その二 呉用、少年に名を授けるのこと
日が傾きかけた東渓村の小道を一人の少女が歩いていた。いや、少女と評したら本人は不機嫌になるだろう。背は五尺(約150cm)に満たないが歳はもう十七で立派に成人しているのだから。肩までのばした銀髪にややつり上がった大きな瞳を持った彼女の名は呉用。この東渓村で学習塾を開く才媛である。彼女の足取りの先にはこの村の名主、晁蓋の家があった。
名主というのはいわば村長兼徴税代理管だ。村々の税をまとめ、国に収めるのが仕事であるが、役人ではなく、村々の有力者にまかされている。晁蓋の家はこの村の地主で代々この仕事をしていた。
「ごめんなさい。晁蓋はいる?」
「おや、呉用先生、こんにちは」
出迎えたのは晁蓋ではなくこの家に給仕として仕える老婆だ。
「旦那様にご用事で?」
「ええ。頼まれていた春の麦の帳簿付けが終わったのと、周の家の年貢の事でちょっとね」
呉用は晁蓋の父の代からこうしてたまに仕事を手伝っている。ただし、晁蓋は先代とは違い、仕事をしょっちゅうサボるのが呉用にとって頭がいたいところだった。
「実は周さんところの奥さんが身ごもったらしくて、今年の年貢、少し融通できないか、と泣きつかれたの」
「あらまあ、それは大変」
村毎に決められた年貢を納めるのが名主の仕事だが、村の総計としてあっていれば上も文句を言わないので、理由はいろいろだがこうした相談は頻繁に持ち込まれる。それを調整するのも名主の仕事だ。本来、お願いする当人が来るのが筋だが晁蓋がそれをすると大体、適当すぎて揉め事になるため、最近は村人達がまず呉用のところに相談を持ち込むことが常態化していた。
「でも、申し訳ないのですが旦那様は先程お出かけになりましておそらく今晩はお戻りにならないかと」
「また狩りにでも行ってるの?」
げんなりした調子で呉用はいった。晁蓋は素直に家の中にいる時の方が珍しい。それはわかっているが、先代の父親から仕事を受け継いで三年になるのだから、少しは名主としての自覚もいい加減身につけて欲しかった。ただ、狩りに行けば鳥や、たまに熊なんかを持ってくるのでその恩恵に村は与っているのだから、それぐらいでは呉用も文句は言わないようにしていた。
「いえ……その……なんでも悪霊退治に出かけたとかで……」
老婆の声は次第にしりすぼみになっていく。呉用はいつの間にか笑顔になっている。だが老婆は彼女の頬が痙攣しているのと額に立てた青筋に気づいてしまった。
「そう、面倒事を私に押し付けて何をやっているかと思えば、いるかどうかもわからない悪霊退治……名主の仕事もせずにプラプラと遊び呆けて……ははははは」
老婆は次に起こる展開を察知して耳を抑えた。
「ぬあああに、やっとんじゃああああ!!!!! あのうすらとんかちはあああああああ!!!!!!」
呉用の叫びが村中にこだました。
「おー、呉用先生がまた吠えてなさる」
「今日はまた一段と響くのう」
村人達はそう言いながら手慣れた様子で農具を片付けていく。
どこかでカラスが鳴いていた。
そして翌日。昼過ぎに晁蓋が帰ってきたと知るや、呉用は再度、晁蓋の家に乗り込んでいった。
「晁蓋、いるんでしょ!」
そう、怒鳴ると取次も待たずに屋敷に乗り込む。
「おう、呉用か、ちょうどいいや、話があったんだよ! こっちきな!」
すぐに奥のほうで晁蓋が脳天気に答えてきた。
「あのね、この三年間、辛抱してたけど、今日という今日は言わせてもらうわよ! あなた少しは自分が名主だっていう自覚を持って……って」
そうがなりたてながら奥の間の扉を開いた先、そこには相変わらず何も考えていなさそうな晁蓋とその取り巻きの三人組、それと見知らぬ男がいた。
「何? お客さん?」
小首をかしげて呉用はそう尋ねる。
「おう、こいつな昨日会った悪霊だ」
「あのさ、もうその紹介の仕方止めない? さっきのおばあさん、腰抜かしてたじゃない」
晁蓋に指をさされたその若い男はげんなりした様子でそう言った。
呉用は昨日、老婆から晁蓋の悪霊退治について聞いた後からいくつかの結末を予測していた。何の収穫も無しに帰ってくるか、代わりに鹿か何かでもとってくるのか、道に迷ってどっか別の村にでも迷惑をかけるか。そしてさらにそれぞれについてどう小言を言うかも考えていた。が、悪霊をつれて帰ってくるというのは想定しておらず、すこしの間、頭が硬直する。
「えっと……悪霊?」
見知らぬ男、いやよくよく落ち着いて見ると少年といってもいい年頃かもしれない。背は自分より少し高いくらいだろうか。見覚えがある服……晁蓋が昔着ていた服だ、を着ていて、頭は短い巻き毛気味の髪をまとめることも無く伸び放題にさせている、とはいえ髪の長さは短めで首にかかる程の長さだ。今、視線は晁蓋からこちらに向けていた。くりくりとした丸い目つきで幼い印象をあたえる。
悪霊という呼称とはまるで似つかわない様子の少年に呉用はしばし視線を注いだ。
「この人が、晁蓋が言ってた呉用さん?」
「おう、そうだ」
一方、その男、幸一郎もその少女をまじまじと見つめた。『村一番の物知り』などと言われてたのでてっきり、年をとったおじいさんが出てくると思っていたのだ。それがまさか自分とそう年の変わらない、しかも顔立ちの整った女の子とは……
「なに?」
「あ、いやなんでも」
ただし性格はきつそうである。
「で、だな……」
「そんなことより!」
何か言おうとした晁蓋の機先を制して呉用が吼える。そしてちらっと周りを見回すと晁蓋の耳をぐいっとひっぱる。
「お、おい。なんだよ」
「さすがにお客さんの前は勘弁してあげる。ちょっとこっち来なさい」
「いてて、ひっぱんなよ。そんな乱暴だからお前、嫁の貰い手がいねーんだぞ」
「余計なお世話よ! 大体、私だって好きでこんなことやってるんじゃないんですから!」
六尺半(約200cm)の背丈を持つ晁蓋を五尺(約150cm)に満たない少女が引っ張っていく様はどこか現実離れしていた。
「あの、丁礼さん……?」
「呉用先生は兄貴の天敵でな……まあ、二刻(一時間)もあれば帰ってくるだろ」
耳をそばだてるとガミガミと説教を続ける呉用の声が聞こえてくる。時折、晁蓋の反論するような声も混じっていたが長くは続かなかった。
丁礼の予測どおりおよそ一時間後に晁蓋と呉用が現れた。もう少し詳しく描写するならげんなりとした様子の晁蓋とまだまだ言いたいことはあるけどとりあえず勘弁してあげると言った具合でふんぞり返っている呉用である。
「それで私への用事って何よ」
「おう」
まだ一応返事をする気力のある晁蓋が反応した。
「こいつさ、家に帰りたいんだけど、帰り方がわかんねぇらしいんだわ。だから呉用に聞きゃなんかわかるかなと思って」
と、幸一郎をさしながら言う。そんな説明でいいのか、と思いながらも彼はとりあえず黙っていた。
「ふーん、どこなの家は?」
「ええと、東京だけど、今は江戸って言うのかな?」
「トウキョウ? エド? 悪いけどどっちも聞いたことないわね」
「ええと、じゃあ、倭国……だっけかな? 倭国は知っている?」
日本の昔の名称を思い出し、なんとか食い下がってみる。
「倭国? ちょっと待って、倭国?」
呉用以外の四人はきょとんとしている。名前すらまったく聞いたことが無いようだった。
「倭国ってまさか、あの東海の向こうにある倭国?」
「た、多分……」
と、そこまで言ってから千年後の倭国と説明しなければいけないことを思い出した。だが呉用は何かしら考えているようで、そこに言葉を差し挟むのがためらわれた。
呉用はしばらく頭を指で抑えてじっとこちらの方を見ている。ややあって呉用は息をひとつ吐くと言葉を続けた。
「そうねぇ、本当に倭国に行くんだったら遼を経由して高麗の方にいかなきゃいけないと思うけど……そもそもあなた、どうやってここに来たの?」
疑われているらしい。お人好しの幸一郎にもそれぐらいはわかった。だが、どう説明すればいいのだろう。自分も何故こんなことになったのか、さっぱりわからないのである。だが下手に嘘をつくことは逆効果だろう、というよりこの鋭い視線の少女を前にしては嘘を突き通せる自信がなかった。結局、正直に感じたままを言うしかなさそうだ。
「いや、あの自宅で寝てて、起きたらいつの間にか、晁蓋さんが目の前にいたんだけど……」
「ちょっと、ちょっと。あんたの自宅はどこにあるのよ」
「え、いや、だから倭国」
再び沈黙が辺りを支配した。沈黙に耐えかねた幸一郎はおずおずと切り出した。
「え、えっと正確に言えば千年くらい後の倭国?」
だが、その言葉は呉用にとって幸一郎に対するありがたくない結論を出させる気になってしまったようだった。彼女は頭を振ると晁蓋の頬を軽く平手打ちして気の抜けた晁蓋を元に戻した。
「ちょっと晁蓋」
「ん?」
「あんたが山賊くずれだとか、飢民だとかを一々引っ張ってくるのは、もういいわ。慣れたし。一応、小作人としてきちんと土地は貸してるしね。でもさすがに気狂いの面倒まで私に押し付けないでよ」
「気狂いって……まあ、あの説明じゃそう言われても仕方ないかもしれないけど、それ以外に説明しようがないんだよ」
幸一郎は気弱に抗議した。が、呉用は聞いてないようだった。
「それとあなたたち」
と、これは残りの三人、つまり丁礼達に向けて呉用が聞く。
「そもそもどういう経緯でこれと知り合ったのか、説明して」
これ。ついにもの扱いである。
「光った後に現れたって仙人か何かじゃあるまいし……」
説明を受けた呉用は頭を抱えていた。ちらりとこちらを何か言いたげな顔つきで見上げてくる。どうやら千年後云々はともかく常識で計り知れないことが起こったことだけは信じてくれたようだった。
「ちなみに一応聞くけど、千年後の皇帝ってどんな人?」
「皇帝はもういないよ。中国は共産党っていう集団が治めてる」
「……ちなみに聞くけど、次の皇帝の名前は?」
「ええ? 悪いけど宋の皇帝の名前なんて覚えてないよ」
「役にたたないわねぇ」
「いや、そんなマイナーな知識、あてにされても……ああ、でもあと何年かしたら、この辺の国の名前、変わるはずだよ」
幸一郎の言葉に周りの全員がぎょっとした様子になる。晁蓋だけはほほお、若干面白そうな顔つきをしていたが。
「え? なに?」
「あんた、そんなこと、軽々しく口にだすんじゃないの! 私が役人だったらこの場で首をはねられても文句言えないわよ!」
「え、ええ!? そうなの!?」
「当たり前でしょ、そんな不吉なこと喋ってたら、民を惑わす怪しい奴とか言われて問答無用で打ち首よ!」
その呉用の言葉に幸一郎はぶるりと身を震わせた。脅しでないのは雰囲気をみればわかる。
「わ、わかったよ、もう言わない」
「もう、あんた未来のことについて話すの禁止! いいわね!」
「了解です」
そう言って幸一郎は神妙な顔つきになった。
「まあ、とりあえず倭国に行くのはあきらめたほうがいいと思うわ。あなた一人じゃそこまでいけないだろうし、かといってそんなに長期間、一緒に旅する人間もいないしね。どうしてもっていうんだったらそのうち鄆城の街にいく誰かに送らせるからその後はなんとかしなさいっていう程度かしら」
この時代、主要な街道は整備されていても、夜盗や山賊も大勢いる。ましてや国外ともなれば困難さはそれ以上で、幸一郎のような人間が一人で旅するなど自殺行為だった。
「とりあえず秋までならあんたのところで置いといてあげられるでしょ、あんたが連れてきたんだから責任とんなさいよね」
「あーあー、わかってるって」
晁蓋がうるさげに耳を抑えて首を振る。呉用は、本当にわかっているのかしら、等とぶつぶつ言っていた。
「あの、やっぱり僕が帰る方法とか知りませんか?」
幸一郎は呉用に尋ねるが彼女の返事は冷たいものだった。
「知るわけ無いでしょ。未来にいく方法なんて。どうしてもって言うなら仙人か何かでも尋ねたら? いるかどうか知らないけど」
がっくりと幸一郎は頭を垂れる。
「やっぱダメかぁ」
「あんた、私に何を期待してたのよ。言っちゃあれだけど、私はただの私塾の教師よ」
「いや、村一番の物知りって聞いてたから……」
「そりゃまあ、このバカどもよりは物知りのつもりだけど、何? あんたのいたとこじゃ村の物知りは時間も飛び越えられるわけ」
「そりゃ違うけどさ……」
呉用の言葉に思わずしょんぼりとして幸一郎はつぶやいた。はあとため息をつくと、少し言い過ぎたとでも思ったのか、呉用の声が若干柔らかなものとなった。
「ああもう、気落ちしないでなんとかしなさい。幸い、晁蓋がしばらくは面倒見るって言ってるから死にはしないわよ」
「う、うん。ありがとう、晁蓋さん、呉用さん」
「力になれなくて悪かったわね」
「ううん、そんな、とんでもない」
幸一郎はふるふると頭を振った。
「ええと、コウイチロウだっけ。またねって……あ」
帰り支度を始めた呉用の動きが止まる。
「どうかしたの?」
「その名前だけど……」
「名前?」
「変えたほうがいいわ。どう考えてもこのへんの人間の名前じゃないし。倭国の言葉って言っても役人が納得しなかったら、下手すると契丹の密偵か何かと思われちゃうかも」
「契丹?」
「知らないの? 北の方にいる異民族よ」
モンゴルあたりの話だろうか、と思いながらそう言えば宋は最終的にモンゴルの騎馬民族によって滅亡したことを思い出した。
「変えなきゃいけない? でもあっちの人たちってチンギスハンとかそんな名前でしょ。ぜんぜん違うよ?」
「あんたのいたとこがどんな場所かしらないけど、ここらあたりじゃ役人はそんな細かいところまで斟酌してくれないわよ。ちょっとでも怪しいところがあったら問答無用で牢屋入りだからね」
「………」
幸一郎が想像していた以上にこの時代の中国はその辺り、容赦が無いようだった。幸一郎の沈黙を肯定と受け止めた呉用は名前を考え始めたらしく顎に指を当てた。
「ええとコウイチロウはあくまで名前なのよね、姓はなんていうの?」
「宗田です。宗田幸一郎」
「ソウダコウイチロウね、じゃ縮めてソウコウで」
昨日の晁蓋と同じ発想である。幸一郎はなんだかんだでこの二人は似たもの同士ではないかと思った。そんな幸一郎にはかまわず、呉用は紙にさらさらと何かを書き付けている。
「はい、じゃあこれがあなたの名前。簡単な字だし、覚えられるでしょ。あ、字は読めるんだっけ?」
そこには毛筆ででかでかと『宋江』と書かれていた。
「ソウコウ」
声に出して読んでみる。どこかできいたような響きだった。
「そ。わかる? これがあなたの名前よ。自分の名前ぐらいはちゃんと書けるようにしておいてね」
「あ、はい」
「うん。じゃあ、私は帰るから」
「おう。すまねぇな」
「そう思うんなら二度と悪霊退治とか言って出歩くのはやめて。わけわかんない人間は一人で十分だし」
そう言って呉用は扉を閉めていった。
「へえーこれがコウイチロウの新しい名前か。どれどれ宋江ね。中々いい名前じゃねぇか」
「なんか呼び名が急に変わるとあれですね。少し戸惑うっすね」
「なに、呼びつづけてたら、そのうち慣れるさ、なあ、宋江」
「うん。そ、そうだね」
ソウコウ、ソウコウと他の三人達も呼びかけてくる。
「けど、やっぱり呉用先生でも、だめだったか」
「まあ、晁蓋の兄貴が面倒見るっていったんならとりあえず、安心だな、良かったな、宋江」
ソウコウ、チョウガイ、ゴヨウ。宋江、晁蓋、呉用。
「あれ?」
それらの名前を並べた時、幸一郎の何かに触れるものがあった。なんだっけ? どこで聞いた? なんか本で読んだような……
そう思えば、自然と何故今まで気づかなかったのかと思うくらいにふっと頭の中に出てきた言葉がある。
水滸伝。中学生の時に読んだ本だ。確か百八人の英雄が出てくるという……林冲とか史進とか、その中心人物の名前がその三人では無かったろうか。そうだ、あれは確か、中国の宋の時代の話だった。どんな話か、細部は忘れてしまったが、さすがに目立った登場人物の名前くらいは覚えている。ただ呉用は女性では無かったはずだが。
(あれ、まてよ……?)
でも、確かあの話って……そうだ史実でそんなことがあった事をモデルにして書いたというあの話では……
「おい、コウイチロウ……ああ、またやっちったな、宋江か。ぼっとしてると料理無くなっちまうぞ」
そう無邪気に言う晁蓋の顔を思わず、宋江は眺めた。そう、どこまでが史実で、どこまでが創作か、わからないが……もし、もしあの話が事実だとしたら……
「おーい、どうした宋江。本当に無くなるぞ」
晁蓋は死ぬ。それもそう遠くないうちに。
名前の付け方がこじつけっぽい? ……コメントは差し控えさせて頂きます。
追記:本編中で二刻=一時間という表記が出てきます。一刻って二時間じゃないの? と思われた方もいらっしゃるかと思いますが、この時代の中国では一刻は約十五分あるいは約三十分のことをさします。この小説では一刻=約三十分としてます。正確に言うと二十八分四十八秒ですね。
興味のある方は"五十刻法"で検索してみてください。