その十四 宋江、故あって真実を隠すのこと
滄州から青州の旅で最も目が覚めるのが早いのは大抵、楊志だった。特に二竜山の一件があって以降は宋江の安全のために彼女は意識的に必ず一番に起きるようにしていた。
その習慣は今でも変わらない。その日も楊志は朝一番に目を覚ました。
この場所に移動してきて五日目。まだ慣れないその風景を目に入れる。少し直したとは言え、まだまだ穴がそこかしこに開いている広い板張りの部屋。遠くには壁の役目を昔は果たしていたらしい、漆喰のがらくたが転がっている。その向こうから生まれたばかりの朝日がこちらを照らしていた。
(夏とはいえ、朝は少し冷えるわね)
自分の体を守るようにかき抱きながら楊志は自分の毛布を手探りで探した。が、無い。顔を左右に振って捜索範囲を広げると、どうやら魯智深が寝ぼけたのか、勝手に使っているのを見つけ、強引に奪い取った。
毛布を体にまとい、楊志は再度、あたりを見回す。自分のすぐ横に魯智深(寝たときは遠く離れていたくせにどういう寝返りをうったらここまで来るのか不思議だ)、それとその向こうに林冲。そして床と同じようにところどころ穴の開いた衝立。その向こうにいる人物がせめて寝る場所くらいは分けましょう、と頑強に主張してどこからか見つけてきた物だ。
立ち上がり、その向こうをそっと覗く。自分の命を救ってくれた恩人が毛布に赤ん坊のようにくるまりながら寝息を立てていた。その姿がある事にほっとして楊志はそこを離れた。野宿の時はある程度仕方なかったとは言え、今はいつでも使える井戸水があるのだから、せめて彼が起きる前に顔ぐらいは洗いたい。
(千年後の倭の国から来た……か)
倭の国。東の海の向こうにそんな国があると小さな頃に聞いた気がするが、彼に会わなければ二度と思い出さなかっただろう。数日前に彼自身から聞いた告白を思い出しながら、ぎりぎり建物の体裁を保っているその板間から外に抜け出した。
(やっぱり帰りたいよね。ご家族も友人も向こうに居るって言ってたし)
からからと井戸に備え付けられた釣瓶を下ろしながら楊志はここ数日、頭の中を離れないその考えに再び没頭した。
彼、宋江は元々この国の人間ではなく千年後の倭の国(宋江自身はトウキョウと呼んでいた)から来た人間であるらしい。別の世界かもしれない、というような事も言っていたが、楊志にはいまいち別の世界というのが何をさすのかわからなかった。極楽や桃源郷のようなものかと思ったがそれとも違うらしい。
宋江はある日突然、わけもわからずにこの国に来てしまい、故あって自分と知り合うに至った。この国に来たのはおよそ三ヶ月前。自分と会ってからは一月半ほどが経過している。つまり彼は本来そのトウキョウという場所の人間であり、彼からしてみれば、この国は旅先、いや、自分の意思でここにきたわけではなく、強制的に連れて来られた場所ということを考えると流刑地に近いのかもしれない。ならば彼が一生ここにいないことを選択するのも道理だった。
だが、それを認めるのは楊志にとってはひどく悲しいことであった。それはつまり、宋江にとってはこの国は人生の通過点に過ぎず、いずれ離れていくものだということを認識しなければいけないからだ。より悪意のある言葉を使えば、彼は最終的に自分のことも捨て去って行くという言い方もできる。
無様に彼に縋りついて行かないでと叫ぶことができたら、それはどんなに楽なことだったろう。だが楊志にはできなかった。彼は色々なものを自分に与えてくれた。これ以上、まだ何かを彼に要求できるほど、楊志は厚顔になれなかった。それは傲慢で恥知らずな態度だと彼女は思っていた。
「宋江……」
「はい、なんでしょう」
思わず呟いた言葉に返答がくるとは思わずぎょっとして振り返る。よりによってその当人が居た。
「な、なんでもない! なんでもないの!」
わたわたと手を振って、ごまかすと、彼は怪訝な顔をしながらもそれ以上は追求してこなかった。
宋江に井戸を譲ると、手持ち無沙汰になった楊志は縁側に座って身支度を整える彼の背中をぼんやりと観察した。どちらかといえば小柄な体躯である。一見しただけでは頼りがいがあるような大きさも、敵から守ってくれるような雄雄しさもそこには見つけることはできない。だが、深みがあった。静かで美しい湖のように深く深く、どこまでも沈んでいけそうな、そんな背中だった。
「宋江は、いずれ、向こうに帰るつもりなのよね」
「……はい」
身支度を整えながら彼は少しの沈黙を挟んで、しかしはっきりと頷いた。
「……そう」
それっきり二人は何もしゃべらず、小鳥のさえずりだけが沈黙を遮っていた。
「おっはよー」
と、そんな静寂を一切合財ぶち壊すような脳天気な声を出しながらがらがらと扉を開けて現れたのは魯智深だった。
「おはようございます。魯智深さん」
「随分起きるの早いわねぇ、あんたたちって」
熊のような大きなあくび声を出しながら体の動きを確認するように彼女は肩をぐるぐると回し始めた。
「やーれやれ、しっかし、またこのお堂に世話になるとはねー。秦明のうちが懐かしいわ」
「あう、すみません」
「ちょっと宋江を責めるのはよしてよ」
楊志が噛み付くと魯智深はちらりとこちらを見て、口を開いた。
「別に責めちゃあいないわよ。宋江が発端だけど、宋江が原因では無いのはわかってるもの。今のだって宋江が勝手に謝ったんじゃない」
「む……」
こちらがうなるのを魯智深は面白げに見つめて、やがて宋江に視線を移した。
「しかしまあ、宋江が罪悪感を持ってるなら何か罰でも与えようかしら。そうねぇ……今日一日、全裸で過ごすとか」
「な、なな……何を考えてるのよ、あなたは!」
楊志はとっさに立ち上がると魯智深の視線から宋江を守るように間に入る。
「いやらしいことだけど?」
「即答するんじゃないわよ。腐れ尼!」
出会ってもう一月以上が経っているが楊志は未だにこの尼とは馬が合わない。まあ、互いに合わせる気も無いのだが。
「朝っぱらから元気だな、二人とも」
そのまま、やいのやいのといい合いを始めそうになった二人にこの一行の最後の一人、林冲が声をかけてきた。こちらもいつの間にか起きていたらしい。
「あ、おはようございます、林冲さん」
宋江が真っ先に反応して声をかける。
「ああ、おはよう。一応言っておくが気にするなよ。ここが秦明の家より快適だとは言わんが、楊志も魯智深も私も野宿が珍しくない生活をしてたんだ。雨風がしのげるだけで十分だ。そういう意味では君の健康状態が一番の懸念だな」
「それは僕も大丈夫です。もう大分色々と経験しましたから」
林冲に向けて宋江は遠慮の無い笑みを向けていた。
五日前から、宋江たち四人は秦明の屋敷に行く直前にいた青州の州都の近くにある廃寺に居を構えている。なぜわざわざそんなことになったのか、というと、その原因は六日前の夜に遡る。より具体的に言えば、そこであの二竜山で出会った劉高という男と再会してしまったからだ。
秦明と元達の目の前で、劉高は宋江の顔を見るや否や、酒の勢いもあってか宋江に殴りかかってきた。それ自体はあっさりと秦明に止められたものの、秦明も上司の息子とあってはあまり無茶なこともできず、振り上げた拳を抑えるだけにとどめざるをえなかった。
反応できず、呆然としていた元達に向かって劉高は拳を押さえられたまま、吠えた。
「母さん、こいつは二竜山の山賊だ!」
「え?」
呼びかけられた元達は何が起こっているのかわからないようで目を白黒させている。秦明は宋江をちらりと見ると無言のまま、成り行きを見守っていた。
「本当だ、母さん。俺はこの目で遠征のときにこいつを見たんだ。命乞いするから見逃してやったのに、まさかこんなところにいるとは……!」
「出鱈目言うのはよしてくださいよ!」
ようやく周りの状況に頭が追いついた宋江が反論する。が、劉高はそれを無視した。
「秦明さん! あんたもどうしてこんな奴と一緒に居るんだ!?」
「宋江くんはうちでお世話している客人よ」
秦明は短くそう答える。宋江にはその瞳からはどんな感情も読み取ることはできない。
「……高、一旦落ち着きなさい。秦明、あなたも手を離してあげて」
秦明が渋々といった感じで劉高の手を離す。宋江は警戒を解かずにいたが劉高にはそれ以上、こちらを攻撃しようという意思は見受けられなかった。
「高、まず、あなたの話から聞きましょう。宋江くん、あなたの反論はその後に全て聞きますから、今は黙ってて」
そう言った元達の表情は、今までの温和な婦人のものではなく、冷徹な為政者の顔となっていた。
宋江はこの時、初めて知ったが、劉高は二竜山の山賊を退治するために、派遣されていた軍の将軍だった。
元達に促された彼は自信満々といった調子で、よどみなく嘘八百の物語を語り始めた。
それによると、彼は二竜山を包囲した後に、裏切りをそそのかすことで内部分裂を起こさせ、山賊たち自身に砦に火をつけさせて混乱させてから砦を強襲したことでほとんど被害らしい被害も出さずに、山賊を撃破したとの事。そして逃げる山賊については、慈悲を与えて許した後に青州から出て行くように約束させたのだという。宋江はその時、見逃してあげた山賊の一人ということだ。
もちろん真実は異なる。これは後でわかった話だが、劉高は兵を率いた際に突出しすぎて、罠に陥り、山賊に捕らえられてしまったのだ。山賊もまさか、将軍がかかるとは思っていなかったらしい。宋江が二竜山にいたとき、山賊は劉高を五体満足で返さなくてはいけないと言っていたが、これは攻め手の大将だからではなく、単に知州の息子ということを劉高が言い出して身代金をとるように山賊に薦めたからだという。その代わりに自分の身の安全を保証させたということだ。そして宋江と共に逃げ出すとたまたまその際に林冲が放火したことによって防衛力が著しく落ちた砦を攻め立てることで何とか、砦を陥落させたというわけだ。
この時点では宋江はそのような全貌を知りはしなかったが、もちろんそれでも劉高の話が真実でないことはすぐに気づく。よくもまあ、これだけぺらぺらと舌が回るものだと宋江はある種感心しながら話す劉高を見ていた。
そして幸か不幸か、この劉高の作り話を聞くことでできた時間が宋江の頭を冷静にさせ、そしてある事柄に気づかせた。
劉高は自分が楊志や魯智深と一緒にいるところを見ている。
これは使いようによっては宋江を致命的なところまで追い込む情報だった。何せ楊志も魯智深も林冲も表向きは犯罪者の身分である。幸いなことに林冲が逃げ出したことが表向き知られていないし、楊志も公式的には滄州でつかまった事になっている。そして魯智深は名前も知られていなければ姿絵もかなりいい加減なものだ。劉高はあまり仕事熱心な人物でもないし、宋江の横にいた彼女らがそうした重要人物だと気づかれる可能性は非常に低い。が、それは決してゼロではない。そして一度、それに気づかれてしまえば、すぐに宋江への追求が始まるだろう。下手をすれば秦明にまで累が及んでしまうことも考えられる。
これを防ぐために、宋江は劉高を利することになっても彼の言うことを否定すべきではない、という結論に達した。言い争いになれば、劉高が彼女たちについて何を言い出すかわかったものではない。劉高の主張が通るのは非常に腹立たしいが、それでも自分を起点にして楊志達のことがばれ、匿っていた秦明に迷惑をかけるよりはずっとましだ。
ただ、自分が山賊という結論になってしまうのもそれはそれで困る。宋江は楊志の疑いを晴らすために、この知州の協力をとりつけたいのだ。後一歩のところで邪魔が入ってしまったが、まだ道は塞がれていないはずである。
「宋江くん。以上がこの子からの主張だったけど、何か言いたいことはあるかしら」
劉高の説明を聴き終わった元達の言葉に宋江は必死に頭を回転させた。
最も優先すべきは秦明に累が及ぶのを避けること。そのために自分と魯智深、楊志のつながりは絶たなくてはいけない。秦明は自分たちを助けてくれただけで何も悪いことをしていないのだし、それに最悪自分がどうにかなってしまったとしても秦明さえいれば、楊志の無実の罪は晴らせる可能性は残る。幸いな事に劉高は魯智深たちについては何も思い出さなかったのか、それとも自分の作った英雄譚に都合が悪いのか、彼女たちについては何も言及されていなかった。
「劉高様の仰る事は基本的に正しいです」
宋江はわざわざ跪いて、元達に話しかけた。秦明と劉高がそれぞれ後ろで驚く気配がするがそれは無視する。
「ただ、いくつか訂正させて頂きたい箇所があるのもまた事実です」
ここからが正念場だと宋江は言い聞かせた。
劉高は何故自分の事を山賊だと糾弾したのか。彼が魯智深や楊志の事を思い出さないうちに議論を終わらせるにはそれが肝要だった。そこを間違えると劉高の主張を認めて引いたことすら台無しになってしまう。宋江は劉高の語ったストーリーを頭の中で反芻し、一つの結論にたどり着いた。
(多分、砦の中で捕まってたことやその中の言動を指摘されては困るのだろうな)
先ほどの話から察するに劉高は華々しく、山賊に打ち勝ったということにしているのだろう。ならば、宋江の口から山賊の砦で働かされていて、無様にぺこぺこしてました、などという証言が出てきては困るのだ。そのために劉高は宋江の信用を落とそうとあんなことを言ったのだろう。うまく行けば宋江が何を言っても山賊の虚言で済むわけだ。
(となれば、それを否定しない上での話にするしかないか)
宋江は瞬時にそこまでの結論に達すると、口を開いた。
「僕が二竜山の砦にいたのは事実です。しかし、それは山賊としてではなく、あくまでそこで強制的に働かされていたただの下働きとして、なのです」
言いながらちらりと劉高を盗み見る。彼は額に汗を浮かべながらじっとこちらをみている。
(傲慢なくせに小心者なんだよな)
宋江は心の中で劉高を罵倒することで少し溜飲を下げると言葉を続けた。
「二竜山に居たのは極々短い間。その間に人のものを奪ったことも殺したこともありません。そうして逃げる機会を探っていたときに、先ほど劉高様が話された火事が発生し、その際に逃げ出した、というだけなのです」
元達は間髪入れずに質問をしてきた。
「あなたは気功使いなのでしょう。火事を待たなくても、いえ、それ以前に山賊に囚われる前に逃げ出すことができたのではなくって?」
「多勢に無勢でした。それに先ほど申し上げたとおり、僕はこれから済州に行かなくてはいけません。それまでは絶対に死ぬわけにはいかなかったので、安全策をとったのです」
「……一応理屈は通るわね」
元達は宋江を見下ろしながら淡々と言葉を紡いだ。
宋江はその様子をちらりと見上げながらふと考える。
(そもそもこの人は息子の事をどう思っているのだろう)
これほど聡明な人ならば、できのいい息子ではないのは、わかっているはずだ。そのために宋江という自分の言うことを聞く人間を軍に迎えようとしたのだし。
だが見たとおり、劉高は自分の事を邪魔だと思っている。そこで元達はどうするのか。息子の反発を受け入れた上で自分の言を信じ留め置くのか、それとも息子の反発に載せられ、自分をもう無用とみなすのか。
「高。あなた、少し外で待っててくれる」
「でもよ、母さん……」
「大丈夫よ、秦明さんもいるんだし」
赤子に言い聞かせるように元達が言うと、劉高は渋々と言った調子で、部屋から出て行った。
「ごめんなさいね。普段はあんな感じではないのだけど、興奮すると周りの事が見えなくなってしまうようで」
元達のコメントに宋江は素直に賛意を示す気にはなれなかった。だが、それでもなんとか微笑んでみせる。
「気にしていません。大丈夫ですよ。男としては少し情けない話ですが、秦明さんが止めてくれたので怪我もしてませんし」
「そう言ってもらえると助かるわ。誤解されやすいけど優しい子なのよ」
宋江はふと昔読んだ本の事を思い出した。外国人の作家が書いた子供向けの本だったと思うが、何かの書き出しに自分の子供をほめる親というのがいかに聞くに堪えないかというのをこれでもかといい連ねていた文章だった。
宋江もその作家に全力で同意を示したい。これに比べれば脳みそに風船と砂糖菓子しか詰まってないような連中の恋人自慢の方がいくらかましだというものである。おまけに実態がその語られる美辞麗句とは程遠いことを知っている宋江は微笑を崩さないようにしているのが精一杯だった。
「本当は宋江くんにはあの子を支えて欲しかったのだけど、何があったかは知らないけど、あの子があれだけ反発しているというのは、何かある……というふうにしか思えないのよね」
宋江の心の中を掘り返すように元達は言葉と視線を投げかけた。だが、宋江は真実を語ろうとはしなかった。宋江は元達を信じられない。いや、他のことならともかくこの人は息子に対してかなり甘い。
例えば今の状況だ。理屈や経緯はどうであれ、今の宋江は元達の呼んだ客人である。それを問答無用で殴りかかるなど、正気の沙汰ではないし、普通は許しはしないだろう。だが実際には劉高は今だ何のお咎めも受けていない。それにそんな公正な人ならば、劉高はあそこまで増長はしていない。とっくに誰かが彼の普段の言動について上申しているだろう。直っていないということはその訴えが有用に活用していないということだ。
「宋江くん。あなたから私に言うことは無いの?」
黙っている宋江に耐えかねたのか、元達は重ねて質問してきた。
「発言を許して頂けるのであれば僕が本物の山賊であるにせよそうでないにせよ、秦明さんはそのことを知りませんでした、ということだけは言わせてください。というより、僕が二竜山に居たことすら彼女は知りませんでした」
元達の望む答えではないだろう。宋江はそれを知っていたがあえてそれを言った。
「それだけ?」
「これ以上は言っても詮無いことかと。劉高様をお呼びになってください。彼がまだ言いたいことがあるというのなら、僕もまた別の事実を申し上げましょう」
宋江がそれだけ言うと、部屋は沈黙で静まり返った。
「元知州、少しよろしいでしょうか」
次に口を開いたのは秦明だった。
「……なんでしょうか」
少し間をおいてから元達は発言を許した。
「ご子息様の報告は事前に私も聞き及んでおりましたし、確かに信がおけるものでしょうが、この宋江も才があり、また信が置ける人間である事は元知州もご存知の通りでしょう」
元達は反論しなかった。肯定もしなかったが。
「劉高殿が何故、あそこまで宋江殿に強く反応したのかはわかりませんが、宋江殿を失うのは良策とは思えませぬ。そこでこうしては如何でしょう。とりあえず、宋江殿には山賊の疑い有りとして、三ヶ月、青州からの追放処分といたします」
宋江は元より旅人であるので、これは実質的には刑罰が無いも同様である。
「その三ヶ月で劉高殿により詳しい話を聞き、宋江殿に関する誤解を解くとしましょう。そして三ヵ月後にまた宋江殿がこの町に来た時に改めて仕官の話をすればよろしいのではないでしょうか」
秦明の提案に元達は若干渋い顔を見せた。
「秦明。それは私としては確かにいい案ですけど、いくらなんでも宋江くんを蔑ろにしすぎではなくて? 追い出した上にさらに呼び戻せというの?」
宋江は元達からそんな言葉が出てきたことに少なからず驚いた。おそらく、息子の事さえ絡まなければ有能で公平な人なのだろう。
「なら、こうしてはどうでしょうか、先ほどの宋江殿からのお願い、宋江が軍に仕官したときでなく、この町に戻ってきたときに執り行ってください。軍に所属することではなく、この町に再び戻ってくるということを条件に彼の無実の友人を救うことといたしましょう。それなら宋江殿も納得するはずです。そして宋江が仕官するかどうかは最終的に劉高殿が判断されること。そのときになっても劉高殿が嫌というのであれば、これはもういたし方無いでしょう」
秦明の言葉に元達は先ほどよりもより長い時間、沈黙を保った。
「……なるほど。いいでしょう、宋江くん、あなたはそれでいいかしら」
「え、ええ」
宋江は頷く。罰は実質的に無い上に話次第では、軍に入ることなく、楊志を助けてくれるのであれば、宋江としても否というつもりはない。これはまた秦明に感謝せねばならないことが増えたようだった。
「ただ、宋江くんとあなたの祝言は難しくなるでしょうね。さすがに罪人となれば、あなたのご家族を説得するのは難しいでしょうし」
「いや、それはまあ、元から無かった様な話なんで別にいいんですけど」
渋い顔を見せたままの元達の言葉に秦明は苦笑して首を横に振った。
「わかったわ。ごめんなさいね、宋江くん。うちの子には後できつく言っておくから」
その言葉がどの程度、宋江の期待に沿った形で実現されるかは知らなかったが、ともかく、宋江と秦明はその晩は何事も無く家に帰った。
そして次の日、宋江は青州の町を出てこの廃寺に居を構え、そこに魯智深達もついてきたのが現在の状況である。
一行が青州の町からすぐ近くのこの寺に居るのは、秦明が濮州の朱仝に問い合わせた楊志の手配に関して詳細を聞いた質問に対する答えを待っているからである。その内容を秦明から聞いた後はどのような内容であろうと一行はとりあえず、宋江を連れて済州に戻るつもりで居た。三ヵ月後に宋江がこの町にこれるようになるまで楊志の手配を解除する件はひとまずおあずけとなるため、それまで宋江がここで待つというのはさすがに問題だし、意味の無いことだというのが四人の共通の見解であった。
食事自体は秦明の手配を受けた人間がここに運んでくれるため、大して問題ない。手入れもされていなかった廃寺のため、雨風が問題だったが宋江が気功の力で少しずつ床や壁の穴をふさいでいるし、幸いにして雨も降る気配が無いため、野宿に比べればだいぶましな生活を四人は送っていた。
異変が訪れたのはそしてそんな生活を続けて五日目の今日のことだ。
「頼もう!」
その大音声が聞こえたとき、宋江を含む四人はお堂の中で朝食を終わらせたところだった。
「誰だろ。秦明の使いじゃないでしょ。いつもこんな時間に来ないし」
魯智深が箸をくわえたまま、耳を澄ましてそういう。魯智深の言うとおり、秦明の使いはいつも午後に来る。
「……まさか、あの劉高とかいう奴の手下が宋江がここにいることをしって襲ってきたとか?」
「それだったらわざわざ、声をかけたりはしてこないだろう。どれ、私が出よう」
林冲は不安げな表情を浮かべた楊志の言葉を首を振って否定してから立ち上がり、お堂の引き戸に手をかけた。
「どちらさまかな?」
宋江は楊志や魯智深と共にその引き戸の死角に移動すると外の声に耳を傾け様子を伺った。林冲の対応から察するに来訪者は既に、廃寺の門の内側にいるらしい。ただ、元より門がそもそもその機能を果たしているのかと問われれば、口をつぐむしかないのだが。
「突然の訪問、失礼する!」
きびきびとした声が林冲の向こうから聞こえてくる。
「自分は青州の騎兵都管、黄信と申す! こちらに宋江様がいらっしゃると聞き、ぜひともお目通りしたいと思い、参りました!」
宋江の鼓膜を通り越してしまいそうなほどの大きな声で、その突然の来訪者は堂々と宣言した。