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水娘伝(すいこでん)  作者: 文太
第三話 慟哭編
38/110

その九 魯智深、三人を連れて滄州を飛び出すのこと 

「おい、宋江(そうこう)! 大丈夫なのか!?」


呆然とした宋江の意識を現実にひっぱりあげたのは階段の上から投げかけられた林冲(りんちゅう)の声だった。見上げると林冲はまだ倒れたままのようだったが、特に深い傷などはないらしい。覗きこむようにして、階下の宋江を見下ろしていた。


「あ、す、すいません。僕は大丈夫です。でも、陸富(りくふ)さんが……」


林冲は陸富の状況をすぐに見て取ったようだった。


「……死んで……しまったのか?」


「あ、はい」


 林冲は少しだけ沈黙した。が、すぐに彼女は口を開いた。


「行こう。さっきも言ったが、時間は無いのだろう?」


「あ! そ、そうでした。あ、と……」


陸富の遺体をそのままにしておくことに宋江は罪悪感を頂き、少しだけ離れることに躊躇した。


「目を閉じてやれ」


林冲の声が上から降ってきた。その言葉に押されるように宋江は陸富の目を震えながら閉じた。


(ごめんなさい……)


自分もきゅっと目をつぶりながら陸富の目を閉じると、そのまま彼のことを見ないようにして振り向き、頬を軽く叩いた。階段を駆け上がるともう一度、倒れたままだった林冲を抱きかかえた。


「迷惑をかけるな……」


「いえ、そんな」


宋江は階段に向かって走り出した。


「もう一人、助けなければ、いけない人がいると言ってたな」


「は、はい。楊志(ようし)さんっていう人なんですけど、知ってますか? 林冲さんと知り合いだって言ってましたけど……」


「楊志だと? 知っているが……あいつもここに流されてきたのか?」


林冲は楊志が捕まったことをまるで知らない様子だった。あの狭い部屋に押し込められていたのだから、当然と言えば、当然なのだが。


「いえ、僕も詳しいところはよくわからないんですけど、とりあえずここに捕まっているらしくて……」


ふむ、と林冲は頷いた。


「もしそうなら階段のところの横の通路にある一般房だな。鍵が階段の近くにかかっているはずだ」


「あ、はい、ありがとうございます」


「礼を言うのはこちらのほうだ」


階段に到着すると宋江は話していた通り、一旦、林冲を下ろした。


「ああ、すまないが剣を貸してくれるか? 禁気呪(きんきじゅ)くらいはとりはずしておきたい」

ゆっくりと体の調子を確かめるように軽く体を回しながら林冲はそう言って手を伸ばしてきた。


「あ、どうぞ。えっと一人で大丈夫ですか?」


「使い物にならないのは足だけだからな。なんとかなるだろう。……ああ、鍵はそこの壁だ」


「はい!」


宋江は壁にかかっている鍵束をとると教えられたとおり、横の通路に侵入した。








 


 縄で縛られているわけではない。だというのになぜか自分の体は指一本すら動かせなかった。というより妙な話だが自分が動かそうとしていないように感じた。まるで誰か別の人物に操られているような感覚である。


「『元』北京大名府(ほっけいたいめいふ)軍所属、提轄(ていかつ)職、楊志。右のもの、賊と共謀し、財宝十万貫を強奪した罪により、打ち首に処す」


声が響いた。声は自分の正面に立つ黒髪の女性が発したものだった。その顔を見上げて、楊志はそれが朱仝(しゅどう)だということに気づいた。濮州(ぼくしゅう)で出会ったあの女性武官。そして朱仝の傍らで同じ時に出会った雷横(らいおう)が何かの書類に記録でもつけているのか、さらさらと机の上で筆を走らせていた。


 とてつもなく大きな違和感を覚えながらもそれの正体に気づかないまま、楊志はのろのろといつの間にか真横に出現していた刑場に向かって歩いた。


「どうして、あなたたちがここにいるの?」


ふと疑問を感じ、楊志はたちどまって朱仝と雷横にそう尋ねた。無視されるかと思ったが二人は唱和するように同じ答えを返した。


「だって、仕方ないから」


「……そう」


仕方ないならしょうがない。楊志はまたのろのろと歩きはじめ、刑場に到着する。そこでは斧鉞(ふえつ)をもった索超(さくちょう)が待っていた。


「索超……?」


「もうもうもうもう、待ちくたびれちゃったよ。さ、さっさと死んだ死んだ」


「あ、うん……」


素直に頷くと楊志は首を刎ねやすいように作られた木の断頭台に頭をおいた。


「じゃあじゃあ、行くよ」


不思議なことにそれまでこの状況をなんとも思ってなかった楊志にここで初めて真っ当な感情が出てきた。どうして私は殺されなきゃならないの?


「ま、待って、索超!」


慌てて叫んで起き上がろうとしたが楊志の体は既にいつの間にか接近していた朱仝と雷横の二人によって抑えられていた。先ほどは違い、手足に意思を通わすことはできるようになったが、今度は物理的に楊志の体は抑えられてしまっている。


「やだ! どうして私が死ななきゃいけないの!? 私は犯人なんかじゃないのよ!!?」


だがその問いに三人は全く反応しなかった。必死に抵抗しながら見上げた時に索超の斧鉞が振り下ろされるのが見え……そこで楊志は目を覚ました。








 楊志ががばりと身を跳ね起こすと、藁を敷いただけの粗末な木の寝台がぎしりと音を立てた。


「ゆ、夢……?」


思わず、確認するように呟き、それでも安心できなくて自分の首を撫でてみる。元よりそこが繋がってなければ、物を考えることさえできないのだから、繋がっているのが当然なのだが。


 とにもかくにも楊志はまだ自分が生きていることをつぶやいてほう、と一息ついた。


(夢……とも言い切れないわよね……)


しかし落ち着いて考えてみれば今の夢は登場人物におかしなところがあったものの、おおむね、これからの楊志の行く末そのものである。つまり打ち首という結末だ。


 楊志は今日一日の事をゆっくりと思い返してみた。宋江や魯智深(ろちしん)と共に、この滄州(そうしゅう)にやってきて町に入る手続きをしていたというのに、いつの間にか意識を失い、気がついてみれば縄で縛られたまま、牢屋の冷たい床に寝かされていた。責任者に会わせろと要求し続けるとようやく少し年嵩の兵士がやってきて自分にかけられている罪状を伝えてきた。


 内容は先ほど夢の中で朱仝がいったこととほぼ一緒だ。違うのは最後の部分が打ち首ではなく、濮州への移送と指示されていたものである。とはいえ、濮州(ぼくしゅう)に移送されればどの道、打ち首は免れまいが……


 楊志は自分にかけられた罪状を聞いて驚き混乱したのだが、後から見ればその時の驚愕などまだ序の口に過ぎなかった。それ以上に衝撃的なことが彼女にはあったのだ。


 楊志にとって一番の衝撃。それは滄州(そうしゅう)を含め各州に楊志捕縛の任務を要請したのが朱仝と雷横であるということ、そしてそもそも発端である楊志を犯人として告発したのが、索超であるということだった。


 それは罪状を伝えてきた兵士が持っていた書類に明言されていた。楊志捕縛の要請書の一番後ろには朱仝と雷横の名前が、そして、罪状を記載した書類には索超の名前がはっきりと載っていたのである。


 その名前を穴が開くほど見つめていた楊志には今、こうして目をつぶっても書類に記載されていた彼女らの名前がはっきりと思い浮かぶ。ご丁寧にというべきか書類には彼女らのハンコまで押してある。


 この時代の中国でハンコというのは現代の日本とはその重みが全く違う。ハンコはその押した人間が本人であることを確かに示す証拠であり、軽々に偽造できるものでもない。要は常識的に考えて間違いなく朱仝と雷横、索超の三人によって書類は作成されたものだった。








 最初に楊志の胸中に浮かんできたのは裏切られたという思いだった。が、しばらくしてそれも仕方のないことなのかもしれない、と思いなおした。何せ索超と自分はあの黄泥岡(こうでいこう)の近くの村で別れてから連絡はとれずじまいなのだ。いや、索超だけでなく自分はあれ以来、公的な機関には一切接触できないままに十日近く過ごしている。索超もひょっとしたら楊志は自分を見捨ててどこかへ逃げてしまった、と思ったのかもしれない。


 朱仝と雷横についてはそもそも数時間しか行動を共にしなかった仲なのだ。変な期待をするほうがむしろ図々しいというものだろう。


 しかし、そう思えたのは少しの間だけだった。次に楊志の心を塗りつぶしたのは不安だった。これからどうなるのか、という不安である。


 朱仝と雷横があの要請を出したと言うことは自分を裁くのは、おそらく濮州の知州(ちしゅう)だろう。事件の起こった黄泥岡は濮州の管轄下なのでこれは自然な流れだ。


 自分の弁解が聞き入れられるだろうか考えて、楊志はおそらくそれは難しいだろうと結論付けた。あの知州はあまり自分に対していい印象を持っていないだろうからおそらくこちらの言い分をまともに聞いてはくれはしない。


 ならば朱仝や雷横から言ってもらったらどうだろう。これに関しては成功するかどうかよくわからなかった。索超はあの二人にどんな内容を説明したのか、それ次第だった。となると実質的にこれは索超と自分の言い分のどちらが正しいのか次第ということになる。そこまで考えて楊志は憂鬱な思いにとらわれた。


 そうだ、宋江を連れて行くのはどうだろう、そうすれば自分の言い分に真実味を持たせられるかもしれないし、索超の誤解もとけるかもしれない。一瞬だけ楊志は考え、それをすぐに打ち消した。二度までも命を救ってもらった相手を売るなどと考えた自分を恥じさえした。

 

 宋江には迷惑をかけるまい。こうなった以上、唯一それが自分の矜持を保てる方法である気がした。誰にも理解されず、知られることもないだろうが、


(ああでも……)


できることならもう一度、彼に会いたかったなと楊志は思った。


(ひょっとしたら、また助けに来てくれたり……しないか)


常識的に考えてそんなわけが無かった。むしろ彼にとっては自分を監視する立場の人間がいなくなったのだから、喜んで羽を伸ばしているだろう。ましてや、ここは政庁の中だ。一般庶民が政庁の中の囚人を逃がすなどという危険を冒すのは例え大事な家族や友人相手であっても軽々しくやることではない。


 そう理性的に否定してみてもどこかで期待してしまう自分が楊志は嫌になった。


(残酷な優しさってのはこういうのを言うのかもね……)


もし宋江がもっと自分本位で優しさのかけらもない人間ならば(その場合、多分自分はとっくに死んでいた可能性が高いのだが)、こうして期待することも無かったろう。楊志は寝台の上でそっと自分の顔をひざにうずめた。


 楊志は宋江と出会ってから今までのことを思い出し、それが十日にも満たない短い期間でしかないことに驚いた。何故だかもっと彼との付き合いはもっと長かった気がしたが実際には出会って十日も経っていない。必ずしも楽しい、美しい思い出ばかりではない。むしろ、彼が黄泥岡で自分を襲ってきた連中の仲間だと知ったときからは彼に対してどう接していいのか、ずっと悩み混乱していた。


 でも、こんな形で死が間近に迫ってくると自分の軍人としての立場などごみのように捨ててしまえば良かったと後悔する。国に、職務に殉じようとして生きてきた自分の人生は不実の罪人としてあっさりと終わりが告げられようとしているのだ。そうであるならば罪人と監視者と言う立場ではなくて……


「宋江……」


思わずその名を呼んだ時、ふと自分に触れるものがいた。顔を上げた先にはまるで自分の記憶の幻から抜け出てきたかのように彼がいた。








(ひょっとして寝てたのかな?)

半日ぶりに会った楊志に対して宋江はそんな印象を抱いた。寝るにしては不自然な姿勢を楊志はしていたが何せ、鍵を外して扉を開けても、こちらが声をかけても、彼女は一切反応しなかったのだ。仕方なく近づいて彼女の肩に手を置くと、ようやく彼女は反応したがそうして宋江に向けた視線もどこかぼんやりとしていて焦点があってないように感じた。


「……夢?」


「違います。現実です」


律儀に宋江が訂正すると、楊志はなぜかこちらに手を伸ばし、ぺちぺちと宋江の顔を軽く叩くようにふれた。


「実体がある……」


「まあ、幽霊ではないですから」


彼女らしからぬまぬけな言い草だな、と思いながら宋江は小声で言った。


「すみません。とりあえず急ぐので詳しいことは後で。逃げ……ますよね?」


「と、当然よ」


慌ててはっと気づいたように楊志は言う。ひょっとして逃げると罪が重くなるとかでそもそもそのつもりが無いのか、と宋江は一瞬心配したがどうも杞憂だったようだ。


「足かせはずしますからちょっと待っててくださいね」


「う、うん」


宋江は楊志の足元にひざまずくと鍵束をかちゃかちゃといじくりまわした。


「た、助けに来てくれたの?」


「ええ。魯智深さんも一緒ですよ」


「それはいいんだけれど……」


楊志がさらに言葉を続けようとしたときにかちゃりと宋江の手元で音がして、鍵が外れた。楊志がまだ何か聞きたそうな顔をしていたのはわかったが、それに答えるのは後だと宋江は判断した。半分以上は自分のせいだが魯智深が暴れ始めてから既に大分時間が立っている。


「よし、外れた。楊志さん、急ぎましょう。禁気呪も外せたらいいんですけど、それは剣か何か切る道具が必要なんでこっちで」


「わかったわ……」


宋江は今だぼんやりした様子の楊志の手を引っ張って地下の通路を走っていく。ぱたぱたと軽やかな楊志の足音が後ろから聞こえてきた。








(ああ、宋江の手、暖かいな……)


どこか半分、夢見がちのまま、楊志は宋江に手を引かれるまま、ついていった。そんな場合では無いという心の中の別の自分の警告を無視してその暖かさを楊志は楽しんでいた。彼の手に触れられるのは最初に倒れてたときに介抱してもらった時以来だ。あの時、自分の意識はぶつ切れで曖昧だったが今は違う。今まで冷たい地下牢にいたせいか、余計に握られた手から感じる彼の暖かさ心地よかった。


 ややあって宋江の足が止まり、宋江の声が楊志の耳に届いた。


「林冲さん、お待たせしました」


「え? 林冲?」


 薄暗い地下牢で松明の光が宋江の背中を照らしている、その宋江の向こう側に昔、禁軍で一緒だった林冲が階段に腰掛けていた。幹部候補生と武術師範代である彼女とは分野が違うため、仕事では交流が無かったが、共に若い女性武官ということで何度か話をしたことがある。ただ一瞬で人影が林冲だと判断できたのは宋江の言葉があったからだろう。禁軍時代に凛とした長身で軍服を着こなし、颯爽と歩いていたあの姿と今のやつれた姿は別人のようだった。


「いや、いいさ。かまわない。それと……久しぶりだな、楊志。元気……なわけはないか。再会を喜ぶのは残念ながら後回しだな」


「林冲……本当にここにいたのね」


思わず、楊志はまじまじと観察してしまう。その落ち着き払った声と瞳の強さだけが昔の風景から変っていなかった。


「林冲さん。楊志さんの縄を切りたいので剣を……」

「ああ」


林冲が剣を宋江に差し出す。それを受け取るために自然と楊志の手から宋江の手が離れた。


「楊志さん、動かないでくださいね」


「う、うん……」


宋江は楊志の腕に巻かれた縄を切るために剣をとるとぞりぞりとのこぎりのように剣を使って縄を切っていく。やがて最初の一本がぷつりと切れると宋江はそこを基点に楊志の縄を解いた。


「さ、行きましょうか」


「ええ」


楊志は反射的に手を宋江に差し出した。が、宋江はその手をとることなく林冲の方に歩いていった。


「すまないな。本当に」


「いえ、気にしないでください」


そんなことを言い合って宋江は林冲を大事な女性を扱うように持ち上げ、階段を登っていく。その光景を楊志はきょとんとしながら見送っていた。


「楊志さん? どうかしました?」


数段上がって後ろから気配がついてこないことに気づいた宋江が後ろを振り向いた。


「あ! な、なんでもない! なんでもないの!」


楊志は慌てて差し出したままだった手をごまかすように隠すと宋江の後を追った。









 階段を登ると相変わらず遠くのほうからの喧騒が宋江の耳に入ってくる。どうやら魯智深の囮作戦は今だ続いているようだった。


「これは……?」


「魯智深さんが敵をひきつけてくれてるんです。今のうちに急ぎましょう」


楊志の質問に答えてると宋江は林冲を抱いて走り出した。


「一応、言っておくが邪魔になったら私は捨ててかまわんからな。君と楊志だけでも逃げ出せ」


「そんなこと言わないでちゃんとつかまっててください」


林冲の言葉に反論しながら宋江は来た道を戻っていく。時折ちらりと後ろを振り返る。楊志は先ほどと違い、きちんとついてきていた。


 魯智深がうまく動いているのか政庁の入り口あたりまでは誰にも会うことなく、三人は進んでいった。だが魯智深が長時間になって暴れまわっているせいか政庁の入り口からはどんどんと兵士が入ってくる。


(しまった……)


正直言って帰りの手はずは侵入に比べてかなり大雑把にしか宋江も魯智深もは考えていなかった。林冲と楊志という武術の達人がいればたやすく突破できると考えていたからである。が、実際には林冲はほぼ戦闘不能どころか移動さえ満足にままならない状況で、しかも兵はまだまだあたりにたむろしている。


「どうした?」


突然足の止まった宋江に林冲が怪訝そうに声をかけてくる。


「あ、いえ、思った以上に兵が多くて……」


宋江が言い訳するように言うと、後ろを歩いていた楊志が前に進み出た。


「私にまかせなさい」


そう言うと彼女は目をつぶり深く息を吸う。


「弾」


小さくそう呟いた楊志の手のひらにやじりの形をした氷がいくつも生まれた。それは不思議なことに落ちることなく楊志の周囲に浮いている。


「みっつ数えたら走り出すわよ。いいわね?」

「は、はい」

「一……二……三!」

楊志と宋江は同時に飛び出した。


「き、貴様ら、何も……」


こちらに気づいた兵士が何人か誰何しようとしたが、楊志が手を掲げると周囲にある氷の弾が兵士の喉元へと飛び込み、彼らを絶命させていった。


「お、追え!」


「走って!!」


後ろから追いすがる声と楊志の声が重なる。宋江は無我夢中で駆けた。目指すのは彼と魯智深が最初に敷地に入ってきた裏門である。


「囚人が逃げたぞー!!」


だが多数の兵の目を全てごまかすことはできず、後ろからはそんな声が響いてくる。声は復唱されながら敷地内全体に広がっていった。


「ばれちゃったか」


はは、と宋江は力なく笑った。予定では二人を助けた後はこっそり抜け出して魯智深に合図を送るはずだったのだが、つくづくうまくいかないものだ、と自嘲する。


「平気なのか?」


腕の中で縮こまる林冲が問いを投げかけてくる。


「門はもうすぐそこですから」


宋江はそういいながらラストスパートをかけた。幸いにしてそこまでの道のりに敵はいない。後ろからの追っ手や攻撃は楊志が対応してくれているのか、静かなものだった。


「到着!」


騒がれた割には存外、あっさりと到着する。宋江は裏門を蹴飛ばして開けると後ろを振り返った。


「楊志さん!?」


だが楊志はそこにいなかった。いや、姿は見えるのだが大分遠い場所にいた。追撃してくる兵士に対応するのは予想以上に厳しいのか、彼女は自分と兵士たちの丁度真ん中あたりにいて誰かから奪ったのか剣で必死に矢を打ち落としていた。


 一瞬迷った後に宋江は林冲を見下ろした。


「林冲さん……」


「わかっている。行きたまえ」


宋江の表情で察したのか林冲は即座に承諾すると自ら転げ落ちるようとその場に座り込んだ。


「私のことなら心配するな。ここまできたなら意地でも逃げ切ってやるさ」


にやりと笑って林冲は壁にもたれかかるように座り込んだ。


「はい!」


宋江は彼女の笑みにつられるようにして一瞬だけ笑うと楊志に向かって駆け出した。距離はおおよそ三十メートル。


「何してるの! とっとと逃げなさい!」


宋江が途中で楊志はこちらに気づいたらしい。ちらりと振り返ると大声をあげた。


「楊志さんも一緒です!」


宋江も負けじと叫び返す。


「そんな場合じゃないでしょ! 林冲だけでも連れて……」


楊志がいいかけたそのときだった。


「どっせーーーーーーい!!!」


雄たけびとともに近くにあった庁舎の壁に大穴が開いた。そこから魯智深が飛び出してくる。飛び出した位置はちょうど楊志と兵士たちの中間辺りだった。


「何よ! まだ逃げてないわけ、あんたたち!」


こちらをふりかえってそう言ってくる。あまりにも常識はずれの登場の仕方に宋江も楊志も兵たちも唖然とした。その間隙を縫って魯智深は宋江と楊志に走りよると荷物のように二人を小脇に抱えた。


「林冲は!?」


「裏門の外です!」


宋江が叫び返すと昼間、城門前で逃げたときと同じように魯智深が飛び上がった。


「う、撃てー!」


少し遅れて我に返ったらしい守備兵の指揮官の声が上がる。その声と共にいくつもの矢がひゅんひゅんと魯智深に向かって飛んできた。


(へき)!」


だが、楊志の展開した氷の壁がそれを防いだ。氷壁はそのまま地上に落下し、兵士たちの足を一瞬とめる。それと同時に魯智深もまた林冲の待つ裏門の外へと到着した。


「あ、林冲いたいた……って臭っ!」


「あいかわらずだな、お前は……」


遠慮なしに顔をしかめる魯智深に呆れと懐かしさがないまぜになったような顔を見せながら林冲はそうぼやいた。


「何座り込んでんのよ、逃げるわよ!」


「魯智深さん、林冲さんは足を怪我してて……」


厳密には怪我とは違うかもしれないが細かい言い方に斟酌してる暇は無く、宋江は答えた。


「え? そうなの!?」


「ああ、ここまで宋江に抱えてきてもらったんだ」


「それじゃあ……よし、宋江! あんた昼間と同じようにあたしにつかまりなさい!」

言葉と共に宋江の体が地面に投げ出される。宋江は慌てて起き上がると今度は林冲を小脇に抱えた魯智深の腰に腕をまわした。


「しっかりつかまってなさいよ! はっ!」


気合と共に魯智深は三人をかかえたまま飛び上がった。そのころになってようやく兵士たちが裏門から飛び出してくるが、既に時遅し。せめてもの義務感からか、でたらめに放たれたであろう矢がまるで見当違いのところをとんでいく。


「このまま、城外まで出るからね!!」


魯智深はそう宣言するとさらにスピードを上げて夜の町を建物を飛び越えながら走っていった。  

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