その十二 索超、生死を彷徨うのこと
「それで取り逃がしたと……」
「すまねぇ……」
珍しく晁蓋はしおらしい声を出していた。
「気にするのはやめましょう。もともと無理のある作戦だったのよ。百八十名を九人……実質六人ね。それで殲滅するなんて。私にも責任はあるわ。むしろ、その二人以外は逃がさなかったのだから立派なものよ」
こちらもまた珍しく慰めるように言って呉用は周りを眺めた。
今、黄泥岡には呉用の他、晁蓋、公孫勝、劉唐、阮小五の四人がいた。阮小七は財宝の運搬のために既にここを離れて、阮小二を追っている。阮小五は無言で呉用の隣に佇んでおり、公孫勝と劉唐は散らばった兵士の死体を片付けていた。そんな事をする暇はないのではと、当初呉用は思っていたが、公孫勝が気功を使って地面に穴をぼこぼこ開けていくので、それほど手間はかかってないようだった。この調子なら後、一刻(三十分)程で終わるだろう。
「今後のことを考えましょう。晁蓋、あなたは急いで東渓村に戻りなさい」
「かまわねえが、どうしてだ?」
「大男の気功使いで百数十名の兵を一度に相手にできる人間なんてそう何人もいないわ。目撃者が残った以上、この話が広まれば、あなたのことを思いつく人間だっているでしょう。大急ぎで戻って東渓村の人たちに金を渡してここ数日、あなたは村を出てはいないと証言させるのよ」
晁蓋にいきつくのは早くて半月ほどだろうと呉用は考えていた。それまでに手を打つ必要がある。
「なるほどな。わかったぜ」
「わかったなら早く行きなさい」
「良いのか?」
「なにが?」
「……まあいい。お前がそう言うなら言われた通りにするさ」
素直にうなずいた晁蓋は手近にまだ残っていた馬を捕まえて、飛び乗ると走り出した。晁蓋が視界から消えてから呉用はふうと息を吐く。
「先生、本当に大丈夫かい?」
阮小五が声をかけてきた。
「え、なんのこと?」
きょとんとして聞く呉用に阮小五は言った。
「なんのことって、あんた手が震えてるぜ」
そう言われて、呉用は自分の手に目を落とした。阮小五の言うとおりだった。彼女の手は小刻みに震えていたのである。
何に恐れおののいていると言うのだろうか。敵を逃してしまった事に対する不安だろうか。それとも、この惨状を創り出してしまった自分にだろうか。
ぎゅっと拳をにぎり、息を吐く。それで手の震えは収まった。
「大丈夫よ」
無理に笑顔を作っているのがばれないだろうかと思いながら呉用は阮小五に微笑んだ。
「ここまでここまで来れば、逃げ切れたかな……」
索超はそう言ってがくりとひざをついた。担がれていた楊志もようやく開放され、彼女も隣で同じようにひざを突く。
「無茶をしすぎよ、あなたは! なんとか無事だったからいいようなものの……」
楊志は起き上がりながらそう抗議したが索超は何も言わなかった。
「索超?」
再び問いかけると索超はそれに答えることなく、ひざをついた状態からそのままどさりと土の上に倒れこんだ。
「ちょっと、索超! どうしたの!」
だが索超は返事をしなかった。苦しそうではあるが呼吸をしているのだから、生きてはいるのだろう。しかし、素人目に見ても尋常な様子ではなあかった。
「ど、どこか痛いの?」
そう答えても返事は無く、楊志は試しに索超の額に手をおいてみた。索超の体は高熱を発していた。
そうだ。彼女は最初の激突で気絶するほどの傷を負っていたはずだった。それはどこだったのだろう。考えて観察してみればすぐにわかった。彼女の鎧の腹の部分、そこはまるで馬にでも踏み荒らされたのように粉々になっていた。
「ごめん。脱がすわよ」
返事はないだろうが、一言断ってから楊志は彼女の鎧とその下にある着物を脱がした。
「っ! これ……!」
あの一瞬で何が起こったのか、索超の体には青あざが四つ、それも全て急所の部分にできていた。
(どうしよう……! もし内臓まで損傷してたら、私の手にはとても負えない……!)
楊志も仕事柄、簡単な打ち身や骨折に対処する方法は知っているが、それ以上となるとお手上げだった。
(だめだわ。なんとかして医者に見せないと……)
しかし問題は今は山中でこのあたりの地理に不案内な自分しかいないということだ。おまけにそろそろ日が落ちてきた。見知らぬ夜の山を歩き回るなど自殺行為に近い。それまでになんとかして人家のある場所に到着したかった。
楊志は自分の足首の痛みを防ぐために添え木を当てると索超を背負った。重い鎧は自分の分も含め、その場で脱ぎ捨て、不要な所持品も極力その場に置いていく。索超の斧は少し迷ったが置いていくことにした。自分の剣さえあれば、野獣くらいなら追い払えるだろう。
とりあえず山を下る方向に行こう。そう考えて楊志は山肌を降りていった。歩くたびに足首から痛みがずきずきと襲ってくる。
(無視しろ! 無視するんだ、こんなの!)
そう自分に言い聞かせ、その痛みをねじ伏せながら一歩一歩、降りていく。
しかし、それは簡単な事ではなかった。山は木の根っこや大きな岩があたり一面にありただでさえ、進むのに苦労する場所である。
途中、転んでしまったことも一度や二度ではない。両手を索超に支えている楊志は手で自分の体を十分にかばう事も出来ず、その度に、二人とも顔や足に傷を増やしていった。
おまけに休む事も楊志には許されなかった。先程の大男が自分達を追ってきているかもしれないという考えが頭から消えなかったのである。考え過ぎではとも思わないでもなかったが、いざ追いつかれてしまえば、二人とも殺されてしまうだろう。
索超の体を固定するはずの自分の手からは次第に漏れるように力が抜けていく。索超の体がずり落ちそうになるたびに慌てて力を入れ直すがその間隔は徐々に短くなっていった。
それでも六刻(三時間)ほど歩くと、やがてちょろちょろと水音が聞こえた。
(川があるの……?)
今度はその水音に近づくように山の中を歩いた。のんびりとはしてられない。日はもうかなり西に傾き始めていた。水がある場所に人がいることを期待するしかないが、そうでなければ、今晩は野宿するしかないだろう。自分はいいがこんな状態の索超は果たして大丈夫だろうか、と心配になる。
そして、ようやく川に到着したとき、辺りはもうほとんど真っ暗だった。幸いなことに川には清水が流れていたが、あたりに人のいる気配は全くしない。
(今日はもうこれ以上は動くわけにはいかないか……)
明かりも無しに見知らぬ山を歩くなどという無謀なことは到底できなかった。水源が見つかっただけでも御の字である。
楊志はとりあえず大き目の岩の上に索超の体を横たえると手ぬぐいを川の水で浸し、自分の気功で凍らせそれを彼女の額に乗せた。
(後は……火かしら)
念のために火打石はまだ持っていた。それを確認して燃料となる木材を捜して歩く。どれだけの量が必要かわからないのでとりあえず日が落ちる直前まで歩き回って薪を探し集めた。
しかしこれに時間をかけたのは失敗だった。薪を集めて索超のところに戻ったときにはもう完全に日は落ちてしまっていたのである。そうなると、楊志は星明かりだけで火を付けなけねばならず、その作業は困難を極めた。もともと都会育ちなのでこうしたことはあまり得手ではない。それでも一刻(三十分)ほどでようやく火がついた。慎重にその火が消えないように小さな枝を入れて育てていく。簡単に消えないほどの焚き火を作ってようやく楊志は落ち着くことができた。
(……って休んでる場合じゃないわよね)
足は未だに痛むのでずりずりと這うようにして索超に近づく。様子を見ると未だに息をしているようなのでほっとした。だが、相変わらず意識はもどらないようで、こちらの呼びかけには答えない。
とりあえず、楊志は焚き火の明かりで自分の足の様子を見てみた。赤くはれている。
(捻挫……よね、骨折はしていない……)
自分で不確かにそう判断するととりあえず川に足を入れて患部を冷やした。そうすると、ほんの少しだが痛みが収まった気がした。
すると体というのは貪欲なもので今度は空腹を訴えてきた。とはいえ、この暗闇では魚をとることもできない。こればっかりは我慢するしかなさそうだった。
川の水を仕方なしに口に運ぶ。思っていた以上にのどがかわいていたのか随分とおいしく感じた。
楊志は気功の力を使えば自分自身で水を作り出すことは一応できる。だがこれは労力の割りに大した量が作れないのでこうした状況ではあまり意味がなかった。
(そういえば……)
水を飲み終わった後にふとおもいついて楊志は索超に声をかけてみた。
「索超、聞こえる? 水、ほしい?」
そう聞いてみたが答えない。しかし、それでも楊志は川から手で水を運ぶとそっと彼女の唇に持っていった。開いた口に少しだけ注ぐ。するとこくりとのどが動いた。
「飲んだ!?」
それを見て、何故もっと早くやってやらなかったのかと自分を責めたてながら、楊志は川と索超の間を何度も往復した。足はまだずきずきと痛むがそんなことは全く気にならなかった。なにしろ、この数時間、全く動きを見せなかった索超の初めての反応だったのである。
しかし、これもある段階から索超は反応を見せなくなった。彼女はいくら水を運んでも飲み込むことなく口の端から水をこぼしてしまうようになってしまったのである。
(もういらないってことかしら……?)
楽観的に解釈するならそうなるだろう。だが楊志にはどうしてももう一つの可能性が消えなかった。まさか、と思い、耳を索超の口元に近づける。まだ彼女の口からは息がもれていた。最悪の可能性が消えてとりあえずほっとして彼女の顔を眺める。
「まあ、あなたもこんな任務で死んじゃうほどひ弱じゃないわよね」
索超に話しかけるというより自分に言い聞かせるような調子で楊志は言った。
「あなたは強いもの。いいえ、強いって言うか図太いっていうのかしら。初めて会ったときなんて『左遷されて来たんだって』とか言ってきて、怒るより先に唖然としたわよ」
ちなみにその後、改めて激怒した楊志は腕試し代わりに彼女と戦うことになったがすぐに索超が降参した。理由を聞けば、『だって、手加減できないから』等とのたまい、もう一度、楊志を激怒させた。それが彼女なりに楊志を高く評価した言葉というのはだいぶ後になってわかったことだが。
「そうよね、何にでも怖いもの無しでつっかかっていって、いつも食べるもののことしか考えていないあなただもの。ううん、つっかかってるんじゃなくて自然体だったのよね」
一度喋りだすと今まで無言だった反動からか口が止まらなくなってしまった。
「そんなあなただから今回のこの仕事にも東京開封府に行けるからとかいって参加してこんなことになって……ばちがあたったのよ」
違う。
「全く。いたるところで不穏当な発言はするし、任務中だって言うのに、開封府についた後のことなんか能天気に考えるし、一時的とは言え、上司になった私の身にもなってほしいわ」
違う違う違う違う。
「おまけに独断専行して敵に突撃して真っ先にやられちゃうとか救いようがないわよ」
違う!!!
「……何を言っているのよ、私は……」
索超がついてきたのは自分のためだ。自分があんまりにつらそうな顔をしているから、単純な彼女はそれが見てられなくて心配でついてきたのだ。
不穏当な発言は全て楊志の本音だった。自分が思ってても口にできないことを言って自分の溜飲をさげてくれたのだ。
能天気に到着した後のことを考えていたのは自分が頼りにならないからだ。自分がそういう人間だと知ってて、逆に教えてくれようとしていたのだ。
敵に突撃したのは己こそが最も強いと思っていたからだ。他の人を傷つけないために自ら率先して敵へと挑んだのだ。
全部自分のためではないか。
「そ、そうね。感謝は、感謝はしてあげなきゃね。うん、よくやってくれたわ。禁軍に戻る時に一緒に幹部候補として推薦してあげたって良いわよ。あなたくらいの実力があれば全然問題ないし」
もう、やめたら? 見苦しいわよ。
「そうなったら、今度は私が色々教えてあげるわ。あなた、禁軍の派閥とかそういうの全然無頓着そうだし、私だって腐っても名門の出だもの、それなりに人脈もあるから、多少あんたが危なっかしい行動したってどうにかしてあげたっていいし」
認めなさいよ。
「………」
索超は私にとって……
「認められるわけ無いでしょ……」
自分の内から響く何かに対して弱弱しく楊志は答えた。錯乱している。静かにそのことを自覚しながら絞り出すように声を上げた。
「私に、また、大事なものを失えっていうの……」
一年前に皇帝からの勅命に失敗したとき、自分は家族を失った。いや、より正確に言えば、家族から捨てられた。
任務失敗の報告をした後、自分の家族は門を閉ざし、彼女と顔をあわすことすらしなかった。最後の情けとばかりに自分の私物といくばくかの小銭をまるでこじきを追い払うように渡されただけだった。暖かい家も、父の大きな手も、母の慈しみの声も、今まで当たり前と思っていたそれはあっさりと自分の手から漏れていった。
あのときの絶望を、悲しみを、もう一度味わえというのか。自分の大切な存在をまた失くしてしまえ、というのか。
間違っている。あなたがいくら言葉で否定したって、もう索超はあなたにとって大事な友人になってしまっているのよ。
友人? 私が? 何もかも世話になってたばかりの私が? とても恥ずかしくてそんな風に名乗れないわよ。
でも、このままで終わりたくないでしょう。
………うん。
「索超……」
楊志は嗚咽しながらそれでも言わずにはいられなかった。
「お願い、死なないで。私、まだあなたに何もしてあげられてないのよ……。私を怒らせたっていい、困らせたっていい。お願いだから目を開けて、もう一度しゃべってよ……また馬鹿なこといって、私をあきれさせてよ……」
ぽろぽろと周りをはばかることなく楊志は泣いた。泣きながら、のどがひりつきながら、楊志は必死に訴えた。
「開封府にもきっと行こう。私の家族はまだ会わせてあげられないし、最初はあなたに教えてもらってばかりだろうけど、きっと私だって力になれるから」
一度決壊してしまった楊志の感情は止まらなかった。思い返してみれば何度、彼女の明るさに自分は救われてきただろう。
「だって、ほら……あなたの馬具とか鎧、いつも傷だらけじゃない。大名府の提轄がそれじゃあんまりだもの。ちゃんときれいなの、そろえましょうよ。本がたくさん売ってるところだって教えてあげれるわ。いいかげん、軍人なら孫子ぐらい読めるようになったっていいし。なんなら、私が教えてあげるから。他にも……いろいろ……だから、お願い……もっと、私とずっといて……」
最後は嗚咽交じりでほとんど、声になってなかった。しかし、その楊志の訴えに索超は何の反応も示さなかった。
涙を拭いて、索超のそばによると楊志はその手を握った。
「え……?」
先ほどの高熱が嘘のように手が冷たい。
「索超!?」
息はしてる。だが、逆に言えばそれだけだった。
「うそ、いや! 索超!」
必死で呼びかけたが索超は相変わらず反応しない。よくよく見れば、唇が紫色になっている。
「あ、暖めればいいんでしょ、そうでしょ!」
おろおろとしながらも自らを落ち着かせるために楊志は声を上げた。そうでなければ、恐怖でどうにかなってしまいそうだった。
索超の体を持ち上げるとと火のそばに近づける。しかし、拾ってきた木材はほとんど燃えてしまってつきかけていた。
「どうしよう……索超が死んじゃう……死んじゃうよぉ……」
だが夜の山で彼女の声に応えるものがいるはずもなかった。
子犬のようだ、というのが一目見たときの印象だった。そう、昔見た親とはぐれたらしくおろおろと雨の中をさ迷っていたあの子犬。そういえばあの子犬は結局どうなったんだろう?
目の前の女性はその時の子犬をなぜか連想させた。しかし、犬みたいだね、というのはさすがに怒らせるとわかっていたので索超は別のことを言った。
「やあやあやあやあ、ようこそ北京大名府へ、左遷されて来たんだって?」
結局、彼女は怒った。
その女性、楊志は自分とはまるで違っていた。洗練されていたといえばいいのだろうか。きけば、開封府の生まれで代々軍人の家系であるという。
さもありなん。自分は農民の出で、たまたま体を動かすのが得意というだけであれよあれよという間に今の立場になってしまった人間だ。彼女のような子供のときからきちんと教育を受けてきた人間は同じ軍人とはいえ、大きく違うのだろう。書いた文字一つでさえ、彼女は自分よりずっと優美だった。
部下や同僚は皆、彼女のことをとっつきにくい人間とみていたようだが、索超はまた別の印象を持っていた。一度、仕事に少々まずいところがあって相談しに行ってみたら彼女はどうしてこんなことになるのよ、とぶつぶつと文句を言いながらも結局方々への根回しまでやってくれた。その時の彼女の印象はまた最初と異なるものだった。雨にぬれた子犬ではなくそれを敢然と守る狼の群れの長のような印象を受けた。
楊志は仕事をやらせれば何をやらせても完璧だった。兵の調練から予算獲得まで、自分は楊志に厄介事をもちこんだだろう。彼女はそれらについて文句をいいつつも、きっちりこなしてくれた。一度、不思議に思ってどうしていつもこんな風に助けてくれるのか、聞いたことがある。
「どうしてってあなたができないなら他の誰かがやるしかないでしょう。必要なことなんだから」
別に力むでもなくそう言ってのけた。でも別に楊志がやる必要ないじゃん、と食い下がったら、それを持ち込んでくるあんたが言うな! と怒鳴られたが。
しかしまあ、楊志とはそういう人間なのだろうとおもった。根がまじめで文句は言うけど、いつも他の人のことを考えてわかりやすくは見せなかったけど、やさしかった。誤解を招くのを承知で言うならそういう楊志が索超は好きだった。
ただ、出会って半年ほどで、索超は気づいたことがあった。彼女はいつも険しい顔をしていた。大概、怒っているか(原因の半分ほどは自分だが)、憂鬱そうな顔をしているかで笑ったり、楽しそうにしている顔など見たことが無い。理由を聞いてもなんでもない、とごまかされるばかりだった。しつこく追求するとやはり怒った。
何がそんなに気に入らないのか、索超にはわからなかった。自分など、大通りで売っている饅頭ひとつで幸せに笑えるというのに。そこで試しに楊志にもおごってみた。彼女はおいしいとは言ったが、笑うことは無かった。
他にも色々、試してみたが、彼女が笑ったのは唯一、自分が忍び寄って思いっきりくすぐったときだけだった。もちろんその後、やはり彼女は怒ったが。
この町の何かが気に入らないのかもしれない、と思い当たったのは最近のことだった。自分は田舎から出て来た身でこの町の大きさに圧倒されていたが、考えてみれば彼女はこの国の都、東京開封府の出身なのだ。おしいしい饅頭もお酒もこの町とは比べ物にならないのかもしれない。
そんな時に楊志が任務で開封府に行くと聞いたので索超はついていこうと決めた。はたして東京開封府はこことは比べ物にならないほどすばらしいところなのか、そこでなら楊志も笑うことがあるのだろうか、気になったのだ。
(それがこんなことになっちゃうなんてなあ……)
今までも何人か強い人間を相手にしたことがある。楊志がそうだったし、小さい頃に武術を教えた父親も、軍に入った時に鍛えられた教官もそうだった。それでもあそこまで圧倒的に実力差があった敵は初めてだった。
ちょっと情けないと思う。武技は唯一、自分が楊志に勝てる分野だったというのにこの体たらくだ。楊志は色々と自分を助けてくれたのに、自分は最後まで楊志を助けられないままだった。まあ、なんとかあの怪物相手から逃げ出したんだ。それで勘弁してもらうことにしよう。
サラサラと川の水が聞こえた。ピチュピチュと鳥の鳴き声も聞こえてくる。まだ寝ていたいのに、とそれらを耳障りに思いながらも索超は目を開けた。太陽のまぶしい光がきらきらと風にゆらめく葉の間から差し込んでくる。
(どこ……?)
ひょっとして自分は死んじゃったのだろうか、と思いながら横を見ると楊志が自分に抱きついていた。
「ふっひゃああああ!!!」
「きゃあっ!!」
驚きのあまり、変な声を出しながら楊志を突き飛ばす。楊志は川原の上を三回転ほどしてとまった。
「い、いつう……」
だがそれと同時にものすごい痛みが自分の腹からうなるように襲ってきた。そして自分の体を見ると着ていたはずの鎧が無い。
「索超!?」
楊志が近づこうとしてくるが彼女は少し後ずさりしながら言った。
「あのあのあのあのあのあのあのあのあのあのあのあの、悪いけど私、同性愛とかそういうの興味ないから、楊志のそういう気持ちにはこたえられないっていうか、お友達でいましょうというか……」
「どう……! ち、違うわよ、このおばか! あなたの体が冷えてたからどうしようもなくて暖めてたんじゃない!!」
「そうなのそうなのそうなのそうなの? でも鎧とか脱がされてるし」
「それは傷の様子を見るためよ! 大体、鎧着たままのあなたを運んでけるわけないじゃない!」
言われて索超はあたりを見回した。昨日の後半の記憶はだいぶ、うすらぼんやりしているがそれでも近くに川は無かったことは覚えている。どうやら楊志がここまで運んできてくれたようだった。
「なんだなんだなんだなんだ、そういうことだったの」
あせちゃったよ、といいながら索超はほっと息を吐いた。
「そんなことより索超、あなた、体はなんともないの?」
「えっとえっとえっとえっと、うん。おなかがいたくて、ありゃ、あざができてる。それからおなかがすいてる以外は平気」
それをきいて楊志の足からへなへなと力が抜けて、その場にへたりこんでしまった。
「ちょっとちょっとちょっとちょっと、楊志のほうこそ、大丈夫なの」
それを見てよろめきながらも索超は楊志に近づいて驚いた。楊志は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
「良かった……本当に良かった……」
「楊志……?」
それは初めて見る楊志の顔だった。怒ってもおらず、憂鬱を浮かべてもおらず、彼女は涙を流しながらも、笑っていたのだ。
「楊志楊志? どうして笑ってるの?」
「何言ってるのよ、本当に馬鹿ね、あなたって……」
不意に索超は、雨にぬれていたあの子犬が無事母親と会えたときの情景をなぜか思い出していた。