その六 秦明、悩みを打ち明けるのこと
滄州から青州に至る旅での食料事情はあまり良いものでは無かった。旅籠に泊まったところで大した食事にありつけたわけでもないし。野宿のときは何も食べられない時さえあった。
そうした事情を抜きにしても、秦明から供された食事は美味しいものだった。宋江は彼にしては珍しく酒まで飲んで、その日の晩餐を楽しんだ。
食事が済むと、通いで来ているという老婆の女中が食器を下げ、茶を用意してくれた。魯智深だけはいらないといって酒を飲み続けていたが。それでも、あまり酒を飲んでいないはずの秦明とのテンションの差は少なく、彼女との会話ははずんでいるようだった。
林冲と楊志もこの場にいるが、元来、口数の多い人間ではないのであまり会話には参加していない。旅の間も、食事や移動中に口を開いていたのはもっぱら魯智深で、それに相槌を打つのも宋江がほとんどだった。一方で、秦明は魯智深と同じ系統でよくしゃべる人間であり、自然、会話はこの二人を中心に展開されていた。
日本にいたときも思っていたが、よくもまあ、女性と言うのはあれだけ話題が尽きないものだと感心する。話題は食事や酒のことから始まったはずの話は今は何故か、秦明の結婚の話へと移っていった。
「なかなかいい相手って巡り会えないものなのねえ」
「え、あなた結婚なんかしたいの?」
魯智深は驚くような様子で言った。
「そりゃ、したいわよ。というかもう二十二だし、子供産むことも考えたら真剣にならないと」
この国の一般的な初婚年齢は概ね十五から二十歳程度、特に十八から二十歳が多い。それから考えると秦明の年齢はそれをやや過ぎている。さらに現代日本ほど医学が発達していないこの国では高齢出産に関わるリスクも大きい。
「相手、探してないの?」
「もちろん。探してるわよ。でもなんだかわかんないけどなかなか結婚まで辿り着けなくて……何がいけないんだろ」
少し落ち込んだ表情でずず、とお茶をすすりながら秦明は言う。
「色んな人が口を出してくるから誰でもいいってわけにもいかなくなってきちゃったし」
愚痴のつもりなのだろう。くるくると湯飲みをもてあそびながら秦明はそう言葉を続けた。
「色んな人?」
「そうお父様とお母様は亡くなったけど、親戚の人たちとか、職場の上司とか、色々とね。お金持ちじゃなきゃダメだとか、あんまり年が違いすぎても駄目だとか、色々……」
「親族はわかるとしても上司までそんなこと言ってくるの?」
と、これはこの国の人間としても少し意外だったようで楊志が驚いたように言った。
「向こうは完全に善意のつもりなのよ……」
秦明は弱りきった表情でそう言う。要はありがた迷惑ということらしい。
「親族も口出してくるってのもよくわかんないんですけど」
宋江の質問に魯智深が料理をついばみながら答えた。
「そりゃねえ、両親が亡くなったからって言って、秦明はあくまで女性だから家長になるわけじゃないもの。結婚の許可は叔父さんか誰かそのあたりが出すって事になるでしょ」
「そうそう。そうなのよ」
魯智深の解説に秦明が卓を叩きながらうなずく。
結婚は当人の合意で決まると言う常識で生きてきた宋江からは少し理解しがたい話だがどうもそういうことらしい。
「といっても親戚連中が求める条件は相手の財産だけだけどねー。結納金さえ確保できればどうでもいいらしいの、嫌になるわ」
「ひどい話ですね……」
「ふふ、ありがとう。まあ両親の居ない娘にはありがちな話よ」
宋江は眉根を寄せるが大して気にしていないのか、秦明はその宋江の表情とは対照的に微笑んで見せた。
「なるほど、それでなかなか候補が見つからないということか?」
「い、いや……見つからないことは無かったんだけど、ええと、その……」
「相手があまりにひどかったとか?」
「そりゃ、欠点の無い人なんかいないし……まあ、なんとかやってけそうかなって思わなくも無かったけど……」
林冲と楊志が代わる代わるに聞くが秦明はそれを両方とも否定する。
「え? じゃあ、どうして……」
魯智深が聞くと秦明は少しだけ沈黙をはさんだ後に言った。
「……向こうから断られちゃって……」
食卓が重苦しい雰囲気に包まれた。
「ええと、ごめんなさい。根掘り葉掘り聞いちゃって……」
魯智深が本気で申し訳無さそうに頭を下げる。
「いえ、いいのよ。気にしないで。私から話したんだし」
言いつつも、気が乗る話題ではないのは確かなのだろう。秦明は沈鬱な表情を見せた。が、数秒としないうちにがばりと顔を跳ね上げた。
「ねえ、宋江くん。男のあなたからみてどう? 私って何がいけないの? やっぱり軍人なんかやってるから筋肉とかついてて固そうって思われてるのかしら。それともいくら財産あっても料理くらいできないとまずいのかしら」
「え、ええと、そんなことはないと思いますけど……」
いきなり美人に詰め寄られたことに怖気づきながらも宋江は答えた。おまけに目じりに涙まで溜められてはこちらが追い詰められたような気分になる。
「そう? じゃあどこがだめだと思う?」
だが秦明は尚もその答えに納得しなかったようで追いかけるように質問を重ねた。
とはいえ、会って数時間であるが宋江から見て秦明が何か致命的な欠点があるような人物には見えなかった。柔らかな髪と体の線。優しげな目元とそれと調和した顔のパーツ。どことなく気品を漂わせながらも気さくで和やかな雰囲気。林冲や自分たちを犯罪者と知りつつ、受け入れたその優しさ。朗らかで温かみのある笑顔。ときおりみせる無邪気なしぐさ。どれを取ってみてもお近づきになりたい要素ばかりだ。
「きっと相手に見る目がなかったんですよ」
宋江は微笑を浮かべてそういってみせた。
「本当にそう思う……?」
未だに目じりに涙を溜め込んだまま、重ねて秦明は聞いてくる。
「ええ。秦明さんみたいにきれいで明るい人なら断るほうがおかしいですもん」
「うう……ありがとう、宋江くんてば優しいのね……」
それを慰めの言葉と受け取ったのか、秦明はよよよと泣き崩れてみせる。
「いや、そういうんじゃなくて……ねえ、林冲さんもそう思いますよね?」
助けを求める形で宋江は林冲にそう問いかけた。
「まあ、そうだな。頑張れ秦明。いつかそのうち、良い人が現れる」
林冲も心得たようで笑顔で頷く。
「じゃあ、そんなに言うなら宋江がもらってあげたら」
と軽い調子で言ったのは魯智深である。
「え?」
とぽかんとした宋江をくいっと引っ張って魯智深は秦明の横に宋江を座らせた。
「どう、秦明。中々悪くないわよ。年齢、十六歳。傷病無し。家族も妹が一人だけだから面倒くさい義実家とのつきあいもないだろうし。博打は打たない、酒は飲まないで家計にも優しい。器量はそこそこ。読み書きと算術は初歩的なものなら大丈夫。穏やかな性格で暴力を振るったりもしない……」
魯智深はそこまで話した時点で言葉をふと止めて宋江をまじまじと見下ろした。
「あんた、本当に優良物件ね」
「それはどうも……」
なんとコメントしていいかわからず、宋江はかくりと頭を下げながら力なく相槌をうった。
「でも、お金持ちじゃないと親戚の人たちも認めてくれないんでしょう。ろくに財産も無い僕じゃ駄目ですよ」
「何、言ってるの。あなた十万貫の財宝を奪ったんでしょ。立派なお金持ちじゃない」
「そういえばそうでしたっけ……」
厳密にはその十万貫を九人で山分けするのだが、それでもこの国では十分裕福な部類に入るだろう。単純計算で一万一千貫。現在の価値にしておおよそ十億円程度である。かなりの無駄遣いをしても一生遊んで暮らせる額だ。とはいえ、後ろめたい手段で取得したお金なので、それを堂々と自分のものだと宣言するのは少々、躊躇するものがあるが
「ということで、どうかしら、こいつ」
「うーん、そうねえ……」
宋江にとって意外だったのは秦明がわりと真剣な様子で考え込んだ事だった。
「ほ、本気ですか? 今日会ったばかりの人間ですよ」
「それを言ったら今までのお見合いだって初対面の人間と結婚するかどうか考えたわけだし……」
「それはそうかもしれませんけど……」
秦明の言い分に宋江が不承不承、同意を示したときだ。
「だ、だめ! 絶対だめ!!」
卓の反対側にいる楊志が大声を上げた。その場にいる全員の視線が彼女に集中する。
おそらく、楊志自身はそこまで大きな声を上げるつもりがなかったのだろう。四対の視線を向けられてからはっと我に返り、顔を赤らめる。
「だ、だって、そうじゃない。宋江はひょっとしたら、ええと、その罪人になっちゃうかもしれないからそうしたら秦明さんに迷惑かけちゃうし、農民なんだから秦明さんみたいな由緒正しい家の人とくっつくと色々苦労しそうだし……」
と言い訳のように視線を全員からそらしながら言葉を付け加える。
「でも、宋江を罪人にしたくないなら、あなたが黙っていればいいことじゃない。例の財宝強奪について宋江が関わってたのを知ってるのはあなただけなんでしょ」
魯智深がねずみをいたぶる猫のような目つきでそういう。
「も、もちろん、私は黙ってるけど、どこからばれるかわからないでしょ」
「でも逆に言えば、秦明くらいの地位の人間なら夫を隠すこともできるんじゃなーい? 偽の戸籍なんかも用意できるし。ねえ?」
「まあ、できなくはないですけど、別にそれは夫じゃなくても……」
言葉を続けようとした秦明を魯智深が手で遮る。
「宋江だって今まで農村住まいだったけど、まだ十六なんだから新しい生き方しようと思えばいくらでもできるしね。大丈夫でしょ」
確認するように聞く魯智深に怪訝そうに宋江は答える。
「まあ、どっちかっていうと僕は農村じゃなくて都市の出身ですし……」
宋江は現代の東京でその大半を過ごしてきた人間だ。逆に農民としての生活は一ヶ月程度しかない。
「え? それは初耳だわ」
とこれは魯智深も驚いたらしいが、彼女はすぐに切り替える。
「ま、それならそれでなおさらよね。宋江がこっちに来れば何も問題ないし」
「う……じゃ、じゃあ、じゃあ……うう……」
楊志は更なる反論を試みようとするが何も思いつかなかったらしく、口をパクパクとひらくばかりになる。
「魯智深、そういじめるな」
さすがにそんな楊志の様子を見かねたのか、林冲が笑いながら口を挟んだ。
「ええー、ここからが面白いのに」
魯智深は不満そうに口を尖らせながらも素直に引っ込んだ。
「ご、ごめんなさい。私も変に大声出して」
「いえいえ、気にしないでくださいな。そんなご関係とは知らなかったもので大変失礼いたしました」
楊志の謝罪に秦明も頭を下げた。
「ふむ、しかしこれはそろそろはっきりさせたほうがいいのではないかな」
「はっきりと、いうと……ああ、なるほど、そういうことでしたの」
秦明は楊志と宋江の顔を見比べて林冲の言葉の意味を悟ったらしく、一人で頷いて見せた。
「あの、はっきりってどういう……」
一人状況をわかっていない宋江が頭に疑問符を浮かべていると、林冲が座った楊志の肩に手を置いて話しかけてきた。
「宋江」
「は、はい」
林冲の真剣な声に宋江も思わず居住まいを正す。
「仮に、の話だが……もし、楊志が君と結婚したいと言ったら、どうする?」
「ちょ、ちょっと、林冲!?」
慌てたように楊志が見上げるが林冲は落ち着いた口調のままだ。
「落ち着け、楊志。あくまでも仮に、万が一そうなったら、という話だ」
くどいほどに念を押されて、楊志も少し微妙な顔つきになった。
「楊志はな、一見とっつきにくいがこれで中々いい女だぞ。情も深いし、義理堅い」
「り、林冲! そんな突然すぎるわよ、こんなの」
じたばたと楊志が林冲の手の下で暴れるが林冲は楊志の肩をがっしりとつかんで離さなかった。
「さ、返答や如何に?」
林冲は真下の騒音を無視して宋江に問いかける。
「結婚、楊志さんとですか……」
宋江は少し呆けたように単語を繰り返す。
「うーん……そうですねぇ、正直言って、あんまり結婚そのものについて真面目に考えたことが無いんですけど……」
宋江にそんな風に前置きを置かれて楊志の緊張は高まる一方だった。顔には血が上って鏡を見なくとも自分が頬が赤くそまっているのがわかる。宋江を直視することもできず、顔を背ける。実際には宋江の沈黙は数秒程度だったのだが、楊志にはそれが何時間にも感じられ、判決を待つ犯罪者のような気分になっていた。
「でも、楊志さんが奥さんになってくれたら、それはとてもうれしいと思いますよ」
やがて、というほど時間は経っていないのだが、楊志にとってはかなり長く待たされたあと、宋江の声が聞こえた。すぐに、おおー、と周りから喝采とも冷やかしともつかない歓声があがる。
「ちょ、ちょっと待って。 え、あれ、だって、え……」
当の本人である楊志だけがその流れに乗れずにおろおろとする。
「意外とはっきり言うのねー」
秦明が目を丸くして宋江に話しかける。
「え? でもそりゃだって、こんなに綺麗で優しい人ですもの。嫌になる男なんかいないと思いますよ」
楊志は慌てて自分の顔を抑えて俯いた。そうしないとうれしさで顔の筋肉が保てなかった。
(ど、どうしよう、あんなに手放しでほめられて、どんな顔したらいいの? なんか笑うのもいやらしい気がするし、仏頂面のままじゃさすがに愛想が無いし、で、でも無言でいるのはもっとまずいし……)
「あ、う……」
無理に声を出そうとしても、楊志の口からは意味の無い音だけが漏れ出るだけだった。
「『いないと思いますよ』ってなんか他人事みたいな言い方ね」
幸か不幸か、楊志のつたない声は魯智深のその台詞にかき消されてしまう。
「いや、だって、仮の話って林冲さんも言ったじゃないですか」
「む。確かに、そうは言ったが……」
宋江の返答に林冲が渋い顔をして頷く。
「……ってちょっと待て。宋江、もう一つ聞くが……」
林冲が何かに気づいたようで顔を上げて言葉を続ける。
「例えばなんだが、その相手が楊志じゃなくて、魯智深だったら?」
ぶごっと派手な音を立てて、魯智深が飲んでいた酒を噴出す。
「げほっ、ごほっ! ちょ、ちょっと林冲……!?」
抗議の声をあげようとした魯智深を林冲が手で制する。
「どうだ、宋江」
「え? そりゃ、魯智深さんだって綺麗な人ですからうれしいですよ、もちろん」
その宋江の答えに部屋の空気の温度が下がる。
「あー、もう一つ聞くが秦明だったら?」
「さっき言ったじゃないですか。断る方がおかしいって」
「そう言えばそうだったな。じゃあ私だったら?」
「もちろん、うれしいですよ」
沈黙が訪れた。
「これ、私、怒っていいよね」
楊志がゆらりと立ち上がる。
「ああ。怒っていいと思うぞ。存分に」
「え? え? ど、どうしてですか?」
ここにきてようやく何かがおかしいことに気づいたらしい宋江がおろおろと辺りを見回す。
「宋江。あなた、あたしたちが一体何の話をしてると思ったの?」
「え? 男性から見てどうか、っていう話じゃなかったんですか?」
魯智深の呆れたような問いに宋江は答える。
「判決を下しましょう」
ぱんと手を叩いて秦明が場を押さえる。
「宋江くん。あなたの今晩の寝床は馬小屋だから」
「へ?」
「じゃ、楊志ちゃんも遠慮なくどうぞ」
「あまり床は汚さないようにするから」
楊志が剣を天高く掲げる。さすがに鞘から抜いてはいないが、それにしたって物騒なことには変わりない。
「あの、えっと、その……」
「最っ低!!」
衝撃と共に宋江の意識はブラックアウトし、次に覚醒したときは秦明の宣言どおり、馬小屋に転がされていた。
「何がいけなかったんだろう」
宋江の問いに馬が知るかといわんばかりに鼻息を鳴らした。