その八 宋江、気を発するのこと
懲罰房の中にいる林冲はおおよそ、宋江が魯智深から聞いたとおりの風貌をしていた。髪も切られたりはしていないようで黒髪を長く伸ばしていることがのぞき窓から伺える。
のぞき窓から彼女の様子を見た宋江はとりあえず生きていたことにほっとした。だが、同時に彼女がかなり消耗していることもまたすぐわかった。
兵士、陸富の言ったとおり、ろくに食べ物を食べていないのだろう。頬はやせこけて髪はぼさぼさになっていた。こんな場所では眠ることもできないために、暗闇の中で充血した目がぎょろぎょろと動いている。着ている服はぼろぼろでもはや服を着ているというより、布地が引っかかっていると形容すべきかもしれない。両手には枷がはめられていて彼女が動くとじゃらじゃらと鎖の音がした。よく見るとうっかり壁の棘にさしてしまったのだろう、腕や肩からは血が流れていた。
林冲は顔を上げて陸富の姿を認めると口を開いた。
「今度はお前か。お勤めご苦労なことだ」
そう言った林冲の声はその痛々しい外見とはうらはらにしっかりしたものであった。
「そう思うんなら意地張ってないでとっとと牢番長に頭を下げる決意をしてほしいもんだ」
陸富は宋江と違い、こうした光景に慣れっこのようで、全く動揺することもなく鼻を鳴らして文句を言う。
「ふん。悪い事をしていないのに謝る理由がどこにある」
「あーあー、これだよ。ったく、がきじゃねえんだからよ」
陸富は手に負えないといった調子で肩をすくめた。
「ま、そんな調子ならまだ死ぬ心配は無さそうだな。気が変わったら呼ぶことだ」
「安心しろ。絶対に気は変わらん」
「はいはい、ご立派なことですね」
そのやりとりを聞いて宋江は、はっとした。今なら陸富が鍵を持っていて、しかも(何があったかは知らないが)林冲さえ折れればこの扉を開けてもらえるらしい。逃げるには絶好のチャンスと思い、宋江は陸富の後ろで無言で身振り手振りを交えて林冲にそのことを伝えようとした。
が、そんな複雑な内容が初対面同士の間でうまく伝わるわけが無く、彼女の目が胡散臭げに宋江を見つめた。伝わらなかったかと宋江が落胆したとき、林冲が口を開いた。
「……と言いたいところだがな、さすがに私もつらくなってきた。わかった、業腹だが奴に頭を下げるとしよう」
通じた、と宋江は心の中で安堵の息を吐いた。
「へえ、さすがの元禁軍師範代も根を上げたってとこか。まあ、十日も入ってその調子なら大したもんだよ。じゃあ、出してやるから暴れるんじゃねえぞ」
「手かせ、足かせまでしてどうあばれろと言うんだ。禁気呪があるから気功も使えんのだぞ」
「ま、そりゃ、そうだ。うお、くせぇっ」
扉をがちゃりと開けた陸富は思わず、鼻を押さえた。
「お前な……一応、私も二十の嫁入り前の女なんだぞ。もう少し言葉は選んでくれ」
ふらりと幽鬼のように扉から出てきた林冲は淡々と抗議した。
「けっ、臭いのに臭いって言って何が悪いんだよ」
「全く、そういうことを言ってるから……」
林冲がそういい始めたときには宋江は準備を完了していた。剣を鞘ごと自分の腰から外し、思いっきり上に持ち上げる。
「……そんな風に後ろから襲われることになるんだ」
林冲の言葉と同時、宋江は剣をそのまま振り下ろした。がつん、と鈍い音がして、陸富の体がその場にどさりと崩れ落ちる。
「ごめんなさい、陸富さん」
謝って何になるわけでもないが、宋江はぽつりとそう呟いた。
「さて、君は誰だ? なにやら必死だったようだからとっさに合わせてみたが、これで良かったのか?」
林冲は後ろ手で懲罰房に通じる扉を閉めながら宋江にそう問いかけた。当たり前と言えば当たり前だが、林冲にはやはりこちらの真意はかなりあやふやな様子で伝わっていらしい。
「あ、はい。僕、宋江って言います。魯智深さんから頼まれてあなたを助けに来ました」
宋江は手短にそう自己紹介した。
「ああ、魯智深の……」
呟いた瞬間、林冲のひざががくりと崩れた。
「だ、大丈夫ですか!?」
慌てて宋江は林冲に、駆け寄った。
「す、すまないな。情けないことだがまともに足が動かんらしい」
情けない、と林冲は自らを評したが十日もほとんど眠らずに立ちっぱなしでいればごくごく当たり前、というより十日間眠らずに立ってた時点で超人的と言っていい。
「すみません。急いで逃げないといけないので……え、えっと。し、失礼しますね」
宋江はどうやって持ち上げようか少し考えた。足元に陸富が転がっているために動くスペースはほとんどない。林冲はいまだ、手と足にかせをつけたままなので悩んだ挙句に宋江は彼女の背中とひざの裏に手を差し込んで持ち上げようとした。
「ま、待て!」
が、そこで当の林冲から静止が入った。
「ど、どうしました?」
ぎょっとして慌てて宋江はあたりを見回したが特段何か変ったことがあるようには見えない。
きょとんとして林冲をもう一度見ると、彼女は何か考えているようだった。
「いや、恥ずかしがっている場合ではないか」
そんなことをぼそりと呟く。そこで、宋江は彼女がほとんど裸同然だということを思い出した。薄汚れた麻の服、いや、麻の布切れというべきだろうか。それは林冲の乳房と足の付け根周辺をわずかに隠すに留まっている。おまけにそれらは水着のように肌に密着しているわけではないので少しでも動くとその布の奥にあるものが、隙間から容易に覗けてしまう頼りなげなものだった。
「あ、ごめんなさい。気づかなくて。えっと……」
慌てて自分の服を脱いでかけようとしたが身に着けた鎧が邪魔になってしまい、うまくいかなかった。だが、宋江が鎧と格闘し始める前に林冲はそれも制止した。
「いや、いいんだ。そんなに時間があるわけでは無いのだろう? すまないが、改めて頼む。運んでくれ」
宋江は躊躇したが彼女の言うとおり、時間は潤沢にあるわけではない。地下のため、階上の騒ぎは聞こえてこないが、魯智深がいつまで敵をひきつけていられるかもわからないのだ。
「し、失礼します」
宋江は再度、彼女の体に手を伸ばした。直に触れる彼女の体は意外と温かかく、軽かった。林冲はこちらの動きを理解して微妙に体の位置を変えて持ち上げやすいようにしてくれたので案外、手間取ることなく、持ち上げることができた。回転できるようなスペースも無いので宋江はそのまま、一段一段、階段を後ろ向きに上っていく。
「ごめんなさい。こんなことになってると知ってたらあらかじめ着る服とか持ってきてたんですけど……」
「いや、いいんだ、本当に。贅沢を言える立場では無いからな。それにもう既にこんな格好は何人もの兵士に見られている。見られるくらいで感じる恥じらいなど、とうに擦り切れているさ。私がさっき君を止めたのは別の理由だ」
「別の理由?」
宋江が尋ねると林冲は少しためらったように言葉を止めたが結局言った。
「私の体臭だ。自分で言うのもなんだが相当ひどいと思うぞ。何せ、懲罰房に入る前からあわせて一月近く、沐浴はおろか、水さえ浴びて無いからな。正直言って君に裸を見られてもここまでひどくはないだろう、というくらいに恥ずかしい」
そうは言われても言葉をつむぐ林冲の表情には変化が無く、口調は淡々としているのでいまいち彼女の心情はいまいち測りづらかった。
「ごめんなさい。息、なるべく止めますね」
「そういう問題ではないのだが……まあ、君のその心遣いには感謝しよう」
そこまで言い合ったところで丁度、一つ目の階段を登りきり、先ほどの地下通路へとやってきた。
「よっこいせっと」
「すまない、重いだろう。私の体は」
「あ、すみなせん。そんなことはないですよ。僕もそんなに力があるほうじゃないので」
そう言って宋江はくるりとその場でターンすると地上階にあがる階段に向かって足を進める。
「申し訳ないですけど、向こうの階段まで行ったらちょっとそこで待っててくださいね。もう一人助けなきゃいけない人がいて……」
「おい! 後ろ!」
林冲のその叫びと宋江の体が林冲と一緒に無理やり前に投げ出されたのはほぼ同時だった。
「あ、痛っ……!」
両腕で林冲を持ったまま倒れたために宋江は顔面から土の床に突っ込んでしまった。
「だ、大丈夫ですか……林冲さん」
「馬鹿! 逃げろ!」
言うが早いか林冲の枷をしたままの足がしなるように動いて宋江を蹴り飛ばした。一瞬後に宋江がいた場所に剣が打ち下ろされる。
「な、何!?」
宋江は転がりながらも起き上がる。ゆらりと目の前に立ち上がる人影は陸富のものだった。
「おいおい、こりゃどういうことなのか、もちろん説明してくれるよな、晁蓋」
そう言えば、自分は彼にそう名乗っていたのだと宋江はいまさらながらに思い出した。
宋江はとっさに辺りを見回した。自分の目の前に陸富、その後ろに林冲がいた。体力がつきかけているのに無理やり体を動かしたせいか、彼女は床に突っ伏したままである。呼吸のためか、浅く体全体を律動させている。
彼女に深刻な異常が無いことを確認して宋江は再び陸富に視線を戻した。当たり前だが、彼は激怒しているようで、凶暴な表情を貼り付けて、こちらをにらんでくる。手には銀色に鈍く光る剣があった。
「ま、とりあえず、お前を牢屋にとじこめてから色々聞こうかねっ!」
陸富はそう言って剣を横に薙いだ。壁に追い詰められた宋江には避けようもなく、剣は彼の腕に当たつ。陸富は殺す気は無いのか、剣の腹で攻撃したため、切られる事は無かったがそれでも鉄の塊が激突した衝撃は尋常なものではなかった。
「あぐうっ!!」
激痛のために宋江の口から叫び声が漏れた。とっさに痛みのあった場所を別の手でかばうように抑えた瞬間に今度は腹に衝撃を受ける。見おろせば陸富のつま先がえぐるように宋江の腹に突き刺さっていた。
「ごっ……あっ……」
声も出せずに宋江はその場に崩れ落ちる。陸富はなおも追撃するように宋江の体を二、三回蹴り飛ばした。
「やめろっ!」
その声と共に陸富の攻撃が止まる。宋江が見上げるといつの間にか起き上がったのか陸富の背中に林冲が飛びついていた。ふらふらのままの体で立ち上がり、手にはめられていた手錠を陸富の首を締めるようにして引っ張りあげていた。
「おうっ……ぐっ!」
だが疲労困憊の林冲の腕力はほとんど無いも同然だったのだろう。林冲が首にかけた手錠は陸富の手によって簡単に外されてしまう。
「くせえ体で近づいてんじゃねえよ、この売女がぁっ!!」
口汚く罵りながら陸富は拳を振り向きざまに宋江にしたのと同じように剣を振った。
「がはっ……」
林冲の体から息が漏れ、その場に倒れ伏した。だが、陸富はその林冲の長い髪をひっつかむと無理やり持ち上げた。
「ちっ、面倒だ。てめえのことは懲罰房に入れてたら死んでましたってことにしておくよ」
「ぐっ……」
陸富はそのまま林冲の髪を引っ張ってまた懲罰房へと彼女を引きずっていく。
「林冲さんを離せええええええ!」
そこに宋江が叫び声をあげて陸富の体に向かって突進する。だが陸富にとって宋江の動きは十分対処可能なものだったようだ。陸富は林冲の体を投げ捨てるとその姿を見て宋江に止めを刺すべく、足を踏み出し、剣を掲げてくる。その瞬間に宋江も叫ぶ。
「出て来い!!」
宋江の声と共に陸富の足元でぼこりと音がした。
それは滄州に宋江たちが到着する前の晩のことだった。
「木の外気功?」
宋江は魯智深に言われたことをおうむ返しに繰り返した。
「そう、それがあなたの気功の属性よ」
魯智深は楊志が少し一行から離れた時を見計らって宋江にそのことを伝えた。
「正直言って戦闘では一番使いにくい能力ね。ま、あなたらしいと言えばらしいかもしれないけど」
「使いにくいんですか?」
「そうよ。あたしも自分が外気功使わないからよくわからないけど、外気功って基本的にその属性のものを生み出したり、操作する力でしょ」
「は、はい」
「火や金は生み出せばそれだけである程度脅威になるし、水や土はそこにあるものを操作すれば少ない力で大きな成果を出せるし、形もある程度自由自在に変えられるわ。でも植物を生み出したり操作したりしてどうしようって言うのよ」
「え、ええと……」
言われて走行は何か考えてみようとしたが彼も何も思いつかなかった。
「ま、それはともかくちょっと試してみなさい。楊志もまだもどってくるまでに時間がかかるし、今なら焚き火にくべる薪くらいはできるでしょ」
「どうやるんですか?」
「知らない。生えろーって念じてみたら?」
馬鹿にされたような気持ちになりながらも宋江は試しに地面に向かって生えろーと念じてみた。何も変化は無い。
「ああ、さすがに呼吸しなきゃだめだと思うわよ」
「そうなんですか?」
「気功っていうのはこの世の森羅万象から取り入れた力を扱う技術だからね。一旦息を吸って自分の中に世界の一部を取り入れないと」
宋江は今度は息を吸ってもう一度、念じてみた。すると宋江の視線の先にぴょこんと若木が生えてきた。そのまま若木はにょろにょろと十センチくらいの高さまで伸びて止まった。
「あはは。まあ最初はそんなものかしらね」
だが宋江はそんな半分からかうような魯智深の口調など全く気にならなかった。ぽかんと目の前の生えてきな名前も知らぬ木を見つめる。
「す、すごい……これ、僕がやったんですか?」
「そうよ。ためしにもう何度かやってみたら?」
宋江はいたるところに向かって同じようにやってみた。やるたびにぴょこぴょこと若木が生えるが五本ほど出したところで魯智深が止めた。
「はいはい。その辺にしておきなさい。うれしいのはわかるけど、倒れちゃうわよ」
「え? あ、はい……」
言われて走行はいつの間にか、自分の息が大分あがっていることに気づいた。その傍らで魯智深はひょいひょいと宋江が生やした木を引っこ抜くと焚き火にくべていった。
「まあ、こんな風に燃料を作るのには最適だけど、今の段階じゃ戦闘には使えないわね」
「た、確かにそうですね……」
思わず宋江はしょんぼりとした。
「ま、気を落とさずにがんばんなさい。敵の足元に木を生やせば体勢ぐらいは崩せるでしょうしね」
(木? なんでこんなところに!?)
陸富の踏み出した足を持ち上げるように地中から飛び出したのはどこにでもあるような小さな木だった。
「うわあああああああ!!!」
だが、陸富のその疑問は宋江のその叫びによってかき消されてしまう。宋江の全身が矢のように飛び出しながら陸富の体に激突する。
「うおおおおおお!!!」
陸富の体はそのまま大きく傾いて、懲罰房に下りるための階段を二人一緒に落ちて行った。
自分の剣が手から離れてゆき、兜が踊るように中空を飛ぶのが見えた。
(う、うまく行った!?)
衝撃が収まって宋江はむくりと体を起こした。あたりを見回すとさきほどの懲罰房の扉が目の前にある。どうやら階段を一番下まで落ちてしまったらしい。
「あ、陸富さん……」
あんなことがあったのに、さん、をつけてしまうのは習慣だった。とっさの時の呼び方というのは中々変わるものではないのかもしれない。
陸富は返事をしなかった。
「陸富さん?」
慌てて立ち上がり、彼の上体を持ち上げる。彼は白目をむいており、頭から血を流していた。決定的だったのは、かくん、とおもちゃのような角度で彼の首がありえない角度で曲がっていたことだった。
陸富は死んでいた。
この日、宋江は初めて人を殺した。