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水娘伝(すいこでん)  作者: 文太
第二話 蠢動編
28/110

その十六 楊志、盛大にあせるのこと

「久しぶりだな、お前ら」


三年ぶりにあった晁蓋(ちょうがい)は驚くほど何も変っていなかった。自身のうちにある何かを無理やりおさえつけているように束ねた長い黒髪も、猛禽類のような目も、太い眉も、短い無精ひげも、三年前から何一つ変わっていない。


「ええ、お久しぶりです。晁蓋さん」


「おひさしー」


晁蓋の屋敷の前で来訪の意をつげるとあっさりと彼は門に姿を現した。笑顔を浮かべる二人、朱仝(しゅどう)雷横(らいおう)に晁蓋は言う。


「ま、立ち話もなんだ。ちょっと散らかってるが寄っていけや。酒飲んでく時間くらいあるだろ」


「ご相伴に預かります」


 家の中をつっきるとやがて広間らしき場所に出る。らしき、と表現するのは露出している床よりも酒瓶や汚れた皿が占有している面積のほうが広く、本来の姿がよくわからないからである。


「うわー、ひどいね、晁蓋さん。お手伝いさんくらい雇ったら?」


雷横が酒瓶や洗われてない皿を見て顔をしかめた。


「うっせーな、雇っている奴はちょっと今、遠出してるんだよ」


二人の役割分担としては雷横はひたすら世間話に興じて晁蓋の注意をひきつける役。朱仝がその様子を観察していざとなれば詰問する役としていた。どうにも、そのお手伝いさんとやらも少し怪しい。遠出というが、一体どこへ行ったというのか。


「お手伝いさんは村の方ではないんですか?」


警戒の色を極力見せないようにして朱仝は問いかけた。


「村の奴だよ。でも遠くの親戚のところに行っててな」


晁蓋は酒瓶を適当に卓の上からどかしながらそう言った。意図してかどうかわからないがこちらに背を向けているので表情は伺いしれない。


「ところで、やっぱりおまえらまだ軍にいるのか?」


「ええ、今は濮州(ぼくしゅう)軍にいます」


「濮州軍?」







 晁蓋は雷横と朱仝の二人が濮州にいることを知らなかった。呉用(ごよう)から濮州軍の支援をする指令があったときも彼女は司令官の名前を伝えてなかったし、晁蓋もまた聞こうとは思わなかった。司令官が誰であろうと晁蓋は話を聞いて、山賊を皆殺しにすればよいのだろうと、単純に解釈していたからである。


 また呉用もその二人の名には聞き覚えは無かった。彼女は晁蓋の軍所属時代の交友関係を把握していなかったし、そもそも済州(さいしゅう)軍にいた晁蓋の知り合いが濮州にいたとは考えもしていなかったのである。


 この(かす)かな情報の行き違いがこの状況を作り出していた。








「なんだ、済州軍は辞めたのか」


「辞めざるを得ないでしょう。私も雷横もあなたと同じく当事者だったのですから」


三年前。晁蓋は自分の上官を殴って軍を辞めた。晁蓋が彼を前々からよく思ってなかったのは事実だが、直接のきっかけは朱仝達である。


 軍などやめて自分の妾になれと言い寄ってきたその上官はたまたま居合わせた晁蓋にぶん殴られた。聞いた話では、殴られた男は歯が半分すっとんで未だにまともにものが食べれないらしい。その後、どういうやりとりがあったのか詳しくは知らないがその男は済州軍に居続け、上官に暴行を振るった晁蓋は罷免。自分たちは表向きお咎めはなかったが嫌がらせが続き、しばらくして自ら職を辞した。


「それでなんで今日は来たんだ?」


「ん? ちょっと済州の近くまで来たもんだから、晁蓋さんに会おうと思って」


雷横が話し役になって受け答えするのを見ながら朱仝は考えた。


 朱仝は既に晁蓋が犯人であるとの確信を持っていた。彼は嘘や隠し事が得意な人間ではない。先ほど、濮州軍と聞いたときに、一瞬彼が射る様にこちらに向けた視線は明らかに警戒の色を帯びていた。


 となれば、後はいかにしてこの男を捕まえるかである。気功を封じる禁気呪(きんきじゅ)は既に懐に忍ばせてある。これを晁蓋にとりつけさせることができればよいのだが。


「おい、朱仝」


「はい、なんでしょう?」


雷横と話していた晁蓋が唐突にこちらを向く。朱仝は表面上、全く動じた様子もせずに受け答えをした。


「お前、なんか俺に聞きたいことでもあるんじゃねえか?」


「いえ、特には。まあ、最近何をしているのか少し、聞きたいとは思ってますけど」


朱仝は微笑んだままさらりと返答する。


「そうかい。さっきからずいぶんと胸元を気にしているようだからよ」


(っ!)


やはり、この男は尋常ではなかった。自分のわずかな動きから懐に何かがあるのを察している。


 ふっと晁蓋の手が動く。


 朱仝と雷横はその瞬間に後ろにとんで武器を構えた。が、晁蓋の手は卓の上にある酒瓶をつかんだだけだった。


「さて、お前らとは知らない仲でもないからな。まあ、聞きたいことがあるっていうなら答えてやってもいい」


まるで二人が今までどおり、卓に座っているかのような調子で晁蓋は自分の杯に酒を注いだ。その様子は刹那で晁蓋の間合いに踏み込めるほどの緊張している自分たちは対照的である。


 しまった、と朱仝は歯噛みした。自分たちの彼の強さに対する警戒心を利用されてしまったのだ。だが、幸いにもまだ望みはある。彼のきまぐれか、優しさか、あるいは豪胆さか。彼はまだ自分たちとの対話を続けるつもりらしい。


「……答えて頂けるのですか」


「ある程度ならな。言ってみろ」


くいっと杯の中身を飲みながら晁蓋は言葉を続けた。


 朱仝はどのように聞くべきか、少しだけ迷ったがこの男には小細工は逆効果だと判断した。


「数日前、黄泥岡(こうでいこう)で輸送隊を襲撃したのはあなたですね」


「そうだ」


自分の直截的な質問に拍子抜けするほどあっさりと晁蓋は答えた。


「奪った財宝はどこです?」


「さてな」


晁蓋がにやりと笑う。これに関しては素直に答えるつもりは無いらしい。


「他にこの件に関わっているのは誰です?」


「俺一人だよ」


 これは嘘だ。既に索超によって大男のほかに赤毛の女が目撃されているのを二人は知っている。朱仝は遠回しせずにそれを問いただした。


「他に仲間がいるのは確認されています」


「……そういや、あいつは見られてたか……わかったよ、全部で二人だ。これでいいだろう」


あっさりとこちらの聴取に応じたのはそういうことなのだろう。要は他の人間は見逃せと言うわけだ。


 晁蓋は、いまあいつ『は』と言った。とりもなおさず、それは他にも仲間がいるということだろう。実際、黄泥岡で目撃された赤毛の女とは別の人間が奪われた財宝らしきものを運んでいるところを漁師によって目撃されている。


「二人だけということは無いはずです」


「いいや、それだけさ」


だが、晁蓋はこれ以上、認めるつもりは無いようだった。これ以上のことを聞こうとすれば、ただの話し合いでは終わらない。実力行使、すなわち晁蓋が圧倒的優位に立てる分野だ。


「……わかりました。それでは私たちと一緒に濮州まで来ていただけますか?」


晁蓋は再び、酒を注ぐとくいっと呷ってから答えた。


「そうしたいんなら力ずくで来な」


にんまりと晁蓋は笑う。


 これでは尋問と言うより取引のようだ、と朱仝は思った。いや、実際取引なのだろう。彼は自分の自白と仲間の安全を交換しようと言ってきており、朱仝もそれに乗りかかっている。


 朱仝は少しだけ、その晁蓋の様子を眺めた後、すっと何事も無かったかのようにまた椅子に座った。


「朱仝!?」


「雷横、ここまでです。私たちができるのは」


自分でも冷たいと思いながら朱仝は追求はそこで諦めた。自分と雷横だけでは晁蓋に勝てない。無理やり聞き出そうとしても、あっさりと昏倒させられるのが関の山だろう。


「ふん……」


面白くなさげに晁蓋が鼻を鳴らす。まず、間違いなく自分たちが力ずくで来るのを期待していたのだろう。


「でも、索超(さくちょう)さんと楊志(ようし)さんは!?」


「……索超と楊志? 誰だそりゃ」


怪訝そうに晁蓋は質問してきた。


「あなたが襲った輸送隊から生き残った二人ですよ。私たちの友人でもあります」


そののんきな調子に少し怒りを覚えながら朱仝は答える。


「そうか。あいつらはお前らの知り合いだったのか。そりゃ、悪いことしたな」


言って、酒をこちらに差し出してくる。朱仝は素直に受け取った。


「で、お前らはそいつらを助けるために俺を捕まえようと思って来たわけか」


「怒りますか?」


その質問に晁蓋は首を横にふった。


「まさか。それがお前らの仕事だろうが。なんで俺が怒る?」


「意外と多いんですよ。かすかな縁を頼りに見逃せと言う犯罪者は。そしてそれを拒否すると怒るような困った人たちも」


それこそ困ったように笑いながら朱仝は答えた。少しだけ自分の中にあった怒りが緩むのを感じる。


「お前も苦労してるな」


「そうですね。あなたが大人しく捕まって財宝も戻ってくれば苦労も減るんですが……」


皮肉交じりにそういう。


「じゃあ、返してやろうか?」


「え?」


「はい?」


あっさりと晁蓋が言い切ったので雷横だけでなく朱仝も目を瞬かせておどろいた。


「俺が捕まるのはごめんだし、全部ってわけにはいかねえが、俺の取り分だけなら返してやってもかまわねえぞ」


「い、いいの? 本当に!?」


「お前らの仲間が困ってんだろ。金ぐらい返してやるさ」


朱仝は呆けながらも、どこかで納得していた。晁蓋は金には興味がないし、基本的には困ったときにお願いすれば助けてくれる人間だ。これでもう少し後先考えることができれば完璧だがあいにくそうではない。


「礼を言う……のもおかしな話ですね」


「ま、その代わり、と言っちゃなんだがな、俺がさっき言ったことは信じてくれや」


「あら? どうして私たちが疑ってると?」


口の端に微笑を浮かべて朱仝は質問を投げかけた。


「そんなのはわからんが、俺は嘘をつくのが下手だからな。ばれているだろうなと思っただけだ」


晁蓋はそう言ってまた杯の中身を呷った。


「悪いな。お前らの関わっている人間だったらもう少し穏便に済ませる方法を取ったんだが」


少し、神妙な顔で晁蓋はつぶやいた。


「済んだことです」


「だね」


晁蓋を憎いと思う気持ちが少しでも無いと言えば嘘になるだろう。だがそれよりも朱仝と雷横の二人は楊志たちがこれで極刑は免れるだろうという安堵感の方が強かった。


「じゃあ、まあ精々、派手に逃げるか。返せる財宝は適当にお前たちに渡るようにしておく」


晁蓋はふらりと立ち上がる。


「あたし、悲鳴とかあげたほうがいいかな?」


「似合わないからやめておきなさい」


雷横の軽口に朱仝は冷たく言い渡した。








 楊志はむくりと体を起こした。相変わらずの曇り空なので時間はよくわからないが、そろそろ夜になろうかという頃合だろう。


 体は朝に比べると大分、動くようになっていた。激しい運動は無理だが、通常の生活にはもう困らないだろう。


 寝台の上から起き上がり、部屋の外に出る。そこではぐつぐつと煮たぎる鍋の様子を見ている宋清がいた。


「あ、楊志さん。起きてて大丈夫なんですか?」


「ええ、ありがとう。その、改めてお礼を言いたいと思って……」


「いえ、そんな! 朝も言ったとおり、私、ほとんど何もやってないですから!」


慌てたように彼女は手を振るが楊志はかぶりをふった。


「そんなこと無いわよ。あなたのつくってくれた(スープ)、とてもおいしかったもの」


「それでも、私なんかより、兄様(にいさま)の方が……」


「ええ、もちろん、あなたのお兄さんにもお礼を言いたいの、今どちらにいるの?」


「あ、えっとそっちの部屋に……」


といって宋清が指差したのは一番奥にある部屋だ。


「お邪魔してもいいかしら」


「え、ええと、多分……」


なんだか歯切れが悪いが一応、承諾を得たと判断していいだろう。


「宋江さん、入るわよ」


一言断って引き戸をあける。


 部屋の中は暗かった。明かりはついておらず、窓から入る微かな光と自分の背後にあるかまどの炎だけが唯一の光源だった。


「ん、(せい)、何か、あったの……」


もぞりと寝台が動いて、布団の中からおきあがる気配があった。それでようやく楊志は彼がどうやら寝ていたらしいことがわかった。


「ご、ごめんなさい。起こしてしまったかしら?」


「あ。いえいえ、気にしないでください。妹がうるさいんで寝てただけですので」


言い訳するように宋江が言ってくる。


「兄様は放っておくと無茶をしすぎですから」


楊志の後ろから宋清が声を放り投げてきた。


「清が過保護になってくれるから僕は無茶するくらいで丁度いいのかもね」


「うー、ああ言えばこう言うんですからー」


怒ったような宋清の声に宋江は笑うと楊志に目を向けた。


「それで、何の御用ですか?」


「あ、いえ、その、ええと……」


出直すべきかどうか、楊志は考えた。だがそうやってまごまごしているうちに宋江は立ち上がると彼女に布団をどけた寝台に座るように薦めた。


「すみません。この部屋、椅子はおいてなくて……まあ、厳密には僕の部屋ではないんですが」


そう言って宋江は引き戸を閉めるとろうそくに火をともした。


「え? そうなんですか?」


「ええ。実はこの家は知人に留守番を頼まれているだけなんです」


そう言うと宋江も楊志と並ぶようにして寝台の上に腰を下した。


「それで、何か?」


「あ、えっと、その……」


果たしてどう切り出すべきか少し迷った。間近で見た彼の顔は少し疲れているようにも見える。やはり、出直したのでは良いのではないだろうか。


 沈黙はそんなに長くは無かったはずが、しばらくして宋江の方から話しかけてきた。


「そういえば……」


「は、はい!」


「その……船には他の方とかはいなかったんですか?」


「ええ。私一人で来たんです。その……嵐が来るからって船頭には断られてしまって……」


「え? 嵐が来るってわかってたのに出発したんですか?」


「い、言わないでください。自分も今になったら馬鹿なことやったなって思ってるんですから」


「す、すみません。でも、どうしてそんな無謀なことを?」


「ええと、その……実は仕事に失敗しちゃって……その穴埋めのために必死に頑張ってたんです……」


楊志は自分が軍人であることを意図的に隠した。軍人や役人と言う存在が決して宋江や宋清のような(たみ)から見て必ずしも良い存在として写ってない事を知っているからだ。いずれはばれてしまうだろうが、なるべくこの兄妹には敵意のこもった目で見られたくはなかったのだ。


「そうだったんですか、責任感強いんですね」


「あ、ど、どうも……」


まさか、ほめられるとは思っていなかったので、虚をつかれたように楊志はどもってしまう。


 だがこのままではだめだ、と楊志の思考回路がそこで警鐘を鳴らした。相手に主導権をどんどん握られてしまっている。自分が話題を支配しないと、と思い、勢いをつけて話す。


「あ、あの! そ、それでですね! えっと、そのお世話になったお礼を何かしたいと思って……」


「そんな、気にしなくていいですよ」


愚直に突撃する自分をいなすように宋江は笑って言ってくる。


「いえ! 私の気がすみません。一歩間違えば死ぬところを助けてもらった上に看病までしてもらって、その上それが元で風邪を悪化させてしまったと言うのに、それで何も無しじゃあ……お金でもなんでも何か、必要なものはないですか?」


と、そこまで一気に言った後に楊志は気づいた。お金、と言っても自分はそんなものはほとんど持っていない。着の身着のままでやってきて懐に入る程度に多少、身の回りの品物があるだけだ。


(し、しまった! どうしよう!? あれだけ言ったのにこの場で要求されてごめんなさい、できないですじゃあ、あまりにも格好悪すぎる! とはいえほとんど身一つでここまで着ちゃってるし……身一つ?)


 不意に楊志の脳内でシナプスが走ってしまった。身一つ、お金がない、若い男女、二人とも寝巻き、寝台の上にいる二人、お礼をしたい。


(ま、まさかそんな展開にはならないわよね、うん、ならないはず。あれ? でもそういえば、さっきこの人、扉閉めてたよね。え? それってもしかしてそういうこと? で、でも扉一枚隔ててるだけだよ。言っちゃ悪いけどそんなに分厚い扉でも無いし、妹さん、まだ子供でしょ? その横でイタしちゃうわけ?)


 宋江が扉を閉めたのは何か彼女が話しにくいことがあるのではと勘違いしていただけなのだが、楊志にそこまでわかるはずもない。


(え? どうしよ? そういうの求められちゃったらどうしよ? きょ、拒否していいよね、うん。初めてだし、結婚する仲でもないし、会ったばっかりだし。でもあんだけ言っといて私には何もできること無いってこと?)


ちらりと横の宋江を見ると彼は宙を見上げて何かうなりながら考えている様子だった。


(だ、大丈夫よね、そうなっても、私、ちゃんと拒否できるよね。うん、雰囲気に惑わされちゃだめ。頑張れ、私)


ふんすと気合を入れて楊志は改めて宋江を眺めた。と、彼もこちらを向く。


「あ、じゃあ……」


「ひゃ、ひゃい! なんでしょう!」


「それじゃあ、そのどうしてもお礼がしたいというんでしたら……」


「う、うん……」


ためないで! お願いだからそんなところでためないでよ! と楊志は必死になって念じた。


「ご自分のことを大事にしていただけますか?」


「………………え?」


 きょとんとしていたと思う。それすら把握するのに時間がかかった。その様子を見て、言葉が足りないと思ったのだろう。宋江は慌てたように付け加えた。


「いや、ぼくもやっぱり人間だし、ほら、折角助かった人に『あの時、死んでたほうがましだった』なんて思ってほしくないですから。……あの、どうしました?」


宋江の隣で楊志は頭を抱え込んでいた。この目の前の青年の考えと自分の予想のあまりの落差に愕然としてしまったのである。


(馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿、私の馬鹿! 恥知らず! 変態! 犬にでも食われてろ! 死んじゃえ! 死んじゃえ! 死んじゃえ! 死んじゃえ!)


今、そんな事をいわれたばかりだが、この場でとがった岩にでも頭を打ち付けて、そのまま自害したい気分だった。


「ひょっとしてまだどこか痛みます?」


「い、いえ、ううん。なんでもないの、本当に。全部私が悪いの。私が最低なだけだから。うん」


楊志はうつむいたまま答えた。


 ひとしきり、自分の頭の中でさんざん自分自身を罵ってなんとかおちつくことはできた。それでも、まだ彼と目をあわすには相当勇気が必要だろう。というか実際、まだ顔も見れない。


「そ、その……宋江さんの気持ちはわかりました」


うつむいたまま、楊志は話し出した。


「で、でも、それじゃあその、やっぱり私がもらってばっかりで納得いかないって言うか……あ、でも、今はあの、持ち合わせが無いから……何もできないんだけど」


「そこまで言うんでしたら、じゃあ……僕たちが困ってるときに助けてもらえれば、それでいいですから……」


「そ、そう? わかった。困ったときはなんでも言ってね」


「あ、はい。ええと、あ、すいません。お名前、そういえば聞いて無かったですね」


「あ、ごめんなさい。そういえばまだ名乗ってなかったわね」


 宋江が話題を変えてくれたおかげで、なんとか普通に顔がみれるようになった。


「私、楊志って言うの」


そう言った瞬間、沈黙がその場を支配した。ややあってあえぐように宋江がつぶやく。


「よう……し……?」


「え? ええ、そうだけど?」


「あのーひょっとして、まさかとは思うけど、軍人さんだったりする?」


「そ、そうだけど……え? どうして?」


隠してたことを咎められるだろうか、いやいや、嘘はついていないはずだ。意図的に話さなかっただけで、と思いながら楊志は恐る恐る宋江の顔を見上げた。


 彼は驚愕の表情を浮かべていた。


「え、えっと、どうかしたの?」


「あ、いやその、知り合い……じゃないや、その同じ名前の人の噂を聞いたことがあって、でもその人は男って聞いてたからちょっとびっくりしただけで……」


「ああ、なるほど……」


『楊』も『志』もそんなに代わった名前ではない。この国では男女であっても名前に違いはあまり無いから、同じ名前の男がいたとしても、不思議ではなかった。


 そこで、ふと楊志の耳に入ってくる声があった。宋江の声でもないし、宋清の声でも無い。外からだ。雨の音にまぎれて外から話し声が聞こえてくる。どこかで、聞いたことのある声だ。どこだろう、最近だ、最近聞いたばかりの声。脳が早く思い出せと警報を出していた。


 記憶はすぐにつながり、脳が警報を鳴らしていた理由がわかった。あの黄泥岡(こうでいこう)で会った赤毛の女の声だ。慌てて立ち上がり、外を見る。間違いなかった。雨のせいで大分視界が悪いが、それでもあの女の赤毛は見間違えようが無い。


 赤毛の女はもうひとり、あの大男ではない誰かと一緒に船を岸につけようとしていた。それを確認して、振り向く。そこには突然動き出した自分をきょとんと見つめる宋江がいた。


 楊志は二種類の感情を同時に感じていた。歓喜と恐怖だ。ついにあいつらのしっぽを捕まえたと言う歓喜とこの兄妹を戦いに巻き込んでしまうのではないかという恐怖。


 あの赤毛の女は大男ほどではないにしろ、危険人物だ。楊志は彼女があっという間に何人もの兵を切り殺すのを見ている。大方、先行している連中においつけずに雨宿りのためにこの村に寄ったとかそういうところだろう。ここ数日、雨がひどかったという話だったし、奴らはずっと動けなかったのかもしれない。


「いい、宋江。よく聞いて」


「な、何でしょう!」


自分のただならぬ様子に何かを察したのか、宋江はびくりと驚いて距離をとった。


「あなたの言ったとおり、私は軍人なの。私は私たちが運んでいた荷物を奪った相手を追ってここまできた。もう、とっくに逃げられたと思ったけど、今、外にそいつが現れた」


「え!?」


「赤毛の女よ。私の部下を何人も切り殺した危険人物なの。ここにあなたたちがいたら、きっとろくなことにならないわ」


「う、うえ? あの……」


宋江は狼狽していた。無理も無い、と楊志はおもう。彼の出自は知らないが、とても血なまぐさいところを歩いてきたようには見えない。突然の事に混乱しているのだろう。


「妹さんをすぐ連れて逃げなさい。私も負けるつもりは無いけど、手ごわい相手だからどうなるか、わからないわ」


 武器も無い。体もぼろぼろの自分にあの赤毛の女の相手が務まるか。難しいだろう。だが、退く事はできない。自分のためにも、何よりこの二人の兄妹が逃げる時間をかせぐためにも。


「よ、楊志さん、ちょっと待ってください」


「ごめんなさい。幸せになってほしい、というあなたの願いはかなわないかもしれない。でも、安心して。あなたたちだけはなんとも守ってみせる」


絶望的な状況だというのになぜか自分の顔に笑みが浮かぶのを楊志は感じた。


「違うんです、そうじゃなくて……」


まだなおも宋江は何かをいいかけたが、楊志はそれを無視した。


「最後にお願いがあるの。私の部屋に明日、鄆城(うんじょう)の町に持っていく予定だった手紙があるわ。それを何かのついででかまわないからもって行って欲しいの。最後まで迷惑をかけて申し訳ないとはおもうけど……」


「楊志さん!」


後ろから叫ぶ宋江の声を無視して、部屋を出る。彼と同じように宋清がきょとんとした目でこちらを眺めていた。


「宋清ちゃん」


「は、はい。なんでしょう」


「お兄さんと仲良くね」


「は、はあ」


目を瞬かせる宋清を置き去りにして、楊志はそばにおいてあった包丁を懐にしまうと戸口を開き、外に出るとそのまま数歩歩いた。


 相手もややあってこちらに気がついた。一瞬虚をつかれたように驚いた表情をしたが、すぐにその顔を引き締める。横には一人、少年とも少女とも言いかねる黒髪の人影があった。こちらも赤毛同様、厳しい顔をしている。自分は気づかなかったがあの場にいた人間かもしれないし、仲間の赤毛の様子を見て、こちらを敵だと判断したのかもしれなかった。


 雨はさらに激しさを増していた。

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