その一 呉用、交わした約に願うのこと
公孫勝が梁山泊の岩肌をくりぬくようにして作った部屋の一つ、便宜上、大部屋とよばれているそこに呉用達は集まっていた。達、というのは先日の黄泥岡の強奪事件に関わっているものほぼ全員である。ただし、宋江と阮小七の姿だけはそこにない。
六月十一日の空は昨晩の大雨が嘘のように晴れていた。公孫勝の作った窓からは明るい日ざしが差し込んでいる。ただしそれとは対照的に昨日の夜まで盛り上がっていた一同の顔は暗く沈んだものになっていた。
「状況を、まとめましょうか」
発された呉用の声は硬く、冷たい。
「まず、今回の事件の実行犯が晁蓋だということが露見した。ただし、犯人として名が挙がっているのは晁蓋だけ。それとおそらく名前はまだ知られてないけど劉唐についても目撃情報が伝わっているらしい」
そこまで言って呉用はちらりと晁蓋を見る。昨日の夜、突然、石碣村に現れた彼は呉用のその視線にこくりと頷いた。
「濮州軍の幹部の二人、朱仝と雷横はそれ以上の人数が関わっていることを知っているけど、これは財宝の一部を返還することで見逃してくれるらしいわ。適当に現金化にしにくい美術品なんかを選定して渡しましょう」
返す具体的な金額について呉用は言明しなかったが誰もそれを問いただしてくる人間はいなかった。
「それと昨日、劉唐と阮小五が楊志という輸送隊を率いていた人間と戦った。この楊志という人物は宋江と宋清のことも知っていて、さっき名前の出た朱仝と雷横とも知り合いだそうよ。ただし、彼女は今、河に落ちて生死不明」
あえて生死不明といったがおそらく死んでいるだろう、と呉用は思っている。この時代、川や海の近くで生まれ育った人間でなければ泳げる人間などいないといってよい。ましてや、昨晩の黄河は雨で水かさが増しており、聞けば彼女は劉唐と戦ってほとんどぼろぼろになりかけだったのだからこれで生き延びるのは奇跡、とまではいかないが、かなり低い確率だ。
それでも断定しなかったのは状況の説明に自分の予想をはさみたくないのもあったが、なにより次に述べる事実と齟齬をなくすためだ。
「宋江も、同じく河に落ちた。こちらも生死不明よ」
その呉用の言葉にその場にいる大半の人間がびくりと反応したり、うつむいたり、とにかく何らかの反応を示した。何の反応も見せなかったのは晁蓋と阮小五の二人だけである。
「宋江のことは、今、阮小七がこの湖の周辺の村を回って聞いてきてくれてる。何かあれば教えてくれるはずになっているわ」
こんなところかしら、と呉用は思った。なんだか短い時間の間にたくさんの出来事が起こってかなり状況が変わった気がするが、こうして言葉にしてまとめてみると案外短い。
「すまねえ……」
ぽつりと劉唐が呟く。
「あなたのせいじゃないわ。仕方なかったと思う。むしろ責められるとしたら全体の作戦を立てた私のほうよ」
「呉用先生は悪くないでしょう。聞けば、その楊志という人は明確に嵐の中を超えて私たちを追ってきたといいました。私が何かへまをしたのかもしれません」
「いや、そもそも、俺が黄泥岡であいつを逃がしちまったのが原因だ」
「止めぬか」
責任の擦り付け合いならぬ責任の奪い合いのような様相を呈してきたその場の雰囲気に公孫勝が静かに言い渡した。
「おぬしらが悔やんでいることはようわかった。じゃが、悔やんだからと言って奴がみつかるわけでもない」
その言葉に再度しんと部屋は静まり返る。
「私が……私がいけないんです」
だがその公孫勝の言い分を無視するように宋清がぽつりとつぶやく。彼女は震えながら言葉を続けた。
「私が、あの人を見つけなければ、兄様に助けてなんて言わなければ……」
そこでそれ以上の言葉を隠すように隣に座っていた阮小二がぎゅっと宋清の小さな体を抱きしめた。
「宋清ちゃん。お願いだから……そんなことは言わないで。あなたの、その優しさだけは否定しないであげて」
「う、うえ、うええええええん……」
その場で泣き出す宋清をあやすように撫でながら阮小二は後ろを振り返る。呉用が無言で頷くと、阮小二は宋清をつれてそのまま、部屋から出て行った。
宋清の泣き声が聞こえなくなり、再び静かになった部屋で今度は公孫勝が口火を切った。
「呉用殿、今後のことを考えようぞ」
「そうね……」
公孫勝の提案に異論は無い。だが、呉用には自分たちが何をすべきなのかわからかった。
「劉唐と晁蓋はとりあえず、ここにいて頂戴。阮小五、あなたも念のため。公孫勝、あなたはとりあえず鄆城と濮州の様子を見に行って欲しいの。多分あなたがいまのところ、一番安全に動けるはずだから」
こくり、と全員が無言で頷く。
「その後のことは公孫勝が帰ってきた後、また考えましょう」
何かをするためには、何もしない時間が必要な場合もある。今の彼らがまさにそうだった。
「どうだった?」
阮小五の問いに阮小七は首を横に振った。
「今のところは何も情報は無し。ひょっとしたらけっこう下流まで流されちゃったのかも」
梁山泊の船着場である。空は一晩たつと昨日の雨が嘘のように晴れ上がっていた。風も穏やかで、昨日の嵐の名残はときたま流れてくる流木程度しかない。
「そうか」
阮小七から見た姉は普段どおりだ。おそらく一味の中で最も平静を保っているのが彼女だろう。それは生来の気性ではなく、宋江がとった行動に対する受け止め方から来るものであろうことも阮小七には予想がついていた。元来、自分たち三姉妹の中では阮小五が最も喜怒哀楽が激しい。
それを知りつつも、なお阮小七は聞きたかった。
「どう思う?」
「何がだ」
「宋江のこと」
「裏切り者だ」
きっぱりと阮小五は断じた。
「はっきり言うね」
「他にどう言い様がある」
その言い方にすこしカチンと来る。
「そりゃ、あるでしょ。可愛そうな人だとか、優しい人だとか」
「かもな。だが事実としてあいつはこっちの敵を助けて、こっちの攻撃の邪魔をした。そこは変わらねえ」
姉の言い分は間違っていない。しかしそれでも宋江の行動を裏切り者の一言でしか評価できない彼女に阮小七は反発を覚えた。
「宋江も宋清もあいつが敵だって知らなかったんだから仕方ないじゃない」
「そこは別に非難してねえよ。俺が許せないのは実力もないくせに首突っ込んで結果として妹を泣かせていることだ」
「宋江が全部悪いって言うの!?」
「俺は怒ってるんだ!!」
阮小七が叫ぶと阮小五はそれ以上の声で怒鳴り返した。
「あそこで宋江が飛び出さなかったらどうなってた!? 敵が死んで万々歳で、それ以上は何も無かった!! それがどうだ!? 劉唐さんはあれからずっと自分を責めてる! 公孫勝や呉用先生も表には出さないが悲しんでるのはわかるし、宋清にいたっちゃずっとあんな調子だ! あいつや宋清があの女と何があったかはしらねえが、この結果をつくりだしたのは間違いなく、あいつの無謀な行動だろうが!!」
阮小七の小柄な体を吹き飛ばしそうな勢いで阮小五はそうまくしたてた。常人ならばその勢いに恐れをなして口をつぐんでいただろうが、阮小七とて伊達に彼女の妹をやっているわけではない。嘲笑するように口の端をつりあげると、阮小七は言った。
「ふん、偉そうなこと言っちゃって。結局のところお姉ちゃんがあっさりその敵を倒すことができてたらこんなことにはならなかったんじゃないの?」
「んだと!」
「よしなさい!!!」
がっと阮小五が阮小七の襟首をつかむと同時、阮小二の声が響いた。めったに声を荒げることの無い彼女が叫んだという事実にさすがの阮小五も動きを止めた。
阮小二はつかつかと歩み寄ると二人を無理やり引き離す。
「今が喧嘩している場合かどうかもあなたたちはわからないの!!」
数年ぶりにみる姉の激怒、それも本気のものに阮小五と阮小七は言葉を失った。
「どうなの!? わからないの!?」
黙っていると追求するように阮小二は二人の顔をにらみつける。
「い、いや、その……小七がよ……」
「喧嘩の原因なんて、誰も聞いてないわよ!!」
ほとんど初めてと言っていい阮小二の粗野な怒鳴り声に二人は今度こそ完全に硬直した。
「答えなさい、小五。私の質問は『喧嘩している場合かどうか』よ」
「ば、場合じゃねえけど……」
卑怯だ、と阮小五は思った。そもそも喧嘩してよい場合などめったに無いのだから。だが彼女も姉のこの勢いにそんな反論などできようはずもなかった
「小七?」
「場合じゃないです」
しょぼくれながら小声で阮小七はそう答えた。阮小五と同じように少しその声色には抗議の声が混じってる。
「じゃあ、下らないことやってないでとっとと働きなさい。小七、あんたは家に帰って寝具と網もってきなさい。小五、あんたはここで公孫勝さんを待ってなさい」
別人のような冷たい声で姉はそう告げるときびすを返した。
「……なんか言えよ」
劉唐は自分の目の前に座る公孫勝に静かに告げた。二人はまだ先ほど会議のあった部屋で動かずにいる。最後に晁蓋が退席してから既に半刻(十五分)程度が経過していた。その間、二人はずっと無言でいる。視線も互いにあわせない。ござの上に座って、床にだれかが落としたのだろう紐のきれはしを劉唐は所在なげに眺めていた。公孫勝も似たような調子でこちらを見ることは無い。
「意外じゃの」
劉唐が自分の言葉を無視されたのかと勘違いするほどの時間が経って、公孫勝はそうもらした。
「何かを言うてほしいのか?」
「何か言いたいからここにいるんじゃないのか?」
「………」
劉唐のその当然と言えば当然の指摘に、公孫勝は口をつぐんだ。それに続く沈黙は先ほどよりやや短かった。
「わしも何を言ってよいのかわからぬ」
「………」
今度は劉唐が沈黙する番だった。相手がそういう答えならこのまま自分がこの部屋から出て行くのも選択肢だったろう。だがそれはあまりにも不誠実なことに劉唐には思えた。目の前のこの友人は言いたいことがないわけではないのだ。
「怒っているのか?」
それは質問と言うより公孫勝の言葉を促すための呼び水だった。
「そうじゃな、そうかもしれぬ。じゃが怒るべきでないと思っておる。それははっきりしている」
理由は知らないが、公孫勝は宋江を気に入っていた。懐いていたといってもいいかもしれないし、弟子として慈しんでいるようにも見えた。細かい表現はともかく、公孫勝が彼に対して肯定的な評価であったことは確かである。だとすればそれを故意ではないとは言え、河に突き飛ばした自分は彼女から糾弾されてしかるべきだった。少なくとも劉唐はそう思っていた。それだというのに公孫勝は自分に対して怒るべきではない、という言い方をしていた。
「でもよ……」
自分に対して懲罰させようとするのも妙な話だと思ったが劉唐は公孫勝に語りかけた。
「そりゃ、あたしだって自分のやったことが全部間違っているとまでは言わないよ。でも事実としてあたしは宋江をぶっ飛ばした。大雨の振る河の中にだ。いくらあいつが敵をかばったのが原因だって言ってもそりゃ事情をろくに知らなかった宋江の事は責められねえよ」
公孫勝はかぶりを振った。
「わしが怒らないのは。おぬしの行動が是か非か、迷っているからではない。わしには今回のことでおぬしを責める資格が無い。責められたければ宋清のところにでもいくのじゃな」
「資格が無い?」
奇妙な言い方だと劉唐は思った。だが公孫勝はそれ以上、会話を続けるつもりはないらしく、席を立った。
「昔な」
去り際に公孫勝はぽつりともらした。
「わしも友人を殺したことがある」
それだけ言うと公孫勝は部屋から出て行った。
「はあ……」
一人残った劉唐は息を吐く。公孫勝に昔何があったかは知らないが……
「そりゃ資格があったら責め立ててるっていうことじゃねーかよ」
その言葉は先ほどの公孫勝の言葉よりなお小さかった。
梁山泊に公孫勝がいくつかつくった部屋の一つ。呉用たちが寝具を運び込んだその部屋で呉用はじっと座っていた。
普段、暇さえあれば思索にふけっている彼女の頭も今は完全に休止している。ただぼんやりと目の前で寝ている宋清を眺めているだけだ。
あの会議のあと、阮小二に任せた宋清の様子を見に来ると既に泣き疲れた宋清は眠っていた。ここに自分が来ると阮小二は入れ替わるようにどこかに消えていった。
ふと、気配を感じて振り向く。さきほどまでいなかった阮小二がいつの間にか戻ってきていた。彼女もまた部屋の入り口にたたずみながら、ぼんやりと宋清の様子を眺めていた。
「阮小二さん、座ったら」
「あ。ええ……」
阮小二はまるで呉用がそこにいたことさえ気づいていなかったように放心していた。それでもどさりと呉用の隣の席に腰を下ろす。
「私、最低です……」
呟くように阮小二は言った。隣にいた呉用すら注意を宋清に向けていたら聞き逃していたかもしれない。
「何かあったの?」
「妹たちにあたってしまいました」
友人であれ、肉親であれ、自分に関わる人の死というのは自分をとりまく世界の欠損だ。近ければ近しいほどその欠損は大きくなる。
安定した方法でその欠損を補うには時間が必要だ。だが人の精神は時にそれを待っていられるほど強くない。欠損が大きければ大きいほどに応急処置としてなんらかの行動が必要だった。
こう言う場合、最も一般的なのは宋清のように泣くことだ。しかし現代人もストレスの対処方法が人によって異なるように死の埋め合わせの行為もまた人によって異なる。呉用のように何も考えないのもそうだろうし、阮小五や阮小七のように人にあたる場合もある。阮小二の対処は妹たちと同じだった。彼女は自分のストレスのはけ口をたまたま落ち度のあった妹たちに求めた。
「そう……」
呉用は相槌をうっただけだった。それで十分だと思っている
阮小二は自分なんかよりずっと精神的に成熟した女性だ。自分のしでかしたことの意味も、それを償う方法も、全てわかった上でそれでも熱が収まらなくてここに来たのだろう。
「あの子達もきっと同じだったろうに。こんなところで似通うなんて嫌になりますね」
「私も、昔、むしゃくしゃしたときに宋江に迷惑をかけたことがあるわ」
あの絡み酒の一件が大分昔のことのように呉用には思えた。実際にはまだ半月程度しかたっていないというのに。
「そんなことがあったんですか?」
「ええ。結局謝って許してもらったのだけれど……」
「呉用先生にもそんなことがあるんですね」
久方ぶりに阮小二が微笑んだ。
「まあね……」
ん、と宋清の口から声が漏れる。どきりとして視線を宋清にあわせたが寝言か何かのようで彼女が起きることはなかった。自分たちの話す声が少し大きかったのかもしれない。自分同様、阮小二はそのことに気づいたようで立ち上がると軽く一礼して部屋から出て行った。きっと妹たちに謝りにいったのだろう。
呉用にまた空白の時間が訪れた。宋清を見る。夢見が悪いのだろう。苦しそうな顔をして布団のすそをぎゅっと握っていた。呉用は宋清に近づくとそっとその手を握ってやる。
「兄様……」
ぽつりと宋清が呟き、少し表情が和らいだ。それをみて呉用はほっとする。
(宋江……。ちゃんと戻ってきなさいよ。この子のために)
どこにいるかもわからない彼に対して呉用は悪態をついた。そしてふと数日前のことを思い出し、自分の小指を見る。
彼は約束したはずだった。何があっても彼と宋清は平穏に暮らすと言うことを、当初の想定からはかなり前提とするところは変わってしまったが、呉用はその部分は気にしないことにした。彼女はその約束にすがりたかった。正直言ってこの状態の宋清をずっと見続けるのはかなりつらい。それがたとえ自分勝手で子供じみたものであっても、いつかは彼が戻ってくると言う保証が無くては呉用にはその苦行に耐える自身が無かった。
「うそついたらはりせんぼんのます、か……」
針千本飲みたくは無いわよね。どこかにいる宋江に向けて彼女はそう念じた。必死に否定する宋江を思い浮かべると少しだけ笑うことができた。
夕日が沈もうとしていた。結局、今日は宋江の手がかりとなるような情報は何一つ得られなかった。
晁蓋はそれを聞いても気にしない。いや、より正確に言えば気にしようとしても気にすることができなかった。
情報が無い? だから何だと言うのだ? あいつはこのぐらいで死ぬタマではない。
晁蓋の思考はおおよそこのようなもので占められていた。
それはとても奇妙な感覚だった。別段宋江は水練に秀でたわけでも、卓越した力をもっていたわけでもない。水練については知らないが体力や筋力についてはむしろ逆だ。彼ははっきりいって並み以下だった。だが、そういう事実を並べ立ててみても、なぜか晁蓋の頭を占領するその考えは揺らぐことはなかった。信頼や信用とは違う。もっと何か根深い確信のようなものが彼の思考を支配していた。
宋江は死ぬはずが無い。少なくとも、今はまだ。
彼はゆっくりと沈む夕日を眺めながらその不安定な確信を抱き続けた。




