その十三 宋江、交換条件を出すのこと
「軍人に、ですか?」
予想だにしなかった言葉に宋江は思わずオウム返しに聞き返した。
「ええ、あなた文字は読めるかしら? まあ、読めなくてもまだ十六ならなんとか勉強すれば間に合うでしょうし。気功が使えるのならば、それなりの地位につけるわよ」
「元達様、ひょっとして、このために……?」
「ええ、そうよ」
秦明が質問すると元達はあっさりと頷いた。つまり、彼女が会いたかったは秦明の結婚相手としてではなく、気功使いとしての宋江にあったようだ。
「それならそうと、最初から言ってくだされば良いのに……」
「ふふ、ごめんなさいね。真っ赤になって否定するあなたがあまりに可愛らしいものだからついからかいたくなってしまったの」
手を口に当てて、元達はくすくすと上品に笑った。
「それで、どうかしら、宋江くん」
「あの、僕、体力も無いし、文字の読み書きも最低限しかできないような人間なんですけど。気功使いってだけで採用してもらえるんですか? 大体気功も使えるようになってから一ヶ月も経ってないんですよ」
「当然よ。文字の読み書きもできるならなおさら拒む理由は無いわ。あなただって気功使いの貴重さは知ってるでしょう?」
「貴重……なんですか?」
晁蓋、劉唐、楊志、魯智深といった幾人もの気功使いを目の当たりにしてきた宋江にしてみれば元達の言葉はいささか意外だった。救いを求めるように秦明を見上げると彼女もこくりとうなずいた。
「この青州でも気功を使えるのは私を含めて三人だけよ」
気功の使い手というのは少ない。
気功は一応、時間さえかければ誰にでも習得できる技術ではある。が、才能によってそれを習得までの時間はかなり違う。才能がなければ十年かかっても何もものにできない、ということも珍しくない。しかも当たり前だが修行を開始する時点で自分がそうした才能にあるかどうかは本人にわかるわけではない。もし、自分に才能がなければ十年以上の歳月を無為に費やすことになりかねないのだ。
おまけにそうして首尾よく気功という技術を手にしたところで、それが有利に働く職場は軍人くらいのものだ。しかもこの国では社会的に軍人の地位はそれほど高くない。これはこの国の建国前に起こった戦乱が主として軍人によって起こされ、その反動のために制度的にも軍人の権威が貶められているからである。
こうして気功という技術を取得するリスクとリターンを考えた場合、そんなものにうつつを抜かす暇があるなら、科挙(公務員試験)の勉強でもしていた方がこの国でははるかに割が合うのである。
科挙もまたリターンが返ってくるのに時間がかかるのは気功と同様だが、それでも合格したときのリターンは軍人になるよりも大きなものだし、合格しなかったとしても地方の下級役人や私塾の教師といった受け皿となるような職業はあるので、勉強したこと事態は無駄にならない。失敗した場合に何も残らない気功とは雲泥の差があるのだ。
ちなみに気功の修行などは軍内部でも基本的に行われない。これも理由は同様で才能の無いものに軍として訓練を施すことは多大な時間の無駄となるので、そんなものを覚えさせようとするくらいだったら、槍の振り方を学ばせたり体力訓練でもしていた方がはるかに有用だからである。
この結果気功使いという存在は見つけるのがかなり難しくなっており、どこであっても気功使いということであれば、それなりの待遇をもってどこでも迎えられるのだ。
そんな説明を秦明と元達から一通り受けて宋江はようやく見ず知らずの自分を気功使いというだけで、勧誘しに来た元達の行動に合点がいった。
「それでどうかしら? 悪い話では無いと思うけど」
(軍人……かぁ……)
宋江は腕を組んで、軍人になった自分の姿を想像しようとしてみたが、うまく行かなかった。というか馬に乗って雄雄しく戦っている自分など想像できない。
(でも、定職か……軍人なら楊志さんの弁護するのも有利になるし、宋清にももう少しいい生活をさせてあげられるかな?)
一瞬そう思ったが、この町に住むということは晁蓋や呉用達とは別れるということになってしまうことを意味する。まさかあの二人が自分につきあってこの町に移住するとは考えられない。
「悩むとは意外ね」
そんな宋江を見て元達は意外そうに口を挟んだ。宋江が顔をあげて彼女を見ると、それを待っていたかのように言葉を続ける。
「さっきも言ったけど、気功使いだっていうだけで優遇してくれるところなんて軍以外には無いわよ。あなたはそのために長年気功の修行を続けてきたんじゃないの?」
「あ、えっと、今はまだやらなきゃいけないことが残ってますし。それに僕、まだそんなに修行も長くやってるわけじゃないんですよ」
「え? そうなの?」
とこれは秦明も意外だった様で、宋江に振り向いて聞いてくる。
「はい。二ヶ月くらいですね」
「二ヶ月ぅっ!?」
元達と秦明の声がハモリをあげる。そのまま、彼女たちはひそひそと声を潜めて喋りはじめた。
「そ、そんなに短い期間であれだけのことができるものなの?」
「聞いたことないわけではないですけど、相当早い部類ですね。私はあの位の気が練れるようになるまで一年かかりました」
「そうよね……うちの息子も五年かかって結局あきらめたし」
なんだかひどく興奮しているらしい二人を前に宋江は頬をかきつつ、尋ねてみた。
「そ、そんなにすごいことなんですか?」
平均よりはかなり早いらしい、ということは宋江もなんとなく察していたが、ここまで驚かれるほどのこととは思っていなかった。実際に魯智深が宋江が気功をはじめた時期を聞いても驚かれなかったことも宋江の推論を後押ししていた。
「宋江くん、気が変ったわ。給料を普通の倍出すから、明日から来てちょうだい」
「えええ!?」
突然の元達の申し出に宋江は仰天する。
「役職はそうね、とりあえず秦明の側仕えで実務を覚えてもらって、その後、おいおい考えましょ」
「げ、元達さん、それはちょっと急すぎて……」
慌てて元達を止めようと宋江は口を挟んだが、彼女の勢いは返って加速していった。
「倍じゃ足りない? うーん、そうね、じゃあ五倍! 五倍出すわ!」
ばっと手を広げて元達は言ってくる。その勢いに宋江は圧倒された。
「元達様。宋江くんも困ってますし、少し落ち着いて話されたらどうですか?」
その秦明の言葉で元達は落ち着いた、というよりも宋江に無理強いするのは逆効果だとみたようだった。
「あ……っと、失礼。興奮のあまりちょっと先走ってしまったようね」
「い、いえ……」
一応謝罪の言葉を口にしながら、元達は卓上に乗り出していた身を元の席へと引っ込めた。
「で、宋江くん。五倍でもだめなの? 何か問題があるなら教えてくれれば配慮はするけど」
「ええと、まずはちょっとした事情で済州にいかなければいけないので、明日から仕事というのは難しくて……」
宋江はその『ちょっとした事情』について聞かれたらどうしようかと思いながら元達におずおずと説明する。そこについては何も考えていなかった。
「ふむ。そうよね、あなたにも色々と都合があるものね。じゃあ、それが終わったらここに戻ってきてくれると思っていいの?」
「はい、もちろんです」
宋江は躊躇することなく頷く。隣の秦明が心配そうにこちらを見ているのがわかったが、それはあえて無視した。
「それと、給与は他の人と一緒でかまわない代わりに、もう一つお願いしたいことがあるのですが……」
「何かしら?」
宋江はそこでちらりと秦明に視線を向けると秦明はそれだけで宋江の真意を悟ったらしく、咳払いをして説明を始めた。
「実は……私と宋江の共通の知り合いが今、不当な罪で貶められておりまして……それをなんとか、助けるために御協力頂けないかと……」
「ふむ……細かいところを聞かないとなんとも言えないけど、最大限努力はしましょう。ただ、脅すわけじゃないけど、私の知州としての任期はそう長いわけではないから、それがしたいなら済州からは早めに戻ってきてね」
「ええ、それはもちろん」
「いい返事ね。ますます気に入ったわ」
元達はそう頷くと今度は突然、秦明に向き直った。
「ねえ、秦明」
「なんでしょうか」
秦明もまた少々緊張した表情で答える。
「あなた、噂どおり、本当に宋江くんと結婚したらいいんじゃないの?」
「はい!?」
いきなり話が明後日の方向にとんで秦明は一オクターブ高い声をあげる羽目になった。
「げ、元達様!? どうしていきなりそんなことを!?」
「あら。そんなに変なことを言ったつもりは無いのだけど。二人ともまだ若いんだし。宋江くん、こんなに有能で義理堅そうじゃない。どんな関係だか知らないけど、普通、五倍もの高給を振ってまで友人を助けようとする子なんていないわよ」
「あ、あの、元達様、しかし……」
「秦明さんの親戚が不安なら私が説得してあげる。もし不安なら二人の式の費用や宋江くんの結納金も貸してあげてもいいしね」
秦明の言うこともかまわず、元達は話を続ける。宋江はといえば、あまりの展開の速さにぽかんとして何も口を挟めずに居た。
「私もちょっとあなたの結婚相手について口出し過ぎたかなって後悔してるの。あなた見た目が若いからつい忘れてたけど、もう二十二なのよね……でも宋江くんはちょっと家柄とかはわからないけど、将来性抜群だし、私も太鼓判を押すわ」
「ち、違うんです。元達様。あの、宋江くんにはもう意中の相手が……」
「あなたが本妻で、その子を妾にしちゃえばいいんじゃないの?」
「そ、それはなんだか横取りするようで……」
おそらく秦明が言っているのは楊志のことだろう。自分が少なくとも今は楊志とも結婚する気は無いのは知っているはずだが、慌てているせいか、そのことも忘れてしまっているらしい。
「ねえ、宋江くん。どうかしら、秦明さんは。あなたより六つ年上だけど、まだまだ女性としては全然いけるわよ。お相手がもう既に決まってるらしいけど、秦明さんの実家はこの町の名門だし、あなたの相手の女性もいい暮らしができると聞いたら妾という立場でも納得してくれるんじゃないかしら。まさかどこかの大金持ちの跡取り娘というわけでもないでしょう」
秦明を押しても効果が薄いと見たのか、元達は今度はこちらの方に話をふってくる。
「いえ、あの、どうしてそもそも僕と秦明さんが結婚した方がいいと?」
「年頃で、つりあいのとれそうな男女がいるのなら結婚したほうがいいにきまってるじゃない」
まるでジャガイモとにんじんがあるから晩御飯はカレーにしよう、というような軽さだ。宋江は少し困った顔を見せたがそれに気づかないのか、気づかないふりをしているのか、元達はこちらにかまわず話を進めてくる。どうも結構強引な性格らしい。
「あなただって結婚はしたいでしょう。それにほら、結婚して身元がしっかりしてるほうが他の皆も受け入れやすいし、秦明さんの身内って言えば新参で出世してもそんなにいじめられなくて済むわよ。良い事尽くめじゃない」
「ま、まあ、その結婚の利点とかそういうのはわかりましたけど」
正直、楊志のことだけで精一杯だったのに、この上、秦明まで加わっては完全に脳の処理がおいつかなくなってしまうのできっぱり断りたいところだが、元達の不況は買うわけにもいかないし、言い方を一つ誤れば後から秦明に何を言われるかたまったものではない。
ちらりと秦明を見るが、彼女は難しい顔で何かを考え込んでいるようでこちらを助けてくれそうになかった。
「まあ、あの、突然の話で、秦明さんも混乱しているみたいですし、それについては、ちょっとまたゆっくりと話をさせてください」
「うーん、それもそうね……」
宋江が言い訳するように言うと、意外にも元達はすんなりと引き下がった。
そして、そこで会話が止まるのを待っていたかのようにすっと部屋の扉が開け放たれた。
「元達様」
と声をかけてきたのは先ほどもやってきたこの店の従業員だった。
「なにかしら?」
「待ち合わせておられた方が来られましたが……」
(待ち合わせ?)
その単語に宋江は反射的に机を見回した。確かに、席と食器はもう一人分用意されている。てっきり四人がけの卓だからそのまま残されているだけなのかと思ったがこれはどうやら後からくるもう一人来るために空けられてたものらしい。
「そうなの? それじゃあ、ここに案内して」
「それが、その……ひどく酔っておられるようで……その私どもでは手荒なことをするわけにもいかず、ご助力頂けないかと」
店員は困りきった顔でそう言う。すると、元達はあれほど飲みすぎるなって言ったのに等と呟きながら立ち上がった。
「ごめんなさい。少し待っててもらえる? 実は宋江くんに会わせたい人がもう一人いるのよ。私の息子なんだけど」
「はい。それはかまいませんが……」
立ち上がった元達を見上げながら宋江は頷く。
「ええ、じゃあ悪いけど少し秦明さんと二人で話しててね」
元達は笑みを浮かべながらそう言うと、店員と共に部屋を出て行った。
「宋江くん。ごめんね、つくづく変なことに巻き込んじゃって」
上司がいなくなったことで少しリラックスできたのか、肩を下ろしてため息を吐きながら秦明はそう言ってきた。
「いえ、秦明さんのせいではありませんし……それより、あの、どうします? 結婚がどうとかって……」
「そりゃ、楊志さんのことを考えたら頷くわけにはいかないでしょ……」
秦明が俯いてか細くそういう。宋江もですよね、とだけ言って頷いた。
「あ、ちょっとほっとしてる。傷つくなー」
こちらのこめかみにぐりぐりと拳を押し付けながら、秦明は言ってくる。
「いたたた、やめてくださいよ。大体、結婚してください! って言ったら楊志さんのこと、どうするの? って怒るんでしょう」
「怒らないわよ。断るけど」
「じゃなんでぐりぐりするんですか」
「振るのはいいけど、振られるのは頭にくるじゃない」
勝手な理屈だが、気持ちはわかる気がする。
「しかし、気功使いってだけであそこまで優遇されちゃうものなんですか?」
話の流れが悪いと悟り、宋江は話題を入れ替えた。
「それもあるけど、多分、私と個人的につながりがあるというところも評価されたのでしょうね」
「秦明さんと?」
「私が軍を抜けた後でも、私の影響力をあなたを通じて保持しておきたいんでしょう」
「どういうことです?」
意味がわからずに宋江は首をかしげる。秦明はくいっと目の前にある酒を口にして話を続けた。
「結婚すれば、私は当然軍を抜けることになるんだけど、その後継者が今から来る元達様の息子なのよ」
秦明の表情が目に見えて曇った。
「あなただから話すけど、能力や人望があるとは言いがたい男でね、それは元達様も薄々気がついているから自分の息のかかっているあなたを軍の中に送り込んでその男の味方をして欲しいんでしょう」
「なるほど……」
要は元達は宋江の気功の才能もさることながら、それ以上に息子派の人物になるのを当て込んでるわけだ。
「ついでに言えば私とあなたが結婚すれば私の影響力もあなたを通じて行使できる。そうすれば下の不満もある程度抑えられるとにらんだのではないかしら」
「花栄さんとか、この間も話に出た黄信という人ではダメなんですか?」
「ダメよ。花栄は誰の言うことも聞かない自由人だし、黄信は相性が悪すぎる。というか、あの子こそが反息子派の筆頭なんだもの」
青州軍内部の構造を頭に思い浮かべ、宋江は気弱な顔で秦明に言った。
「そんなところに新参の僕を投げ込んだところでどうにでもならないと思うんですけど」
「だからあなたの背後に私をちらつかせるんじゃない。仮に私と結婚しなくても秦明が連れてきた人間といえば、黄信たちもあるていど口をつぐむと考えているんでしょう」
「あ、なるほど」
「私は表向き彼との衝突は避けてたから、私は彼の味方だと元達様は判断しているんでしょうね」
「実際は違うんですか」
宋江が聞くと秦明は曖昧な笑みを浮かべた。
「私的に仲良くなりたい種類の人間ではないのは事実よ。でも総兵管という立場である以上、それをあまり露骨に態度に出すわけにもいかなかったからね」
「働くって大変ですね」
宋江はしみじみと慰めるように言った。秦明のその声の調子だけで彼女が今までこのことで相当な苦労をしたらしいことがなんとなく察せられたからだ。
「他人事じゃないのよ。これからはその息子さんとあなたが関わる事になるのだから。というかいいの? なし崩しに軍人になることが決まっちゃったけど」
「手放しで喜べるわけではないですけど、あの知州さんが退職するまで勤めればいいわけでしょう? それならそう先の話ではないだろうし、二、三年くらいなら付き合いますよ」
「無理だけはしないでね。色々な意味であなたはもう、替えのきかない人なんだから」
「ええ、ありがとうございます。まあ元来、臆病な男なんでせいぜい税金泥棒をすることにしますか」
宋江のその冗談に秦明が笑ったところで、部屋の扉が開いて元達が姿を現した。
「ごめんなさいね。お客さん放っておいてしまって」
そう言った彼女は後ろに一人の男を連れていた。これが彼女の息子かと宋江はその男を見上げる。
自分より少し高い上背にまるで暴走族の特攻隊のような白地に赤い鳥の装飾の入った派手な服を身に纏っている。趣味は悪いが、それなりに上等な生地でできているらしいことは宋江にもわかった。酒がまだ抜けきっていないのか、赤ら顔でしまりのない笑顔を浮かべており、上体はふらふらと頼りなく揺れていた。
その顔を見た時、宋江はふと既視感を感じた。どこかで見たことがあるような男だと思った。しかし、どこで見たのか思い出せない。勘違いかと思いかけたとき、上機嫌そうだった男の顔がこちらに視線を合わせた途端、軽薄な笑みが憎憎しげなものに変る。
「なんでお前がこんなところにいるんだ?」
その声を聞いてようやく目の前にいる男があの二竜山で出会った男だということを思い出した。




