その十四 林冲、高俅の本性を目の当たりにするのこと
富安が訪れた翌日のことだった。
日が昇ってそういくばくもたたないうちに、林冲は急に急に牢から出るように言われた。ひょっとして開放かと一瞬期待したが、獄吏が林冲を引っ立てたのは牢の出入り口ではなくその逆、牢屋のさらに奥だった。林冲の記憶が確かなら、そこにあるのは拷問室だった。
林冲といえどもさすがにこれは緊張した。拷問の凄惨さは彼女も聞き及んでいる。鞭打ちや、針刺し等は序の口で、熱湯を傷口にかけられたり、生爪をはがされたりすることもあるという。当然拷問によって死ぬことも珍しくは無い。拷問室にいる連中に言わせれば、口を割らなかった奴はいないというのが彼らの自慢だった。
だが獄吏は拷問室ではなくその手前の小さな部屋に林冲を押し込んだ。牢より多少大きいといった程度のその小さな部屋にはいくつか椅子が並べられており、その一つに獄吏は無理やり林冲を座らせるとさらにその上から頑丈に縄で縛った。
「ここで待て」
獄吏はそれだけ言うと、林冲を残して部屋から去っていった。
ここで待つ時間はそう長くなかった。一刻(三十分)もすると同じように獄吏が一人の男を連れてやってきた。林冲と同じように縄でしばられ、うつろな表情をした男。その男の顔を見て林冲は目を見開いた。
「陸謙……?」
「林冲……?」
鏡写しのように陸謙もまた驚愕の表情をありありと浮かべていた。
久しぶりに、とはいえ三日程度しかたっていないが、見た彼は彼は無精ひげを生やし、眠れていないのか、目が充血していた。さらによく見れば彼はからだのそこかしこに痛々しい傷を作っていた。致命的な傷こそ負っていないが、それは拷問を受けた証だった。どう考えても牢につながれていたのはそう短い時間ではないようだ。つれてきた獄吏は陸謙を林冲と同じように椅子に座って縛ると部屋を出て行った。
「陸謙、何故……お前がここに……?」
林冲がそう尋ねると陸謙は頭を振りながら答えた。
「何故だと? 君がそれを問うのか? 高俅と取引して俺をここにおとした君が」
「は……?」
林冲がわけもわからず目を瞬かせると陸謙は顔を強張らせた。
「違う……のか?」
「何の話だ? わけがわからない。私はお前が高俅と取引をしたときかされていたぞ。それで林藍との離縁状を書いたと……」
林冲が答えると陸謙はかっと目を見開き、しかしすぐにうなだれた。
「そうか……そういうことだったのか……」
「陸謙……?」
林冲は呆然として陸謙を眺めた。彼はぽろぽろと大粒の涙をこぼしていた。
「そこから先は私が説明しようか」
がちゃりと扉を開いてそこに現れたのは高俅だった。後ろに数人の大柄な兵士を伴っている。
「高俅!! 貴様!!」
陸謙が形相を憤怒に染めて立ち上がろうとするが縄で縛られた体でうまくいくはずもない。バランスを崩した彼の体は椅子ごと地面に倒れこみ、派手な音を立てる。それをまるで見越していたかのように兵士の一人が素早く近づくと、彼の体を無理やり地面に押し付けるように取り押さえつけた。
「さてさて、林冲。君は昨日、富安から聞かなかったかね。陸謙は君に宝剣など渡していないという証言をしたと。そうそう、離縁状も見せられたかな」
芝居がかった動作で手に持った扇を振り回しながら高俅はしゃべりはじめた。
「疑問に思わなかったかね。何故、君の親友である陸謙はわざわざそんな証言をし、君の妹との離縁状まで書いたたのか?」
そこで高俅は一呼吸おいた。
「陸謙は、君を信じられなかったのさ、林冲。私は彼にこう語った。林冲は妹を君なんかにやるよりも僕の弟にやるほうがいいと判断し、君が邪魔になったのだと。そこで林冲は君の家から宝剣を持ち出し、それを盗難品と偽って、禁軍に届けたのだと」
林冲は気づいた。それは自分が昨日、富安にされたのとよく似た話だと。すると陸謙もまた同じように牢に閉じ込められ、いやそれだけでなく陸謙の状況から察するにおそらく拷問も受けながらそんな話をされたのだ。
「愚かにも陸謙はこの話を信じてしまったのさ」
高俅はせせら笑いながら今度は視線を陸謙に向ける。
「陸謙。まったく君ときたらどうしようもない愚か者だな。最終的に君は年来の友人である林冲よりも私の言葉を信じてしまったわけだ。残念、残念」
「自分で仕組んでおいて、よくも……」
林冲は椅子に座ったまま、高俅をにらみつけた。だが高俅はにやりとうれしそうに笑っただけで言葉を続けた。
「林冲。こいつもな、最初は林冲がそんなことするはずないって言ってたんだがな。ところが人というのは思いのほか、単純だ。何度も何度も同じ話を繰り返されれば、それがどんなに荒唐無稽だろうといつしか信じてしまうそんな癖を持っている」
高俅は今度は陸謙の耳元で語りかける。
「昼間は拷問で宝剣を盗んだろうと獄吏から責められ、夜になれば私がやってきて同じ話を繰り返し語る。これではまあ、易き道に逃げたとして無理からぬことだろう。誰だってそうなるさ、陸謙。大丈夫、きっと林冲だって許してくれるさ」
林冲は高俅の言葉が蛇のように陸謙の体を這いずり回るのを幻視した。言葉は優しいが、それは却って陸謙の心を苛んでいる。陸謙がほしいのは許しではないのだ。高俅は今、林冲の目の前で陸謙の魂を辱めていた。
「ま、そんな君の様子は最高に笑えたけどな」
高俅は言ってその言葉どおり、哄笑した。
「ところで、陸謙。私は聞きたいことがあるんだよ」
ひとしきり笑うとまた、高俅は陸謙にいやらしい笑みを浮かべながら猫なで声で問いかけた。
「君は私の作り話を本当に信じていたのかな?」
その声に陸謙がぴくりと少しだけ動いたのを林冲は見てしまった。
「本当はどっちだったんだい、陸謙? 私に騙されて、林冲の事を本当に恨んでたのかな、それともただ単に拷問から逃れたくって哀れに騙されたふりをしていたのかな?」
高俅はさらに陸謙に顔をよせる。
「どうかな? 私がこれで君は死罪や拷問から免れられるといったとき、どっちが思い浮かんだのかな? 林冲への恨みか、それとももう苦痛に苛まれなくなった安堵か。前者なら本当に騙されていたんだろうけど、後者があったのなら、それはまぎれもなく私に騙されたふりをしていた証拠ではないかな、陸謙?」
陸謙は何も答えなかった。ぎゅっと唇を結んで地面に視線をおとしたままとなっている。
「ふふ……まあ、いいさ。君の態度で大体わかるよ。君もそうだろう、林冲」
出し抜けに高俅は立ち上がって林冲を振り返った。それにつられるように陸謙の目がまたこちらを向く。
すぐに陸謙は目をそらしたが、林冲は陸謙の目が怯えるように動いているのを捕らえてしまった。
「陸謙……」
しかし、林冲はとうてい陸謙を責める気には慣れなかった。むしろ自分の心に沸くのは憐憫の情だった。自分は陸謙が書いた離縁状があったとは言え、たった一晩で彼のことを疑いかけていた。いや、ほとんど疑っていた。
おそらく彼は自分とほぼ同時期に捕まったのだろう。彼の薄汚れた格好と疲労をにじませた気配が拷問を受けていた時間が決して短くないことを物語っていた。
「陸謙、君は弱いねえ。林冲は昨日、君に裏切られたと聞かされてもそれでも信じていたというのに」
高俅は薄く笑う。その言葉に陸謙の顔ががくりとうなだれた。
「やめろ、高俅!! 何が望みだ!!」
林冲は高俅の言葉を止めるように叫んだ。だが高俅はそれを全く聞こえないかのように言葉を続ける。
「大体さあ、陸謙。君、もう今回のからくりはわかったんだろう。それなら私をにらみつける前にやることがあるんじゃないのかい? 君が貶めた友達に謝るとか」
「!」
陸謙はその高俅の言葉にはっとなったようだった。
「陸謙! かまうな! こんな畜生の言うことなんか聞く必要あるか!」
林冲は声を張り上げた。高俅の話し方は巧妙だった。自分の悪事を露にしながらも、それに騙されてしまった陸謙の罪悪感を巧みにつついて、膨らませていた。
「陸謙! 私は君を恨んでなどいない! 本当だ!! 全部悪いのはこいつだ! この鬼畜だ! 君が謝る必要なんかどこにもない!」
「言ってくれるねえ、仮にも上司に対して」
言いながら、林冲のその叫びをまるで極上の音楽であるかのように高俅は目を閉じてうっとりとした顔を浮かべる。
「いや、林冲……たとえ全てを仕組んだのがこの男だとしても、俺が君の立場が悪くなるの承知で証言をしたのは事実だ。離縁状を書いたことも。君と君の妹がどうなるかを知りながら……」
陸謙は静かに、敗北を認めてしまった。
「それは君のせいじゃない!」
いつの間にか、自分は泣いていた。泣きながら林冲は首を振った。彼女は知っている。人の心は無敵ではない。何事があっても折れない心など持てはしないのだ。ましてやこの地下で行われた拷問の事を思えば、陸謙を責めることなどどうしてできよう。
「林冲殿。君と君の妹殿には本当にすまない事をした。謝って許されることではないのは百も承知なのだ。だが、謝らせてくれ」
「わかった! わかったからもういい! そんな他人行儀な呼び方をするな! いつかのように私のことは義姉と呼べばいい! 藍のことは妻と呼べばいい!!」
「無理だ。俺は、自分の心の弱さと醜さを知ってしまった。君らと同じ道は……もう歩めない」
「そんなの誰だっていっしょだ!」
そうだ。自分だってよく知りもしない富安の言葉一つで彼を疑いそうになっていた。いや、ほとんど疑っていた。もう後、半日も経てば、自分だって陸謙に怨嗟の声を連ねていただろう。
「陸謙、顔をあげろ! 私は別に君が優しいから友人になったんじゃない! 君が強いから妹を嫁にやったのでもない! 君が君だから、陸謙だから一緒に今まで過ごしてきたんだ!」
そのまま放っておけば陸謙がどこか遠いところにいってしまう気がして林冲は必死に言葉を重ねた。少しでも体を動かそうとしたがいつのまにか兵士の一人が彼女の座っている椅子を固定して動かさないようにしていた。がこがこと椅子は揺れるが、距離は全く縮まらない。
「林冲……」
陸謙はひとつだけ、林冲の言うとおりにしてくれた。顔を上げて林冲を見上げた。
「ありがとう。こんな俺にそんな言葉をかけてくれて……だが、俺はそんな君を、俺と違って優しく真っ直ぐな君を疑ってしまった。俺は……」
そこで陸謙は言葉を止めた。意図してもことではないのだろう。嗚咽を二、三度もらして彼は呟いた。
「俺は、どうしようもない馬鹿野郎だ……」
パチンと場にそぐわぬ軽々しい音がした。それが高俅が指を鳴らした音だと林冲が悟ったのはずっと後の話だった。
白刃が煌き、陸謙の首が飛んだ。
「陸……謙……?」
呆然と林冲は目の前の光景を眺めた。だが何度、目を瞬いても瞳に写るのは無表情な兵士が振り下ろした斧と赤い血をほとばしらせる陸謙の体だけだった。
「陸謙……」
陸謙は死んだ。自分の頭の中でどこか冷静な部分が残ってそう言ってくる。
「陸謙!」
こらえきれずに林冲は叫んだ。だが当たり前だが返事など無い。もの言わぬ彼の骸に叫んでも虚しいだけだとわかっているのに。それでも林冲は呼びかけることを止められなかった。
「まあ、彼自身が認めたとおり、馬鹿にふさわしい末路だと思わないかね?」
高俅が面白そうに言うのを耳にして林冲は激昂した。
「貴様ぁ!!!」
椅子に縛られた縄を解こうとあがく。だが無駄なことだった。兵士ががっちりと固定した自分の体は全く動かせなかった。
「おやおや、何を怒っているんだい。彼自身が認めたとおり、君を裏切った相手を処罰してやっただけじゃないか」
見下すように笑う高俅に林冲の理性がはちきれ飛ぶ。
「殺してやる! 殺してやるぞ! 高俅! たとえ、死んで悪鬼に堕ちたとしてもその喉笛を食いちぎってやる!!」
林冲は許せなかった。陸謙や自分が邪魔なら排除すればいいだけのところをこの男は陸謙の心をもてあそび、散々笑ってずたぼろにしてから殺したのだ。だがその必死の叫びに高俅は口の端を吊り上げて笑うだけだった。
「何がおかしい!」
林冲が叫ぶと高俅は腰を少し曲げて林冲の頬にそっと手を触れた。冷たくてそれでいてねっとりとした感触に林冲は嫌悪感を隠さずに吠えた。
「触るな! この汚らわしいクズが!」
逃げようとしたが兵士は林冲の頭まで押さえつけて、顔すら動かないように固定してくる。それでも怒りで瞳をぎらつかせる林冲に対して高俅はまた笑った。
「いいね、とてもいい。綺麗だよ、林冲。それでこそ、ここまで色々と手はずを整えた甲斐があったというものだ」
「なに……?」
林冲がその言葉の意味を考えているうちに高俅はまた林冲から手を外すと腰をあげた。
「うん? ここまで色々と手はずを整えた甲斐があった、と言ったんだよ」
面白そうに目を細めて高俅は笑う。わけがわからず、ぽかんとする林冲に高俅は言葉を続けた。
「おや、ひょっとして勘違いしてたのかな。私がここまで色々動いたのはひょっとして弟のためだと思ったのかい? そうだとするならそれはひどい勘違いだな」
高俅が兵士の一人に手招きすると彼は持っていた小さな箱を開けた。彼がそれを開けるとそこにあったのは変わり果てたあの男、高衒の生首だった。
「お前……実の弟を……?」
唖然として林冲はその光景を見つめる。
「そうだね。実の弟というだけで、色々面倒をみてやったが、私もさすがに我慢の限度だ。君の妹を犯して来いと言う私の命令すらろくに実行できないようなクズだからね」
その言葉の意味を正確に理解する前に高俅は再び林冲を見下ろして声をかけた。
「今回の私の目的はね、君なんだよ、林冲」
その答えに林冲は高俅の顔を阿呆みたいに眺めた。
「しばらく前からね、私は君に注目していたんだ」
息がかかるほどに顔を近づけて高俅は言う。
「訓練場での君、官舎にいる君、町で散歩している君、友達と笑っている君」
何をされたわけではないのに林冲の背筋にぞくりとつめたいものが走った。
「君はとても美しかったよ、林冲。女性としてだけではなく武人としてもね、何があっても揺るぐことなく沈着冷静で、部下をよく用い、仲間からの信頼も厚い」
兵士ががしりと林冲のあごと首を捉えて顔すら動かないようにする。その林冲の頬に高俅はもう一度冷たい手で触れた。
「そうして見ているうちにね、ふと興味を覚えた。一体、君にとてつもないことが起こって悲しんだり怒ったりする時、一体君はどんな顔をするのだろう、とね」
まさか、と思いながら林冲は無言で高俅の言葉を待つ。
「そう、私はその君の美しくて冷静なその横顔を砕きたくてたまらなくなってしまった」
手に持った扇の取っ手を高俅は林冲のあごの下に差し込むとくいっと顔をあげさせた。唖然としたままの林冲はそれに逆らうこともできずされるがままに上を向く。
「想像以上だよ、林冲。怒り、泣いた君の顔は想像以上に魅力的だ」
「そういうわけだ。まあ、陸謙も不幸な男だな。君と関わらなければここまでひどいことにもなるまいに」
まるで他人事のように悲しみを浮かべて高俅は首を振る。
「ま、僕は楽しめたからいいけどな!」
高俅は言って再び哄笑を発した。
林冲は呆然とその光景を眺めていた。
つまりなんだ? この男は私の怒った顔を見たいというただそれだけの理由で弟をけしかけ、それが失敗すると宝剣の盗難事件を起こして自分と陸謙を幽閉し、さらに陸謙の心をあそこまで苛んでからにして殺したというのか?
その認識をようやく飲み下すと炎天下にさらされた石のような熱くて大きな塊が林冲の体内から湧き上がってきた。怒りだった。
「たった、たったそれだけのために、貴様はここまで……」
怒りのあまり声を震わせて林冲は高俅をにらみつける。それを見て高俅は兵士に手を下げるようなしぐさをする。すると林冲の固定された椅子が倒され、顔を地面に激突させる羽目になった。
「ぐっ!」
思わず声を漏らしながらも林冲は上を向いて高俅をにらみつける。すると高俅はその顔を蹴り飛ばした。大した痛みはなかったが、あたりどころが悪かったのか、口の中が切れたらしく、血の味がした。それでも目をそらしたら負けとばかりに林冲は上を見上げる。だが、それは却って高俅の捻じ曲がった情欲を炊きつけただけだった。
「ははは! いいぞ、林冲! その目だ! その目! 痛みにも耐えて、なお僕をにらみつけるその目だ!」
言いながら、何度も何度も高俅は林冲の顔面を執拗に蹴り飛ばした。
「僕が憎いか!? 殺したいか!? いいとも、好きにおもうがいいさ! あっはっは! あっはっはっはっは!!」
林冲の顔が赤くはれ上がるほど、高俅はその動作を続けながら狂ったように笑い、叫んだ。
ややあってようやく高俅は満足げな顔をして林冲の顔を蹴り飛ばすのをやめた。
「さて、君の身柄だが、喜べ、ここで死罪とはならない。滄州へ流罪となった」
その意味するところを林冲は敏感に察して答えた。
「まだ私で遊び足らんということか」
「よくわかってるじゃないか。次は君の妹さんでも使ってみようか」
「やってみろ。その時は貴様が生まれた事を後悔する事に痛めつけて殺してやる」
ふと、高俅は思いついたように林冲に話した。
「そうだ、林冲。どうだろう、君がこの場で陸謙の死体を足蹴にすると言うなら、妹の安全は保証してやるぞ?」
「……貴様が約束を守るなどと誰が信じるか」
「ははは、賢い子だ。だが、一瞬悩んだな? いいぞ、すごくいい。そういう風に大事なものを天秤にかけた奴の表情は何度見てもいいものだ」
高俅はそう言うと踵を返した。兵士が後についていく。
「高俅」
林冲は自分でも驚くほどに深く暗く静かな声で語りかけた。
「お前は殺すぞ、私がこの手で必ずな」
高俅はにやりと笑うと何も言わずに部屋を出て行った。




