その十二 林冲、高俅より密命を受けるのこと
大相国寺での事件が起こってから半月ほど後のことだ。林冲が禁軍の教練場にいると使いの兵士が声をかけてきた。
「林師範代。高大師がお呼びです」
「……わかった。すぐ行こう」
林冲は訓練していた兵士たちに休憩を告げるとその兵士の後に続いて宮殿内を歩いた。
この半月、林冲の周りに特別な変化は起きていなかった。しいて言うならあの日以来、魯智深が自宅にいりびたるようになったことぐらいか。ふらりと酒を持ってやってきては妹の話し相手になりながらだらだらと過ごしている。どうも彼女も自分がぶん殴った相手がお偉方の親類と聞いて逆恨みがあっては大変と妹を警護してくれているらしい。異変が何もないのはそれのおかげかもしれなかった。
正直言って林冲はほとんどあの事件のことを忘れていた。
高俅自身からの呼び出しによって忘れかけていた大相国寺の件を思い出すと自然と林冲の額にしわが寄る。もし 高俅から弟に傷を負わせたことを糾弾されれば、自分たちに非がないことを堂々と林冲は表明するつもりだった。
ただ高俅がそれを真面目に聞いてくれる可能性は高くないだろう。今まで彼とは上司と部下という関係以外は何も無く、その限りにおいては彼は平々凡々な上司だった。この国で平々凡々とはすなわち、自分にとって都合のいい意見しか聞く耳をもたない連中である。
「高大師、林師範代をお連れしました」
使いの兵がそう言って部屋の扉を開く。林冲は最悪ここに暗殺者が潜んでいることも考慮に入れて慎重に部屋に足を踏み入れた。
「ご苦労。君は下がりたまえ」
「はっ」
部屋の奥から響いた言葉に兵士がびしっと礼をして部屋から出て行く。
林冲は反射的に室内に目を走らせた。ここは高俅が自分の執務室として使っている部屋である。
が、禁軍の総帥が使う部屋としては不自然なまでに狭い部屋だった。部屋の中には書類棚が少々あるだけで、それほど家具は置いていないのに圧迫感を感じる。窓が小さいせいで昼間だというのにほとんど光が入ってないことも原因だろう。
目の前に机は三つならんでいる。いつもは両側の机に秘書の文官が二名いるはずなのだが今日はそこの机には誰も座っていなかった。そしてやや奥に配置された最後の机にこの部屋の主、高俅がいる。
年は確か三十になったばかりだと、林冲は思い出していた。体躯はどこにでもいそうな中肉中背で、鍛えられてはおらず、軍の司令官と言うより、その秘書官と言われたほうがぴったりくる。顔の作り自体もどこにでもいそうな印象の薄い顔で唯一特徴的なのが、白粉を塗ったわけでもないのに雪のように白い肌である。この肌がもう少し人並みの色であったら林冲は彼が隣にいても気づけないだろうと思う。
だがどれだけ体躯や顔のつくりが平凡であっても彼は間違いなくこの軍の総司令官であり、現在の皇帝陛下の寵愛を最もうけているこの国きっての権力者なのだ。
「林冲よ」
白い肌のせいか、やたらと目立つ赤い口から声がつむがれる。男性にしては少し高めの声だ。これがために実は彼は宦官(皇帝の女性がいる後宮の業務をするため、男根を切り落とした役人のこと、男性ホルモンができないことから女性のように声が高くなり、一般的に髭も生えない)ではないかとも疑われている。林冲はもちろんそんな噂の真偽など知りようも無いが。
「はっ」
林冲は部下としての礼をしながらも目だけは挑むように高俅をにらみつける。どんなことを言われようとも林冲は自分や妹の非を認めるような言動をするつもりはなかった。
「先日、弟が迷惑をかけたそうだな」
「は……?」
だから高俅から思いのほか、そんな殊勝な言葉が飛び出たことに少なからず驚いた。
「聞いたよ。こともあろうに君の妹にして陸謙の婚約者である女性に対して、大相国寺で無礼を働いたとか」
「は、はあ……」
どう反応していいものかわからずに林冲は曖昧に頷く。
「おや、ひょっとして妹殿からは何も聞いてなかったのかね?」
「い、いえ、知っておりますが……」
というかその場に自分は居合わせていたのだ。だが、どうも高俅の耳にはそこまで届いていないらしかった。
「すまなかったな。あれには私も手を焼いていてね。だがなんであれ、弟は弟、私にとっては面倒をみなくてはいけない奴でね」
率直な謝罪の言葉が高俅の口から出てきたことに林冲は驚いて口をぽかんと空けたままだった。その林冲の様子に気づいているのかいないのか、高俅は言葉を続ける。
「君もかなり、業腹だとおもうがね、まあなんとか僕の顔を立てて水に流してくれるとうれしい」
「い、いえ、とんでもございません。元より済んでのところで止めてくれた御仁もいたことですので大事には至っておりませんから……」
林冲はあせりながらとっさにそう答えた。
多くの高官は自分の身内が犯罪を犯したところでそれを認めることはほとんどない。権力にせよ、財力にせよ、何らかの手段を用いてそれを封じるのが普通だ。より厳密に言えば高俅が今言ったことも結局、一種の口封じではあるので一緒だが被害者の親族にこうして謝るのとそうでないのとでは雲泥の差だ。大体の場合は良くて、音沙汰なし。悪ければ、逆に被害者の側で罪を勝手にでっちあげられて逆にこちらが逮捕されてしまうこともありうる。
もちろん、高俅はその気になれば、林冲と林藍の罪を偽造できるだろう。それほどかれの持つ権限は強力なものだ。
(どうやら想像していたよりもずっと公平な方らしいな……)
林冲は高俅と差し向かいで話すのはこれで初めてだった。もちろん互いに顔は見知っているし、挨拶ぐらいはしたこともある。だが彼の人となりといえる部分を見るのはこれが初めてであった。
あまりいい噂は聞かない人物ではあったが、元より林冲はその噂は少し割り引いて考えていた。皇帝陛下のお気に入りとなり、一気に権力の階段をかけあがった人物だ。多少の僻みや嫉妬はあって当然かもしれない。
「君にそう言ってもらえると助かる。まあ、こうして僕がかばっているからあいつも直らないのかもしれないが……ああ、陸謙にもつい先ほど、許してもらったよ。君が許せば、という条件付だったのだが、なんとかこれで肩の荷もおろせたわけだ」
そう言って高俅は上機嫌に笑った。
(陸謙め……)
この国の最高権力者の一人からの謝罪に条件を付けるとは、と林冲は内心苦笑した。
「さて、君をここに呼んだ理由はもう一つある」
言うと高俅は手元に会った鈴をちりりんと鳴らした。すぐさま、扉が開かれ、先ほどの兵士が現れた。
「お呼びでしょうか」
「控え室にいる富安を呼んできてくれ」
「はっ」
聞いた事が無い名だ、と思いながら林冲は兵士が再び部屋から出て行くのを眺めた。
「一応、先に断っておくと……」
高俅が話し始めたので林冲は正面に向き直った。
「誓って言うが、今から話す件は先だってのこととは無関係だ」
「はあ……?」
わけがわからずきょとんとする林冲に高俅は言葉を続ける。
「陸謙にはわが国の国宝を盗難した嫌疑がかけられている」
さらりと言った。
富安という男はでっぷりと太った四十代後半と思しき人物だった。口ひげを生やしてぴしっとした朝服を着ている。軍人ではなく役人のようだった。
「富安は枢密院に所属する禁軍の監察官の一人だ」
高俅がそう紹介した。
「初めまして、富安と申します」
「ご丁寧に。林冲と申します」
二人は簡潔に名乗りあった。
宋の前に中国全土を統一していた王朝は唐という。この唐王朝が滅亡してしまった原因はいくつかあるのだが、その一つに地方軍閥の力が強大になってしまったことがある。ようは地方貴族が力を持ちすぎて、皇帝の言うことを聞かない軍事力が出てきてしまったのだ。
宋はこの反省を踏まえて主要な軍事力は全て皇帝直下とし、さらに軍人だけで軍がまとまらないようにその上に枢密院という軍の状況をチェックする機関をおいていた。宋の軍制はその監査機関のトップが皇帝によって選ばれるという点を除けば現代まで続く文民統制ににたシステムをとっていた。
高俅は現代の日本に例えると自衛隊におけるいわゆる制服組のトップであり、一方でこの富安という人間は背広組、すなわち防衛省の人間というわけだった。
「富安。もう一度林冲に事件のあらましの説明を頼む」
「かしこまりました」
富安は恭しく高俅に礼をすると林冲に向かって話し始めた。
「これから話すことは全て、御内密に願います。ご家族の方にも決して話されませぬよう」
「ああ、承った」
緊張した面持ちで林冲は頷いた。
禁軍の倉庫には宝剣が収められている。この場合の宝剣というのは実用性よりも装飾を重視した儀式用の剣のことである。何本か収められている宝剣の一つに古代の神から名をとって黄帝剣と呼ばれていたものがあった。それが一昨日の晩、忽然と消えた。
「言ってしまえばその夜の警備を担当していた中にいた人間の一人が陸謙だというだけなのだがな」
「はあ……」
それだけで陸謙に嫌疑をかけるのはあまりにも乱暴ではないかと思った林冲の考えを見透かしたように高俅は言った。
「より正確に言えば嫌疑をかけられているものの一人、ということだな。誰かは明かせんが他にも疑わしい人間は大勢いるし、正直言って僕も個人的には彼を疑ってはいない」
高俅はあっけらかんと言ってくる。
「高俅様、いくらこの場にいる人間が少ないと言ってもそのような言い方は……」
富安が若干抗議するように言いかけたが、高俅はそれを手で制した。
「問題がある、かい? まあいい。さて林冲よ、本題はここからだ」
高俅はそう言ってまた富安に視線を移す。どうやらまた彼が説明をするらしい。富安は咳払いをすると話を続けた。
「事が事ですので、枢密院では極々内密にこの件を調べています。現状まだ犯人は見つかっていないのですが陸謙殿だけ特殊な事情があって彼の捜査が難航しているのです」
「事情……?」
「はい、その黄帝剣は太祖様がこの中華を統一した際に職人に命じて作らせたものですが、その際にいくつか同じ職人に作らせた同様の剣を大功のあった臣下の方々に下賜されております。その一人が陸謙様の先祖に当たられる方なのです」
「つまり、だ」
そこで高俅が話を引き継ぐように口を挟んできた。
「他の容疑者相手なら、こっそり家捜しした際に問題の剣があればそれで一件落着というわけなのだが陸謙だけにはそれが通じない。何せ元々、そっくりの剣を持っているのだからな」
補足するように富安が発言する。
「無論、保管されていたものとそうでいないものを判別する手段はございます。ですがそれは素人がちらりと見たところでわかるものではありません。しかる人員を手配し、時間をかけて調べねばならぬのです。他の容疑者からものが出てくればそんな問題も無いのですが、今のところ、見つかっていません」
なるほど、と林冲はおおよそ状況を察した。自分の妹と彼の関係を利用してなんとか調べるためにその剣を持ってきてくれないか、ということらしかった。
「察したようだな」
椅子に座ったままの高俅が声をかけてくる。
「はい。しかし、お言葉ですが、それなら本人に素直に貸してくれと言えば良いのでは?」
林冲の発言に 高俅は肩をすくめる。
「容疑者候補に対して理由をきちんと言うわけにもいかない、何しろ極秘で進めている案件なのだからな。先ほど遠まわしに要求してみたが、やんわりと断られた。私も君の妹御の件がなければもう少し強引に出れたのだがな」
悪いことは重なるものだ、と高俅は首を振った。
しかし、林冲はあまり乗り気になれなかった。禁軍総帥からの命であり、正当な理由があるといっても友人を犯人と疑ってその家から宝剣を持ち出すということに躊躇してしまったのだ。高俅はそんな林冲の迷いを見て取ったのか、背中を押すように話し出した。
「これは陸謙のためでもあるのだ」
と。
「どういう意味です?」
「富安殿がいることからわかるように、この件は枢密院が中心となって動いている」
林冲は頷いた。
枢密院は禁軍……だけでなく軍全体を監察する立場にあり、その中で起こった事件(明らかになったものは、ということだが)などは彼らが取り調べることとなる。そこに不自然な点は何も無い。
「童貫のじいさんがはりきっているらしくてね」
困ったように眉根を寄せて高俅は話した。
童貫とはその枢密院のトップの人物だ。権力者にありがちなように何かと黒い噂の耐えない人物である。じいさん、と高俅は呼んだが年齢はまだ50代前半で肉体も壮健な人物である。彼ははっきりと宦官出身であることが知れているが、男根を切り落としたにもかかわらず、豪壮な髭を生やしているという怪人物だった。高俅と童貫を並べてどちらが宦官出身かと聞かれたら全員高俅を指差すだろう。そういう意味では高俅とは対照的な人物だった。
「すみません。仰られることがよく……」
林冲は高俅が何を言いたいのかわからずに困惑して問い直した。
「ふむ」
ちらりと高俅は富安を見てから林冲に視線を戻した。富安は何も語らずじっとたたずんでいる。
「先ほど、言ったとおり、陸謙の家には宝剣の複製品があり、それは時間をかけねば本物かどうか、わからない」
先ほどと同じ言葉を高俅は繰り返す。そこで彼は一息吐くと、試すように林冲に語りかけた。
「わからないかね?」
「申し訳ありません……」
林冲が頭を下げると高俅は言葉を続けた。
「つまり、その気になればそれが盗まれた本物だと言い張ることもできるのだ」
「!」
ここにきてようやく林冲は気づいた。富安の言葉から見てわかるとおり、枢密院は既に陸謙の家にその模造品があることは承知している。彼らはいつでも陸謙を犯人にしたてあげることができるのだ。枢密院と陸謙には何の係わり合いも無いがそれだけに、犯人が見つからなければ枢密院が自分たちの手柄のために陸謙を犯人にしてしまう可能性は大いにあった。
「僕としても禁軍の警備してたものが盗まれ、さらにそれが同じ禁軍内の人間によって行われたなどという事態は好ましくないのだよ。これを防ぐ手段はいくつかあるが、手っ取り早いのはこれが偽者だということを枢密院、すなわち富安殿達の手で明かしてもらうのが最も良い」
付け足すように高俅はそう言うが林冲にはその言葉はほとんど入っていなかった。
「さて、それでは結論を述べようか」
高俅は真剣な顔をして卓に肘を乗せた。
「林冲、陸謙の家から件の宝剣を持ってきて私に渡せ。無論、本来の目的を陸謙には気づかれぬようにな」
林冲には頷くしかなかった。