その十 林冲、魯智深に激高するのこと
宋江が息を吐きながら目の前のスイレンを見つめて念じるとぽん、と花が咲いた。
「まあ、だから何? っていうレベルだけどね」
苦笑して自らそうコメントすると、宋江は広大な柴進の庭の散策を再開した。
あの、滄州での脱走騒ぎから四日が経過している。宋江を含めた四名は再びこの柴進の屋敷に戻っていた。一昨日の朝、滄州の近くまで送ってくれた馬車と再び合流し、昨日の夕方、ここに到着したのである。その翌朝の今、宋江は特にやることもなくこうして自分の気功がどこまでできるのかの試験を兼ねて柴進の屋敷をぶらぶらと散歩していた。
本当なら一日も早くまた済州に向けて出発すべきなのだろうが、肝心の帰る手段が用意できてない上に、楊志は濡れ衣をきせられてしまって素直に戻っていいのかどうかも怪しくなってきている。それに、林冲は一昨日の朝、馬車に乗ってから全く目を覚ましていない。なんとなく林冲が目を覚ます前にここからいなくなってしまうのは宋江には不義理のような気がして憚られた。
目的もなく歩いているといつの間にか、また屋敷へと宋江は戻ってきていた。素直に散策を切り下げ、自分の部屋に戻る。すると自分の部屋の前に楊志がいた。
来客、と表現するにはやや楊志の行動は少し不審だった、部屋の前を何度もうろうろとうろつきながら何かを考え込んでる風でああでもないこうでもない、とぶつぶつと呟いている。
「あの、楊志さん、何かご用でしょうか」
「ひゃっ! そ、宋江!? あなた、もう起きてたの!?」
「ええ、なんだか眠れなくって」
布団が柔らかすぎて落ち着かないのかもしれません、と宋江は冗談交じりに言った。
「大丈夫なの? どこか病気とか怪我とかしてるんじゃなくて?」
楊志はまるで我が事のように熱心に聞いてきた。
「それは、無いと思いますが……」
「そう? ……なら、いいんだけど」
楊志はまだ少し納得しかねているようだがそれ以上追求しようとはしなかった。
「とりあえず、立ち話もなんですし、どうぞ」
「え、ええ……」
宋江は部屋を開くと楊志を招きいれた。
とは言うものの、楊志は困っていた。宋江の部屋の前にいたのはもちろん彼に話があったからなのだが、あまりに話したいことが多すぎてどれから話していいものか悩んでいたのだ。しかし、それを考えているうちに話しかけられてしまったので整理がつかないまま、部屋で彼と対面することになってしまったのである。
「お茶……昨日、柴進さんからもらった分のあまりでぬるいやつしかないですけど」
申し訳無さそうに宋江はそう言って茶の入った杯を卓に並べた。
「う、うん……ありがとう。そ、それでね、その、滄州の町を出てからずっとばたばたして、落ち着いて話する暇なかっから、色々話したいことがあって……」
もじもじと落ち着き無く視線をあちらこちらに飛ばしながら楊志は切り出した。ただこうして話しているだけで緊張してしまう自分の体をうらめしく思う。
「ええ、なんでしょうか」
宋江は真剣なまなざしで問いかけてくる。とにもかくにもまずは礼を言おう、と楊志は思い、息を吸った。
「そ、その、ありがとうね……牢から出してくれて。大変だったでしょう?」
「いえ、そんな。それにもとはといえば、僕らが起こした事件が原因ですから」
宋江はむしろ自分を責めるように頭を振ってみせたが楊志は引き下がらなかった。
「ううん……あなたにどんな理由があったとしても、私はお礼を言いたいのよ。本当にあなたには世話になりっぱなしね」
「お互い様じゃないですか。それは」
宋江の答えに楊志はきょとんとした顔をした。
「私、何かしたっけ?」
「今、こうして刑の執行を先延ばしにしてもらってるじゃないですか」
忘れたんですか、と言いたげな顔で宋江は茶の入った杯を持ち上げた。
「ああ、それは……」
そう言えばそういうことになっていたってけか、と楊志が自分と宋江の今までの関係を思い出した。
「いいのよ、そんなこと。私があなたに受けた恩に比べればほんの些細な事なのだから」
そうは言いつつも楊志は心のどこかでほっとしていた。自分が彼に対してできたことがあった。少なくとも宋江は思ってくれていることに安堵したのだ。
「でも、どうして楊志さんが犯人として手配されているんですかね」
珍しくどこか不機嫌な調子で宋江は言った。
「それは……」
言いかけて楊志は言葉を止める。答えるべきだろうか、彼の疑問に。
だがそれは楊志にとって口に出すことはおろか、頭に思い浮かべるだけで心を引き裂かれるような苦しみを伴う話だった。禁軍の仕事に失敗し、楊志は家族に捨てられた。左遷させられた先の大名府でその自分を助けてくれたのが索超だった。先だっての黄泥岡の件でようやく楊志はそのことに気づいたのだ。
一方的でも糸のように細くても楊志にとってはそれは大切なつながりだった。それがぷつりと切れてしまったのである。
「楊志さん?」
無言となった自分を見て宋江が慌てたように立ち上がって声をかけた。
つられるように楊志も彼の顔を見上げる。するとすっと冷たい感触が頬を降りていった。
「え?」
思わずその感触に触れる。それは涙だった。自分は泣いていたのだ。
「大丈夫ですか?」
気遣うように宋江がひざを曲げて自分との視線の高さをあわせてきた。
その距離の近さがとどめだったのだろう。彼がいけないのだ。心中で自分にそう言い訳しながら楊志は宋江を軽く押すようにして立ち上がると無言で宋江の胸に顔をうずめた。
「よ……?」
「何も言わないで!」
宋江がいいかけた言葉を楊志はするどく遮った。怖かった。彼にまで拒否されてしまうのが怖かった。
「お願いだから、何も言わないで……今だけでいいの……」
そう言った自分の声は震えていた。もう楊志は嫌だった。天に嫌われ、家族に見放され、賊に奪われ、友に裏切られた。
宋江もまたいずれは自分から去ってしまうだろう。でも今だけは自分のものになってほしかった。彼の優しさに甘えたかった。
宋江の手が自分の肩に載るのを感じた。ぎゅっと楊志は彼の背中に回した自分の腕に力を込める。こんなときですら、彼の手は暖かく、優しい感触だった。
強く抱きしめてほしい。強く、強く。自分の鼻がつぶれたっていい。骨がひしゃげたってかまうものか。髪の毛の隙間も入らないくらい、彼と接していたかった。そんな願いを込めて楊志は一層腕に力を入れる。
その願いが通じたのか、宋江はゆっくりと楊志の後頭部と背中に手を置くと、力を込めた。
楊志は嗚咽をもらした。
「そんなことがあったんですか……」
「うん……」
楊志が泣いていたのは十分程度だった。その後、彼女は宋江に抱きついたまま、ぽつり、ぽつりと彼女の友人の事を話し出した。彼女が朱仝、雷横とも知り合い、というのは少し驚いたが。
「索超という人のことはわかりませんが雷横さんと朱仝さんは無実の人を陥れるような人たちには見えませんでしたが……」
宋江が慰めるようにそう感想を漏らすと楊志は意外そうな声を出した。
「知ってるの?」
「一、二回会った程度ですが」
「ふうん……」
楊志はなんだか面白く無さそうに呟きを漏らした。
「手、止まってる」
「あ、はい」
楊志に指摘されて宋江はあやすように楊志の頭を撫でていた動きを再開する。楊志の表情は宋江からでは伺えないが、なんとなく満足そうな雰囲気だ。甘えるように鼻をこすり付けてくる。
(つらかったんだろうなあ……)
そんなことを考えながら楊志の青い髪を梳くように撫でる。
「おーっす、宋江、起きてるー?」
魯智深が現れたのはそんなタイミングだった。瞬時にばっとどちらからともなく距離をとる、が、何かがあったのはなんとなく察したらしく、魯智深は意味ありげな表情を浮かべた。
「んー? 朝っぱらから二人で何やってたのかしらー?」
「な、なんだっていいでしょ!」
楊志がそう叫ぶ。
「ま、いいわ。今はあなた達をからかっている時間はないものね」
「だったらさっさと本題に入ったらどうなの?」
楊志がきっと魯智深のことを鋭く見据える。が、魯智深は動じることなく、一言だけ答えた。
「林中が起きたのよ。会ってあげてくれる?」
林冲は地下牢であったときよりも大分回復しているようだった。やせこけていた頬も少し健康的に膨れてきたし、瞳も穏やかな瞳を称えている。長い黒髪もきちんと櫛を通されていて美しく伸びていて、体にまとわりついていた汚れも落とされたようだった。こうして寝台の上に座っている彼女を見た限りではあの懲罰房にいた形跡は精々、腕に張られた膏薬ぐらいしか残っていない。付け加えるならば今は布団の中に入って見えない彼女の足だろうか。
「すまないな、呼び立ててしまって。本来なら私が出向かねばならないところなのだが、まだ足が本調子ではなくてな」
「そんなこと、気にしないでください。それよりも起きて大丈夫なんですか?」
宋江が尋ねると林冲はうなずいた。
「もとより大きな怪我をしていたわけではないからな。もう二、三日経てば問題なく歩き回れるようになるだろう。今でも一応歩けなくはないのだが……」
「だから、それは駄目だと言ったでしょう」
魯智深が林冲をたしなめるように言った。
「別に急ぐ必要はないのだから、二、三日ゆっくり休みなさい」
「うむ……と、すまない。本題はそこではないのだ」
林冲はそう言って宋江と楊志に向かって頭を下げた。
「君たちに礼を言いたかったのだ。本当にありがとう」
「君たちって言うけど……私は何もしてないわよ」
頭を下げる林冲を静止するように慌てて両手を前に出しながら楊志が言う。
「そんなことはない。聞けば君が囚われたのはそもそも魯智深が私の脱獄に君を利用しようとしてのことだと聞いている。迷惑をかけた。そういう意味では君には謝罪もしなければいけないな、すまない」
「もう……いいわよ、そんなの気にしなくて、どの道、全国に手配されてた以上、いずれは捕まってたんだから」
楊志は照れくさげにそっぽを向きながらそう言った。
宋江もそれに倣って、というわけではないが、楊志と同じく謙遜するように言う。
「僕も最後に少し手伝っただけですから。危険なことも準備もほとんど魯智深さんがやったものですし……」
宋江がそう言うと、魯智深は不満げに鼻息を吐いた。
「全く。なんでこいつらときたら素直に礼を受け取ることもできないのかしらね」
「そういう性分だからとしか、言いようがないですね」
宋江はごまかすように笑ってそう言った。
「魯智深も色々とありがとうな。改めて礼を言わせてくれ」
「なに、気にすることは無いわ」
林冲は魯智深のその言葉を聞くと改めて三人に言った。
「すまないが、今は無一文でこうして言葉で礼を言う以外には何もできなくてな。いずれきちんと礼をさせてくれ」
はにかむように笑いながら林冲は言うと傍らに立つ、魯智深に話しかけた。
「ところで魯智深、あの子はどうした?」
にこやかに放たれた林冲のその一言。だがそれに対して、魯智深は何の反応も示さなかった。いや、よくよく見れば、目の色が少し暗くなった気が宋江にはした。
「魯智深?」
怪訝そうに疑問を重ねる林冲を見て、魯智深はふう、とため息をもらす。ぐっと顔を手で押さえるようにして彼女はうめいた。
「そうよね……当然、それを聞くわよね……」
そう言った魯智深の表情は今まで宋江が見たことないものだった。苦りきった口元に一種の覚悟をたたえた瞳。ちらりと林冲と楊志を見たが彼女らもきょとんとした表情のままだった。
「二人とも、少し席を外してくれるかしら?」
魯智深は宋江と楊志に向けてそう言った。断る理由もなく二人は頷くと部屋の外に出る。
「なんなのかしらね?」
「さあ……」
楊志が聞いてくるが、宋江にも事情がわかるわけもなくその場で所在なさげに壁に背をもたれさせた。楊志も同じようにして無言で壁にもたれかかる。だがその静寂は数十秒ともたなかった。
「どういうことだ、これは!!」
その声に宋江と楊志はぎょっとして今出てきたばかりの扉を振り向いた。声はその向こうから聞こえてくる。
「林冲?」
楊志がきょとんとその声の主を言うのを耳にしながら、宋江は扉を開けていた。慌てるように楊志もその後に続く。
「どうしたんですか!?」
慌てて部屋の中に入り込む。宋江の視線の先で林冲が寝台に座ったまま、魯智深の襟元を引っ張ってがなるように吠えていた。
「おい、何とか言ったらどうなんだ!」
魯智深はそれに対して抵抗すらしていなかった。林冲にされるがままに体を引っ張られている。
「見たままのとおりよ」
淡々と無表情にそう言った魯智深の言葉に林冲は逆上したようだった。瞳の色が怒りにそまり、拳をふりあげる。
「よしなさい!」
そこに楊志が素早く駆け込むと林冲を羽交い絞めにした。
「何があったのよ! 落ち着きなさいよ!」
だが林冲は質問に答えなかった。ふーふーと獣のようにうなりながら、魯智深をにらみあげる。
「楊志、離してあげて……」
そう言ったのは当の魯智深本人だった。
「え?」
楊志が怪訝そうに見上げると魯智深は悲しみに満ちた表情をうかべた。
「いいのよ。林冲はあたしを殴る正当な理由があるもの」
その言葉に戸惑った楊志の体から一瞬だけ、力が抜けたのを林冲は見逃さなかった。
「きゃっ!」
ばっと楊志の束縛から抜け出すと林冲は拳を振り抜こうとして、途中でその動きを止めた。
「お願いです……止まってください」
魯智深をかばうように宋江が立っていた。彼の額の少し前、ぎりぎりその手前で林冲の拳は止まっていた。
「宋江……いいのよ、どいて」
魯智深がいつも明るく笑っている彼女と同じ声とは思えないほど弱弱しく呟いた。
「嫌です」
だが宋江ははっきりと拒否の意思を示した。
「友達なんでしょう? 殴ったり、殴られたりする前にできることがあるはずじゃないですか?」
静かにそういった宋江の瞳を林冲は見つめていた。やがて、体力的な限界もあったのだろう。がくりと林冲の体がその場に崩れ落ちた。同時にぱさりと林冲が拳の中に握っていたものがその場に落ちる。それは髪の毛だった。林冲と同じような長い黒髪が丁寧に紐でくくられている。
(遺髪?)
宋江がそんな単語を思い浮かべながら床を眺めているとそこにぽたりと水滴が落ちた。林冲の涙だった。
「どうして……どうしてこんなことに……」
震える声で林冲は呟いた。
その様子に宋江も楊志も唖然としていた。十日間、あの懲罰房に閉じ込められながら弱音一つ吐かなかった彼女が泣いていたのだ。
「すまない……少し、一人にしてくれ……」
床に座り込んだまま、林冲は搾り出すようにそれだけ言った。
「ねえ、もうそろそろ何があったのか、聞いてもいい頃だと私は思っているのだけど」
「そうね」
その楊志の要求に魯智深はあっさりとうなずいた。
あの後、林冲の部屋から出てきた三人は屋敷の使用人たちにしばらく近づかないように言ったあと行く当ても無くふらふらとさ迷い歩いて結局、宋江の部屋に戻ってきていた。
「いいんですか?」
宋江は確認するように魯智深に尋ねる。他人が話すには少しばかり繊細な事情があると魯智深は言っていたはずなのだ。
「これだけ巻き込んでしまったからにはね……。本当は林冲が話すべきなんでしょうけど、あんな状態だし……まあ、あの子も否とはいわないでしょうから」
「何が……あったんですか?」
宋江がそう問うと魯智深は少しだけ間を置いて話し始めた。
「どこから話したものかしらね……」
魯智深は肘を卓の上におくとぼんやりとした視線を庭に送った。つられるように宋江がそちらを見る。太陽がきらきらと湖面で乱反射をおこしていた。真夏が近づき始めたことを告げるその光がひどく場違いに感じる。
「……そうね、ちょっと長くなるけど、あたしと林中が出会った時のことから話そうかしら」
窓から入った風が話し始めた魯智深の髪を軽く揺らした。
次回より過去編です。