その四 魯智深、二人を柴進の屋敷へ導くのこと
宋江の目の前の卓にどんと置かれたそれは鳥の丸焼きのようだった。ぱりぱりとしたきつね色の鳥皮と香辛料の匂いが食欲をそそる。横に置かれた小皿の上にあるのは牛肉だろうか。薄く切られた牛肉にこげ茶のソースがかけられている。そのさらに横にあるのは伊勢海老だろうか。野菜を複雑な文様の形に切って飾りにされた皿の中心におかれたそれは油でさっと揚げられたらしく明かりを反射して、つやつやと光っている。その他にも色々と見たこともない素材を使った料理から点心まで、卓の上には所狭しと料理が並べられていた。
一言で言い表せばごちそうである。宋江はこの世界の食生活にそれほど理解があるわけではないが、それでもこれらの料理が一般庶民が到底口にできるようなものではないことはすぐにわかった。
隣に座っている楊志も次々に並べられる料理にぽかんとしていた。それを見るとどうやら自分の考えもそれほと的外れではないらしいことがわかる。
「あの、楊志さん。これってどういうことなんでしょうか」
「私にわかるわけないでしょ。あいつに聞きなさいよ」
あいつ……魯知深のことである。確かにここに自分たちをつれてきたのが彼女なのだから彼女に聞くのが一番いいのだろう。ただ、彼女は現在、どこかに消えてしまって未だに姿を現していなかった。
「魯知深様からご伝言がございます。冷めるともったいないから先に食べておいてくれ、ということでした」
料理を給仕していた中年の女性がそう声をかけてきた。
「え? あ、そ、そうですか」
「はい。お酒のほうは如何なさいますか」
「あ、えっと僕はお水で、えっと……」
「昼間だし、私も遠慮しておくわ。お茶をいただけるかしら」
「かしこまりました」
その女性はまた頭を下げるとすっと音もなく部屋から出て行った。
「と、とりあえず、お言葉に甘えさせてもらいましょうか」
沈黙を埋めるように宋江は楊志にそういう。彼女もそうね、と応じて箸を取った。
「でも、ここどこなんでしょうね」
「わからないけど、あんたのいた済州からも私が目指していた濮州からもさらに離れてしまったことは確かな様ね」
「どうしてわかるんです?」
「船から下りてから北に移動してたもの」
「はあ……」
そういわれて宋江は昨晩船から下りてから今までのことを思い出してみた。
「はい、ここで降りるわよー」
魯知深は唐突に宣言したのは太陽が完全に落ちた頃であった。
「え?」
「はい?」
船室で何をするでもなくぼんやりとしていた宋江と楊志の二人はそれを聞いてぽかんと口を開いた。
「降りるって夜だけど?」
「そうね」
「あの、そもそもここってどこなんです?」
「質問はいいから、ほらちゃっちゃと降りる」
恐るべき強引さで魯知深はずいずいと二人を部屋から追い出した。一応、この部屋の主は魯智深なのでそう言われては二人に抵抗するすべはない。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。私は一刻も早く濮州に帰らなきゃ……」
「わかってるわよ。だから降りなさいって言ってるの」
何がなにやらわからぬままに宋江と楊志は夜の川で魯知深と共に小舟に乗って移動し、川岸でおろされた。真っ暗闇でほとんどあたりの様子はわからなかったが、周囲に明かりはなく、高草が生い茂っていた。
「んじゃねー、また何かあったらよろしくー」
「おう、達者でな」
魯知深と船長がそんなやりとりをすると船は三人を置いてまた下流に流れていった。
「ちょっと、どこなのよ、ここ」
「まあまあ、あせらないの」
楊志の詰問をいなして魯知深はふところからたいまつを取り出した。それに手馴れた調子で火をつけるとぐるぐるとその場でまわしはじめる。どうやらそれは合図だったらしく、しばらくすると遠くのほうからたいまつが近づいてきた。
「や、ごめんね、待ったでしょ」
「いえ、ほんの数日ですから」
現れたのは二十代後半と思われる男だった。鋭い目つきで油断なく辺りをみまわしている。後ろにいる宋江と楊志に気づくと男は言った。
「そちらの方が、例の?」
「あ。ううん、この二人は全然別口。成り行きで一緒になったの。でも連れてくことにしたから」
「……かしこまりました。では早速?」
「ええ」
そんなことをぼそぼそと魯知深と男は喋ると男はさっさと歩き出し、魯知深もその後に続いた。
「ほら、何ぼっとしているの。置いてくわよ」
「ちょ、ちょっと説明をしなさいよ、説明を!」
「後でするって言ってるでしょ。いいからさっさと歩く」
「楊志さん。行きましょう」
宋江がそう促すと楊志はようやく魯智深の後ろについて歩き始めた。その後ろに宋江が続く。
連れて行かれた先には馬車があった。手入れもきちんとされているようである。馬車とはいっても英国のビクトリア時代のような箱型のものではなく、ベンチのような椅子と大きな傘のような屋根を設置しただけの簡素なものだ。いたるところに燭台が置かれており、そこの周囲だけ明るい。
男はひらりと御者台に飛び乗り、魯知深も後ろの座席に乗り込む。楊志も少し迷ったそぶりをみせたが結局乗り込んだ。
「出発します」
宋江も含めて全員乗ったのを確認すると男は軽く鞭をふるった。夜だと言うのに労働をさせられている馬が不満げに鳴くと馬車は動き出した。
「んで、どういうことなの?」
楊志が改めて魯知深に詰め寄ったが魯知深はあくびを一つするとその場で横になった。
「んー、明日ね、明日」
「あんたね……」
「心配しなくてもこの魯知深様に任せておきなさいな」
「任せられるわけないでしょ!」
「お静かに」
楊志が鋭く叫ぶと御者台にいる男が静かに、しかし有無を言わさぬような圧力でもって言ってくる。
「す、すみません……」
その迫力に押されて楊志は素直に謝ってしまった。
「やーい、怒られてやんの」
「ぐ、ぐぎぎぎぎぎ」
「ま、まあまあ、楊志さん。ここまで来たらもう魯知深さんに従いましょう。僕も不安ですけど、こんなどこかもわからないところに置いてきぼりにされたらそっちのほうが問題ですから」
「お、さすが宋江くんはわかってるねー」
「くっ……」
助けてもらったと言う手前もあって楊志はそれ以上、魯知深に強く出れなかった。
馬車は夜通し走り続け翌日の昼に農村の中の少し小高い丘にある屋敷に到着した。屋敷はかなり立派なもので近づくと屋敷を取り囲む白壁がどこまで続いているかわからないほどである。華麗な装飾をほどこされた重厚な門をくぐると朱塗りの屋敷と広大な庭がそこに広がっていた。
「魯知深様、おかえりなさいませ」
すぐに屋敷から出てきた使用人と思しき人々が現れ、魯知深に向かって頭を下げた。その様子を見て宋江と楊志の二人は頭のなかに疑問符を浮かべるばかりである。魯知深は彼らと少しだけ話すと宋江と楊志を指差していった。
「こいつら、私の知り合いでさ、少しの間、ここにいさせてあげてよ。それと私もだけれど昨日の夜から何も食べて無いからご飯用意してあげてくれない?」
「かしこまりました」
屋敷の使用人と思しき連中はあっさりうなずくと宋江と楊志についてくるようにうながした。そして、魯知深はいつの間にやらいなくなってしまっており、何がなにやら全くわからないまま、とりあえずその使用人たちに二人はついていった。彼らに魯知深やこの屋敷の主人のことを尋ねても魯知深様からお話があるでしょう、の一点張りで何も教えてはくれず、二人は途方にくれるしかなかったのである。
そして、つれて来られた部屋で宋江と楊志はごちそうと対面する事になったのである。
「おー、ごめんね、待たせちゃって」
魯知深がいつもと変らぬ袈裟姿で現れたのは宋江と楊志の二人が食べ初めて十分ほどしてからだ。
「あ、魯知深さん。すみません、先に頂いてます」
「あー、いいからいいから、そういうのは。どう、おいしいでしょ」
「ええ、とても。ありがとうございます」
宋江はそう言ったところで魯智深の後ろにもう一人、別の人物がいることに気づいた。
魯知深の後ろにいたのは宋江とそう年の変わらぬ少女である。藤色の髪をゆったりと伸ばしていてその髪でボリュームのある房を二つ、首の両側から前にたらしている。簡素だが仕立ての良い生地の服を幾重にもまとったその姿は育ちのよさを感じさせた。線の出にくい服装ではあるが、それでも胸のふくらみははっきりとわかるほど大きい。うっすらと微笑んだその笑みには慈愛の色がにじみ出ており、すこし下がり気味のまなじりがその色をさらに強くさせていた。
宋江と宋江よりも早くその人物に気付いてた楊志の二人の視線に気付いたのだろう。彼女は一歩前に進み出て優雅な礼をした。
「初めまして。柴進と申します」
鈴を転がしたような軽やかな声色だった。
「この子がこの屋敷の持ち主なの。柴進、そっちの男の方が宋江。で、こっちの女が宋江の金魚の糞の楊志」
「悪意と虚偽の入り混じった紹介をするのはやめてよね」
「まあ、宋江さんと楊志さんとおっしゃるのですか、ようこそ我が屋敷へ。魯知深さんのご友人となれば、私の友人も当然です。遠慮せずごゆっくりくつろいでくださいね」
魯知深をにらみつける楊志を気にした風もなく、柴進はにっこりと笑ってそう言った。
「あ、ありがとうございます」
ぺこりと宋江は頭を下げた。
「あ、柴進。私と友達なのは宋江だけで、楊志はそうじゃないからこれ食べ終わったらとっとと、追い出していいわよ」
「もう、魯知深さんたらご冗談ばっかり。楊志さんも心ゆくまでご滞在なさってくださいね」
「ええ、ありがとうございます。とは言え、残念ながらそんなに長くいるわけにもいかないのですが……」
楊志が残念そうにそう言うと柴進はじっと楊志の顔を見つめていった。
「失礼ですが、楊志さん。ひょっとしてあなたは北京大名府の楊提轄殿ではありませんか?」
「え? そ、そうですけど、どこかで会いましたか」
「いえ、直接お会いするのは初めてです。ですがお噂はかねがね聞いておりますわ。北京に二人の麗しき軍神有りと旅の商人から聞いておりましたので」
「は、はあ……」
「うふふ、お会いできて光栄ですわ。さ、どうぞお座りになってください。大名府には及ばぬかもしれませんがこの料理も私の自慢の料理人によって作ったものですのよ」
改めて四人で座ると宋江が話を切り出した。
「あの、色々と聞きたいことがあるんですけど……」
「ええ、何なりとお聞きになってください」
にっこりと柴進が微笑んだ。ちらりと宋江が楊志を見ると彼女は心得たという調子でうなずいて口を開いた。
「まずここがどこかっていうのと、後、私たちをここまで連れてきた理由……は魯知深に聞くべきことね。それから柴進さん、あなた、何者なの? ただの大地主や大商家の人間には見えないのだけれど……」
「あーあー、わかった。あたしが答えるよ」
矢継ぎ早に飛ぶ楊志の質問に魯知深が手を上げた。
「まずあたしが滄州を目指してたのは知ってるよね。ここはその滄州の州都から少し南の方にある村なのよ。ここまであんたたちを連れてきたのは一応理由があってね、あんたたちが急いでいるのはわかるけど、あたしも急ぎの用事があってね、悪いけど寄り道している暇はなかったもんだからここにつれてきたの。柴進にはあんたたちが元の場所に帰れるようにお願いしてあるから」
「ええ、承っています」
にこにこと柴進が笑う。
「最後に柴進の正体だけどこの子は今の皇帝の一族にその地位を禅譲した後周の皇帝の子孫なの」
中国で王朝が交代するとき、通常、それは武力によるクーデターである。しかし必ずしもそればかりではなく、数少ない例外に禅譲と呼ばれ時の皇帝が自ら位を有力者に譲る場合もある。宋は禅譲によって成立した王朝であり、その禅譲した前の皇帝の国は後周と呼ばれている。
とはいえ、譲ったと言っても実際には皇帝以上の武力を持った人間が皇帝に無理やり迫る場合がほとんどで、禅譲した途端に殺されてしまう皇帝などもいた。
宋の建国者、趙巨胤に禅譲した柴一族はそうした中国史上で数少ない幸運な一族だった。趙巨胤は代々の皇帝に禅譲した皇帝だけでなく、その子孫、すなわち柴一族について生活の不安がないように取り計らうことを指示していたのである。
「おかげさまで税も免除してもらっていまして。それで裕福な生活ができているんですよ」
「なるほど……確かに後周の皇帝のご一族が今も生きているというのは聞いたことがありましたが……」
楊志は得心が言ったという風にうなずいてみせた。宋江はその辺りの詳しい歴史についてはあまり知識が無いのでよくわからなかったがとりあえずわかったふりをしてうなずいてみる。
「いやー、うらやましい話だよね」
「そうですか? 私は魯知深さんみたいに自由きままな生き方もうらやましいですけど」
のんびりと魯知深と柴進はそんなことを言い合っていた。
「そんな人とどうしてあなたが知り合いなのよ」
心底不思議そうに楊志が半眼で魯智深に尋ねた。
「んー、ま、強いて言うならあたしの持つ人徳って奴ね」
「本当のところは?」
「魯知深さんは村の酒場でもっといい酒は無いのか、と麓の村で騒いでいたので対応に困った店主が我が家に押し付けたのです」
宋江が聞くとさらりと柴進は暴露した。
「どこが人徳なのよ……」
「細かいことは気にしないの」
魯知深は無理やり話題をぶった切った。
「じゃあ、えっとつまり僕らはここでしばらく柴進さんが移動手段を手配するのを待っていれば良いんでしょうか?」
「うん、宋江くんはそれでいいわよ。楊志はちょっとあたしについてきて欲しいんだけど」
「私?」
魯知深の要求に楊志は目を丸くした。自分が呼ばれるとは思っていなかったのだろう。
「そ。あなた腐っても軍人なら滄州の役所にも出入りできるでしょ。ちょっとそこまであたしを連れて行ってほしいのよ」
「……何するつもりなのよ」
警戒の色も露に楊志が尋ねた。
「ちょっと友人に会いに行くだけよ」
「ならその友人本人に直接取り次いでもらうように言えばいい話でしょう?」
「そういうわけにもいかないの。一応、彼女、罪人ってことで囚われの身になってるから」
ふと妙な予感がして宋江は魯知深に尋ねた。
「女の人なんですか?」
「うん、気になる? 楊志が別にいいって言うなら紹介してもいいけどー……」
にやりと面白げに魯知深の顔が崩れたがそれを無視して宋江は質問を重ねた。
「なんという名前の方ですか?」
その質問は魯知深にとって意外だったようで彼女は不意を撃たれたように目を丸くした。
「名前? 林冲って名前だけど、それがどうしたの?」
「林冲!? 林冲ってあの禁軍の武術師範代の林冲!?」
だがその名前にいち早く反応したのは宋江ではなく楊志だった。
「ん? 知り合いなの?」
「知ってるわよ! 私、元禁軍所属だもの!」
興奮したように話す楊志を横目に見ながら宋江はじっと考えていた。
林冲。水滸伝に登場する百八人の中でも一際その活躍に紙幅を割かれている人物である。悪徳役人と対立してしまって罪人となった武人で、百八人集まった英雄の中でも戦闘能力はトップクラスの人物だ。本来、男であるはずだが、例によって女性である。女性の知り合いと言うからふと気に名って聞いてみたら当たりであった。最も原典では林冲は黄泥岡の事件よりも前に既に脱獄しているはずなのだが、どうやらこちらではまだらしい。楊志と知り合いだったと言うのは少し驚いたが、考えてみれば同じ禁軍という組織にいたのだから当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。
「なんであの人が罪人になってるの!?」
「んー、色々複雑な事情があってねー、あんまりあたしがしゃべるのもちょっとまずいから、本人に聞いてちょうだい」
珍しくまじめな顔をして魯知深はそう言った。そういわれては楊志も引き下がるしかない。
「いいわ。私もなんであの人がそんな目にあったのか気になることだし、ついていきましょ。宋江、あんたも着いてくるのよ」
「え? 僕も?」
「当たり前でしょ、あなた、罪人なのよ。私の目の届かないところにいさせる理由なんかないじゃない」
「あのね、柴進。楊志はああ、言ってるけど、本当は離れるのがさびしいだけなの」
「まあ、それはそれは……」
「訳知り顔で嘘八百を並べ立てないでちょうだい!」
朗らかに談笑する魯知深と柴進に向かって楊志は大声を上げた。