その十一 魯智深、林冲の過去を語るのこと
東京開封府・大相国寺。この国の首都にある寺の中でも名刹と名高いその寺に、天女とみまごうばかりの美しき女性がいた。短く切った飾り気のない黒髪の持ち主でありながら町の男たちの心をつかんではなさぬその美貌、菩薩よりも深きその慈悲の心。名だたる高僧でさえ、彼女の前では高鳴る鼓動を抑えることができず、彼女が歌えば鳥はあつまり、この世のものとは思えぬ甘美な調べが生まれる。
嗚呼! 今年咲く梅の花のなんと哀れなことか! いつもならば人々が褒め称えるそのかぐわしき香りと美しさも彼女の前では引き立て役にしかならないとは!
都の女は言うに及ばず、太陽の輝きすら彼女にかしずき、彼女の吐息だけで若い男たちは身悶えして引き裂かれる心に苦しむ。
彼女の名は魯智深。稀代の美女にして徳高き大相国寺の尼である。
「すいません、ちょっと待ってください」
さすがに宋江は突っ込んだ。
「何よ」
先程までの神妙な雰囲気はどこへやら。まるで芝居の口上でも述べるように美辞麗句を並べ立てる魯智深は宋江の言葉にその動きをぴたりと止まると不機嫌そうに声を上げた。
「あの、林冲さんに何があったのかを話してくれるんじゃないんですか?」
「登場人物の紹介は必要でしょう?」
いけしゃあしゃあと魯智深は言った。ちなみに隣に座る楊志はもはや反応することすら放棄して、ただただひたすらに冷たいまなざしを魯智深に注いでいる。
「簡潔にお願いします」
思わず額を押さえて宋江が懇願すると魯智深はしかたないわねえ、と一言もらすと姿勢を正した。
「わかったわよ。ちゃんと話してあげる。まあ、でも今のでわかったてくれたと思うけど、林冲と会ったとき、あたしは東京開封府の大相国寺というところで修行をしていたの」
そう言ってようやく魯智深は真面目に話し始めた。
「大相国寺にあんたみたいなのがいたら絶対噂になってると思うんだけど」
楊志は疑惑の表情を浮かべながらそう言った。
「楊志さん、そのお寺知ってるんですか?」
「有名だもの」
当然、といった調子で楊志は答える。
「だからー、きれいで可愛い尼僧さんがいるって噂になってたって今、話したじゃない」
勝ち誇ったように魯智深が言うが、宋江はそれを完全に無視する形で問いかけた。
「魯智深さんて、昔からその、大相国寺ってところにいたんですか?」
「ううん。あたしはもっと西のほうの出身よ。大相国寺に来たのは去年の末くらいだったかなぁ……」
その魯智深の答えに楊志は得心が言ったという様子で頷いた。
「なるほど、なら私が知らなくてもおかしくないわね。私は去年の春には開封府を離れていたらから」
魯智深は話を続ける
「宋江。あなた高俅という名前を知っているかしら?」
「……名前くらいは……都のえらい人っていうことくらいしか知らないですけど……」
宋江は言葉を濁した。本当はよく知った名だった。多少ここで出ることを予期していた名前でもある。が宋江は敢えてあまり知らない風を装った。
「楊志は……知ってるわよね」
「まあ、当然……」
眉根をよせて、楊志は答えた。
「あいつが関わってるの?」
魯智深は無言でこくりとうなずくと、宋江に向かって話しかけた。
「高俅はね、禁軍の総帥なの。つまり楊志や林冲の元上司にあたる人間ね。それもとびっきりのお偉方ね」
「どういう人なんです?」
宋江が楊志に尋ねると彼女は腕組みしながら曖昧に答えた。
「あまりいい噂は聞かないわね。皇帝陛下に取り入ってとんとん拍子に出世した男だから……。まあ実力を認める人間も禁軍にいないわけではないけど。正直、私は直接話したことなんか無いから個人的な印象は薄いわね……」
「まあ、そんな人間よ」
魯智深が十分とばかりに楊志の言葉を遮る。
「あたしと林冲が出会ったのはね、うちの寺で騒ぎをおこしているやつをふんじばったのがきっかけだったの。女の子に乱暴しようとしているチンピラがいてね。でも捕まえてみればそのチンピラは高俅の弟で言い寄られた女性というのは林冲の妹だったのよ」
魯智深は不良尼僧である。本人はそれを否定するつもりも隠すつもりも無い。そんな彼女が大相国寺という名だたる寺に何故いたかと言うと、それはひとえに彼女の腕っ節が評価されていたためだ。つまり、彼女は大相国寺で修行をしていたというより、寺の用心棒として働いていたと言うほうがより正確な表現である。
用心棒といっても都の寺でそれほど物騒なことがあるわけではなく、せいぜい酔っ払いや賽銭泥棒が関の山で、魯智深も最初にその男をこらしめた時にはその類であろうと大して気に留めたわけでもなかった。
事件があったのは大相国寺の裏の林の中、人がめったに立ち入らぬ場所であった。そこで不埒な行為に及ぼうとしていた男は魯智深によってこらしめられたのである。
何故、魯智深がそんな場所にいたかというと、寺……というか仏門では一般に禁止されている酒を飲もうとこっそりやってきていたからである。たまたま通りかかった魯智深は女の悲鳴をきくとその場に駆けつけ、その狼藉をしようとしていた男を気絶するまでなぐりつけた。
「大丈夫?」
男が動かなくなったのを確認すると魯智深はその今まさに襲われそうになっていた少女に声をかけた。見た限りでは、転んだひょうしに多少服に土がついていること以外は問題無さそうだった。怪我をした様子も無い。
「あ、ありがとうございました……」
容赦なく男をずたぼろにした魯智深に若干怯えながらも、ほっとした調子で魯智深に少女は返答した。美しく黒髪を結い上げており、身の丈五尺(約150センチ)と少しの可憐な少女である。
「気にしない、気にしない。大した事はしてないんだから」
もはやぼろ雑巾のようになったその男をひょいと持ち上げながら魯智深はへらへらと笑った。
「ま、境内の中とはいえ、女の一人歩きは避けることね。悪いけどあたしたちだって敷地内全部に目があるわけでもないから」
「はい、すみませんでした。逃げていたらいつの間にかこんなところに来てしまって……」
叱られたのかと思ったらしく、その少女は言いながらぺこぺこと頭を下げた。
「ああ、違うのよ。怒ったんじゃないの。ところで、あなた一人できたの? ご家族の方とか一緒じゃないの?」
「はい。姉が一緒です」
少女のその発言に魯智深は思わず眉根を寄せた。
「え? お姉さん? うーん、こういっちゃ何だけど嫌な予感がするわね。脅かすつもりはないけど、その子も一人でどっかほっつき歩いているわけでしょ?」
だが、少女はそんな魯智深の心配を吹き飛ばすようににっこりと笑った。
「大丈夫です。姉は強いですから」
魯智深がそのぼろくずのようになった男を引きずりながら、その少女と共に、本堂の前に戻ってくるとすぐに黒髪の背の高い女性が駆け寄ってきた。
本堂には参拝客が何人かいたのだが関わるつもりは無いのか、遠巻きに魯智深たちの様子を眺めている。それらの人々も魯智深が少しキツめの視線を向けるととそそくさと視線をそらして去っていった。
「大丈夫だったのか、藍。急にいなくなるから心配したんだぞ」
走りよった女性はその少女の手をぎゅっと握りながら声をかけている。
「ごめんなさい、姉さん。実は少し怖い目にあったのですけど……でもとっても強い尼さんが助けてくれたから……」
そう少女が言うとその背の高い女性は魯智深と彼女が持つずたぼろの男を見てなんとなく何があったか悟ったようだ。
「安心してちょうだい。ひどいことは何も起こって無いから。まあ、間一髪だったけどね」
魯智深がそう言うとその駆け寄ってきた女性は深々と魯智深に頭を下げた。
「妹が危ないところを助けていただき、ありがとうございました」
「なになに。境内の安寧を司るのも我らが役目。そう、気にすることはありません」
魯智深は仏式で手を合わせるとそう答えた。
「ああ、申し訳ない。挨拶が遅れたな。私は林冲、禁軍の棒術師範代を拝命している身だ」
「あら、禁軍の武術師範代だなんて、妹さんが自慢するのもうなずけるわね。私は魯智深。ただの可愛い尼さんよ」
魯智深がそう自己紹介すると、林冲と名乗ったその女性は一瞬動きを止めた後に爆笑した。
「ははははは、それではまあそういうことにしておこうか」
林冲は朗らかに笑った後、少し視線を鋭くして魯智深の手の先、すなわち魯智深が捕まえた男に視線を落とした。
「ところでそいつが下手人か?」
「ええ。持ってく?」
まるで大根でも持ち上げるような気安さで魯智深はぼこぼこに殴られた男を突き出した。
「いや、遠慮しておこう。妹にこれ以上、汚いものを見せたくはない……」
そういいながら林冲は男の顔を覗き込んでいたが途中で言葉を途切れさせた。
「まさか……」
「どうしたの?」
魯智深が怪訝そうに尋ねたとき、今まで気絶した男の目が見開かれた。その目がたどたどしく林冲を見上げる。
「う……あ……お前……兄貴の……」
「やはりか……」
妹を後ろに隠しながら林冲は苦虫をつぶしたような顔でそう呟く。
「なんで……」
男が何か言いかけたとき、きっと林冲はそれを遮るようににらみつけて言った。
「君がかどわかそうとした女性は私の妹だ。もう既に結納の相手も決まっている。いさぎよく身を引いてもらおう」
「な、なんだとぉ……」
ぱくぱくと男は海に溺れてもがく獣のように口を開け閉めさせる。
「て、てめぇ……俺にそんな態度とっていいと、おぶう!!」
男がそれ以上、何かを言う前に魯智深はその男を手から離すと彼の頭を問答無用で踏みつけた。地面と口づけを交わす羽目になった男の後頭部にぐりぐりと力を込めながら魯智深は言った。
「なんだか、複雑な事情そうね。ここはいいからいきなさい」
「すまない。重ね重ね恩に着る。行くぞ、藍」
「は、はい!」
二人が小走りに駆けて行くのを見届けると魯智深はようやく足元の男を解放した。
「こ、このクソ尼が、俺の兄貴が誰だか……あがっ!」
「学習しないわねー、あなたって」
再度つま先に体重をかけながら魯智深は呆れたように呟く。
「そこまでにしなさい」
聞き覚えのある声に魯智深が振り向くとそこにはこの大相国寺の住職、つまり魯智深の上役がいた。
「仮にも仏門の身である君がこの境内で死人を出すつもりかね?」
「大げさですね。このくらいで死にゃしませんよ」
そういいつつも魯智深は男から足を離した。住職の後ろには目つきの悪い男が数人並んでいる。おそらくこの足元の男の取り巻きで既に住職となんらかの取引が終わっているのだろうと思った。自分に直接攻撃せずにこの短時間で住職を捕まえて話をつけるとは、誰だか知らないが、中々目端の利く男がいるらしい。
「高衒様、大丈夫ですかい!?」
魯智深が男から少し距離をとるとばたばたとその男たちがかけよって彼を助け起こそうとした。踏んづけられていた男はそれを乱暴に振り払いながら立ち上がった。まだそれくらいの元気と矜持は残っているらしい。
「て、手前ら、覚えてろよ。こんなちんけな寺の一つや二つ、どうとでもなるんだからな!」
男は周りの取り巻きを連れて行きながら、そんな捨て台詞を残していった。
「ひょっとしてえらく大物だったりします?」
ひょこひょこと逃げる男たちの集団をみながらのんびりと魯智深は住職に聞いた。
「禁軍総帥の高俅様の弟の高衒様ということじゃがのう」
住職もまた、まるで他人事のように答える。
「へえ、あの飛ぶ鳥を落とす勢いで出世してる? やりすぎちゃいましたか?」
魯智深の顔にはあせりなど全く見られない。ちょっと夕食のつまみ食いが見つかったような調子でそう住職に尋ねた。
「ま、大事にしたら困るのは向こうも一緒じゃ。仮にも禁軍総帥の身内が尼僧にこてんぱんにやられたなどという赤っ恥はかきたくあるまい。ま、それでも難癖をつけてくるようならおぬしを切り捨てて無関係を決め込むわい」
「くそじじいが……いい度胸してるじゃない」
言葉とは裏腹に魯智深は面白そうににやにやと笑いながら言った。
「ほっほっほ。人畜無害なじじいがこんな都の大寺の住職などやっておれるかい」
ひげをしごきながら悪びれることなく住職は笑って答えた。
林冲の妹、林藍には婚約者がいた。相手は林冲の同僚であり、禁軍で宮殿の警備隊の隊長を努める陸謙という男である。陸謙は名門の軍人の家系に生まれた男で林冲は同期の入隊で、どちらかといえば寡黙で近寄りがたい雰囲気を纏っている林冲の、数少ない友人であった。
彼らは同期の中でそれぞれ別の方面で抜きん出た能力を持っており、そのためにお互いを認め合い信頼する仲だった。林冲の棒術は禁軍の中で一、二を争うものであったし、陸謙は頭がよく人望が豊かで集団ができるといつの間にか中心になっているような人間だった。
ある日、林藍が姉が忘れ物を禁軍の詰め所にまで届け物をしたのが陸謙と林藍が知り合うきっかけだった。陸謙曰く、一目惚れであったらしく、林藍の唯一の家族である林冲も知らない仲ではなかったので縁談がすすんだのである。
その日の晩、陸謙は林冲から昼間で大相国寺であったことを林冲の自宅で聞かされると目を丸くした。
「高俅様の弟が、だと……」
「君との関係は知らなかったのだろう」
陸謙の怒りを静めるように林冲は言った。実際にぼろぼろにされた下手人を見たせいか、林冲は比較的、冷静になることができていた。
「それはそうだろう。知っててやったのなら、今から水路の底に沈めてきてやる」
陸謙は、彼と親しい人間しか知らないことだが、かなりの激情家だ。今も林冲の目の前でぎりっと歯軋りしながら拳を堅くにぎりしめていた。
「軽はずみなことはしてくれるなよ」
林冲がそう言うと陸謙はふうと息を一つ吐くと緊張を緩めた声をだした。
「わかったよ、義姉さんに言われた以上、自重するさ」
「気の早い台詞だ」
林冲は苦笑しながら言う。
「嫌かい?」
「お前に言われるとからかわれている様な気がしてならん」
淡々と林冲は答えると同時、二人がいた部屋の扉が騒々しく開いた。
「お待たせしました、陸謙様!」
入ってきたのは林藍だった。普段より念入りにおめかしをしているようだが、頬の赤みは紅をさしただけではあるまい。
「ああ、それでは主役も来たことだし、はじめようか」
林冲がそう言って三人だけのささやかな晩餐会が開かれた。
「林冲は結婚しないのか?」
卓の上の料理が大分片付いた頃、陸謙が林藍から注がれた酒を飲みながらそう林冲に尋ねた。
「君ももう二十だ。そろそろそういう相手を探してもいい頃じゃないか?」
「そうかもしれんが……考えた事が無いというのが正直なところだな」
この国では一般的に女性はおおよそ十代後半で結婚する場合が多い。結婚を機に仕事をやめ、その後子供がある程度育ったらその人次第といったところだ。その慣例で言えば、林冲もそろそろ結婚してもおかしくない年齢である。ただ、林冲には家庭に入って家の事を切り盛りしている自分というものが全く想像がつかなかった。
「そうなの? 姉さんぐらいきれいな人なら引く手数多だと思うのにもったいない」
「褒めてくれるのはうれしいがな、顔かたちだけで決まるものでもあるまい」
まだまだ結婚といえば家同士のつながりという側面が現代に比べて強かった時代なのだ。陸謙と林藍のように本人同士の意思から始まる婚姻というのは無いわけでは無いが、珍しい部類である。陸謙は決して言わないが林藍との結婚についてかなり家族の説得に苦労したことを林冲は知っている。
その陸謙はぽんと林藍の肩に手をおきながら笑っていった。
「まあまあ、林冲。妹殿の気持ちも察してやれ、藍は自分のように素晴らしい旦那様をお前につかまえてほしいと思っているのさ」
「よく言う」
その言い方と陸謙の芝居じみた仕草にに思わず林冲は笑う。
「まあ、そんな思いを込めてだ。俺と藍からの贈り物だ。受け取ってくれ」
陸謙がそう言って促すように林藍の肩をたたいた。
「姉さん、これ……」
林藍が差し出したのは小さな、しかし装飾が丹念にされた箱だった。
「これは?」
「開けてみろよ」
悪戯が成功する寸前の子供のような顔をして陸謙が笑う。怪訝な顔をしながら箱を開けるとそこに入っていたのは化粧に使われる紅だった。
「私に……か?」
少々信じられない気持ちを感じながら林冲はそう聞く。
「もちろんですよ」
そんな林冲の様子が面白かったのか、林藍がくすりと笑った。
「姉さん、きれいなのに化粧っけが全く無いから少し勿体無いと前から思ってたんです」
「む、むう……しかし、それこそ勿体無いぞ。私はほとんどこんなものをつけるような場面は無いというのに」
「姉さん、化粧は必要かどうか、ではなくて、つけたいかどうか、ですよ」
林藍はまるで幼子に諭すように微笑んだ。
「だ、大丈夫なのか? 高かったのではないのか? 二人ともこれから色々と物入りだろう?」
おろおろと、林冲は落ち着かない様子で林冲は笑う二人の顔を交互に眺めた。
「はっはっは。林冲にしてはえらく殊勝なことを言うじゃないか。安心しろ、お前が心配するようなことは無いさ」
「姉さん。それは今まで育ててくださった私からのせめてもの恩返しです。もちろんこれだけで、受けた恩を返せたとは思ってませんけど、今はそれで許してください」
妹のその言葉に林冲の視界がじわりと滲んだ。
「おや、林冲。ひょっとして感極まって泣いているのかな?」
陸謙がからかうように言うので林冲もついむきになって反論する。
「な、泣いてなんか無いぞ! 本当だからな!」
「自慢の種が一つ増えたな。うちの家内は都で最強のあの林冲を泣かせたと明日から吹聴しよう」
「あら、じゃあ、今日から私が都で最強ですか?」
面白そうに林藍が笑う。
「あんまり、からかうな。二人とも、ぐすっ、ありがとう。ありがたく使わせてもらおう」
「今、『ぐすっ』て言いましたよね」
「ああ、やっぱり泣いてたんだな」
林冲の礼の言葉などまるで聞いてないように二人はひそひそと、しかしあからさまに林冲に聞こえるように話し始める。
「ああ、もううるさい奴らだな」
目頭をこすりながらそれでも林冲の口には笑みが浮かんできていた。