その八 魯智深、宋江に御礼を要求するのこと
「だから大丈夫だってば。そんなに落ち込まなくても。大体あれはどうみたって宋江の方が悪いわよ」
「で、でもよくよく落ち着いて考えたらね、いくらなんでも剣で殴ったのはやりすぎだと思ってるのよ。それにあの後、宋江ずっと話かけてくれないし」
それのどこが落ち着いて考えた結果だというのか聞きたいと思ったが魯智深は言葉に出さずにおく。助けを求めるように横に居る林冲を見るが、彼女は肩をすくめるだけだった。
魯智深がいるのは秦明から与えられた部屋である。自分たち三人は宋江とは違い、指名手配中の身なので軽々しく外に出るわけにはいかない。自分は朝からだらだらと酒を飲んだりしていたのだが、夕刻になって突然、林冲を伴って楊志がおしかけてきた。
この屋敷についた時の一件以来、宋江が楊志に対してひどく怒っているらしいのでどうしたらいいだろう、という相談らしかった。
魯智深からみれば宋江は怒っているというよりも楊志にどう接していいかわからずおろおろしているだけなので、大して心配する必要も無いと思っているが当事者である楊志はそうは考えられないらしい。最初は林冲がなだめすかしていたのだが、どうも彼女だけでは力不足だったようなので魯智深のところにころがりこんできたようだった。丸投げしたともいう。
「ほら、楊志。魯智深もこう言ってるじゃないか。そんなに心配する必要も無いだろう」
林冲も魯智深と同じような事を話したらしい。寝台に並んで座る楊志の頭をぽんぽんとたたく。
「うう、本当?」
楊志は涙ながらに尋ねてくる。
(この子、本当に元軍人なのかしら)
年頃の町娘と大差ない、いやある意味それよりひどい楊志の様子を見て魯智深は心中で呟く。それはそれとして泣かれるのも面倒なので質問に答える。
「本当だって。きっとあいつのことだからあんたにどう接していいのか、わからないのよ。そんなに不安ならあたしがとりなしてあげようか」
魯智深は冗談交じりで提案した。楊志は自分の事に対してあまり肯定的な感情をもっていない。まあ、さんざん自分がからかったりしたのが原因だからそれは良いのだが。発言の狙いはなんのかんの言って自尊心の高い楊志に対し、こう言い出せば発破代わりになると思ったからである。だが、魯智深にとっては想定外なことに楊志は少し迷ったそぶりは見せたものの、結局首を縦に振った。
「え? えーと、いいのね? 私に任せちゃって」
確認するようにもう一度問うが楊志は再度ぐすりと泣きながら、首を縦に振る。
「ほら、魯智深。自分で言い出したんならとっとと行ってきてくれ」
これ幸い、といった調子で林冲までもが急かすように言ってくるので、自室であるにも関わらず魯智深は追い出されるように自らの部屋を出ていく羽目になった。
「ったく、もう……」
魯智深が頭をかきながら扉をばたんと閉める。
(面倒くさい事になったわねー)
と一瞬思ったがよくよく考えたら、宋江を楊志の目の前まで引っ張っていけばほとんど自動的に解決する話なのだ。さほど面倒くさいことでもない。しかし、それがわかっても魯智深は自分の足取りの重さが変らないことに気づいた。
(なんでかしら)
こんなことぐらい当人たちで解決しろ、という思いがあるからだろうか。それもある。しかしそれが全てではないこともなんとなく感じていた。
ふと、このままこの状態をさらに引っ掻き回したらどうなるだろう、と思った。例えば、宋江と楊志に互いにもう顔をあわせたくないほど怒っていると伝えたら。そこまで考えてそのあまりの趣味の悪さにめまいを覚えた。
(そこまで悪趣味な人間だったかしら、あたしって)
自分に軽い嫌悪感を感じながら魯智深は宋江の部屋の前に立つ。
(……やっぱり止めようかしら)
一度出した言葉を守らないのは自分の価値観から考えてもあまりほめられたことでは無いと思うが、それをしてもいいと思うほどに魯智深の気力はなえきっていた。
果断な彼女にしては珍しく迷い、そのまま扉の近くにたまたまあった箱にこしかけた。そのままため息を吐いて足元を見る。
「なんだっていうのかしら」
少しいらだたしげになっているのを自覚しながら魯智深は自分の足を所在無げにぶらぶらと揺らす。
(というか、今声あげたんだから中に居るなら出てきてくれてもいいんじゃないの)
そんなことを思っていると予想だにしない方向から突然声がかけられた。
「魯智深さん?」
「……宋江?」
自分の反応が遅れたのは宋江が部屋の中から出てきたのではなく通路の向こうから語りかけてきたのもそうだったが、それ以上に宋江が見慣れぬ服装でいたからだ。旅の間中見ていた、麻の旅装ではなく、藍色の絹の服装であったからだ。
「ぷっ……なにそれ、似合わないわよ」
よくよく落ち着いて見れば、長いすそや袖のせいで着ているというより、着させられているという印象が強い。宋江も自覚しているのか少し顔を膨らませて見せた。
「秦明さんが一番上等な服を着て行けっていうから柴進さんからもらったのを引っ張り出してきたんですよ」
「まー、馬子にも衣装ってやつかしらね。って何? 秦明とどっか行ってきたの?」
「ええ、ちょっと外に買い物に」
それを聞いて魯智深は自分の眉根が不機嫌に寄っていくのを自覚した。
「いい気なもんねー。楊志が大変な事になってるのに他の女と遊んでたわけ?」
「遊んでたってそんな……」
「まあまあ、魯智深さん。そんな怖い顔しないであげて」
と宋江の後ろから秦明が声をかけてくる。
「宋江くんはね、楊志さんのためにちょっとした贈り物を買ってきたのよ。私はそれに付き合っただけなの、ね」
確認するように宋江に片目をつぶった。
「え、ええ、そうなんです。秦明さんが色々と助けてくれて」
宋江がこくこくと頷く。
「ふーん、何買ってきたのよ」
半眼のまま、魯智深は宋江に問いただした。すると宋江は手に持った箱のふたをかぱっと空けて見せた。
「これです」
ちょっと自慢げ……というよりは獲物を無事見つけたのを報告してくる猟犬のような目つきだ。ほめてほめて、というわけである。多分、宋江に尻尾が生えてたら左右に揺れていただろう。
宋江が持っていた箱の中に入っていたのは美しく研磨された玉だった。紐がついているところを見ると首飾りか何かなのだろう。
「あら、きれいね」
と魯智深は素直に感心した。
「ええこれなら楊志さんも許してくれるかなって」
「ふーん、そんなもの無くても大丈夫だと思うけど」
「えーと、それは……」
「今までのお詫びやらお世話になったお礼も含めてってことですよ」
言いよどんだ宋江に成り代わって秦明が補足するように言う。
「え、ええ、そんなところです」
それを追うように宋江もこくりと頷く。
「じゃ、あたしにも何かくれるの?」
「え?」
その言葉に宋江だけでなく秦明の動きも止まった。
「あたしだって色々お世話してあげたじゃーん? 何ももらってないんだけどなー、一応命の恩人のはずなのになー」
「ここに来るまでの旅の間に散々お酒おごったじゃないですか」
「あんなん、ただのどぶろくじゃないのよ!!」
さすがに腹に据えかねて魯智深は先ほどまで自分が座っていた箱をべちんべちんと叩く。
「わ、わかりました。じゃあ今度美味しいお酒買って来ますから!」
「どーして、楊志には宝石であたしは酒なのよ」
「え? だって魯智深さんお酒大好きじゃないですか」
「むううう……」
それは確かに好きだが、好きだけど。なんとなく納得いかずに魯智深はうなる。
「酒じゃやだ!」
「わ、わかりました。じゃあ何か考えておきますから!」
もう一言二言いってやりたい気持ちもあるが、とりあえず魯智深はその返事でよしとした。が、忘れずに一言付け加えておく。
「魯智深おねえちゃんは楊志よりいい奴じゃないと納得しないぞー」
「うう……もう、柴進さんからもらったお金も少ないのに」
「まあまあ、宋江くん。いざとなったら貸してあげるわよ」
後ろに居る秦明が彼ににこにこと笑いながら語りかける。
「ところでここにいるってことは魯智深さんは何か僕に御用ですか?」
「ん? んーと……」
と魯智深は頬をかきながら明後日の方を見る。
「なんかただで教えるのもしゃくねー」
「なんだかわかりませんけど、どうしたら教えてもらえるんですか?」
「……まあいいか。じゃあ今度美味しいお酒でも買ってつきあってもらおうかしら、もちろんさっきの贈り物とは別によ」
「それぐらいでしたらかまいませんけど」
宋江は素直に頷く。
「じゃ教えてあげる。楊志があんたと話したいらしいから庭に行ってなさい。楊志にもあたしから庭に行くように言っておくから」
宋江が庭で自分を待っていると魯智深から聞いて楊志はおずおずと、廊下の角から覗き込むように庭を見た。魯智深はその伝言だけ伝えてどこかに行ってしまい、宋江が自分のことをまだ怒ってるのかそうでないのか結局聞けずじまいのままだったのである。
宋江は庭に下りる階段に腰掛けているのだが、しかも、間の悪い事に宋江はこちらに背を向けており、どんな表情をしているのかはわからない。
「そ、宋江……?」
少し近づいてもこちらに気づく気配が無いので楊志は囁くように宋江によびかけた。
彼の顔がこちらに振り向く。愁いを帯びたその顔は夕日に照らされ少し赤く染まっていた。黒い大きな瞳が自分を見据えてくる。それだけで楊志の心臓は早鐘をうちはじめてしまう。
(どうしよう……)
いつの間に、自分はこんなに彼の事が好きになっていたのだろう。顔を少し見ただけで、胸が苦しくなるほどに。
「楊志さん」
宋江の唇が動いて自分の名前を呼ぶ。どうやら怒ってはいないようだった。立ち上がろうとした彼の機先を制するように彼の横に並んで座った。
「それで……何か話したいことがあるって……」
緊張しつつもかろうじてそれだけの言葉を口にする。
「ええ、楊志さんに色々と謝りたくて……まず、先日はすみませんでした」
宋江は深々と頭を下げた。その光景に楊志は虚をつかれたようにその場で固まる。
「ちょ、ちょっと待ってよ。宋江は何も悪いことなんかしてないじゃない。むしろ謝らなきゃいけないのは私のほうで……」
「でも、楊志さんが怒った原因はきっと僕にあるでしょうから……」
「な、なな、ないない。無いのよ。あの時はその私のほうが勝手に、その、変な勘違いして頭に血を上らせちゃっただけなんだから、気にしないで本当に!」
むしろ気にされると楊志としてはとても恥ずかしくて色々困ることになってしまうので、できれば忘れてほしいところだった。
「それはできません」
だが宋江はきっぱりと言い切ってくる。
「今日、色々と考えて、人にも教わって、あのときの自分がどんなに馬鹿なことをしたか、わかったんです。だから、ちゃんと謝らせてもらえませんか?」
「ま、まあ、そこまで、言うなら」
いつになく真剣な表情をした宋江に気おされるように楊志は頷いた。こちらが頷くと宋江はほっと顔を弛緩させる。
「ありがとうございます。というわけで、その改めて言うのも少し間抜けですけども……ごめんなさい」
「ううん、こ、こちらこそ、その殴ったりしてごめんね。あ、こぶとかできてない?」
「できましたけど。すぐにひきましたから、大丈夫です」
その返答に楊志は少ししょぼくれた顔をする。
「やっぱりできてたのね、本当に大丈夫なの? ちょっと見せてもらってもいい?」
「それはかまいませんけど、もう痛みがひいてるから正直どのあたりだったのか……多分、この辺かな?」
と宋江は頭頂部のあたりを指差した。
「ちょっと失礼するわね」
宋江によりそって宋江が指差す辺りを診察していく
「これ……かしら?」
宋江が当初にさしていた部分よりやや側頭部の辺り、そこに少し赤くなった跡がまだ残っていた。
「大丈夫なの? 本当に触っても痛かったりしないの?」
「えっと、それは、その、大丈夫、なんですが……」
宋江の口から出る言葉が奥歯にものの挟まったような調子になる。
「やっぱりどこか異常があるんじゃないの」
「いえ、その、無いです。頭には何も異常ないです……」
(頭『には』……?)
その言い方が気になって少し、宋江の体を見下ろしてみる。特に何かいつもと変った場所があるようには見えない。
「ひょっとしてどこか、体の具合でも悪いの?」
「い、いえ! そういうことじゃないんです!! どこも悪くありません!」
必死に首を振って否定するのでそう、と疑問を残しつつもとりあえず同意した振りをして再度彼の頭の傷を調べる。
調べるために身を乗り出している途中でぴくんと宋江の体が軽く震えた。その震えが彼の腕に触れていた自分の胸を通して伝わってくる。
(え? こ、これって、あれ?)
そこでようやく楊志は宋江の腕が自分の乳房に触れている状況になっていたのに気づいた。そして一度、そのことに気づいてしまうと、一応まだ頭の傷を調べる振りをしているが楊志の意識は完全にそこから吹っ飛んでいた。
(えと、む、胸なの? 私の胸がくっついているから?)
ばくばくと心臓を派手に動かしながら楊志はかろうじてそれだけの結論を得る。一度意識すると急速に体温が上昇していくのを感じる。
(ど、どうしたらいいのかしら? やだ、こんなことなら香水を手に入れておけば……ってそうじゃなくて……!!)
ちらりと宋江の顔を盗み見する。不自然なまでに前方の一点を見つめて、緊張したように口をぎゅっと結んでいる。
好奇心に負けて楊志はほんの少しだけ体を、というか胸を宋江の方に寄せてみた。するとぴくりと面白いほどに宋江の体が反応する。その震えが反響するように楊志の体を刺激してくる。
「ふっ……」
その反応に楊志も我知らず声をもらした。もらしてからそこに確かに心地よさがあることに気づいてしまう。
もっと宋江に近づきたい。もっと多くの部分で触れ合っていたい。
はっきりと言葉にできるほど認識していたわけではないが、楊志の体はその欲望に忠実に従おうとする。
(う……え、えっと、い、嫌がってない……よね? このままでも大丈夫なのかな、臭いとか暑苦しいとか言われないかな……)
楊志の理性が少しだけそう逡巡させた後にそっともう少しだけ体の距離を縮めてみる。宋江の体がまたぴくりと反応した。緊張して宋江を見てみるが、彼は何も言う様子は無い。というか下を向いてしまっていまいち表情が読めないがとりあえず不快に感じているということはなさそうだった。
(い、いいの? いいのね? ち、近づいちゃうよ? もっと近くに行っちゃうよ?)
心中で宋江にそう確認する。同意が帰ってくるはずもないが、楊志は宋江の様子を無言の肯定と解釈して体を少しずつ、寄せていった。
自分が体を少し動かすたびに宋江の体がぴくんぴくんと震える。その震えが自分に返って来るたびに楊志は甘酸っぱい吐息を口から運び出した。宋江と触れている部分がだんだん暑くなる。まるでそこに火がついたような暑さだ。それが少し息苦しくて体を動かすとまた宋江の体から反応がかえってくる。
(ま、まだ、いいのよね? 何も言われて無いものね?)
そんな風に言い訳しながら楊志はどんどん宋江に近づいていく。
「あ、あの、楊志さん? その、胸、当たっちゃってるんですけど」
そしてその動きは宋江がそんなふうに口を開くまで続いてった。実際には当たっているなどというレベルではなく、宋江の上腕部にあたっている楊志の胸が彼女の胸板との間でつぶれてしまいそうなほどの距離にまでなっていた。すなわち、より正確に表現するなら『当たっている』のではなく『押し付けられている』のである。
「へ? あ、あ、ご、ごめんね、ぜ、全然気づかなくて」
としどろもどろに嘘をつきながら悪戯がみつかった子供のように楊志はささっと離れた。
「ごめんね、本当に、う、うん。わざとじゃないの」
「いや、あの、謝ってもらわなくてもいいです、けど……」
お互いに顔を真っ赤にしながら宋江と楊志は互いにそっぽを向いた。
「そ、そういえば何かありましたか?」
何かをごまかすように宋江は顔をこちらに向けてくる。
「え?」
「あの、頭の方、もう大丈夫だと思ってたんですけど、熱心にみてたようですから……」
その宋江の言葉に楊志は狼狽した。そんなことは、途中からすっかり吹き飛んでいたのでろくに何も見ていなかったのである。
「あ、う、うん。大丈夫だったわ。ちょ、ちょっと気になるところがあったから、少し念入りに見てただけなの、ご、ごめんね」
慌ててそう答えると、宋江も安心したように息を吐いた。
(わ、私、今考えるととんでもないことしてたんじゃないかしら……男の人の体に自分の体を押し付けたなんて……魯智深あたりから破廉恥となじられたとしても何も反論できないじゃないの)
湯が沸かせるのではないかと思うほどに熱くなった両頬を押さえて、そのことに楊志はようやく気づいた。
(や、やっぱりどう考えてもやりすぎだったわよね。さっきの宋江の質問だって完全に疑われてたもの。うう、どうしよう。折角この間のことは許してもらえたのに、これじゃ何の意味も無いじゃない、私の馬鹿馬鹿!)
こっそりと宋江の様子を伺うと、宋江はいつもの黒い真っ直ぐな瞳でこちらを見ている。視線があって慌てて楊志は明後日の方を向いた。
「え、ええと、楊志さん。いいですか?」
「な、何?」
「その、すごく図々しいお願いだとは思うんですけど、えっと、僕は……楊志さんと、仲直りしたいなって思ってます……」
「う、うん。別に何も図々しいことだとは思わないけど。わ、私も、その……宋江とは仲良くなりたい……し……へ、変な意味じゃなくてね!!」
「だ、大丈夫です。そんな変な意味に解釈したりしませんから!」
宋江が慌てたようにわたわたと手を振る。
「う、うん。で、でも仲直りっていうなら、そのさっきのでいいんじゃないの?」
楊志はようやく落ち着いてそう答えたが宋江は首を横に降った。
「この間のことはそれでいいのかもしれませんけど、僕は楊志さんにもう一つ謝らなきゃいけないことがあるんです。
その言葉に楊志は胸中で疑問符を浮かべた。他に何か自分は彼に何かされた覚えは無いのだが……
「楊志さん。僕は黄泥岡の事もあなたに謝らなければいけないと、思っています」