その一 晁蓋、悪霊退治に向かうのこと
満月が南の空にさしかかる頃、竹が鬱蒼と茂る森の獣道を四人の男たちが松明の明かりを頼りに歩いていた。
いずれも粗末な農民の服装である。先頭の男は最近少し暖かくなったとはいえ、まだ春になったばかりだというのに袖のない上着しか羽織っていない。それ以外の男は荷物を背負っていた。
「あの、やっぱりまずくないっすか」
列の最後尾にいた小太りの男、張奉がそう声を上げる。
「まずいって何がだ?」
列の先頭にいた男が不思議そうに返事をした。
この男の名は晁蓋という。
大柄な男だった。身長は六尺半(約200cm)はあるだろう。背の高さにあった体格の持ち主で、腕は丸太のように太く、一瞥しただけでも相当鍛えられていることがわかる。しかも、猫のようにしなやかに歩いている様子を見れば只の力自慢だけでないことは明白だった。
意志の強そうな太眉に猛禽類のような鋭い目つき。伸ばされた黒髪は彼の自由奔放な気性そのままに四方八方に飛び出ており、彼はそれを無理やり後頭部でまとめていた。今年、二十一になる、この集団のリーダーだ。
「晁蓋の兄貴が強いのは知っていますけど、今回の相手は山賊でも虎でもないっすよ。悪霊なんて相手にしたら何されるかわかんないっす」
「じゃ、お前帰るか? もう、そろそろ着くから荷物は俺が運ぶし」
晁蓋は力んだ様子も見せずにそういう。怒っているとかそういうことではなく、本当にそう思っているのだろう。張奉はあたりを不安そうに見回した後に言った。
「……いえ、ついていくっす」
もしここで別れたら自分一人になる。悪霊からは逃れられるかもしれないが、野盗の類に捕まったら元も子もない。他の二人も自分についてきてくれるだろうが、三人揃っているよりも晁蓋と一緒にいるほうがはるかに張奉にとっては安心感があった。
張奉の返答を聞くと、それで会話は終わりとばかりにまた晁蓋はすたすたと歩き始めた。後ろにいる三人は互いに顔を見合わせてため息を付いた後、それに続く。彼らが付き従っている晁蓋は基本的には頼りになる人物だが、たまに生存本能が欠落しているように危険な行動をとることがある。その上、そんな自分を基準に考えるせいか、こちらのことをさっぱり考慮しないのも困りものだった。とはいえ、普段は何かと頼っているのにこんなときだけ知らんぷりするのも居心地が悪いので晁蓋に同行しているが、できればこんなことはやめてほしいというのが本音だった。
そんなやりとりをしてから、さらに少し歩いたところで、小高い丘の上に開けた場所があった。月明かりにうっすらとうら寂れた廃屋があるのが見える。
「お、ここだな、ここ」
晁蓋はうれしそうにそう言うと松明をもったまま、さほど警戒した様子もみせずとその建物に歩み寄っていく。後ろの三人も荷物を背負ったままおっかなびっくり距離を開けて後に続いた。廃屋には正面に石段がついていて周りよりも若干高い場所に建てられていた。
「ふーん、これが例の悪霊が出るっていうお堂か」
「そうみたいっすね」
付き従う三人の中で一番年長の男、丁礼が後ろからそう答える。
「横にあるのは石碑か何かですか……晁蓋の兄貴、読めますかい?」
残る一人、この四人の中で一番背が低い男の李堅が、そう晁蓋に聞く。後ろにいるので読めないというのもあるが、そもそも晁蓋以外の三人は文字が読めないのだ。
「文字が所々かすれているからな、わからん。そんなことより中見ようぜ」
言うが早いか、晁蓋は観音開きの扉を乱暴にバタンと開ける。突然の晁蓋の行動に残りの三人は顔をひきつらせて後ずさった。そんな三人に構うことなく、晁蓋は暗闇の廃屋の中に無造作に足を踏み入れていく。
「なんもねぇな」
松明で照らしながら晁蓋は廃屋の中を見回した。中はお堂というよりは倉庫に近いものだった。屋根と壁があるだけで床さえ設置されておらず、地面の上に直接像を祀るためのものと思われる台座が置かれているだけだ。ただし、肝心の像はない。おそらく盗賊にでもとられたのだろうと晁蓋は考えた。
大きさはさほどないが、それでも松明の明かりではお堂の全てを一度には見渡すことはできない。晁蓋は一応、ぐるっと中をまわってみたが特に気になるものはなかった。
お堂の中を一周りした晁蓋は後ろにいた三人がお堂の外で固まって震えるのを見つけると声をかけた。
「お前ら、なんでそんなところにいんだよ。早く入ってこいよ」
「こ、この中に入るんですかい!?」
「当たり前だろ、この中から悪霊は飛び出してくるって話なんだから、外にいたってしょうがねぇだろうが」
「そ、それだけは勘弁してくだせぇ、兄貴ぃ。もう俺らおっかなくて今にも逃げ出してぇくらいなんですから」
李堅が三人を代表してそういう。残りの二人も必死に首を振って李堅に賛同の意を示した。
「だらしねえ奴らだなぁ」
だが晁蓋もそこで無理強いしようとは思わなかった。お堂の中だろうが外だろうが大した違いは無い。
「しょうがねぇな、そこまで言うなら外で待つか」
と言って晁蓋はそのお堂から外に出る。三人はひと足早くお堂から距離をとった。
そして、異変は晁蓋が彼らの後を追って数歩歩いたところで起こった。
風。風が吹いている。お堂の中からだ。晁蓋が足を止め、お堂を振り向く。
「兄貴、どうしたんですかい?」
と、李堅がこちらが足を止めたことに気づいて声をかけてくる。そして、その直後、お堂が光を放った。
昼間の太陽程ではないが満月をはるかに超える光量だ。より正確に言えば光っているのはお堂そのものではなく、その内部のようだ。閉められた扉の隙間や、朽ち果てた壁の間から光線が飛び出していた。
「ひいいいいいっ!」
「ぎゃああああああ!」
「あ、あわ、あわわわわわ………」
三人がうろたえる中、晁蓋は微動だにせず、仁王立ちになってその廃屋を眺めた。明らかに異常な状況。だが、彼はそんな事態でも怯むことなく、むしろ獰猛で嬉しそうな笑みを見せた。
「ほう。正直、半信半疑だったが、本当に出るとはな」
「あ、あに、兄貴! ヤバイっす! 絶対ヤバイっすよ! こいつは! なんかわかんねぇけどシャレになんないっす!」
李堅はそう言ってお堂へ向かおうとする晁蓋に必死で呼びかけた。自身は張奉の背にかくれている。その張奉は腰がぬけたのか、地面に腰を下ろしてがくがくと震えている。
その謎の発光現象はそれほど長く続かなかった。せいぜい数秒といったところだろう。そして終わってしまえば辺りには先程と同じく、自分たちのもつ松明と月明かり以外に照らすものはなく、また自分たち以外が建てる物音もしなくなる。
「お、終わったんですかね」
「おいおい、これだけだったらとんだ肩透かしだぜ」
そう言って晁蓋は歩を緩めることもなく松明を持ってお堂へと近づいていく。見る者が見れば、先程とは異なり、警戒した足運びで有ることがわかったろう。お堂の何歩か手前、そこで晁蓋はある確信に至り、足を止めた。
(いる……何かが中にいやがる)
先程見た時には誰もいなかったはずだが、悪霊相手なら道理が通らないこともあるだろう。お堂の中にいる何者かは気配を隠そうともしていないようだ。その癖、じっと動かないでいる。物音一つたてていない。
(待ち構えているってわけじゃなさそうだな)
そう思ってさらにお堂に近づき、扉を無造作に開けた。
松明が照らすお堂の中、そこに人の足が見えた。白くて細い足だ。一瞬女の足かと思ったが松明を近づけるとすぐにそれが間違いだと気づく。
その人物は成人したて、つまり十五歳くらいの年頃の少年だった。身長は見たところ、五尺(約150センチ)を少し超えた程度か。くせっ毛になっている黒髪をまとめるでもなく、無造作に伸ばしている。体は全体的に華奢で肌も汚れていない。明らかにそのあたりの農民や野盗とは違った。そして……動いているわけがなかったのだ。少年はスースーと寝息をたてていた。
(なんだこいつ?)
晁蓋はその少年を見下ろして考えた。これが噂の悪霊なんだろうか。だが残念なことにとりあえず弱そうだ。悪さをしてくるようにも見えない。衣服は木綿で出来た簡素なものだが、みたこともない意匠をしている。
(妖魔にしてはか弱すぎるし、神仙にしちゃ威厳がねぇな)
結局の所、どこからどう見ても、ただの人間にしか見えない。ただその場合、問題は何故ただの人間が光るお堂の中から突然現れたのか、ということになるが、とりあえず晁蓋はその疑問を後回しにした。
「おい、起きな」
言って少年の肩を揺する。最初は無反応だったが、しつこく揺すると、鬱陶しげにまぶたが動き、ごろりとこちらに背を向けた。
「なんだよ、かーさん? 今日はドヨウビなんだからガッコウはないだろー」
寝ぼけているらしく、地面に寝転んだままそんなことを言って、右手で何かを探るような動きをする。
「おい、お前」
「なに? とーさん? 寝かせてくれよー」
「俺はお前の親父じゃねえよ、いいから起きろ」
「なんなんだよー」
少年はようやくそんな調子で寝ぼけ眼をこすりながらとりあえず上体を起こした。彼は目の前の晁蓋と周りを見回し、最後にそのくりっとした眼でもう一度晁蓋を見る。そしてたっぷり十秒は沈黙した後、口を開いた。
「あの……どちら様ですかね」
「それは俺も聞きたいところなんだがな、まあこんな辛気臭いところで話すのもなんだ、外へ出ようぜ」
何がなんだか少年もわかっていないようだがとりあえずそう促す。少年もこくりとうなずくと素直に後に続いた。外へ出ると石段の下に三人がおり、晁蓋を見るとほっとした表情を浮かべたが、すぐに隣に現れた少年を見て怪訝な表情を浮かべた。
「兄貴、無事だったんですかい」
「おう、まあな」
「あのー、兄貴。そっちの横にいる小僧はなんですかい」
張奉の問いにんー、と晁蓋は首をひねった後に言う。
「悪霊?」
「いや、なんでですか?」
少年は甚だ心外そうだった。
「ソウダコウイチロウ? 変な名前だな。それに長い」
「後、トウキョウってどこだよ、そんな町聴いたこと無いぞ」
「つーか、コウコウセイって何?」
少年、宗田幸一郎は頭を抱えていた。
ついさっきまでは普段どおりの一日であったはずである。いつもどおりに朝起きて学校に行き、友達と馬鹿騒ぎして、授業を受けて帰宅。風呂に入って、就寝。何一つ変なところの無い普通の一日だった。それが目覚めてみれば見知らぬ男たちと変な場所にいる。
今は手際よくその男たちがつくった焚き火の周りに車座になっていた。とりあえず、男たちとは、言葉が通じるのでとりあえず自己紹介はしてみたが、返ってきた反応は上記の通りである。焚き火の周りでは串にさされた肉がじゅうじゅうといい匂いを上げているが、とてもそんなものに気を取られてはいられない。
「あの……ドッキリとかならそれっぽい反応は後でするから家に帰してほしいんですけど」
「ドッキリ? また聞いたこと無い言葉が出たな?」
「………」
言ってみたものの、ドッキリではなかろう。彼らの着ている服や道具は汚れ具合なんかから見てもその辺でさらっと準備できそうなものとは思えないし、第一自分の周りでこんな大規模な悪戯をしかけそうな人間など心当たりがなかった。
(と、なると……)
というわけで一番現実的な判断に落ち着く。
「これは夢か」
「ちげーよ。勝手に夢の住人にするな」
即座にツッコミが晁蓋と名乗る男から入った。
「いや、じゃあさ。逆に聞くけどここってどこ?」
「どこって済州の鄆城県だが?」
「どこだよ、それ……」
「なんだ、知らねえのか? 山東の済州だよ」
かろうじて山東という響きには聞き覚えがあった。だがそうだとすると、ひょっとして、下手すると、いやいやまさか……ここって中国?
「なんで日本語しゃべってんのさ!」
「なんだよニホンゴって俺たち、普通に喋ってるだけだぜ」
「………」
というか、幸一郎には薄々気になっていたことがある。彼らの服装だ。幸一郎は中国には入ったことは無いが、21世紀にもなってこんな時代がかった服を着ている人たちなんているんだろうか、まるでマンガで見たことのある古代の中国のような……
「あの、今って何年何月何日?」
「ん? んーと、三月十日だったと思うが。年は……」
「政和七年だな」
「いや、西暦でお願いします」
「セイレキ? なんだそれ?」
予想はしていたが西暦は知らないらしい。だがそんな元号で年を言われてもこちらも困る。大雑把でもいいから年代を知る方法というと……
「……この国の名前とか、教えてもらっていいですかね」
「国の名前? ……国号のことか?」
「おいおい、それぐらい俺だって知ってるぜ? 宋だろ、宋」
宋。十世紀から十三世紀にかけて中国に存在していた王朝である。五代十国と呼ばれた乱世を鎮めた皇帝によって開かれ、後にモンゴル人達によって滅亡した。十一世紀中頃にモンゴルとは別の北方の異民族によって北半分を奪われる前は北宋、それ以降を南宋と区別する時は呼ぶ。日本で言えばおよそ平安時代末期から鎌倉時代の中頃までであり、今でも有名な白磁の磁器がつくられたのはこの頃である。
幸一郎はとりあえず自分の頭の中からこれぐらいの知識をひきずりだした。そして薄々感じている嫌な予感がいっそう強くなる。
(ということは……まさか? タイムスリップ? なんで? どーして?)
混乱のままにとりあず、ダメ元で聞いてみる。
「あの、なんで僕、ここにいるんでしょう?」
「いや、それは俺たちも知りたいが……」
これも予想してたがこの男たちは何もしらないらしい。
(ど、どうすんだこれ?)
寝巻きのポケットやらなんやらを叩いてみるが何も入っていない。何も無しに千年前と思しき見知らぬ場所に放り出されてどうすればいいのか? というか、学校とか、どうしよう? いや、学校以前に帰れるんだろうか。あれ、どうなるんだろ? 世間的には神隠しとかで終わらされちゃうんだろうか。
考え出すとどんどん不安が満ちてきて、幸一郎は思わず頭を抱えた。
「おいおい、どーしたんだよ、えーと、ソウコウ?」
「人の名前を勝手に略さないでくださいよ。えーと」
「晁蓋だって言ったろ。あっちにいるヒゲが丁礼。ちびが李堅。でかいのが張奉だ」
「あ、うん。よろしく?」
「まー、なんだかしらねーけど、とりあえず飲んどけや」
そう言って晁蓋は小さな杯を差し出してきた。中をのぞき込むと無色の液体がある。
「なにこれ?」
「何って酒に決まってんだろ」
「酒?」
未成年なのに飲んでも大丈夫なんだろうか、と一瞬思ったが夢の中にしろ、古代の中国にしろ、咎めるものは誰もいない。やけっぱち半分、好奇心半分で幸一郎は杯の中身をぐびりとあおった。
「!?」
(酒? これが酒? 酒ってこんな味なの? 毒の間違いじゃなくて?)
のどが燃えるように熱い、というか痛い。思わず幸一郎は咳き込んだ。
「なんだ、だらしねぇなぁ」
「お酒飲むの初めてですもん」
「あん? お前、歳は?」
「じゅ、十六歳ですけど?」
「おう、やっぱそんなもんか、まあ、とりあえずもう一杯いきな」
「いらないです。なんか喉いたいし」
「馬鹿。そりゃ一気に飲むからだ。お前みてーな初心者はちびりちびり行けって。おい、張奉。肉切ってやんな」
張奉は晁蓋の言うとおり、豚肉を切って渡してやる。幸一郎は手渡されたそれを口に含んだ。こちらは意外と美味しい。
「でもこれからどうすればいいんだろ」
もぐもぐと豚肉を噛みながら幸一郎はつぶやく。独り言のつもりだが晁蓋が返事をした。
「まあ、明日になったら俺の村に連れてってやる。呉用っていう物知りがいるからそいつと相談すればいいさ」
「ごよー?」
ほとんど舐めるようにして杯の酒に口をつけてみる。喉が痛くなってすぐに後悔するはめになった。その物知りに聞いたら帰れるんだろうか。
(明日中に帰れるといいなぁ。じゃないと折角の週末が丸潰れだし。いや、帰れるんなら少し観光するのも悪くないかもしれない。でも帰れるんだろうか)
この時点ではまだそんな呑気なことを幸一郎は考えていた。
「ゴヨウって人はそんなにものしりなの?」
「村で一番て程度だ。光りながら現れた人間をどうするか、なんてわかりはしないだろうが、俺達よりはましだろ」
チョウガイ……ゴヨウ……ともにどこかで聞いたような名前の響きだったが幸一郎は思い出せなかった。どこで聞いたろうか……それを探っているうちにやがて、まぶたが閉じていき、いつの間にか幸一郎は眠りこけていた。
「眠ったみたいっすね」
丁礼がそう言うので晁蓋が横を見ると確かに幸一郎がぐーすか寝ていた。傍らに杯が倒れている。
「なんでぇ一杯程度でだらしがねぇなぁ」
「ねぇ、晁蓋の兄貴。そいつ本当に大丈夫なんですかい?」
李堅が心配したように聞く。
「大丈夫って何が?」
「だってそいつ、あのお堂が光った後に出て来たんでしょ。得体が知れないじゃないですか」
「まあ、そりゃな。でもこんな酒一杯で寝込んじまうような奴だ。なんかあっても大丈夫だろ」
「そうですかい?」
「心配はいらねえよ。少なくとも役人みたいにいばらねぇし、盗賊だとしたら弱すぎる。悪霊を探してこんなオチだってのは少しばかり気に入らんが……土産話くらいにはなるさ」
晁蓋はそう言って酒をぐびりと喉に流し込んだ。
中国宋代、徽宗の御世のことである。世の平安が侵食されるようにじわじわと崩れていく時代に出会った二人の男。彼らがたどる運命の行く末は、まだ誰も知らない。
関羽や信長だって女の子にできるなら林冲や呉用が女の子だってええやん、というところからはじまったのに何故か男ががっつり目立つ話になってしまいました。
こんなので良ければ次回もお付き合いください。