その三 宋江、晁蓋の実力を目の当たりにするのこと
幸一郎が宋江と新しく名を変えて晁蓋の家に居候を初めてから二十日ほどが経った。
最初の三日くらいはこれからどうなるのか不安な日々をすごしていたが、そのうちに開き直ってしまった。どうにでもなれ、という心境である。とは言え便所が汲み取り式でハエが飛び交っている様子などを見ると元いた現代の日本に戻りたいと言う思いは蘇ってくる。
開き直ってからは宋江は主に村の中をふらふら歩き回ったり、呉用のところに顔を出したりしていた。呉用は自分の置かれた状況を解決してくれるような超常的な力を持っているわけではないが、それでも他の人間より、状況を熟知してくれているためか、何かと力になってくれる。
当初は冷たい態度を取られていたが、それは自分が得体のしれない人間が故の警戒感のようだったらしい。それが次第に解けると彼女は割と面倒見の良い人間なのか、この村や周囲、国のことを色々と教えてくれた。
呉用は本も借してくれた。不思議だったのが書かれていたのは漢字ばかりの中国語だったのに、見ただけですらすらと読めたことだ。無論、中国語など、今までの生涯で触れたことすら無い。ただ、読むのは問題なくとも、書くほうはそうはいかなかった。書けるのは日本語だけで、これは呉用や晁蓋に見せてもさっぱり意味が通じなかった。呉用に文章の書き方を教えてくれないか、と頼んでみた事はあるが、学費払える? という彼女の問いの前にすごすごとひきさがっている。ケチと言うより、他の村人の手前、特別扱いはできない、ということらしい。
自分たちの、つまり自分や晁蓋や呉用の水滸伝に書かれた結末はとりあえず忘れることにした。水滸伝で書かれていた晁蓋や呉用は山賊の一味であり、今の彼らの環境とは全く異なる。
水滸伝とは簡単に言ってしまえば義賊の話だ。宋という国の末期、すなわち国の滅亡する少し前の時代に悪徳役人たちと戦った英雄たちの群像劇である。最終的に梁山泊という山に集まった英雄の数は全部で百八名。宋江も呉用もこの中の一人だ。晁蓋はそれと異なり、戦いの途中で命を落としてしまう。もっとも宋江と呉用も物語の最後で死んでしまうのだが、それはさておく。
現状を見るに晁蓋も呉用も別に山賊になっているわけではないのだから、物語のとおりになるということもなるかどうかはわからない。おまけに、呉用が女性という決定的な違いもある。水滸伝で集まった英雄は極々少数の例外を除いて全て男性だった。パラレルワールドか何かかもしれないと今はまだ気楽に捉えておくことにした。無論、二人にも何も話していない。
その日、つまり晁蓋の家に居候してか二十日目、宋江は晁蓋と一緒に馬小屋の掃除をしていた。晁蓋は意外なことに存外まめに家事の類をやっていた。普段、この家にいるのは自分以外だと晁蓋と通いのおばあさんが一人だけである。おばあさんは部屋の掃除と食事の世話をしているくらいで、菜園や馬の世話、農具の管理、家の修理等は晁蓋自らがやっていた。呉用に聞く限りでは昔はそれなりに使用人もいたらしいが晁蓋の父親が死んでから徐々に晁蓋の野放図さに耐えかねていなくなってしまったらしい。
宋江は何もせずに居候しているのも気が引けて最近は手伝いを申し出ている。来客が来たのはそういう経緯で二人が馬小屋のわらを敷き詰めていたところだった。訪ねてきたのは四人の男。聞けばその四人の男達は晁蓋に会いに遠路はるばるやってきたとのことであった。
「で、お前らどっから来たって?」
客人をとりあえず中に通してから晁蓋は訪ねた。
「私達はここから西のほうにある南沢村という村から来ました」
代表格と思しき一人の男がそう答えた。
「聞いたことねえな。えらく遠いんじゃないか?」
「ここまで来るのに五日程かかりました」
「そりゃずいぶん遠くから来たな。で、俺に何のようだ」
ちなみに宋江も話の流れで晁蓋の隣に座って聞いている。代表して話している男は少し、緊張しているようだった。
「実は晁蓋様の武勇の噂を聞きまして、その力をお借りいたしたくて参りました」
「ほほう」
その瞬間、晁蓋の口の端がにんまりとつりあがるのを宋江は見た。わざわざ悪霊を退治しにやってきたと聞いた時からなんとなくわかっていたが、どうもこの手の危険なイベントが好きな男らしい。
「詳しく話してくれ」
「はい。我々の村は数年前からある山賊たちに悩まされています。率いているものは黒勝というものなのですが、おおよそ五十人くらいの集団でして……」
「ふーん、五十人ねぇ」
「わ、我々も村の人間をかき集めればなんとか二十名程度は戦えるものがおりますが、何分、向こうは槍や弓やといった武器も持っておりますし人数も多く、我々では歯がたたないのです」
そこで別の男が話を引き継ぐようにして叫んだ
「お、お願いいたします。どうか、力をおかしください! ここ数年に渡って田畑は荒らされ、若い娘や家畜はさらわれ、県や州の偉い方に申し出てもしばし待ての一点張りで我々はもう限界なのです!」
「ご恩は必ずお返しいたしますので!」
口々にそう言って四人の男は卓に頭をぶつけるような勢いで頭を下げた。
県や州といった地方の行政府はめったに山賊退治に兵を出すことはない。何故かと言うと兵を出すとお金がかかり、お金がかかれば知県や知州、県や州の行政責任者のことだが、が使える金も少なくなるからである。地方の財政を握る彼らにとっては自分が管理している財は自分の富を増やし、出世のための賄賂に使われるものなのだ。出費が少ないに越したことはないのである。
それに知州にとっては税金が入るかどうかが最も重要であって、民がどう暮らしているかというのは二の次だ。となれば、民に税を出すだけの力があれば、山賊など放っておいてもなんの問題もない、ということになる。山賊もそれがわかっているものは、農村から何もかもとりあげるような真似はしない、そんなことをして税を払えなくなれば、州の軍勢が襲いかかってくるのだから。かくして山賊に付け狙われた村では長期間、生かさず殺さずの状態が続くのである。
話を元に戻す。晁蓋はそんな四人の様子を眺めて即座に答えを出した。
「いいぜ。五十名程度じゃ大して面白くなさそうだが、ここまで来たお前らを手ぶらで返すのも気が引けらぁ」
『面白くなさそう』という言葉に宋江も、そして目の前の四人も一瞬不安な顔つきになったが、とにもかくにも、晁蓋が山賊をどうにかしてくれるという事実は確かなので、頭を下げた。
「あ、ありがとうございます」
その後、四人のうち、二人の男は少しは休憩したらどうだと引き止める晁蓋を振り切るようにして、帰っていった。一刻も早く晁蓋が来ることを村に知らせたいと言う。残り二人が村までの案内役として残った。
「あんなにあっさり請け負って大丈夫なの?」
その案内役の二人を晁蓋の指示であてがった部屋に案内した後、宋江はそう聞いた。
「大丈夫って何が?」
「山賊退治だよ。人数も向こうのほうが多いし、武器だって持ってるんでしょう?」
わざわざ五日もかけて呼びに来ると言うことは晁蓋はそれなりに強いと言うことなのだろうがいくらなんでも一人でできることには限度がある、と宋江は考えていた。だが、その言葉に対して晁蓋は少しぽかんとした後、笑い出した。
「な、なんで笑うのさ?」
「いやいや、悪い悪い。そんなこと心配されたの初めてだからな」
そう言ってどうにか笑いをこらえたらしい晁蓋は続けて言った。
「そういや、お前には見せたことなかったか」
「え? 何を?」
「俺の実力だよ」
晁蓋は宋江に庭に出るよう促した。そして自分も出るとそのあたりの石をつかみ上げる。
「ほれ、見てろよ」
石は晁蓋の手のひらにちょうど収まるくらいのものだった。宋江がその石に目を落とす。バキリ! バガン!と鈍い音がして石に亀裂が入った、と思った次の瞬間、石は粉々に砕け散っていた。
「へ?」
信じられないのは石が砕けたことももちろんだが、晁蓋の手に力を入れた様子がほとんどみられなかったことだ。まるで握り飯を作るような調子で、晁蓋は石を粉砕してみたのである。
ポカンとした宋江の顔に気を良くしたらしく、晁蓋はにやりと笑ってみせた。
「ま、これだけじゃ強さの証明って言うにはちょっと曖昧だがな」
「す、すごい」
ためしに晁蓋の手に残っていた小石をつまみあげて力を込めてみるがもちろん宋江には砕けなかった。
「他にはそうだなー、ほれ、これ持ちな」
「う、うん」
そう言ってわたされたのは1.5メートル超ほどの鉄の棒である。直径2センチほどで意外と重たい。
「じゃ、それで俺に打ちかかってきな」
「え? 打ちかかるって……」
「俺を敵だと思って攻撃して来いっていってんだよ」
「い、いいの……?」
「お前の力じゃ傷一つつけられねぇよ」
「じゃ、じゃあ行くよ?」
恐る恐る晁蓋の前で鉄棒を大上段にふりあげる。ぐっと持ち上げ、体の頂点まで持って行き、そして……
「わっとっと」
宋江はその重さにふらついてしまった。
「お前、少し体鍛えたほうがいいぞ」
呆れたように晁蓋が言った。
宋江はなんとか体勢を立て直すと、晁蓋と向き合って足を踏み出し、鉄棒を振り下ろす。
「えい!」
だが、振り下ろした鉄棒は晁蓋の目の前で止まっていた。彼の右手の人差し指と中指で挟まれてぴたりと止められている。さらに押してみようとするが鉄棒は全く動かなかった。
「ま、後はおまけだが」
そう言って無造作に鉄棒を宋江の手から奪い取ると、それを地面に突き刺した。そして少し距離を開けると、
「ふっ!」
気合とともにドン!と一歩踏み出し、その鉄棒の中心に回し蹴りを放った。バキンという音と共に鉄棒の上半分だけが吹き飛んでいく。蹴りだけで鉄の棒が切断されたのだ。その事実に宋江は驚きのあまり声もでなかった。折れ曲がるとかであれば、それも相当信じがたいが、まだわかる。だが、切断とは……
「ざっとこんなもんだな」
そう言う晁蓋は息一つ切らしていない。
「え? え? 晁蓋って本当に人間……?」
「あんな非常識な登場の仕方をしたお前に言われるとはな」
そう言って晁蓋は苦笑する。
「い、いやだってそんなこと、どうやったの?」
「そりゃ気功を練って……あ、ひょっとしてお前知らないのか?」
「き、気功?」
「おう、こいつが使えるやつはあんまいねぇからな、できるようになったら自慢できるぜ」
なんだかよくわからないがマンガである気の力とかその手の類らしい。
「つーわけだ。山賊五十人くらいなら軽くのしてやるよ。いろんなやつとやりあったがここ五年くらいは喧嘩でも殺し合いでも負けたことねぇからな」
「で、でもその山賊もそういうの使えるんじゃないの」
「おう、そうなったら最高におもしれぇな。期待するか」
(戦闘狂ってやつ……?)
まさか実際にお目にかかれることがあるとは思わず、宋江はあんぐりと口を開けた。
「そうだ、宋江。お前も一緒に山賊退治に来い」
「え、うん……って、ええ!」
近くの川に釣りに行くような気安さで晁蓋が言うので宋江も思わずうなずいてしまったが、一瞬後に意味するところを理解し、飛び上がった。
「ど、どうして!?」
「前から思ってたけど、今日はっきりわかった。お前、ちょっとひ弱すぎる。少し鍛えたほうがいい。丁度いい機会だからついてきな」
「む、無理だよ、無理! 山賊退治なんてできっこないよ!」
「何も先頭にたって突撃しろとはいわねぇよ。槍もって山登るだけでも結構鍛錬になるもんだ」
「い、いや、いいよ。やめておくよ」
「あ、じゃあこうしようぜ。俺を倒すことができたら来なくてもいいぞ」
「それこそ無理に決まってるよー」
「じゃ、話は決まりだな。明日の朝、日が出たら出発するからな」
「そ、そんな……」
「よし、じゃあ早速支度するか。丁礼達も呼んで行くとしようぜ」
「だめよ」
うきうき気分の晁蓋に母屋のほうから冷や水をあびせるような声がかけられた。声の主は呉用だった。
「呉用か、だめって何がだ」
「山賊退治の話は聞いたわ」
さすがに田舎というか、話の伝わる速度が尋常ではない。先ほど、二人の男たちを見送った時に村人に晁蓋も話していたからそこから一瞬にして広まったのだろう。
「山賊に困って俺を頼ってきたやつを見捨てろっていうのか、冷たいやつだな」
「そっちは別に止める気無いわよ。止めても無駄だと思うし。私が言ってるのは丁礼たちを連れて行くのは許さないってこと」
「ああん? なんだと?」
「そろそろ田植えの時期でしょ。忘れたの? 貴重な男手を持ってかないで」
「田植え? まだ一月くらい後の話じゃねーか、それまでには戻ってくるぜ」
「田植えの前の土作りだって手間かかるでしょ。それにそれ以外にも色々あんの。宋江はつけてあげるから二人だけでいってきなさいよ」
あれ、呉用さん。さりげなく僕のこと、売り飛ばしてません? 生贄にささげてません? と宋江は思ったが、にらみ合う二人を前にしてそれを言い出せるわけもなく、おろおろと二人の顔をみるばかりであった。
「色々って何だよ」
「一々、説明しなきゃいけない理由ある? 大体、山賊退治だってすんなり終わるとは限らないでしょ」
だんだん言葉の端々が乱暴になっていく二人。しばらく、じっと睨み合う最中、唐突に呉用が言葉を発した。
「去年の秋の帳簿付け」
その呉用の言葉に晁蓋の怒気がぴたりと止まった。
「て、てめぇ」
「誰だったかしらねー、今年は俺一人でやるっていって結局ぎりぎりになって結局私を頼ってきたのは」
晁蓋はぎりぎりと歯を食いしばるようにして呉用をにらみつけている。腹をすかせた虎でも逃げ出しそうな剣呑な表情だが、対する呉用は涼しい顔のままだ。
「あの時、あんたが言った貸し一つ、まだ返してもらってないわよね」
「……ちっ! 勝手にしろ!」
晁蓋はそう言って不機嫌そうにその場から去っていく。呉用はそれを見届けると宋江に近付いて彼の耳元に口を当てた。
「なるべく、晁蓋を向こうに長期間釘付けにしてくれない」
「え。ど、どうして?」
と、宋江が問い返すと、呉用は少し悩みこむような沈黙を挟んだ後に答えた。
「帰ってきたら教えてあげるわ。とにかくお願いよ。もちろん晁蓋には気付かれないようにしてね」
そういう呉用の表情からは何も読み取れなかった。
ちょっと申し訳なく思っているのがジャンル分けについて。分類的には戦記にしていますし、いずれはそういう展開にするつもりですが、そこに行くまではかなり時間がかかりそうです。