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水娘伝(すいこでん)  作者: 文太
第二話 蠢動編
23/110

その十一 楊志、賊に襲われるのこと

「少し早いですがこの先の森に入る前に昼食休憩にしたいと思います」


楊志(ようし)達が濮州を出発して一日と少しが経過した頃、濮州(ぼくしゅう)騎兵都管(きへいとかん)遠羽(えんう)はそう提案してきた。


 守備隊の指揮をとるのは結局、この男になった。地方の武官にしてみればこの国の最高権力者の一人である蔡京(さいけい)に会えることなどそうそうないのだからのはこうした機会を逃したくないのは楊志としても理解できた。先日の濮州の政庁でのごたごたがあったせいか、少し関係はぎくしゃくしているが彼はその程度の私情を仕事にはさむほど分別のない人間ではないようだった。


「もうですか?」


まだ()の刻(十時ごろ)になったばかりだろう。少しというより、だいぶ早い、というべきだった。


「はい。この先はしばらく休憩できそうな場所がありませんので」


「そうですか、ならば遠都菅(えんとかん)のご判断に従いたいと思います」


「わかりました。おい、休憩だ!」


遠羽がそう声をかけると副官がその指示を部下たちに伝えた。


 楊志もそのことを部下に伝えると念のために荷物の様子をチェックした。濮州軍と合流してから、米などの擬装は取り払っている。だからといってもちろん財宝を丸出しにしているわけではなく、ほこりよけのための布を楊志はかぶせていた。赤と白を基調とした少し派手なその布を少しめくると財宝を入れた木製の箱があった。ふとこの箱の中身を売り払ったらどれくらいの人間が冬をこせるのだろう、と益体もない考えにとらわれる。


「順調に順調に来てるね―」


「そうね。……ところであなたさっきから何を見てるの?」


索超(さくちょう)は荷車の横で車輪に体をあずけながら、書物のようなものをめくっていた。


 この時代、まだまだ現代に比べれば紙はまだ高価なものだったが、それでもかなり一般に流通はしていた。原始的ながら活版印刷も始まっており、書物も少しずつ流通し始めた頃である。


 しかしその楊志が書物だと思っていたものは備忘録のようだった。索超の特徴的な字で細々と書きつけてある。


「この間この間、雷横さんから聞いた情報をまとめて眺めてたの。開封府(かいほうふ)についたらどこにいくか考えるだけで楽しいよ」


「一応、こんなのでも仕事なんだからちゃんと集中しなさいよ」


「はいはいはいはい、わかってるって」


「全く……大体、私だって昔は東京開封府(とうけいかいほうふ)にいたのだから、少しくらい教えることはできるわよ」


「ほんとにほんとに? 楊志の行く店って鍛冶屋とかしかなさそうな印象なんだけど」


「………………そんなことないわよ」


かなり長い沈黙を挟んで楊志は答えた。


「じゃあじゃあじゃあじゃあ聞くけど、例えばだけど、鶏肉料理がおいしいところとかとか知ってる?」


「え、えっと……市場の出入口のところにある安平亭とか……?」


「そこはそこは、二年前に食中毒出して潰れたらしいよ」


楊志が開封府を離れたのは一年前のことである。


「………」


「………」


「い、言いたいことがあるならはっきりいいなさいよ」


「いやいやいやいや、楊志はやっぱりこの手の情報に疎いなって、雷横(らいおう)さんに聞いといてよかったなって」


「た、たまたまよ、たまたま!」


焦りのために少し顔を赤くしながら楊志は答える。


「それではそれでは、次の問題。南門のすぐ近くにある紫苑亭の名物料理の肉まんじゅうに使われている、肉はなんでしょう?」


「え、えっと……豚肉」


少し自信なさげに顔をかげらせながら答える。


「不正解不正解。紫苑亭の名物料理は肉まんじゃないよ。あんまんだよ」


「なっ! 騙したわね!」


楊志は激したように声を荒げるが索超はそれに対してちらりと彼女の顔を見上げるだけだった。そのままのほほんとした調子で言葉を続ける。


「これはこれは、騙される楊志のほうが悪いんじゃない? まあ、とにかく、楊志がその手の情報、全然知らないっていうのははっきりしたっしょ」


「ぐ……」


「何年何年、東京開封府(かいほうふ)に住んでたんだっけ?」


「十六年よ! 知ってるでしょ! 悪かったわね、そんなに住んでたのにろくに案内もできなくって!!」


楊志がそう大声を挙げると索超は立ち上がるとぽんぽんと気楽そうに楊志の肩を叩きながら笑っていった。


「誰も誰も、そこまで言ってないっしょ。おのぼりさん二人と思って一緒に周ればいいじゃない」


「残念だけど、そんなことしてる暇無いの。向こうに着いたら昔の上司とかに挨拶しないと禁軍に戻った時にどんな嫌がらせをされるか、たまったものじゃないんだから」


騙された不機嫌さも相まって楊志はやや意地をはるような形でそっぽをむいた。


「でもさでもさ、そのまま偉くなってどうするの? 偉くなってもおいしいご飯が食べられる場所も着飾る方法も知らなきゃ楽しく無いでしょ」


「別に人生を楽しむために出世するわけじゃないわ」


「じゃあじゃあじゃあじゃあ、何のために出世するの?」


「何ってそれは……」


いいかけて楊志は止まってしまった。何のためになんだろう。幼い頃から軍人になって偉くなるのが自分の生き方だと思っていた。それ以外の道など考えたことも無い。


「楊志の楊志の、人生だから別にあんまり言うつもりは無いけどね、別に出世するだけが人生じゃないと思うよ。それにどんなに偉くなっても軍服着てる限り、幸せそうに笑っている楊志って思い浮かばないもの」


「どういう意味よ、それ」


少し視線がきつくなるのを自覚しながらも楊志は鋭い視線を索超に向ける。すると索超は珍しく慌てたように手を降って答えた。


「馬鹿に馬鹿に、してるわけじゃないよ。例えばだけどおいしいもの食べて笑顔になってる楊志なら想像できるよ。でも将軍や禁軍の総帥になった楊志っていっつも厳しそうな顔してるところしか思い浮かばない」


「………」


その言い分がなんとなくわかる気がして楊志は思わず視線を落とした。すると慰めるように索超がまた肩を叩いて言った。


「まあまあまあまあ、言い過ぎちゃったかね。所詮は他人の言うことだからあんまり深く考えないでよ」


給仕役の兵が二人に昼食を配りにきたのでその話はそこでおしまいになった。








 昼食を食べて、最初に通る場所が黄泥岡(こうでいこう)である。山賊の出没地帯であるが、同時に先日、朱仝(しゅどう)雷横(らいおう)がその山賊たちを殲滅した場所でもある。その場所に差し掛かったときに、楊志は雷横が話したことを思い出した。


「実は山賊の一つはあたしたち以外の手によって全滅させられてるんだ。多分、仲間割れによるものだと思うけど、ひょっとしたらまだ残党が戻ってくるかもしれない。それに死体を調べたけど、いくつか剣や槍じゃない方法で殺されている奴がいた。生き残ってる奴の中に気功使いがいる可能性もあるから気をつけてね」


 気功使いとはこうした問題を考える上で実にやっかいな存在だ。時に兵数を無視した戦力を発揮する連中である。ただ山賊の気功使いというのは珍しいか、もしくはいたとしてもあまり大した事は無い。というのはそれ相応の実力があれば通常、山賊にならなくても軍人として立派にやって生けるからである。


 索超などは良い例で彼女はほとんどその戦闘能力でもって提轄という立場にある。個人の戦闘能力という意味では北京大名府(ほっけいだいめいふ)では彼女に勝てるものはいないだろう。


 だから楊志はこの点については注意はしていたものの、あまり心配はしていなかった。気功使いがいたとしても山賊になるような連中ならば自分や索超が負けるはずは無いと思っていたのである。


 異変は先頭の遠羽が率いている騎馬隊が黄泥岡の中腹まで登ったところで起こった。

 その異変は全ての状況を知る人間から見れば少しばかり不思議なところから始まった。百八十名の輸送隊の列の中央、輸送隊を率いる索超が突如として走り出したのである。


 索超は決して頭の悪い人間ではない。ではないが、往々にしてそういった評価を受けてしまう。そういう誤解を与えてしまうのは彼女の行動原理が一般人と多少異なるところにあるからだろう。普通の人間は何かを選択する時、何を基準にするだろうか。自分のもつ知識、収集した情報、あるいはこれまでの経験。通常はそんなところだろう。だが索超は違う。彼女が基準とするのは唯一、自分のカンのみである。これが昼食の献立程度に収まるのであればそう変な話ではないが、彼女は戦闘時の判断も部隊を率いるときも真実これのみで判断する。そして彼女はこの自分のカンを何よりも絶対的なものとして信じていた。


 この時代の人間は知らないことだが、いわゆる『刑事のカン』だとか『女のカン』とか言うのは決して根拠が無い当てずっぽうとは違う。人間の脳内には膨大な情報が蓄積されており、我々が言語化して他人に伝えられる情報はその一部でしかない。この言語化できない情報で判断した場合、人は他に説明するすべをもたず、カン、としか表現できないのでは、と言われている。


 その彼女のカンがこの場にいる襲撃者と輸送隊の中で誰よりも早く彼女を動かした。


「索超?」


突如始まった同僚の暴走に怪訝な声を上げた楊志をおきざりにして、索超はひたすら前方に走った。暴走さながらに味方であるはずの兵を押しのけ、叫ぶ。


「全員、全速で駆け抜けろーーー!!!」


索超の感覚はまだ見えぬはずの丘の向こうにいる強敵の存在をはっきり捉えていた。丘を駆け上がったその先、獰猛な肉食獣のような笑みを浮かべた大男を誰何(すいか)することもなく、索超は持った斧鉞を全力で振り切った。


 あえて、あえてもう一度言う。索超は決して頭の悪い人間ではない。この場でとれる行動として彼女のそれは強敵相手のものとしては最善だっただろう。馬車も含めたこの隊は狭い道で簡単に方向転換などできるものではなく、前方に強敵がいるならそれを踏み潰して進むのが最良だったし、強敵だと判断するならこの輸送隊の中で個人としては最強の力を持つ彼女が敵にぶち当たり、撃破あるいは最低でも足止めさえできれば、輸送隊は問題なく通れたはずだ。贅沢を言えば、兵たちに弓でも構えさせ、楊志と同時に突撃すればよかったろうが、そんな時間の余裕は無い。


 そしてその上で断言する。彼女は根本的なところで間違っていた。


「嘘……」


楊志の目からもその光景は良く見えた。楊志は索超の強さを良く知っている。北京大名府最強の個人戦闘技能所持者というのは伊達ではない。北京大名府はこの国第二の都市だ。つまり、都と北部の国境線に駐屯している禁軍を除けば彼女に個人戦闘で勝てる人間は片手で数えるほどいるかどうかだ。

 その索超がどさりと倒れる。

 

 索超が倒れたその奥に出現したのは背の高い男だった。風がたなびき、男の黒髪が軽く揺れる。顔は目以外の部分を布で覆っているのでわからない。しかし、その目が明らかに喜色を浮かべていたのは遠くからでもはっきりとわかった。


 索超は根本的なところで間違っていた。彼女の前にいたのは強敵などという『生易しい』代物ではなかった。それは捕食者だった。








 残念なことに索超の最後の指示に反応できていたものは楊志も含めて誰もいなかった。それでもその状況から復活し、真っ先に反応したのはやはり楊志だった。


「全軍、全速前進、敵を突破します!! 続け!! 相手は所詮一人よ!」


『相手は所詮一人』。その言葉に勇気付けられたのか守備隊を率いる遠羽も呼応した。


「全軍、あの怪しい男を踏み潰せ、突撃ーーー!!!」


騎馬隊が突撃しはじめると男は索超を横に放り捨てると後ろに下がって丘の向こうに一旦姿を消した。男が下がったと見るや騎馬隊は勢いづいた。


「とつげーき!! とつげーき!!」


遠羽は狂ったように連呼して、丘を駆け登っていった。

 今、この隊は先頭に騎馬隊の五十名がおり、その後ろに歩兵五十、それから楊志の輸送隊がいて、一番後ろに歩兵都管(ほへいとかん)法進(ほうしん)が率いている残る歩兵五十がいた。それらが遠羽の騎馬隊に続いて丘を駆け上っていく。


「誰か索提轄(さくていかつ)を回収して!」


先行する歩兵隊に楊志がそう声をかけると何名かの兵士が索超に駆け寄った。


「荷台に載せればいいわ!」


「はい!」


と楊志は若い兵士が三人ほどがどさり索超の体を荷台に乗せたのを確認すると改めて前方に向き直った。彼女の状況を確認するのは後回しだ。そして前を振り向いたとき、丁度、楊志は丘の頂上におり、前方の隊の様子が良く見えた。


 当然、楊志は先行した騎兵や歩兵が丘を駆け下りているものだと思っていた。あれだけの実力を持つ人間がいる以上、何名かは致命傷を負っているかもしれないが、大半の兵士は無事突破できているものと信じていた。

 だが、目の辺りにしたのはそれとは大きく異なる光景だった。馬は走っている。だが人を乗せてはいない。騎兵はことごとく、その大男によって屠られていた。


 その大男は石を投げつけていた。たいして大きくも無い、親指より少し大きい程度の石だ。だが男が石を恐るべき速度で打ち出す度に騎兵は次々に馬から落とされていった。


 おそらく彼らには男が妖術か何かを使ったようにしか見えなかったかもしれない。楊志もそれと気づけたのはたまたま男が一度石をもてあそぶように手元で放り投げてたからに過ぎない。


 それほど力を込めて投げたようには見えないのに、投げられた石の姿は楊志でも全く追うことができなかった。騎兵は次々と額を割られ、あるいは喉に衝撃を受けて、馬から落ちていく、その時点では動いているものもいないではなかったがそうした人間には男が直接襲い掛かり、誰かから奪ったのであろう槍をおどろくべき速さで突き刺していった。今も目の前で騎馬隊を率いていた遠羽が槍で止めを刺されたところだった。


 しかし、全く望みがないわけでもなかった。男はそうやって騎兵の数を減らしながら徐々にではあるが後退していた。後半分ほどいけば森に入れるだろう。そうすれば障害物の多い森は、逃げるこちらにとってはるかに有利になる。


 続く歩兵五十名の半数ほどが騎兵に続いて突っ込んでいた。おそらく彼らはその馬体に阻まれて前方の様子が見えていないのだろう。残る半数は前方の惨状を見て怖気づいていた。


 だが、ここで止まっていても何もいいことは無い。今、突撃している歩兵がやられれば次の標的は自分たちだ。


「何をぼやっとしているの! この場にいても殺されるだけよ! 一挙に突撃しなければ助かるものも助からないわ!」


その楊志の叫びを聞いて、ようやく歩兵たちも動き出した。その後ろから楊志も続く。


「輸送隊、続くわよ!」


ぐっと腹に力を込めて叫ぶと楊志は丘を駆け下りた。後ろからがらがらと派手な音を立てて荷物を積んだ馬車が続く音が聞こえる。


(正面から激突するのは無理だ。なんとかいなすしかない!)


索超がかなわない敵なら自分が真っ正直に行ったところでかなう筈も無い。先ほど索超を倒した実力が偶然でもなんでもないことは、今、広がっている眼前の光景が証明している。


 部下と自分を鼓舞するように剣を振り上げる。その頃には騎兵は全て討ち取られていた。続いて味方に押されるような形で歩兵が槍を持って突撃しているが、半分は騎兵同様、男にたどり着く前に飛礫(ひれき)によって打ち倒されていた。残る半分も無造作に突き出された男の槍によって殺されていく。それでも男は少しずつ後退していた。


 間にいる歩兵が少なくなるにつれ、覆面男との距離が近づいた。楊志は気を練り上げるように呼吸を繰り返す。男は槍を構えたまま、こちらに石を放ってきた。


(っ!?)


馬の上で強引に体を捻じ曲げ、それを避ける。狙いが正確な分、避けやすかった。視界の端で男が笑う。


(何がおかしいっ!?)


心中でそう怒声を浴びせながら楊志は男へと肉薄した。いつの間にか、間にいた歩兵はいなくなり、彼女が先頭になっていた。男は迫り来る馬にまるでひるむことなく楊志の馬と交差するように横にそれた。


「!」


男が移動したのは楊志が剣をもつ右手の方向。無視して突っ切るか、剣を振るかほんの少し迷ったとき、男は走り去る楊志の足首をつかんでいた。


「なっ!」


馬の全速力、しかも坂を駆け下りている今の速度は時速五十キロを優に超える。現代の日本で例えれば、バイクに乗っている人の体を無理やりつかむようなものといえば、その異常性が伝わるだろうか。男は楊志の足首をつかむと前方への慣性を利用してその場で一回転すると、彼女をまだ味方のいる後方へと投げつけた。


「あがっ!」


「ぐっ!」


味方の一人にあたったのだろう。その味方と団子状態になりながら楊志は転がり落ちる。


「だ、大丈夫ですか!」


起き上がってみると後方にいた濮州軍の歩兵がいた。


「え、ええ……」


頭部の鈍痛に悩まされながら起き上がる。周囲を確認すると自分が激突したのは財宝をつんでいた荷馬車の御者だったらしい。そのまま御者ともども後ろへと投げ出され、さらに荷台にいた索超も巻き込みながら後ろに転がったところを彼らに受け止められたようだった。


 前方を見ると併走して自分の後ろを進んでいた二台の馬車はどちらも御者をのせずに空馬のまま、先へと進んでいく。もう一台の御者もここからは見えないがおそらく生きてはいまい。男はそれらを一瞥もせず、残りの輸送隊に襲いかかっていた。

「くっ!」

あたりを見回す。索超はまだ目を覚ましておらず自分の部下は既にほとんど狂乱に陥って指示を聞くような状況でもない。残るは自分の後ろにいた歩兵五十名のみだ。


「っ!」


立ち上がろうとしたが、先ほどつかまれた楊志の足首には異常が発生していた。捻挫にでもなってしまったのか十分に体重をかけることができないのだ。


「ひ、退けー!! 退けー!!」


声は自分の後ろから聞こえてきた。見上げると濮州の歩兵都督の法進が既に馬首を返している。だが先頭に立って逃げ始めた彼に影が襲い掛かり、一瞬でその首を刎ね飛ばした。


「前門の虎、後門の狼ってね、さあどうする?」


そう楽しげに言った影の正体は赤毛の女だった。前にいる大男の同じように覆面で顔を覆っている。


 じり、と女が近づくと兵たちも少し後ろに下がる。


(いけない)


兵士たちは気圧されてしまっている。気持ちはわかるがしかしここで全員が縮こまるように固まったところで得られるものは何も無いだろう。


(ここまで……か)


前方では既に大男が楊志の部下の大半を殺し終わっていた。両腕を血に染めたその男はどことなく亡羊とした顔つきになっている。だが別に体調に異常がわるわけでもなんでもなく眼光だけは依然同様鋭い。この男に勝てるすべはこの場で全員でかかっても無いだろう。


 悔しさに唇をかみ締めて、それでも将官の最後の責任として、楊志は声を上げた。


「全員、散会して退却! とにかく生き延びて!!」


それを聞いてわっとてんでばらばらに兵士が逃げ出す。楊志は前方で自分たちの部下を屠っている男を見ながら剣を杖のように使って起き上がった。


「楊志……?」


「索超!? 起きたの!?」


視線は男に目をやったまま、背後の索超と会話をした。ふらりと索超が立ち上がる気配がする。

「状況は状況は、どうなってるの?」


「もう無理よ。あなたもこんな任務で死ぬことは無いわ。逃げて」


端的に楊志は答えた。


「楊志は楊志はどうするの?」


いつもならうざったく感じる索超の口癖がなぜか楊志を落ち着かせた。それがこの場で唯一、日常から変らない部分からかもしれない。


「私は逃げられないわ。歩くことすらままならないもの……」


 男は自分たちを視界に見据えながらも先ほどのように石を四方八方に飛ばして逃げようとする兵士の頭を打ち砕いていた。後ろにいた赤毛の女も走り回りながら、兵を屠っているのか、まだこちらに来る気配は無い。


「そのその位なら……」


言うが早いか、楊志の体を肩に担ぐようにして持ち上げた。


「なにを!? 索超! 無理をしないで!」


「文句は文句は、後でまとめて聞くよ!」


索超は真横、道の無いでこぼことした岩の上を駆ける様に降りていった。








 晁蓋(ちょうがい)と輸送隊から走り出た女が激突した直後から劉唐(りゅうとう)呉用(ごよう)の指示によって黄泥岡の頂上付近で身を潜めていた。幸い、周囲には高草が生い茂っており、数分程度ならば身を隠していてもばれなかった。


 呉用が言うには彼らが馬鹿正直に前進するだけなら晁蓋だけで十分対応可能であり、自分と阮小二は(げんしょうじ)そのさらに後ろにいて財宝を回収すればよい。ならば劉唐が自分のそばにいる必要は無く、むしろ敵が後退したときに極力それを撃破してほしいということであった。その言葉どおり、呉用と阮小二は公孫勝たちが潜む濮州側の森とは反対方向に潜み、突撃する軍隊は全て晁蓋が殲滅していった。


 劉唐自身は彼女の判断で動いていいということであったが何より逃走者を出さないことを重視するように釘をさされていた。そのため、彼女は晁蓋の暴れっぷりを眺めてうずうずとしながらも、じっと身を潜めていたのである。


 そしてようやく彼女の出番となる場面が訪れた。敵の隊長格の一人が退却を指示した瞬間に飛び出てその男を討ち取ったのである。


 だが結果的にはこの行動は結果的に誤りだった。別の隊長格の人間が兵士たちに四散するように命じてしまい、一気に標的がばらけてしまったのである。


(くそっ! 厄介なことを!)


劉唐は悪態をつきながら、後ろにいる公孫勝(こうそんしょう)に任せるつもりで正面から逃げる兵士は見逃し、それ以外の四方に逃げた兵を追う事になった。


 そこで彼女が発見したのは最初に晁蓋と激突した女である。あれを逃してはまずい。劉唐はそう判断して近くにいた兵士をなぎ倒しながら、接近していった。女は気功使いのはずだが、人を一人背負っているためか、動きはそれほど早くない。だが劉唐が接近し剣を振ったとき、


(へき)!」


その背負われていた女の方が気合を発した。同時にがきんと鈍い音がし、劉唐の剣はその女の手のひらにある何か見えないものによって塞がれていた。


「なっ!?」


こっちも気功使いか。今までそんな気配はまるで見えなかったのに、と思いながらも体勢を整える。


 すぐに晁蓋の放った飛礫も飛んでくるがそれも同様に背負った女によって防がれていた。そしてその防いだものがどさりとその場に落ちる。


(氷っ!?)


それに意識を向けた瞬間に、背負っていた女がこちらを振り向き、その手にあった斧鉞をこちらに向かって突き出してきた。それを劉唐は後方に飛んでかわす。だが、驚くべき事が起こった。


(しん)!!」


その斧鉞の柄が文字通り伸びた。とっさに防御が間に合ったが、それは中空に浮かんでいた劉唐の体を跳ね飛ばし、彼女は七丈(約20メートル)ほど吹き飛ばされてしまった。黄泥岡の岩肌にしたたかに体をぶつけられ、うめいた後に起き上がる。


「この!?」


だが、劉唐が跳ね起きたときには既に二人の姿は視界から消えさっていた。自分たちは二人を取り逃がしてしまったのだ。


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