表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水娘伝(すいこでん)  作者: 文太
第四話 騒乱編
50/110

その五 秦明、友を迎え入れるのこと

「どうして、どうしてこんなことになるの……」


青州(せいしゅう)総兵管(そうへいかん)秦明(しんめい)は目元に涙を浮かべ、泣き崩れそうになる自分の体を意思でもって必死に支えていた。傍らには沈鬱な表情の老婆がいる。自分が生まれる前からこの家に仕えてくれている女性だ。


 秦明は自分の私室にいた。ちょうど入り口からその広い部屋の全てを眺められる位置にいる。だが、本来、行儀良く(かしず)いて主の帰りを待っているはずのその部屋の家具達は反抗期の少年少女達の様にその部屋の中に散乱していた。


 最も目につくのは部屋のあちこちに散らばっている数々の衣服だ。床の上に広げられているものから寝台や文机にも広がっている。赤、青、黄、緑、数多の色が織り成すその光景はある種、華やかであるとも言えたかもしれない。ただ、同時にそこかしこに飛び出している木材の破片やぶちまけられたように広がっている書籍等が部屋の様子を無秩序な状態へと貶めていた。


 木材の破片の正体はその光景を見れば誰にでもわかっただろう。部屋の隅にある、いやあったというべきか、衣装タンスの成れの果てだ。半壊した衣装タンスを形作っていた木材の大半はまだその場所にあるが、残りの木材は部屋中に散らばっている。体積としてはそれほど多くないはずなのだが、最もわかりやすくこの部屋に起きたことの象徴であり、それがゆえに目についた。


「嘘よ、こんなの、だって……」


震える声でもう一度、呟き、ついに気力が尽きて秦明はその場に力なく崩れた。そこにいたのは兵士を率いる凛々しい戦女神の姿は無く、自分の無力にうなだれる一人のか弱い女性の姿だけだった。


「私は……私は、ただ……」


秦明は許しを請うように顔を上げる。そして叫んだ。


「部屋の中をちょっと片付けようとしただけなのに!!」


老婆はため息をはいた。


 秦明、二十二歳。致命的なまでに家事のできない女であった。









「違うの! ちょっとあれよ、ほら最近本格的に夏! って感じだから、ちょっと夏物の衣類を出そうと思って、それでタンスの奥から引っ張り出そうとしてたら、なんか、引き出しが硬くって……それでちょっと力を込めたら、ばっこーんてこわれちゃったの。それであちゃーって思ったんだけど、とりあえずどうしようもないし、引き出しの中から衣類を出してたの、そしたら昔なくしたと思った、本とか色々、出てきてさ、懐かしいなーって思って色々眺めているうちに、ちょっと休憩しようかなって思って、そしたら出しっぱなしの本に躓いちゃって……」


「お嬢様」


あたふたと身振り手振りを交えて言い訳をする秦明を老婆はただの一言で制止させた。


「ようも二刻(一時間)足らずでここまでひどい状況にできましたな」


老婆は数えるのも面倒になるほどにはいたため息をもう一度ついた。


「あ、あはは……」


「笑い事ではございません」


ごまかすように頭をかいて薄ら笑いをあげた秦明に淡々と老婆は言う。


「お嬢様。(ばば)もお嬢様が日夜、この青州の民のため、職務に励んでいること、誰よりも承知しているつもりでございます。それを思えば多少の、いえかなりの御乱行であってもとやかく言うつもりはございません、が……」


そこで老婆は秦明から視線を外すとちらりと室内を見回した。


「これはあまりにもひどいのではございませんか?」


「はい……」


返す言葉も無い、とはまさにこのことで秦明は使用人であるはずのその老婆の言葉に大人しく縮こまった。


「聡明な秦明様ならご承知かとは思いますが、なんだかんだ言いましてもこの国は儒教の国。女はやがて妻となり母となることが求められます。その時、こんな状態でどうするのです?」


「ええと、その……」


「もちろん、召使を雇ってそうしたことはすべて任せるという選択肢もございますでしょう。しかしこの有様は……正直、婆は秦明様が生存を危ぶまれるのではないかと心配です」


「そ、そんなこと……無いと……思いたいんだけど……」


「このようなことを申し上げたくはございませんが、先日の縁談も先方からお断りの連絡が入ったようですな。秦明様のこれらの御行状が足かせになっているのではありませぬか?」


「う……うう……」


 まだまだ言いたいことはあったのだろうが、老婆は塩をかけられた青菜よりもしょぼくれた秦明を見て仏心を出したようだった。


「まあ、今日はこの辺りにしておくとして……秦明様、お手紙が届いております」


「え? 手紙?」


秦明は涙を拭くと老婆の差し出したその一通の手紙を受け取った。


「政庁からの手紙じゃないみたいね」


封を裏返し、特になんの印も押されていないその手紙を見て秦明は言った。


「仰られるとおりかと。そういったものなら兵士が届けますが、今回のこれは旅装の若い男が届けてまいりました」


「若い男の人? どんな人だったの?」


「そうですな、中途半端な長さ……首にかかる程度の黒い癖毛を結いもせずにしておりまして、背丈は秦明様より三寸(約10センチ)ほど低かったように思います」


「心当たり無いわね……」


秦明はそう呟くと、封を切って中身をとりあげる。そして、その手紙の末尾に書かれている名前を怪訝な表情で読み上げた。


林冲(りんちゅう)……?」








 宋江(そうこう)は青州の城門を出るときょろきょろと辺りを見回した。


「宋江、こっちだ」


するとすぐに声をかけられる。呼ばれたほうを振り向くと、林冲が木の陰からちょいちょいとこちらを手で招いていた。とことこと小走りに近づくと彼女は慎重に門にいる衛兵に見られないように移動しながら宋江の隣に並んで歩き出した。


「大丈夫だったか?」


「ええ。屋敷の場所も町の人に聞いたらすぐわかりましたし、本人とは会えなかったですけど、家の人に手渡すようにお願いしましたから」


宋江がそう回答すると、林冲はふむ、と頷いた後、


「……ところでそっちの荷物は何だ?」


と宋江が持っている紙包みを指差して、問いかけた。


魯智深(ろちしん)さんに頼まれたお酒ですけど?」


「あいつ、いつの間にそんなものの買出しまで頼んでたんだ……まあ、急ごうか。そろそろ楊志(ようし)も心配し始めている頃だろう」


そう言って林冲は先導して歩き出した。


 昨日、四人はこの青州の州都、より厳密に言えばその城壁の外にある廃寺へと到着していた。到着したときは日没寸前だったこともあり、今日になってようやく宋江が林冲からの手紙を渡すと言う形で件の秦明とコンタクトをとったのである。今はその手紙を出した帰りだった。魯智深と楊志は、まだあるいは既に、この町でも指名手配されている可能性が高いと言うことでその可能性が比較的低い林冲だけがこうして、門からその廃寺へむけての宋江の護衛を勤めていた。


 廃寺は城門から一刻(三十分)ほど歩いた場所にある。門を開けると本堂の外で楊志が手持ち無沙汰な様子でうろうろとしていた。そして門を開けたこちらに気づくと小走り気味に駆け寄ってきた。


「宋江、良かった。怪我とかはしてないわね」


「は、はい。してないです」


 やや過保護ともいえるこの楊志の態度は先日の二竜山の一件以来だ。あの発端を宋江から自分が目を離したのが原因だと結論づけており(確かに間違いではないが)、ほとんど片時もはなれようとしない。まるで子離れできない母親のようだ、とは魯智深の評である。


 今回、宋江が秦明の屋敷に手紙を届けると決まったときも彼女は最初、相当に反対したのだが、結局最後は宋江自身に説得されて渋々認めたのだった(宋江が魯智深に言わされた台詞、『嫌いになりますよ』が決め手だった)。


「楊志、心配なのはわかるがちょっとは信用してやれ。宋江もいっぱしの男だぞ。多少の揉め事ぐらい自分でなんとかするさ。なあ?」


呆れたようにいう林冲は最後に宋江に同意を求めてきた。


「うえ? えっと、そうですね……」


曖昧に同意すると目の前にいる楊志が少しばかり、いやかなり落ち込んだような顔をした。それを見て宋江は慌てて言葉を続ける。


「あ、いや、あの! 今のはあくまで僕でもなんとかできるっていう部分に同意しただけで、決して楊志さんのことを悪くいったわけじゃないですよ! ええと、心配してくれるのはとてもうれしく思ってますから!」


「そ、そうなの?」


深海魚のような目をしていた楊志の表情に少しだけ明るさが戻る。


「はい! 本当ですとも! でも、最近は楊志さんの負担になってるんじゃないかって心配なんですけど。朝僕より早く起きて夜も僕より遅く起きてるみたいですし」


おかげで寝るふりがやたらとうまくなってしまった気がする。


「ううん。気にしないでいいのよ。だって私のせいであなたを妹さんから引き剥がしてこんな遠い町に連れてきちゃったんだもの。これくらいお世話させて」


きらきらとした顔でぎゅっと手を握ってくる楊志の発言を断れるわけもなく、宋江は壊れた人形のようにこくこくとうなずくだけだった。


「あんまり甘やかさないほうがいいと思うがな」


どちらに向けての言葉なのか。林冲がそう言った。


 その頃になって、立て付けの悪い本殿の扉がガタガタと音を立てながら強引に開かれ、魯智深が顔を出してくる。


「お、宋江戻ったの。ちゃんと買って来てくれた?」


「ええ、買ってきましたよ」


宋江はひょいっと土瓶に入った酒を持ち上げてみせる。魯智深は近づいてそれを受け取った。


「よしよし、いい子いい子」


そのままぽんぽんと頭を撫でてくる。


「それで、手紙は渡してきたの」


瓶の中身を早速開けながら魯智深は尋ねてくる。


「ええ、そう言えば、手紙には何を書いたんですか?」


宋江はそう言って傍らにいる林冲を見上げた。


「簡単に今無実の罪で追われている仲間と共にいるということと、それからここに迎えに来て欲しい、ということだけ書いた。秦明と一緒ならたやすく町に入れると思うしな」


「じゃあ、あたしたちはここで待ってればいいの?」


「ああ、少し時間がかかるかもしれんが気長に待っていよう」


 ところが、林冲がそう言い終わった瞬間に宋江たちが入ってきた門ががらりと開かれた。


「おや……」


「ああ、良かった。ここで合ってたのね」


現れたその女性はほっとした様子で林冲に話しかけてきた。


「やあ、秦明。まさかこんなにすぐに来てくれるとはな」


「何言ってるの。友達が困ってるんならいつでも駆けつけるわよ」


そういいながら、その女性は手に持っていた紐をくいっと引っ張る。すると後ろからぶるるるると鼻を鳴らしながら馬が現れた。いくなんでも早過ぎると思っていたらどうやら、これに乗ってきたらしい。


「久しぶりね、林冲」


「ああ、できたらもっと真っ当な形で再会したかったのだが」


 秦明の背は林冲ほどでないにしろ、それなりに高い。ウェーブのかかった赤茶色の髪がふんわりと広がっている。ふっくらとした顔や丸い目は軍人と言うよりも商人のそれに近く、とても戦をするようなタイプの人間には見えなかった。そのまろやかな雰囲気は彼女のかおだけでなく体つきにも現れていて、腰や肩も柔らかな曲線を描いている。


 正直に言うと今まで何人か会った水滸伝中の人物の中では一際想像との差が激しい人物だった。女性であることは予期していたものの、秦明は別名・霹靂火(へきれきか)とも呼ばれていた人物なのである。霹靂とはカミナリの事で、なぜそんな風に呼ばれているかと言うと、怒ったときの怒鳴り声がちょうどそんな感じだからなのだそうだ。だから女性になるとしてももう少しこう蓮っ葉と言うか荒々しいと言うかそういう系統の人物が出てくると思っていたのだ。


「それで、そっちの人たちが手紙に書いてあった人?」


秦明が視線を林冲から離してこちらに視線を向けてくる。


「ああ、紹介しておこうか。右から楊志、宋江、魯智深だ。皆、私が世話になった人間でな。手紙にも書いたとおり宋江以外はちょっと事情があって追われる身なんだ。それでいきなりおしかけて申し訳ないんだが……」


「大丈夫、任せておきなさい。とりあえずこんな場所で話すのもなんだし、うちに来なさいよ」


「すまないな。厄介事をもってきてしまって」


「気にしないの。言うじゃない、『朋有り、遠方より来る』ってね」


 本当に良いのだろうか、と宋江が心配になるほど秦明は林冲の申し出をあっさりと承諾した。公的には林冲は宝剣の盗難犯、楊志は財宝十万貫の強奪犯、魯智深は滄州の庁舎の襲撃犯としてそれぞれ追われている身だ(魯智深以外は無実だが)。一つ間違えば秦明もかなりまずい立場におかれるはずなのだが、それを気にした風もない。総兵管である彼女がそれをわかっていないはずはないのだが。


「自宅にまで居座ってしまっていいんですか?」


楊志もその点が気になったのだろう。心配そうに声をあげた。


「いいのよ、いいの。大体、女の子がこんなところにいたら危険だし、ここじゃ水浴びも満足にできないでしょう?」


「けど……」


と、なおも拒もうとした楊志を魯智深が止めた。


「楊志。あんまり遠慮するのも逆に失礼よ。お言葉に甘えておきましょう」


その言葉を受けて、尚も楊志は迷うそぶりを見せたが、結局頷いた。


「じゃあ、話もまとまったことだし、出発しましょうか」


ぱんと秦明が手を打って宣言した。


 秦明がつれてきた馬に荷物を載せ、四人は秦明の先導に従って青州の街中へと向かった。


 通常検査を受ける青州の町の門では、秦明が一緒と言うこともあって、検査をうけることもなくすんなりと中に入れてしまった。念のため、宋江以外の三人は髪を隠す頭巾を被っていたのだが、それすら必要なかったのかもしれない。秦明はお勤めご苦労さん、などと気軽に兵士に声をかけていた。


「検査無しってすごいですね」


「まさか総兵菅が犯罪者を中に招き入れるなんて思いもしないだろうからな」


宋江のコメントに林冲が薄く笑った。


 四人が秦明の家に到着てから、林冲は改めて宋江や楊志の事も含めてこれまでのことを詳細に説明していった。


「そうだったの……」


全てを話し終わると、秦明は神妙な調子で目を伏した。


「ごめんなさい。あなたがそんな大変なことになってたなんて、私全然知らなかったわ」


「気にしないでくれ。さっきも言ったとおり、極秘で事が進められたんだ。おそらく禁軍の中にも私がなぜいなくなったか知らない人間のほうが多いくらいだろう」


林冲はそう言って秦明を擁護した。


「それでその楊志さんの手配の原因を問い合わせればいいのね、わかったわ。明日にでもその朱仝(しゅどう)さんて人に手紙を書いてみる」


そして、こちらの頼みも秦明はあっさりと聞いてくれた。


「正直、私も楊志さんの件についてはちょっと変った依頼だなって思ってたのよ」


「変ってるってどこがですか?」


同席していた楊志が秦明にそう尋ねた。


「自分たち……この場合は濮州(ぼくしゅう)の軍人ね、それがわざわざ迎えに行くって言ってるところかしらね。普通、こういう手配書のたぐいってその場で刑罰を執行するか、それとも移送してほしいっていう場合がほとんどなのよ。魯智深さんの方は移送だし」


「ああ、それは多分一緒に消えた林冲や楊志の行方を知りたいからでしょうね」


魯智深はまるで他人事(ひとごと)のように語る。


「ということは濮州の方にも何か事情があるってことでしょうか」


宋江が小首をかしげながら秦明に尋ねると彼女は軽く頷いて同意した。


「ところで、どんな文面を書くつもりだ?」


林冲が尋ねると秦明は指を口に当ててんー、と天井を見上げてうなった。聞いたところでは魯智深よりも年上のはずだが、不思議とその子供っぽい仕草が似合っている。


「名前を伏せてそのまま状況を書くのがいいかしら。『私の知り合いに楊志の知り合いがいて、とてもそんなことしそうに無い人って言ってるからどういう状況なのか詳しく知りたい』みたいな感じで」


「なるほどな」


林冲はその答えに納得したようで軽く頷いた。


「何から何まで本当にありがとうございます」


楊志は丁寧に礼をする。


「気にしない。気にしない。大した手間でもないし、林冲の友達が困ってるなら助けてあげなきゃね」


頭を下げる楊志に秦明は朗らかに微笑んで見せた。


「さ、難しいことはこの辺にして、そろそろ皆、お腹もすいたでしょ。食事、用意してあるからついてきてちょうだい」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
お読みいただきありがとうございました。楽しめましたらブクマ登録・感想・ポイント頂ければ幸甚です。 ツイッターアカウント:@MonokakiBunta マシュマロ : https://marshmallow-qa.com/monokakibunta?utm_medium=url_text&utm_source=promotion
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ