その七 宋江、林冲と対面するのこと
「おい、起きろ。俺たちの番だぞ」
「んが?」
彼は同僚の声で目を覚ました。かけてある毛布を取り除くと目をこすってあくびをする。
「んん、もうか?」
「いつまでも寝ぼけてんな。いくぞ」
あくびまじりに問いかけるとその同僚はいらいらしたように部屋から出て行った。彼は仕方なく寝ぼけ眼のまま起き上がる。松明に照らされた水時計を見ると確かに自分たちの見回りの時間だった。
彼は滄州の政庁の警護を任務とする兵士である。今晩は決まった時間にこの滄州の庁舎の中を同僚と一緒にぐるりと見回るのが彼の任務だ。定められた職務とはいえ、真夜中にこうして見回るのは中々面倒で実は結構な頻度でさぼったりしているのだが、今日はあいにくと一緒に回る同僚が生真面目なやつのため、そうもいかなかった。
「第二倉庫、異常なーし」
がこがこと鍵を引っ張ってからそう言って記録をつける。
見回りはおおよそ一刻(三十分)ほどで終わる。その行程のちょうど真ん中ぐらいの時期に二人はいつもどおり正門に到着した。そこでは二人の見張りがきちんと仕事をしているかどうか、記録するのだが、
「あん? 寝てやがる」
見張りの二人は門の柱を背にして熟睡しているようだった。なぜか行儀よく並んで腰を下ろしている。
「しょうがない奴らだな」
一緒に見回っている同僚は二人に近づくと柱にもたれかかった二人の肩を揺すった。
「おい、起きろ」
だが、二人とも反応は無い。
「おいったら」
少し強めに揺する。すると二人の体は抵抗することなく、ころりと地面に転がった。
「あん?」
同僚が怪訝な声を上げながら助け起こすように上体を持ち上げた。だが彼はその二人の顔を見て、それがただの眠気でないことにきづいた。
「おい! 気絶してるぞ、その二人!」
彼の反応はすばやかった。慌てて近くにある銅鑼の前にむかうとばちを取り出して鳴らした。
「異常発生! 正門前にて異常発生!!」
ジャーン、ジャーンと銅鑼が鳴るのにあわせて彼は同僚に向かって大声を上げた。
「おい! お前、急いで詰め所に行って人呼んで来い!」
だが反応は無い。同僚は先ほどの場所で気絶している二人のそばで座り込んだままだった。
「ま、まさか……」
恐る恐る近づいてみる。同僚も他の二人同様、意識を失っていた。
そしてそれがこの夜、彼の見た最後の光景になった。
「はいはい、お役目ご苦労さん、と」
魯智深はにこやかにそう言って四人の気絶した兵士を見下した。
「よし、今度は……っと」
魯智深はあせった様子も無くてくてくと前庭を横切り、庁舎の重厚な門の前に立った。
「どっっっせい!!!」
錫杖を振りかぶり思いっきり唐竹割りで打ち下ろす。魯智深の錫杖を振り下ろされた門は裏の閂ごとたやすく吹き飛ばされた。その頃になってようやく、銅鑼の音を聞きつけたのか、兵士がわらわらと周囲に集まり始めていた。
「おい、あいつ! 昼間の袈裟を着た女だぞ」
よしよし気づいたな、と思いながら魯智深は門を開けると庁舎の中を走り出した。
「追え!追えー!」
声が追いすがってくるのを確認して魯智深はにやりと笑う。
(よし、後は任せたわよ、宋江)
ぺろりと唇を舐めながら魯智深は暗闇の中を兵士がついてこれる程度の速さで走り出した。
時は少し遡る。林冲と楊志を救い出すことが決まった後、宿屋で魯智深と宋江は具体的な動きについて話し合っていた。
意外にも魯智深は周到に、城の見取り図や見張りの行動などを柴進の使用人たちを使って調べさせていたようで内部の情報についてかなり詳しかった。案外、誇張でもなく正面から彼女一人で行ったとしてもなんとかできていたのかもしれない、と宋江は思った。
そうして渡された資料を宋江は眺めた後につぶやいた。
「牢屋に行くには一度庁舎の中に入らないといけないんですね。しかも場所は結構奥まった場所……」
地図をなぞりながら宋江は言った。牢屋は庁舎の地下にあるのだが、そこに行くには正門を抜けた後に、庁舎に入り込まなければいけない。庁舎に入るには通常、審査を受けるようで簡単に入り込めるものではなさそうだ。しかも牢屋の入り口は城の一番奥といってもいい、建物の端である。
「せめて、忍び込むのは夜にしましょう。その方が兵士も少ないでしょうし。よけいな審査なんかもないでしょうから」
とりあえず、思いついたことを宋江は言ってみると、魯智深はそうね、とあっさり同意した。
「これを見ると夜になったら裏口の兵士は一人だけになるみたいですね。定期的に見張りがくるみたいですが、多少ならば時間はかせげますし。最初にここを攻撃しましょう。一人気絶させれば中に侵入できるはずです。そしたら後はどうやって庁舎に入り込むかですね」
「それは簡単よ。あたしが門をぶち壊せばおしまいよ」
「もう少し、こっそり行きましょうよ」
とはいったものの、どうも門の鍵は限られた人間しかもっておらず、奪うのは容易では無さそうだった。してみると、魯智深の言うとおり、無理やり押し通るしかないのかもしれない。
「うーん、でもそうすると、どうしても騒ぎになりますよね」
「なら、逆に騒ぎを起こしちゃえばいいんじゃない?」
「え?」
魯智深はついっと地図の上をなぞる。
「さっきも言ったけど、侵入者の目的なんてわからないのが普通よ。ほら、ここを見て」
魯智深の指先には金庫室、とかかれた文字があった。
「丁度、この金庫室は牢とは反対側にあるわ。ならあたしが先に潜入してこっちの方に進めば、相手にここがあたしの目的地だと誤解させられる。あたしがわざと騒ぎを起こしてこっちに兵士を集めるから、そしたらあなたが地下牢に行けばいいわ」
「でも、そんなことしたら魯智深さんが危険じゃ……」
宋江がいうと、魯智深はあきれたような顔をして宋江の頬をむにーっと引っ張った。
「心配してくれるのはうれしいけど、そういうのはあたしより強くなってからにしなさい」
「あう、ひゅ、ひゅいまへん」
魯智深が手を離すととばちんと音が鳴るようにして、宋江の頬が元にもどる。
「あなたに同じことはできないんだから、あたしがやるしかないでしょう。大体あたしは同行は許しても死ぬのは許した覚えは無いからね」
有無を言わさぬ口調で魯智深は言い切った。
「うう……わかりました。じゃあそれなら今のうちに、林冲さんの特徴とか教えてもらえませんか」
「特徴?」
「間違って他の人をつれてきちゃったなんて間抜けなまねは避けたいですから」
「ああそういうことね。んー、美人?」
探すにはなんとも頼りない特徴だった。
「……すみません。もう少しこう……客観的な特徴で」
「おっぱいは楊志より大きくて、あたしより小さいわね」
「それを聞いてどうしろと!?」
「あ、そうか、ごめんごめん。あたしの揉んだこと無いからわかんないよね、はい、どーぞ」
ぐいっと体を近寄せてくる魯智深を半眼で見据えて宋江は低い声を出した。
「……あなたは今晩出会う女性の胸を一々揉んでたしかめろと、そう仰るんですか?」
「もう、冗談の通じない子ね」
ふうと魯智深はさも宋江が悪者のようなため息をついてからしゃべりだした。
「身長はあなたよりも高いわ。六尺(約185センチ)には満たないと思うけど。黒髪で切られてなければ、腰に届くくらいの長さがあるわよ。最後にあったときはこう、右側で前髪をわけていたわね。年齢は二十歳。目はちょっと細くて釣り目気味ね」
「最初からそういうふう言ってくださいよ」
宋江が口を尖らせると、魯智深は補足するように言った。
「でも、正直地下牢にいる女性なんてそんな多くは無いはずよ。そんなに神経質にならなくても大丈夫だと思うわ」
「だといいんですけど……」
宋江は釈然としないものを感じつつもさらに細かい点について話を進めていった。
そして現在、宋江は兵士の服装で庁舎の敷地内を走っている。兵士の服装は裏門の警備をしていた男を魯智深が気絶させて拝借したものである。
(剣って佩いたままだと走りにくいな)
そんなことを考えながら前庭に回ると既にほとんどの兵士が庁舎内を目指しているようだった。魯智深は既に庁舎内に侵入したようで中から騒音と兵士の悲鳴が聞こえてくる。庁舎の門は見るも無残に吹き飛ばされており、木片があたりにちらばっているのが松明の明かりでうっすらと見えた。
次々に兵士が中に入っていく中、宋江は人が少なくなった瞬間を見計らって庁舎内に進入した。暗いこともあって、誰にも見咎められることなく、宋江は庁舎内に入り込むことができた。
(えっと、最初はまず左……)
地図を頭に思い浮かべて走り始める。とはいえ、真っ暗闇の中を走るのは思っていた以上に勇気が必要だった。なにせ、自分が踏んでいるはずの床さえ判別できないのだ。段差やつまづくようなものがおいてあったりとしてもまるでわからない。
それでも一分ほどたつと目が慣れてきたのかおぼろげながら辺りの様子がわかるようになってきた。宋江は少しスピードをあげる。
(突き当たり……ここを右のはず)
軽い音を立てながら宋江は暗い廊下の中をひた走っていった。遠くでは魯智深が起こしている騒ぎのせいだろう、ぎゃあぎゃあと騒ぐ声が聞こえる。自分の足音とその騒音だけしかしない暗闇の中を宋江はひたすら進んだ。
(大丈夫かな、魯智深さん)
一瞬、そう考えた後にその懸念を振り払うように頭を振った。彼女を心配するよりも今は自分がやるべきことに集中しなくては、と思いなおし、進む速度をさらにあげた。
五分ほど走ると、その先にぼんやりと松明の明かりに映し出された階段が見えた。あそこが地下牢への入り口で間違いないだろう。まずはここまで問題なくこれたことに宋江がほっとした直後、彼は問題を見つけて顔を強張らせた。
(見張り?)
鎧を着込んだ兵士が一人、階段の前にいた。魯智深の騒ぎ立てる音はここでも聞こえているはずだが、動く様子も無い。
「おい! そこにいる奴出て来い!」
どうしようかと思った瞬間、見つかってしまったらしく、その兵士は大声をあげて槍を構えた。
(くそっ……)
覚悟を決めてスピードを落として歩み寄る。
「ちょ、ちょっと待て。そう気色ばまないでよ。味方だって」
内心冷や汗をかきながら宋江は言う。するとあからさまにほっとした態度をその兵士はとった。
「な、なんだ。驚かすなよ。なんか用か? つーか、さっきから何が起こってんだ?」
こちらが兵士の格好をしているからか、兵士は簡単に警戒を解いてしまったようで気楽な調子で話しかけてきた。
「何も聞いてないの?」
兵士は肩をすくめた。
「ああ、こんな端っこだからな。騒ぎがあるのもどうやら別の場所みたいだし。確認しようにも変に動いたら処罰されるしな」
「そうもそうだね」
それが見張りがここを動かなかった理由か、と宋江は内心で悪態をついた。
「あのね、なんだか侵入者がいるらしいんだけど、ほら、今日捕まった人がいたじゃない。ひょっとしたら囚人を逃がすのが目的かもしれないから、見て来いって言われて来たんだよ」
「囚人逃がすためにわざわざここに乗り込んできたってのかい? 無いだろ……」
とても信じられない、と言った口調で兵士はぼやいたが、宋江は無理を押し通すように言葉を重ねた。
「まあ、念のためってことらしいからさ」
「ふーん、まあ、ご苦労なこった。今のところ、こっちは何も異常ないぜ」
(しまった)
この口実では彼から問題ないと聞いてしまったら入れないではないか。
「どうした?」
こちらの表情が変わったのを見て取ってか、兵士は不思議そうに尋ねた。
「いや……あの……じ、実際に見て来いって言われてきたから」
苦しいかな、と思いつつ、宋江はとっさにそういいわけじみた答えを言った。
「実際に見て来いってお前、ひょっとして……」
兵士の眉根が怪訝そうに中央に寄った。
(ばれたか!)
宋江がそのあせりを顔に出しかけたとき、兵士はにやりと笑った。。
「はっはーん。お前、単にその話題になってる女囚人見たかっただけだろ! いや、わかるぜ、こんな辺境じゃめったに見れない別嬪だしな!」
「へ……あ、う、うん。そうなんだよ! 実はそうなんだ! あっはっは!」
男の勘違いに宋江は乗っかることにして笑いながら大げさに同意してみた。
「ったく、しょうがねえ野郎だな。こんな事態だってのによ。ま、あれだ。侵入者相手に戦って死んだらどうしようもねえしな。貸し一つだぜ」
「えへへ、恩に着ます」
半ば以上本気で宋江はそう言った。
「そういや、お前、名前は?」
「あ、晁蓋って言います」
聞かれたらこの偽名を答えようと予め決めていたのでそこはすんなりと答えられた。
「うん? 聞いた事ねえ名前だな?」
「あはは、新入りなもんで」
「そうか。俺は陸富ってんだ。ま、よろしくな」
そう言って兵士、陸富は階段を下りていく。
「そう言えば、他にも女囚人がいるって聞きましたけど?」
その後ろについて階段を下りながら宋江はさりげなく尋ねた。
「お前、とんだ女好きだな。ああ、いるよ。林冲ってのが一人な」
呆れたような調子で陸富が宋江を見上げながら答えた。
(ビンゴ!)
宋江は心の中で喝采をあげた。
「その人も結構な美人て聞きましたけど」
内心の逸りを抑えて、宋江は努めて冷静にそう聞く。
「まあ、本来ならそうかもしれんがな。今、懲罰房に入ってるから、あんま見れたもんじゃねーぞ」
「懲罰房?」
物騒な名前に宋江は思わずぎょっとした。
「知らねーのか? すっげー狭い部屋の壁全部に鉄の棘をぶっさしてる部屋だよ。そこに入ったら身動きもとれねーし、壁に寄りかかることもできねかーって代物だ。動くことも眠ることもできない状態で一日とか、二日とかそのまま放っておくわけだな。俺も面白半分に入ったことがあるが、ありゃ半日が限度だな」
「は、はあ……」
「林冲ってやつはそこにもう十日ほど入っててな。一応、謝るまで出すなって上からの命令だが、そろそろ死んでるんじゃねーかと心配になるな」
「ええ!?」
「ま、ちょっとついでだからそっちの様子も見てくるか。死んでたら、お前死体運ぶの手伝えよ」
「は、はい」
まさかそんなことになってたとは思わなかったので宋江は呆然としながら答えた。
「あの、最後に見たのは……」
「ん? 俺が見たのは昨日のことだが、交代の時に連絡されてないってことは日没までは生きてただろ」
もし、これで林冲が死んでたらどうしよう、と宋江は思った。日中に突撃するという魯智深を抑えて今の時間まで作戦を引き延ばしたのは自分なのだ。
(その場合、僕が見殺しにしたも同然なのかな)
そんなことを考えながら陸富の後をついていく。
「あ、ちょっと待ってろ。死んだときのために一応、鍵持っていくから」
「あ、はい」
階段を下りると道は二つにわかれていた。正面と左。厳密には後ろにも移動するスペースがあるが、そこは物置のように使われているらしく、ほぼ行き止まりといってよかった。
陸富の探し物である懲罰房の鍵もそのあたりにあるらしく、彼は松明をもちながら壁にかけてある鍵を確認していった。
「お、あった、あった。んじゃ行くか」
陸富は壁から一つの鍵を取ると階段から降りて正面方向となる通路に向かった。
「先、言っておくがあんまりこっちの女は期待するなよ。十日間水しか飲んでねえ上にずっと懲罰房に入りっぱなしだからな。体はがりがりでひっでえ匂いがしてるぜ」
「わ、わかった」
地下は地上と違って石畳ではなく土がそのまま、むき出しになっていた。おそらく掘り進んだ後に何も処理をしていないのだろう。正面の通路を進むと右側にいくつか部屋がならんでおり、近づくにつれ、ひどい匂いがしてくる。匂いの中に血の匂いが混じっている気がして宋江は恐る恐る尋ねた。
「あの、これがその人の匂いですか?」
「ん? 違う違う。この匂いはそっちの拷問部屋だよ。みんな片付けねえもんだから肉のきれっぱしとか血がそのまま器具にこびりついてやがるんだ」
「に、肉のきれっぱし?」
「場合によっちゃ、囚人の肉を削いだりするからな。ほっておくと、うじが湧くんで片付けてほしいんだが……」
「………」
その答えを聞いて宋江は質問したことを大いに後悔した。
「俺らの目的はほら、あっちだ」
陸富の指差した方角。そこにはさらに地下におりるための階段があった。幅は狭く、周りに手すりもないのでぱっと見だと落とし穴のような印象をうける。
「また降りるんですか?」
「構造上、どうしてもそうなるんだ」
それだけ言って陸富は階段に近づいていった。
宋江は知ることは無かったが、懲罰房は上から水を流し込める構造になっている。最低でも、数時間も閉じ込められる懲罰房の中では当然ながらトイレなど無いわけで、囚人の汚物が垂れ流しになってしまうわけだが、それを手っ取り早く片付けるために上から水をぶっ掛けて懲罰房の下の取口から水が流れ出る、という仕組みだった。そのため、水の注ぎ口を設置するとどうしても懲罰房の入り口は一段低い場所になるのだった。
宋江は恐る恐る、陸富の後ろから階段を下りていった。
(これ、アンモニアの匂い……)
まだ見ぬ林冲という人物に申し訳ないとは思いながらも陸富にしつこく言われたせいか、やはり意識してしまう。
階段を下りるとそこには扉を開けるための最低限のスペースしか無く、降りてすぐ目の前に扉があった。
「おい、林冲、生きてるか」
どんどんと陸富が扉を叩いてのぞき窓を開いた。より一層、アンモニアの匂いが強くなる。
「おい、林冲」
「うるさいな、生きてるよ」
陸富が再度呼びかけると、しわがれた声が懲罰房の中からそう応えた。中を覗き込む。中にいた人影がゆっくりとその顔を上げた。