その十三 林冲、陸謙の裏切りを聞くのこと
高俅に依頼された仕事は拍子抜けするほどにすんなりと終わった。
林冲が陸謙に頼むと彼はその宝剣を見せてくれ、しかも試しにちょっと貸してくれ、と尋ねたら彼はあっさりと林冲の申し出を承諾した。
「いいのか?」
あまりにも陸謙の回答に迷いが無いので林冲は目を丸くした。
「まあ、別にほこりかぶってるだけの代物だしな。ああ、でも高大師には内緒にしててくれよ。この間、見せてくれって言うのを藍のことで頭にきてて断っちまったからな」
そう言って陸謙はひょいっと投げてよこした。仮にも皇帝から下賜された剣に対してあまりにぞんざいな扱いなので、林冲は自分のものでもないというのに顔をしかめた。
「随分丁重に扱っているな」
皮肉をこめて言うと、陸謙は顔色一つ変えずに、そのくらいの剣なら他にもあるからな、と言い放った。
「なんだか知らんが必要なら持ってけばいいさ。ただ、売り払うんだったら事前に相談してくれ。金ぐらいなら貸すぞ」
「馬鹿にするな」
冗談交じりにそう言ってくる陸謙に軽く笑いながら林冲はそう言うとためしにその剣を抜き放ってみた。しゃらん、と涼やかな音がして銀色の鈍い光が太陽の光を反射した。だがやはり儀式用の剣らしく切れ味などはあまりよく無さそうである。
「では、遠慮無く借りて行くぞ」
「かまわんが……しかし何に使うんだ、そんなもの」
「妹がお前のところに嫁入りするのだからな。婚礼の際に恥ずかしくないように私も似たような剣を手に入れて、そこだけはお前と同格になりたくてな」
林冲は予め、考えておいた言い訳を言った。
この国では婚姻は財産なども同格のもの同士が結婚するのが普通だ。陸謙がいるので本心としてはそんなに心配はしていないが、婚礼の出席者を見比べてどちらかがあまりに見劣りするようだとその後の結婚生活にも差しさわりが出かねない。
「気にすることなどないぞ。なんなら結納前にうちの蔵、いくつか焼いとくか? ちょうどいい感じにぼろくなる」
「気持ちはありがたいが妹の嫁ぎ先は裕福なほうがよいのでな、せいぜい頑張って背伸びするとするさ」
それだけ言って林冲は陸謙の家を辞した。
「あら、おかえんなさい」
「ああ、ただいま……って何故いる?」
林冲が家に戻ると当然のような顔をして魯智深がいた。
「寺で飲むと住職がうるさくってさ」
とくとくと杯に酒を注ぎながら魯智深が言う。
それはそうだろうと林冲は思った。仏門は本来、酒など呑んではいけないはずなのだから。
「どうしたの、それ」
魯智深はめざとく林冲がもった包みを指差した。
「うん、見たいか?」
少し見せびらかしたい気持ちもあって林冲は笑うと剣を抜いた。
「へえー、高そうね。買ったの?」
高菜の漬物をぽりぽりとかじりながら無感動に魯智深は言った。
「いや、借り物さ。陸謙からな」
「ああー、あの、面白い人?」
陸謙は大相国寺での林藍の話を聞いた翌日に寺を訪れて魯智深に礼を述べたらしい。魯智深も印象深かったのか、すぐに思い出したようだった。
「ああ、そう言えば報告しておこうか。昨日、高大師に呼ばれてな……」
林冲は魯智深に高俅が大相国寺での件について謝罪したことを述べた。無論後半の宝剣盗難事件については魯智深には伏せる。
「謝罪?」
魯智深は少しいぶかしげにその単語を返した。
「ああ、まあ言葉だけのものだがな。大事無かったし、林藍も陸謙もそれで十分だと考えている」
「そう……」
それを聞いて魯智深は何か考え込むそぶりをみせた。
「どうかしたか?」
「あ、ううん、なんでもないわ」
聞くと彼女は慌てて否定するように手を振った。
「まあ、それならそれでよかったじゃないの。穏便に解決して」
くいっと杯の中身を空けながら魯智深は言う。
「あら、姉さん。帰ってたの?」
そこに林藍がやってきた。大皿に豚肉料理を載せている。
「ああ、あたしが買ってきたの」
いぶかしげにその豚肉に目を注いでいるのがわかったのか、魯智深がそう言ってきた。
「酒のみならず肉までとはな……まあ、今更か」
ひょっとしたら護衛云々というのは自分の考えすぎで、この尼は単に寺ではできないことをするためだけに自分の家に通っているのではないかと思って林冲は額を押させた。
「あんたも食べる? 遠慮しないでいいわよ。こうしてお邪魔させてもらっている身分だし」
「姉さん、これおいしいよ」
林藍もなれた調子で食べながら薦めてくる。どうやら自分が気づかなかっただけでこんな風景は二人にとってはすっかり日常になっているようだった。
「いや、ちょっと今からでかけてくるのでな、帰ったらもらうとしよう」
疑問を抱かれないためにも陸謙から借りた宝剣は一刻も早く返したかった。そのため、林冲は即座にこれから禁軍の高俅の元へといくつもりだった。
「早くしないとなくなっちゃうからね」
「あんまり食べて太っても知らんぞ」
妹に悪戯っぽく笑みを浮かべてそう言い残すと林冲は自宅を出発した。
「禁軍棒術師範代の林冲だ。高大師にお目通り願いたい」
林冲が高大師の部屋の前に立つ兵士にそう言うと彼は恭しく頭を下げた。
「林師範代でいらっしゃいますか。生憎ですが高大師はさきほど陛下に呼ばれて今は白虎殿へと向かわれております。秘書の方々でしたら中にいらっしゃいますが……」
白虎殿は少人数での打ち合わせが行われる場所だ。そこにいったとなるとちょっとやそっとでは帰ってこれないだろう。兵士もそれがわかっているので気遣うように林冲に言った。
「いや、ご本人に報告せよと承っているのでな。待たせて頂こうか」
「かしこまりました。それでは待合室へとご案内いたします」
「ああ、いやいい。場所は知っているからな」
兵士の手を煩わせることもあるまいと林冲は案内を断って宝剣を持ったまま待合室へと向かった。
待合室には林冲以外は誰もいなかった。林冲は備え付けられた席の上に腰を下ろしてしばらく待つことにした。部屋には誰も出入りすることなく、林冲は静かに座ったままそこで時間をつぶした。
四刻(二時間)ほどたってようやく林冲も少しじれ始めてきたとき、待合室にどやどやと何名もの兵士が駆け込んできた。何事かと顔を上げた林冲と先頭にいる男の目が合う。
「林師範代?」
その男、林冲も良く知る禁軍の下級武官は林冲を見て怪訝な顔を浮かべた。下級武官とはいえ歳が彼のほうが上ということもあり、林冲は立ち上がって礼をした。
「貴殿も高大帥に御用ですか?」
「……いや、違う」
苦りきった顔で彼は答えた。その対応に林冲は戸惑いを覚えた。高俅に用事が無いならこの部屋にいる意味が無いし、そもそもその表情の意味するところがわからなかった。
「林師範代。私はこの待合室にいる人間を捕縛するように命をうけてやってきまた」
困惑しきった声で彼は言った。
「捕縛?」
あまりにもこの場にそぐわぬ単語に林冲はきょとんとして聞き返した。
「そうだ。この待合室にいる全員を捕縛、との命令だが……君以外には誰もいないようだな」
ぐるりと回りを見回しながらその武官は確認するように言った。
「あ、ああ……ここ四刻ほど私しかこの部屋にはいなかった」
どこか悪い予感を覚えつつも、林冲はとっさに嘘をつくことができず、正直にそうもらした。
「何かの間違いだとは思うが……すまないが私は任務を遂行しなければいけない。一度捕まってくれるか?」
「……わかった。何か行き違いがあったのだろう」
林冲は少し考えた後に頷いた。ここで抵抗して暴れまわったらそれこそ本当のお尋ね者になってしまう。妹の結婚を控えた今、林冲はそんな真似は避けたかった。
陸謙が必死になって自分の家族を説得したというのに自分が本当の犯罪者になってしまったら縁談はめちゃくちゃになってしまう。
「うむ、ではついてきてくれ」
「縄で縛らなくて良いのか?」
特に林冲を拘束しようともしないその武官に林冲は尋ねた。
「罪があるかどうかわからんものを宮中で縄で引っ立てるわけにもいくまい」
彼はそう言うと林冲を先導して歩いていった。
連れて行かれたのは禁軍の裏手にある刑場だった。いつもはなんとも思わないこの場所だが罪人として連れてこられるとなると、それが何かの間違いであろうとも、格別に不気味な場所に思えてくる。
「将軍。ご命令どおり、高大師の待合室に向かいましたが、中にいるのは林師範代以外にはおりませんでした」
武官が軍隊式の礼を取りながら一段高いところにいる鎧を着た男に声をかけた。
「ご苦労だった。しかし、ならばなぜそこの林冲に縄がかけられていないのだ?」
尊大な様子で将軍はその武官を責めるように問いかけた。
「は……それは……この通り、抵抗する様子もありませんので……」
平静を装っているが、彼はそんな問いがそもそも飛び出したことに戸惑いを覚えているようだった。しどろもどろになりながらなんとかそうとだけ答える。
「命令は待合室にいるものを全員捕らえよ、だ。君はいつからその命令にそこまで解釈を加えられるほどの権限を得たのかね?」
畳み掛けるように将軍はその武官を詰問する。
「は……も、申し訳ありません」
ぎろりとねめつける将軍に彼は恐縮しっぱなしだった。
「その前に何故、そのような命令が出たのか教えてもらっても良いか?」
流れを断ち切るように林冲はその将軍に尋ねた。だがその将軍はじろりと林冲をにらみつけると
「お前に説明する必要は無い」
と言い切った。
(話にならんな)
林冲は嘆息して周りを見る。林中をここまで引っ張ってきた武官とその部下たちは同情交じりにこちらを眺めている。彼らを叩きのめして逃げ出すのは不可能ではないが、先ほど言ったとおりできればそれは避けたい。おまけにここから逃げ出したとしてもこの宮廷内のいたるところに兵はいる。無事に突破できるかどうかはわからなかった。
とはいえ、このままずるずると行って罪人になってしまったら本末転倒である。待合室にいる人間、という言い方からしても故意に自分を狙ったものではないようなので、いつかは疑いも晴れると信じたいが一度捕まってしまったら罪が確定するまでは逃げることは不可能だ。どうしようか林冲は迷いに迷った。
「林師範代、その、申し訳ないが……」
顔見知りの下級武官がじりっと間合いを詰めてきて、林冲は覚悟を決めた。最悪、自分がこのまま死罪になったとしても陸謙に事情を説明すれば妹はなんとか安全に暮らしていけるだろう。もちろん素直に殺されるつもりも無いがぎりぎりまで粘ってみる事にした。
「わかりました。お役目ご苦労です」
林冲は素直に両腕を差し出した。ほっと弛緩した空気が辺りに流れた。
こうして林冲は獄に入れられた。彼女を捕らえた下級武官は心底すまなそうにしていて、林冲が妹と陸謙に当てた手紙も二つ返事で配達を請け負ってくれた。
だが、一晩経ち、二晩経っても状況に変化は全く訪れなかった。拷問等はされることはないので肉体的には大した事はないのだが、食事はひどいものが一日一回でるだけの上に、臭くて暗くて狭い地下牢に押し込められっぱなしで精神的にはかなりつらいものがある。
(一体全体なんだというのだ?)
三日間、林冲は困惑の差中にあった。獄卒を何度か問い詰めはしたが、彼らも何も知らないらしく確たる情報は得られない。あの時、あの場で待合室で何かが起こっていたのだろうか、だとしたらそれは何だったのだろう。林冲は考えてみたが、情報もろくに無い中であまり有用な回答は得られなかった。
持ってきた宝剣はあの下級武官から高俅に手渡すようにお願いしてある。彼なら約束を守って届けてくれるだろう、とその時は思っていた。しかしこうして三日目になって陸謙からも何の反応も無いと本当に彼は手紙を渡したのか、引いては宝剣もきちんと高俅の手に渡っているか不安になる。そんなところにひょっこりやってきたのは富安だった。
「林冲殿、こちらにいらっしゃいましたか……」
富安は獄卒にいくばくかの金を握らせると、彼は声をひそめて林冲に話しかけてきた。獄卒はちらりと二人を見ると入り口に向かって歩いていく。
「富安殿?」
林冲にしてみれば少し意外の感があった。彼とは一度、それも業務的なつながりで会ったきりで、わざわざ兵士に賄賂を贈ってまで自分に会いに来る理由は無いと思っていた。
「何が起こっているのですか?」
藁をもすがる思いで林冲は富安に尋ねた。
「まずいです。このままではあなたと私、ともに打ち首です」
「……どういうことです?」
最悪の事態として林冲は自分の死罪は、そんなことになる可能性は低いと思いつつも、想定していたが、富安がそれに巻き込まれるのはわけがわからなかった。富安は周りをちらりと見回すと一層小さな声で語りかける。
「そもそも林冲殿は不思議に思いませんでしたか?」
「何がですか?」
つられるようにして林冲もまた声を潜める。
「私があの日、高俅の執務室にいて、あなたたちに捜査の内情を喋ったことがですよ」
「……考えも及びませんでした」
指摘されて初めて林冲はそのことに思い当たった。
富安は枢密院の役人である。枢密院は軍が不正なことをやっていないか調査する皇帝の直属機関であり、たとえ、軍の頂点にあり、皇帝とも懇意な高俅といえどもその調査内容を話すのは本来禁じられているはずであった。
「この際ですから話しますが私は今の枢密院では傍流に位置する人間なのです」
組織内の出世には様々な要素がからむ。実力、運、そしてコネ。この国では特にそのコネが重要でこれが無ければどんなに実力や運があっても出世できないことは珍しくない。富安はそういう意味では不遇の立ち位置に属する人間なのだろうと、林冲は悟った。
「ひょっとして、それで高俅に渡りを付けようと?」
今の組織で上にいける見込みが無いなら外部に移るというのは真っ当な選択肢だろう。そのためにもらしてはいけない情報を流すという富安のやり方はほめられたものではないが、実際問題として手土産の有る無しでは新しい組織も受け入れ方は違うものになる。
「ええ。高俅と童貫は反目しあってる。私の賭けはうまくいくはずでした」
富安は悔しそうに奥歯をかんでみせた。
「あの場ではあなたにお伝えしませんでしたが、あの時点で既に童貫は陸謙を宝剣盗難の下手人として捕らえるべく既に着々と手を打っていたのです」
「な、なんだって!?」
「ええ。ただあなたが事前に陸謙から剣を取ってくる予定でしたからそこは重要では無いと思っていたのですが……」
富安は言い訳するように付け加えた。
「問題は高俅がこの事をネタに陸謙と取引を行ったのです」
「取引?」
あの陸謙がどんな取引を? と思いながら林冲はその単語を繰り返した。
「取引の対象はあなたとあなたの妹さんです。高俅は童貫と交渉して陸謙を犯人としないようにする一方で陸謙にあなたの妹さんとの離縁を迫ったのです」
「な……」
林冲はその内容に唖然としていた。唖然としながらも耳だけは有用に機能して富安の声を拾っていく。
「あなたがここに捕まっているということはこの取引に陸謙は乗ったと言うことです。そしてあなたはもうじき宝剣を盗難した犯人として処罰される」
「ば、馬鹿な! 陸謙が藍と離縁だと!? なぜ宝剣のことまで!」
わけがわからなくて林冲は思わず叫んだ。
「しっ、声が大きいです」
慌てたように富安は声を潜めさせた。林冲は一度、深呼吸をする。ただ、それでも胸のざわめきと不安は到底抑えられるものでもない。
「本当なのか? それは」
「兵士に金をつかませてまでして、こんな嘘をついて私に何の得があるというのです? それにもし嘘ならあなたがこうして捕まっている理由は何だというのですか?」
富安の質問に林冲は答えられないが、それでも頭を振った。
「信じられん……陸謙が藍と離縁するなど……」
もし仮に自分と林藍が天秤に載せられたら陸謙は林藍を選ぶだろう。それはしかたのないことだし、林冲も異存は無い。
だが、宝剣のことで陸謙が林藍を捨てるというのはどう考えても納得がいかなかった。
「私はその陸謙という人のことは詳しく知りませんが……取引材料はそれだけでは無かったのかも知れません。例えば出世であるとか、現金だとか」
「陸謙はそんな男ではない!」
先ほど注意されたばかりであることも忘れて林冲はどなった。
「……失礼。言葉が過ぎましたな。先に宝剣の盗難についてお話しましょうか」
富安は林冲の怒声に怯えたようで頭を下げると話題を変えた。
「先日、あなた高俅に渡すための宝剣を持ってきましたね。あれは既に本物として扱われています。剣を盗んだ輩がのこのことそれを持ってきて捕まるなどと、荒唐無稽な話ですが、現実問題としてそれが既に通ってしまっている。童貫も甘い人間ではありません。陸謙が犯人で無いとなれば別の人間が必要となるのです。高俅の弟があなたの妹を好きにするためにもあなたは邪魔者。高俅にしてみればこれは一石二鳥の手段なのです。陸謙にしてもあなたと離縁するには何らかの理由が無いと不都合です」
ぎり、と林冲は奥歯をかみ締める。高俅の先日の謝罪は本心ではなかったのだろう。高俅にも怒りを覚えるがそれをあっさりと信じてしまった自分にも同じくらい腹が立った。
林冲の気持ちを知ってか知らずか富安は言葉を続けた。
「となれば高俅にしてみれば私などいないほうがいい。何せあなたに対し陸謙の家から宝剣を持って来いと命令した場所にいた人間なのですから。このまま、あなたが罪人として裁くためには私が邪魔なのです」
「……なるほど」
そこでようやくこの男の生死が関わってくるわけだ。
「事は一刻を争います。林冲殿。私はなんとか最悪の事態を避けるための手段をもってきました」
「なに?」
訝しげに問い返す林冲に富安は懐から書類を取り出した。林冲は牢屋の薄暗い明かりでなんとかそれを読み解く。
それは告発文だった。それによれば林冲は陸謙の家で宝剣を見つけ、それを取り戻した後、宮中に届け出た、とある。
「どういうことだ?」
若干早口気味に富安は喋りだした。
「先ほど言ったとおり、林冲殿が持ってきたもはや宝剣は本物だという扱いを受けてしまっています。これは最早覆せません。であるならば、話の筋を変えるのです。宝剣を盗んだのはあくまで陸謙。林冲殿は私から陸謙が怪しいという情報を聞いて、独自に陸謙の屋敷を調べ、宝剣を持ち帰ったのでそのままこちらに届けたところ、手違いでつかまってしまったと、こういうことにするのです」
「しかし、それでは陸謙はどうなる?」
林冲が尋ねると富安はいらだった調子で言葉を返した。
「他人のことを心配している場合ですか? このままではあなたは罪人として死んでしまうのですよ? それに陸謙の方は既にあなたを裏切っている。高俅に言われてあなたに宝剣など渡していないともう既に奉行所に届けて出ています」
だがしかし、そう言われたとしても林冲は決断する気になれなかった。それは厳しい現実より甘い夢想にしがみついていたいという自分の弱さかもしれない。
脳裏で陸謙が自分をあざ笑う光景が見えて、林冲はそれを必死に振り払った。声を枯らせながら林冲は富安に再度尋ねた。
「富安殿、本当に陸謙は高俅との取引に応じたのか?」
「そうでなければ、あなたがここにつかまる理由がないはずでしょう?」
富安の言うことは一見スジが通っているように思えた。だが、それでも林冲は陸謙が自分と林藍を見捨てたという事実がどうしても信じられなかった。
「藍……私の妹と連絡はとれるか?」
「ああそう言えば、あなたを捕縛した武官殿から手紙を預かっております」
言うと富安は思い出したように言った。
「彼から?」
「あなたが捕縛された際の様子を伺いましたから。妹殿は今、大相国寺にいらっしゃるようですな。それがために届けるのが遅くなったようです。申し訳ないとあなたに伝えてくれといわれました。それと陸謙宛ての手紙はどうしても本人を捕まえられず届けられなかったと」
言いながら富安は懐から手紙を取り出した。
陸謙に手紙が届いて無いというのが気になったが、富安の言うことが本当なら届いたところで無意味だろう、とりあえず、林冲は受け取ると素早く封を切って中身を読んだ。
「馬鹿な……」
林冲は震える声でもう一度見直す。見慣れた妹の字だ。そこには自分が魯智深に連れられて今は大相国寺にいることと共に陸謙の使いから林冲が罪人とされたことを理由に婚約の破棄が告げられたことと、その真偽を確かめようにも陸謙の家を尋ねても門前払いされたことが書いてあった。問題の離縁状も同封されており、それは確かに陸謙の字だった。
「見せて頂いてもよろしいですかな?」
富安の要請に林冲は無言で頷いた。彼はちらりと視線を左右に走らせ、短い時間でおおよその内容を把握したらしい。ため息をつきながら手紙を丁寧にたたむと林冲の手へと返した。
「お気持ちお察しいたします。本来なら考えるための時間を与えてあげたいところですが、さきほど申し上げたとおり時間がありません」
「私に、何をしろと言うのだ……?」
「先ほどの私が書いた告発文に証人として同意いただきたい。あなたはまだ正式に判決を受ける前の身分だ。書類上は禁軍の武術師範代としても権限は持ったままだからあなたの証言能力は認められる」
「……一晩だけ、考えさせてくれ」
それが林冲の精一杯の返答だった。
「無理です。時間がありません」
だが富安はそう言って急かしてくる。
「信じられんのだ。まだ……陸謙がそんなことをするなどと……」
言いながら林冲はその場にがくりとひざをついた。
「……わかりました。そうまで仰るのなら無理強いはいたしませぬ」
少し沈黙をはさんでから富安は頷いた。
「しかし。私も自分の身がかかっておりますゆえ、この告発自体は行います。うまく行けばあなたも死罪は逃れられるかもしれませんが、それでも罪人扱いは避けられず、流罪となるでしょう」
富安が宣言するように言ったが林冲はそれに対して何も言わなかった。彼は踵を返すと林冲のいる牢の前から去っていった。