思うところがあるのか、黄信は膝の上でぎゅっと拳を握る。声の調子も心なしか、早くなっていた。
「宋江様は秦明様の縁談が今まで何度か持ち上がったにも関わらず、それが全て破談になっているのはご存知ですか?」
「うん、秦明さんから聞いて知ってるけど。え、それってまさか……」
「それもまた劉高が裏から手を回した結果です」
宋江はあんぐりと口をあけた。確かに秦明ほど美人で財産もある人間の縁談が次々につぶれるのはおかしな話だと思っていたが、まさかあの男が関わっているとは思わなかった。
「りゅ、劉高ってそんなに強い権力をもってるの? ただの知州の息子でしょう?」
「それで十分なのです。元達があの男に甘いのはこの町に住む人間なら誰もが知っています。実際に起こるかどうかはさておき、あの男が知州に泣きつけば自分達に悪い影響が起きるのは十分予測できることでしょう。そして劉高からみれば、そう思わせるだけで良かったのです」
黄信は言葉は次第に早く、熱を帯びたものへと変わっていく。
「ご親戚の意向もあり、秦明様の縁談相手は全てある程度財産のある方ばかりでした。彼らからしてみれば知州の怒りを買うかもしれないという危険を冒してまで無理に秦明様と結婚する必要は無かったです。その気になれば相手はいくらでも見つかる方たちですから」
「そんな……で、でも待って、元達さんは秦明さんと僕を結婚させようとしてたよ?」
「元達はこの件は知りません。あくまで劉高が中心となって動いてますので。まあ、劉高も母親を動かして親戚の方々同様に秦明様の結婚相手に口を出すくらいのことはやっていたみたいですが、彼女は完全に善意からそれを行っていました」
しばし宋江は目を閉じて黄信の話した情報を一つ一つ整理していく。
「……なるほど、それで僕のことは実際に会ったことも無いけど劉高よりはいいと思って、結婚相手に推薦したわけだ」
推薦方法は強引な上に大分迂遠ではあったが
「その通りです」
「……あれ? でも待って。それならどうして秦明さんに直接言わなかったの? というか秦明さんは劉高がそんなことを考えているのを知ってるの?」
「二つ目の質問からお答えしますと、知らないと思います。少なくとも自分から口にしたことはありません」
「えーっと、繰り返しになるけどそれはまたどうして?」
「言えば秦明様は劉高との結婚を承諾なさるでしょう」
朝から色々と衝撃的な事実の連続だったが、この言葉以上に宋江を驚かせたものはなかった。
「え? どうして? 秦明さん、ひょっとして劉高のこと、好き……なわけないよね」
黄信の表情が鬼のように変化しかけたのを見て、宋江は台詞の語尾を慌てて変更した。
黄信は自分を落ち着かせるためか、一つ咳払いをして話を再開した。
「……失礼しました。あの方は、代々この町に根付いていた自分の家を次代に受け継ぐことが自分の責務と思っておられます。そのためならば多少の無理は自分に課すことでしょう」
宋江は秦明と共に元達がいる料亭に向かったときの事を思い出した。確かに彼女はそれほど強い調子ではなかったものの、子供を産むことは自分の願望と同時に責任であることを秦明は述べていた。
「家を継ぐってそんなに大切なことなんですか?」
宋江は思わず傍らの林冲に尋ねた。
「普通は途絶えさせたくないと思うだろうな。途絶えたら先祖の霊を祀るものがいなくなるし、家や財産も人の手に渡ってしまう。私なんかは分家の傍系だから、そんなに気にしたこともないが、秦明は本家の直系だからな。周囲の目なんかもあるだろう。それに秦明は親への引け目もある。親孝行する前に死なれてしまったと前に嘆いたこともあったからな。このまま未婚で過ごすという選択肢は無いだろう」
「お詳しいですね。秦明様のご事情について……」
「あ、元々僕を秦明さんに紹介してくれたのはこの人なんです」
黄信の呟きに宋江はそう補足を加えた。
「ただ宋江、親や周囲の意向で望まない結婚をするという事は珍しい話でもなんでもない。というより、好きあった男女が無事結婚するほうがむしろまれだ。そして、良くも悪くも秦明は現実的な考え方をする人間だ。確かにこの事がわかれば、秦明はあの男との結婚を承諾するだろうな」
「ど、どういうことです?」
宋江の疑問に正面の黄信が答えた。
「裏の仕組みを知ればこの町に彼以外の相手はいないことはすぐにわかるのです。まず財産の無い人間は秦明様のご親戚の方が承諾しません。結納金が小さくなりますから。そして、財産のある人間であれば、劉高をおそれて秦明様をあえて選ぶこともありません」
「この町じゃなくて他の町の人たちは?」
「それはおそらく秦明様自身も探しているのでしょうが、これが中々難しいのです。家を継ぐということは秦明様はこの町から動けませんから婿入りということになりますが、財産のある若い男性で婿入りに応じてくれる人間は中々おりません。彼らもまた相手に困っている人種ではないのですから」
要は秦明の結婚相手として残されている人物はそう多くなく、その少ない人間を劉高が排除してしまったために、秦明には選択肢がなくなってしまったのだ。
「恥も無礼も全て承知の上でお願いいたします、宋江様。どうか秦明様をお救い頂きたい!」
再び黄信はその場に顔を伏せた。
「ま、待ってください。黄信さん。えっと、とりあえず頭をあげてください。話しにくいですから」
「ではご承諾して頂けますか?」
「いや、それは軽々に頷くわけにはいかないけど……」
「ならばこの黄信、顔をあげるわけにはまいりません!」
「そう言われても、話しにくいんで……えっととりあえず、じゃあそのままでいるなら絶対承諾しません」
宋江がそう言うとようやく黄信は渋々顔を上げた。
「で、ですね、僕を買ってくれるのはうれしいんですけど、仮に頷きたくても色々問題があるんですよ」
「問題とは?」
「まず最初に僕はそんなに金持ちというわけではないんです。元々、ただの農民、というか小作人みたいなものですし」
「ご謙遜を。前に秦明様と町に出た際はかなりいい服を着ていたと聞いております。織物屋の商人が言っておりましたが、宋江様の服で小さな家と交換できるような代物だと聞きましたが?」
「いや、あれは単にお世話になった人からのもらいもので……ってあれ、そんなにバカ高い代物だったの?」
思わず横に居る林冲を仰ぎ見たが、彼女もその手のことには詳しくないのかさあ、と言って首を傾げるだけだった。
「そ、そうだったのですか?」
黄信が呆然とした表情を返す。噂を流すだけでなんとかなると思っていた点と言い、どうもこの人物、根は善人なのだろうが思い込みが激しい点がある気がする。
その表情があまりにも哀れだったのかもしれない。林冲が助け舟を出すように口を開いた
「宋江、君を困らせたくて言うわけではないが、柴進なら事情を話せばそれぐらいの金は貸してくれるのではないか?」
「柴進とはまさか、滄州にいらっしゃるというあの後周の皇帝、柴宗訓殿下の末裔のかたで?」
「そうだ」
「おお、なんと!! それほどの方が後ろ盾になってくださるなら劉高など何するものぞ!」
ヒートアップする黄信を見て、宋江は思わずジト目で林冲を睨んだ。
「いや……すまん。ここまで乗り気になってしまうとは思わなくて……」
さすがに林冲もバツが悪そうに額を手で抑える。
「ま、まあ、まだ柴進さんが味方してくれると決まったわけでもないですから。それに問題は他にもあるんです。僕、青州では罪人扱いでして、三ヶ月の追放っていう軽い刑なんですけど、前科者だから多分親戚の皆さんも仮に財産あっても納得しないんじゃないでしょうか。知州さんもそう言ってたし」
「もみ消します」
とんでもないことを黄信はあっさりと言い放った。
「それに大体、秦明さんが納得しないんじゃ……」
「宋江様は自分が劉高よりも劣るとお思いですか? もし本気でそう思っているなら、失礼ながらそれは謙遜も卑屈も通り越して狂乱としか言いようがございません」
「宋江、それはさすがに私も黄信殿と同じ思いだ」
黄信の反論に林冲までもが同調してきた。
反論が悉く潰されて、宋江は腕を組んで改めてこの話の意味を考え始めた。
秦明は自分の、自分達のかけがえの無い恩人だ。彼女を助けるためならなるべくのことなら力になりたいと思う。
よくよく冷静に考えてみれば、それほど問題の大きな行動とも思えない。少しの間、夫のふりをするだけだ。四六時中監視がついてるわけでもあるまいし、人前でだけ、それっぽく振る舞っていればいい。互いに偽装だとわかっているのだから単なる儀式のやりとりのみで済むはずだ。
(とすると、そう深刻に考えることも無いのかな?)
「一度結婚して離婚という形でいいのかな?」
宋江がそう聞くと、黄信にとって埒外の質問だったらしく、彼女はきょとんとした。
「こちらも無理をお願いしている立場ですから、ダメとは申し上げられませんが、何故ですか? 身内びいきを差し引いても秦明様は立派で魅力的な女性だと思いますが……」
「いや、ちょっと事情があってね、僕も一生、この町に住み続ける訳にはいかなくって」
宋江はそう言ってみたものの、秦明が一生劉高と暮らしていかなければいけないことと比較すると、自分の抱えている事情はひどく軽いものに思えた。だが、もしその様に宗旨替えをするというなら楊志に対して義理立てすべきで……
(……ダメだ、頭がこんがらがってきた)
思わず宋江は額を押さえてうめいた。
「黄信殿、一つ質問させて頂いてもよいだろうか」
宋江が頭を抱えたために生まれた空白を埋めるように、林冲が口を開いた。
「ええ、どうぞ」
「貴殿の話を疑うわけではないが、一つわからないことがあってな、その劉高という男、それほどの権力を持つなら、すぐに秦明殿との結婚にこぎつけることができたのではないかな? この場合は喜ばしいことだが未だに秦明殿が劉高のものになってないのはどうしてなのだろうか」
林冲がとつとつと尋ねると黄信はこくりと頷いた。
「仰られるとおりです。それには劉高側にある事情があって彼もすぐに秦明様に結婚を申し込むわけにはいかなったようなのです」
「その事情とは?」
林冲が重ねて聞くと、黄信は顔を曇らせた。
「……口に出すのも憚られるほど、馬鹿馬鹿しい事情なのですが」
「単なる好奇心だから、無理に言ってくれなくても良いのだが……」
林冲のその言葉に黄信はしばし黙したが、やがて口を開いた。
「いえこちらから協力を申し出た手前、宋江様たちには極力、情報は提供すべきでしょうから、ただ……特に張殿にとってはかなり不愉快に感じるかもしれませんが、よろしいですか?」
(張? 誰だ?)
と、宋江は一瞬思って、それが林冲のことを指しているのだと気づいた。
「今更では無いかね」
「まあ、それもそうですね」
林冲が軽く笑い、それにつられるように黄信は小さく苦笑した。そして崩れた顔を再び引き締めると再び口を開いた。
「劉高は許せなかったのですよ。結婚に際して妻の元の地位が自分より上であるという事実が。だから、自分が総兵管の後任と決まるまでは、秦明様に結婚を申し込まなかったのでしょう。明日、あいつは副総兵菅に就任します。それによって総兵菅の後任となることが確定しますからそしたら秦明様に結婚を申し込むつもりでしょう」
「え? 劉高が秦明さんの後任なのは前々から決まってたことじゃなかったの?」
宋江の質問に黄信は首を横に振った。
「候補の一人であったのは事実ですが確定はしていませんでした。まあ、その候補自体、元達殿がねじこんだもので、秦明様はそれにずっと抵抗されていたのですが、つい最近になってそうせざるを得なくなってしまったのです」
「それはまたどうして?」
「秦明様は劉高を総兵管にできぬ理由として実戦経験の無さを挙げていました。それならば実戦経験を積まそうと元達殿は劉高を司令官として山賊退治に向かわせたのです」
「え?」
その情報に宋江の背中にぶわっと冷や汗が広がった。
「宋江様は二竜山という山をご存知でしょうか。ここから北にある山で山賊が根城にしている山なのですが、その山賊の討伐を元知州は劉高に命じたのです。そして秦明様もその山賊を無事退治できたなら、劉高を後任とするということに同意させられたのです」
ふうと黄信は一息ついた。
「秦明様も私も、正直、劉高が山賊を退治できるなどとは微塵も思っていませんでした。相手は青州最大の山賊で、砦もしっかりしてますし、賊は凶暴な連中が多いです。だが、何が起こったのか、あいつはきっちりと山賊の砦を落として帰ってきました。それで秦明様は劉高が後任となることを認めざるを得なくなってしまったのです」
「………」
宋江は無言のまま、横に居る林冲と目を合わせた。
つまり宋江は認めねばならなかった。この騒動の元となる爆弾は既に他者によって設置されていたものだが、その導火線に火をつけたのは間違いなく自分達なのだと。