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水娘伝(すいこでん)  作者: 文太
第三話 慟哭編
31/110

その二 魯智深、死にかけの二人を河から引き上げるのこと

  瞬間、感じたのは安堵だった。間に合った、と宋江(そうこう)は思った。目の前にはいまだ呆然とした楊志(ようし)がいるが、劉唐(りゅうとう)の拳は自分の背後にあり、彼女にはあたらないはずだ。


 だが、彼は劉唐の力を見誤っていた。宋江の安堵は、いやいっそ何もかもがと言うべきかもしれない。宋江の安堵、意識、感覚、思考、それらは全て、実際に劉唐の拳を受けた途端に一瞬にして粉々になった。それほどまでに劉唐の拳の強さは尋常ではなかった。衝撃は自分の背中を突きぬけ、さらに目の前にいた楊志もろとも自分を吹き飛ばした。


「がふっ!」


肺から、いや全身から無理やり空気を押し出されるような感覚。痛みの後に気持ち悪い浮遊感が襲ってくる。飛んでいるんだ、と遅まきながら宋江は理解した。


 背中の一点から始まった痛みは全身を駆け巡る。その痛みだけが唯一宋江と世界をつなぐ窓口だった。前に殴られた晁蓋の拳よりもずっと痛い。痛みを軽減するために脊髄が体をとっさに動かしたが、闇夜の空中では自分の体さえ思うようには動かない。じたばたと無様にもがくだけだ。


「うわ……あ……」


喉から無理やりに声を出し、必死に痛みに抗おうとする。その直後にざぶん、ざぶんと音がして自分の体が河の中に沈んだ。そこで意識が急速に覚醒する。そうだ、楊志はどうなった?


「ぷはっ!」


すぐさま顔を水面に出し、辺りをさがす。


「楊志さん! 聞こえますか!?」


返事は無い。彼女が水に落ちた音は確かに聞こえたが、星明りすらないこの場所ではまさに一寸先は闇である。それでも宋江はとりあえず楊志が吹き飛ばされたと思しき方角に向かって水をかきながら彼女を探していった。


 だが数メートルほど水をかいて何も感触が無いと彼はあせりだした。ひょっとしたらもう沈んでしまっているのか、それとも河に流されて既に下流に流されてしまったのか、あるいはそもそも自分の進んでいた方向が違っていたのか。


 少し迷って宋江は下流に向かって泳いだ。手を左右に張り出すようにしてすこしでも何かをつかもうともがく。


 彼女を見つけられたのは幸運と言うほか無いだろう。もぐったときに左手に感じた布地の感触。ためしに引っ張るとかなり重い。はたして抱き寄せてみればまだ暖かかい彼女の体だった。


「楊志さん!」


名を呼んで揺さぶったり頬を軽く叩いてみるが返事は無い。最初に発見した時と同様、ぐったりとしている。


「くそっ!」


とにかくこんな場所ではできることも極端に限られる。周りを見渡して少しでも岸に近づこうと宋江は明かりを探した。すぐにか細い明かりが見つかったが、近づこうとしても河の流れは速くぐんぐんぐんぐん距離は引き離されていってしまう。


「誰か! 誰かいませんか! 聞こえませんか!」


あらん限りの声で叫んでみたが反応は無い。この土砂降りの雨の中だ。水音にかきけされてしまうのだろう。それでも宋江はあきらめずに灯りに少しでも近づこうとしたが無情にも距離は開くばかりである。


「はぁっ、はぁっ、くっ!」


川に落ちてからまだ五分とたっていないだろう。それなのに宋江の体力は穴の開いた風船のように急速にしぼみつつあった。劉唐に殴られた背中はまだずきずきと痛みを訴えている。楊志を支えている指先はほとんど感触が無く、宋江は腕で抱え込むように彼女の体を支えていたがそれでも水を吸った衣服の重さは想像以上で、頻繁に負担のかかる手を変えなければいけなかった。足を始終ばたつかせていることもあって最早、彼の体はほとんど余力を残していない。


 このまま死んでしまうのだろうか、と考えてぞっとする。その恐怖心に押されるようにして、もう一度、足を動かすがやはりほとんど前進しなかった。


(しかたない)


こと、ここまで来てしまっては宋江は元の村への帰還をあきらめた。もちろん、それは死ぬのを選ぶ、ということではない。とにかく下流に流されてもなんとか岸にたどり着き、それから歩いて帰ることにしたのである。


 結果論ではあるが彼のその決断はもっと早くするべきであったろう。気絶した人を抱えて、着衣のまま、泳いでいた彼の体力はもう既に限界に近かった。


「ああもう!」


疲労を振り払うかのようにそう叫ぶがそれだけではどうにもならない。


 そこで宋江を二度目の幸運が救った。川上から流木が流されてきたのである。これでどうにか! と思い、必死になってその流木にしがみつく。


 宋江が次にやろうとしたのはその流木になんとか楊志の体を乗せることだった。


「ふんっ!」


だが女性とは言え、気絶し、服も水を吸った人の肉体を持ち上げるのは簡単ではない。おまけに宋江は片手で流木をつかんでいなければいけないので実質片手で持ち上げる事になる。少しずつ持ち上げようとしてもさっぱりうまくいかなかった。


「ぐっ、しかたないか……」


宋江は自分がつけている帯を取るとまず楊志と自分の手首を結んだ。


(すこしだけ、ごめん!)


楊志の体を一回離すと急いで自分が流木に乗り上げるそしてすぐに自分の手首に巻いた帯を手繰り寄せた。楊志の体は既に手首を残して水の中に沈んでしまっている。両手を使って引っ張り上げ、なんとか楊志の上半身を流木の上に横たわらせる。が、そこで誤算が起きた。


「あれ?」


流木は二人の体重を乗せるほどの浮力は無かったのだ。楊志を上に上げた途端、流木が沈みはじめる。


「わ! わ!」


すぐに宋江はもう一度自分の体を川の中に投げ出した。無論流木はつかんでいる。それでようやく、流木は沈まずに安定して流され始めた。


 おそるおそる流木の上に自分の上半身を置いてみる。完全に登るのは無理でもこのくらいならどうも許してくれるようだった。


「ふう……」


これでなんとかおぼれる心配はなくなったろうと安堵の息をつく。


「楊志さん! 聞こえますか、楊志さん!」


耳元で叫んでみるが彼女からの反応は無い。まさかと思い、脈を取る。脈はまだあるがその際に彼女の顔に近づいて悟る。息をしていない。


「楊志さん!?」


ぎょっとして再度、口に耳を近づける。間違いなかった。


「き、気道確保!? だっけ!?」


声に出して自分のやることを確認すると、宋江は楊志の口を無理やり開かせる。


「ご、ごめんね」


そんな状況では無いというのに謝るのが宋江という男であった。口を開かせたまま、自分の口をくっつけ、彼女の口内をおもいっきり吸い上げる。ぽこんと気のぬけるような音がして何かが自分の口の中に飛び込んできた。


「げほっ、げほっ、ぺっ、ぺっ、何これ、泥?」


口の中を川の水で軽くゆすいでもう一度同じ事をした。最初ほどではないが、また泥が彼の口の中に飛び込んでくる。それを五回ほど繰り返すとようやく楊志の口から呼吸の音がし始めた。


「えっと、これでいいのかな。でも一応意識がなくても脈があるなら後は、体温が下がらないようにマッサージ、かな?」


しかし細かいやり方などわからないのでとりあえず彼女の手を握ってみる。川の中にいたから、当たり前だが、いつの間にか、彼女の体はびっくりするほど冷たくなっていた。少し摺ってみるがその程度では何も変らなかった。


「そうだ岸! 岸に上がらないと!」

流木をつかむのに必死で忘れてしまっていた当初の目的を宋江は思い出す。ばしゃばしゃと宋江は足を懸命にかくが暗い夜では自分がどれほど進んでいるのか、岸までどのくらいあるのかもわからないままだ。水を吸った衣服が呪いの様に自分の体にまとわりつく。


「ああ、うざったい!」


落ち込んだ気持ちを奮起させるように宋江は叫ぶと濡れた自分のズボンを剥ぎ取った。一瞬、その勢いのまま、投げ捨てそうになるが、思い留まって流木の上に投げ出し、また足をかき始める。


 だが宋江はもともと、身体能力の高い人間ではない。この奇妙な世界にたどり着いて一ヵ月半。最初に比べれば、多少はましになったとはいえ、筋力や体力は一般人の範囲内だ。かいては休み、かいては休みをくりかえす。


「はあはあ、まだつかないの? どんだけ広いんだよ、この河は」


泣き言を言いながら彼は懸命に水を蹴った。だがやがて五回蹴って休んでいたのが三回になり、一回になってしまい、ついには進む時間より休む時間のほうがながくなってしまう。当然、その休んでいる間も宋江たちはどんどん下流に流されていってる。


(くそ、せめて雨さえやんでくれたら……)


恨めしげに空を見上げるが、雨は一向にやむ気配は無い。宋江が見た限りでは、明日の朝には雨はやんでいると思うがやむ時間帯ははっきりしない。すこしでも早くやんで欲しいと宋江は心の中で祈った。


「あれ?」


だがそこで変に考え事をしたのがよくなかったのかもしれない。次に足を動かそうとした宋江の体は足首に鉄球でも結び付けられているかのように全く動かなくなってしまった。


(もう、無理か……少し、休めば何とかなるかな……?)


そう思って、無理に足をあげようとせずしばらくの間、流されるままになる。


(そう言えば、宋清(そうせい)、大丈夫かな)


そこで宋江はおきざりにしてしまった妹のことを思い出していた。なんとか劉唐(りゅうとう)さんや阮小五(げんしょうご)さんが見つけてくれるといいんだけど、と願いながら妹の顔を思い浮かべる。


(心配してるだろうなあ、怒られるだろうなあ)


こればっかりは自分が悪いので甘んじて受け入れるしかなかろう。そういえば、出かけにお願いを一つ聞くという約束もしてしまった。しかし、こんなことになったら一つじゃきかないかもしれない。


 そんなことを考えているうちにいつしか宋江の瞳は閉じられてしまった。








「おお、ようやく晴れたわね!」


袈裟をまとったその女性は飛び出すように甲板に駆け上がると歓喜の声を上げて空を見上げた。まだ朝日が山のすそから姿を完全に現していないような時間帯だがそれでも昨日あった分厚い雲がなくなっているのがわかる。何日ぶりかの晴れた空だ。東の空ではオレンジから青へと空の色が変わりつつあるのがみてとれる。


「いやー、うれしいわね。もう何日もここに足止めくらっちゃってたもんね」


女性は遅れて甲板に上がってきた初老の男、この船の船長に声をかけた。


「ああ、全くだ」


船長もそれについては全く同感である。


 彼はこの国の都、東京開封府(とうけいかいほうふ)を拠点とする水運業者である。大きな船でこの

国の各地に物を運ぶのが彼の仕事だ。今回はその開封府(かいほうふ)から黄河の河口まで荷物を運ぶ予定であるが、数日間、嵐のためにこの場所に停泊して動けないままだった。輸送する時間が延びれば費用がかさむ一方でもらえるお金が増えるわけではないので、天候の回復は彼も待ち望んでいたものである。


「これも祈祷していたあたしのおかげね」


「ぬかせ、この不良尼公が」


船長は笑って答えた。


 この尼僧(にそう)を乗せたのは船長が親父の代から世話になっているとある家の人間に頼まれてのことだ。金も払うとあっては断る理由もなく、開封府(かいほうふ)から一緒に旅をしている。姿こそ(頭巾はしてないが)僧衣で髪も黒髪を短く切りそろえているものの、その中身はと言えば、酒は呑むわ、肉は食べるわ、博打は打つわという立派な破戒僧である。最も、船長としても徳があっても抹香くさい僧に乗り込まれたら閉口していただろうから、そんな彼女には好感を覚えていた。明るい性格で蓮っ葉な物言いもこの船の船員には歓迎されている。


 しかもこの尼僧、みかけによらず怪力である。気功使いらしいが、それでも大の男が三人がかりでもちあげるような錫杖を軽々持ち上げて振り回すのだから尋常ではない。


「あら?」


いつのまにか甲板の船尾のほうに移動していた彼女が手をかざしながら遠くを見ていた。


「どうかしたかい?」


「んー、あれひょっとして人じゃない」


「どれどれ?」


船長も隣に並ぶと彼女が指し示す方向をじっと見つめる。確かに彼女の言うとおり、流木にの上に人間と思わしき物体が二つ並んでいた。


「人だなあ、嵐でここまで流されてきたのか? 出かける前に水死体とは縁起でもねえ」


「ねえねえ、ちょっと小船出してあげてよ。多分、まだ生きてるわよ、あの人たち」


「まあ、死んでねえなら引っ張りあげるくらいはいいけどよ」


船長は甲板にいた数人の船員に声をかけると小船を用意させて彼女と共に乗り込んだ。


「水死体だったらあんたの出番だな」


「お経なんて知らないから、適当にやるわよ」


「おいおい、一つも知らないのかよ」


どういう尼公なんだと思いながら船長はその生死定かならぬ人影に小船を近づけた。近くまでくると彼女はひょいと腕を伸ばして軽々とその二つの人影を持ち上げる。


「ああ、まだ生きてるわね。ほとんど死にそうだけど。船長載せていいでしょ、この人たち。お代は柴進(さいしん)に言えってあたしが言ってたっていいからさ」


「まあ、そう言うと思ったよ。いいぜ金さえ払えば問題ないさ」


船長は軽く嘆息すると、小船をまた本船へと戻した。


 彼らは一組の男女だった。ともに粗末な農民の格好だが女のほうはどことなく気品のある顔立ちをしている。とても田舎の村娘とは思えない。男のほうは別に高貴な顔立ちでもなんでもなかったが農民としては肌が少々、白い。どちらかというとどこぞの商家の丁稚あたりのように見えた。


「やあねえ、心中かしら? 別に死んだって何もいいことないのに」


「心中なら他に方法もあるだろ」


言いながら船長はすっと両方の手を握る。どちらも、特に女のほうはかなり冷たくなってるが生きてはいるようだった。


「ま、とりあえず体を温めさせてあげますか。船長、火鉢、出しといてね」


「炭は別料金だぜ、魯知深(ろちしん)さん」


「んもう、しっかりしてるわね。わかったわよ」


彼は船員に船倉にある火鉢を彼女の部屋に出すように伝えた。彼女は軽々と二人の体を持ち上げるとぽたぽたと床や自分の衣服が濡れるのもかまわず船室に運んでいった。


 火鉢と二人の体が運び込まれた自分の狭い船内で魯知深はさて、と一息ついた。


「とりあえず、生きてはいるみたいね。ちょーっと失礼するわよ」


そう言ってごそごそと女の体を調べてみる。すぐに魯知深は女の首に紐がかけられているのに気づいた。手にとって確認する。それはいわゆる身分証明証と呼ばれるものだった。


「『北京大名府(ほっけいたいめいふ)所属 提轄 楊志』ねえ、あらこの子軍人なの?」


そう呟くが、まあどうでもいいかと思いなおし、乱暴にその札を部屋の隅っこに投げ捨てる。


「こっちの男は何もなし……か……」


ざっと観察してその手の身分がわかるものを探すが何も無い。


「さて、これで後は火鉢をつけちゃえばいいのだけれど……」


と呟きながら船室の床を見下ろす。そこには半裸の男女が一組いるわけだが。


「ふむ。まあ、人命優先よね、こういう場合」

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