その四 宋江、気功の修行を始めるのこと
劉唐が出発した翌日、宋江、宋清、公孫勝の三人もまた、彼女を追うようにして村を出た。公孫勝と宋清は晁蓋から借りた馬に乗り、その轡を宋江が引っ張っての移動である。
馬には荷物も載せていた。宋江と宋清の私物もあるが、大半が公孫勝と劉唐、というか劉唐が持ってきた荷物らしい。
「なんでも劉唐は西夏の方を旅しとったらしくての。もともと、向こうの珍しい布地なんかを手にいれてそれをこっちで売りさばこうとしてたらしい」
西夏というのはこの当時、宋の北西にあった国である。今で言えば中国の西部、敦煌や楼蘭といった遺跡が有名なあたりで、西方世界の文物も少なからず、流通している地域だ。
公孫勝がこれを持ちだしたのは、実際に濮州で売りさばくためだ。どれほどの期間になるかはわからないが、公孫勝が濮州にいる間、子供がうろうろしていても怪しまれぬよう、三人はこの布の商売を濮州で行うという名目で滞在する事にしたのである。いわば、隠れ蓑のための道具だった。
「実際にどんなものなのか、見せてもらってもいいですか?」
「かまわんぞ、ほれ」
少し興味を覚えて宋江が聞いてみると公孫勝はあっさりと包みの中から反物をいくつか、取り出してみせた。確かに、このあたりでは見たことのない色とりどりの文様が施された布が出てきた。
「うわあ、きれいですね」
宋清が感嘆の声を上げる。見たところ西夏よりももっと西、中央アジアやイスラム文化圏あたりの代物ではないかと、宋江には思われた。
「そういえば、劉唐さんと公孫勝さんってどういう関係なんですか?」
「別に大した仲ではない。二月ほど前に石州のあたりで山賊をぶちのめしたときに知り合っての、意気投合して旅しとっただけじゃ」
石州もまた、ここから北西方面にある州の名前だ。劉唐とは西夏から戻ってきたときに偶然知り合ったということなのだろう。
「ところで昨日説明したことは覚えとるな」
「うん、僕らは済州の出身で両親が死んで親戚を頼って東京開封府に向かう途中の三人兄妹で、路銀を稼ぐためにこの布をお金に変えたいんだよね」
昨日、説明を受けたカバーストーリーを思い出しながら宋江は答えた。
「うん。そういうことだから張り切っていこっか、おにいちゃん!」
いきなり声の調子を変えた公孫勝に宋江は思わず後ずさる。トーンも明らかに1オクターブは高くなった。先に自ら語ったとおり、この旅の間、彼女は宋江の妹という設定になっている。見た目上、その説明が通りがいいのはわかるが、いきなり口調を変えられると、どんなに可愛らしい声と表情でも宋江には彼女が妖怪にしか見えなかった。
「その演技、もう始めるんですか……」
ちなみに名は宋勝ということになってる。
「もう、だめだなぁ、おにいちゃんは。普段から役作りしておかないと、いざって時にぼろがでちゃうよ」
「……楽しんでますよね」
「うむ」
なぜかそこの返答だけ素に戻った。
「ところで、公孫勝さん……」
「もう、おにいちゃんたら。あたし、そんな名前じゃないよ」
「その、宋勝……」
「なあに、おにいちゃん?」
「昨日も少し話してくれたけどさ、仙人ってそもそも何なの」
宋清に聞かせる意味で、それから宋江自身の興味もあって、宋江は尋ねた。
昨日、聞いた限りでは仙人とは自分や呉用が考えていたような万能の存在とは言い難いが、それでも見た目からして色々と常識を超越した存在というのはわかる。自分がこの異世界とも過去ともとれない奇妙な場所に迷い込んだ理由を知る手がかりになるかもしれないと宋江はまだ希望を捨てていなかった。
「うん、仙人というのはね、不老不死、厳密には不変にして千変万化となった存在のことを言い、それを目指す人間のことを道士と言うんだよ」
今は演技中なので無知を装われるかと思ったが公孫勝は口調はそのままだが答えてくれた。
「不変にして千変万化?」
「不変とは無常でないこと。那由多の時が経っても常にそこに変わらず有り続けること。千変万化とは形を残さぬこと。刹那のうちに人から無へ、あるいは無から人へとその身を変え得るもの。これ、すなわち、現世から離れて在ることの証であり、仙人と称されるものなり」
何かの本の一節でも読むかのように公孫勝はつらつらと答えてみせた。
「に、兄様。わかりましたか? 清には何が何だかさっぱりです」
「いや、僕もだよ」
「平たく言うとこの世の影響を一切受け付けない存在になることだよ。わからなかったら不老不死の人のこと、でいいと思うな」
「はあ、お伽話とは大分違うのですね……不思議な術を使ったりとかはしないのでしょうか」
宋清が少し残念そうに呟いた。
「うーん。不老不死になるためにはいろんな修行しなくちゃいけなくて、その結果、人間とは思えない能力を持つ人もいるからあながち間違いとも言い切れないけどね」
「ふーん……あれ?ところで公……じゃないや、宋勝ってもう不老不死じゃないの?」
どういう原理かはわからないが、自分達よりはるかに年上だと言うのに見た目は十歳かそこらだ。そのことを指摘すると、
「違うよ、これは無理やり秘術で肉体を若返らせただけで不老不死には程遠いんだ。実際これから年をとっていくしね」
「けど、その秘術を使い続ければ……」
「それはできないの。色々制限があってね、何度も繰り返せる術じゃないんだ」
ということらしい。それでも何度か若返るなら十分じゃないかと宋江は思ったがそれはさておく。
「というか、なんで、宋勝は仙人になろうとしたてるの?」
宋江がそう聞くと、彼女はいたずらっぽく笑ってみせた。
「ナイショ」
街道は宋江が考えていたよりも、人が多い。とは言っても一時間に一度、すれ違うかどうかという程度だったが。やはり長距離を移動するような人間はこの時代、多くないのだろう。
「今日はどこまで行くんだっけ?」
「あ、はい。呉用さんが教えてくれた行程だと五十里(25キロ)くらい先に旅籠があるそうです」
宋江が聞くと宋清が即座に答えてくれた。
平坦に舗装された道をすすむ人間の速度はおよそ時速5キロ程度といわれている。だが実際にこの道は緩やかながらアップダウンもあるし、休憩も取りながらすすむため、実際にはもっと時間がかかるだろう。
「ちょっと早めに行った方がいいかも。今日、夕立降りそうだし」
「え? どうしてそんなことがわかるの?」
宋江がさも当然のように言ったそのセリフに対して公孫勝が疑問の声をあげた。
「あのですね、公孫勝様」
「勝、そんな名前じゃないもん」
ご丁寧にぷいっと顔までそむけて見せる。仙人(厳密には違うらしいが宋清にはよくわからなかった)を呼び捨てになどと宋清にとって、勇気のいることらしかった。だが助けを求めて兄の顔を見られても、兄はあきらめろ、と目で伝えるしかなかった。
「その……勝……ちゃん、兄様の天気予報はよくあたるって村でも評判なんだよ」
「ふうん?」
と公孫勝は面白げに目を細めた。
「どの位あたるの?」
「三日ぐらい先までならほぼ百発百ですよ」
宋清が言い切った。
「清、それはちょっと誇張しすぎだよ」
苦笑しながら宋江は謙遜した。
「へー、すごいね。どうやって当ててるの?」
「うーん、勘としか言いようがないんだけど……」
それを聞いて公孫勝はまじまじと宋江をながめた。
「な、なに?」
「ううん、なんでもない。それなら急ごうか、おにいちゃん」
果たして雨は本当に降った。休憩も無しに早めにすすんでいた三人はそれほどずぶぬれになることもなく、呉用に教えられた旅籠へ入ることが出来た。
「運がよかったですね。もう日も落ちる頃合いですし、空が曇って暗いですからもう少ししたら道に迷ってたかもしれませんよ」
「ええ、ほんとその通りです」
女将の世間話に適当に相槌を打ちながら宋江は靴を脱いだ。
「本当に宋江の言うとおりじゃったのう、驚いたわ」
あてがわれた部屋に入ると公孫勝はようやく元の調子に戻った。
「朝も聞いたがなんでわかったのじゃ? もう少し詳しく説明してほしいものじゃが」
「うーん、空の雰囲気としかいいようがないですね。後は空気のにおいとか」
「におい?」
「はい、そんな感じです」
宋江自身もきちんと、把握していないのでどうしてもファジーな説明になってしまう。
「ふむ。面白いの。なんじゃ、抜けてる様に見えてとんでもない能力をもっとるじゃないか」
「そうかなぁ」
この不思議な予知は元の世界にいたときからのものだ。もっとも天気予報がいつでも見れる日本ではさして有用ともいえない能力であるし、宋江自身もそれを誇ったこともない。そのため、宋江自身はこちらにきても自分からこの能力に触れることは無かった。
村人や宋清に知られたきっかけはささいなものだった。晁蓋の馬屋番として村人たちに雨が降ることを、教えていたらいつの間にか、よくあたると評判になって毎日聞かれるようになったのである。ちなみによく知られるようになったのはここ、二三日の話なので普段、農民とあまり接点のない晁蓋や呉用は知らないはずだった。
まあ、それは置いといて、と公孫勝は再度宋江に話しかける。
「宋江、おぬし、気功を覚えてみんか?」
「え? 僕がですか」
「うむ。わしの見たところ、中々に素質があるぞ。覚えて困るものでもなかろう」
宋江にとってこれはいささか意外な話だった。気功については詳しくは知らないが、宋江の中ではあれは晁蓋のような特別な人間の能力のように思っていたからだ。そのことを伝えると公孫勝はからからと笑った。
「晁蓋殿のあれは規格違いの強さじゃからのう。そう思ってしまうのも無理はないが、時間さえかければ誰にでも習得できる技能じゃぞ」
「僕にも使えるんですか?」
「ふふふ、あえておぬし次第じゃと言うておくことにするかの」
袖で口元を隠しながら公孫勝は笑ってみせた。宋江にとってその申し出を拒む理由は何もなかった。自分もああいう風に強くなれる手段があるというならぜひともそうなりたかった。
「よろしくお願いいたします」
「うむ。わしのことは今後、師匠と呼ぶように」
「はい。わかりました、師匠」
「ええと、私も聞いてていいんでしょうか」
盛り上がる二人においていかれた形の宋清が遠慮がちに声をかけた。
「別にかまわぬ。奥義や秘伝を伝授するわけでもないしの」
「というか、清も折角だから覚えてみたら? あ、かまいませんよね、師匠」
「わしは構わぬが……見たところ、妹御にこの手の才能はあまりなさそうじゃぞ」
「ええ!?」
きっぱり才能が無いと言い切られて宋清はショックをうけているようだった。
「才能とか、そういうの見ただけでわかるものなんですか?」
「わかるから言うとるのじゃ」
「いえ、いいんです、兄様。兄様のお邪魔になるのならやめておいた方がよいでしょう」
「そう……?」
宋清自身があっさりと引き下がったので宋江はそれ以上は言わずに公孫勝と向き直った。
宋清と宋江の話が終わったと見て、公孫勝は口を開いた。
「さてさて、気功とはこの天地の間に満ちておる気を体内へと取り込み、それを己の意のままに操る技術のことを言う」
てくてくと狭い室内を歩き回りながら公孫勝は歌うように話す。
「それは極めれば虎よりも早く山を駆け登ることも黄河の河をせき止めることも思いのままと聞く。まあ、このへんのお題目はおいておくとして、気功には大きく分けて二種類の力がある。それが内気功と外気功じゃ」
「外気功と内気功ですか……」
反芻するようにつぶやく宋江を見ながら公孫勝は頷いた。
「自分の肉体に効果を及ぼし、脚力や膂力を強化するのが内気功。そして自分の外に力を発現させたり、外部の事象を操るのが外気功じゃ」
初めて知る概念だった。そういえば、晁蓋から気功について何かしら説明を受けた記憶はない。
「晁蓋殿は根っからの内気功派じゃな。例えばじゃが……」
言いながら公孫勝がすっと腕をふるとその指先にぼっと炎が出現した。
「わ!」
「きゃ!」
突然起こった怪現象に宋清と二人して飛び退く。公孫勝はいたずらが成功した子供のようにくっくと笑うとまたすぐ手を振って火を消した。
「とまあ、このような力の使い方をしたことはなかろう」
「う、うん……今のも気功ですか?」
「そうじゃ。これが外気功。おそらく、おぬしはこのような外気功向きじゃの」
「どうしてわかるんですか?」
「絶対というわけではないが、晁蓋殿や劉唐のような何も考えずに突っ走る奴は大体、内気功向きじゃ。おぬしみたいにうじうじ考える奴は外気功向きじゃの」
「はあ」
「まあ、あまり根拠があるものでもない。実際には劉唐は外気功も多少使えるし、うじうじ考えるのに内気功が得意と言うやつもいくらでもおる。が、大体の目安にはなる」
「ちなみに公……じゃないや、師匠は?」
「わしはどっちでもない。内気功、外気功そしてそれぞれの五行の属性を満遍なく使えるのが仙人になるための第一歩じゃからな。まあ、しいて言うなら昔は外気功向きじゃったがな」
「五行の属性?」
また知らない単語が出てきた。
「知らぬか? この世の全ては陰と陽のどちらかとそして木、火、土、金、水のどれかが混ざったものから生まれてきておる」
陰陽五行説というやつである。
「あ、うん。なんか聞いたことあるかも」
「気功で言えば、内気功は陰の力、外気功は陽の力じゃ。そしてそれぞれに五行属性があるから全部で十種の力があるということじゃな」
横で必死に宋清が数を数えているのをみながら宋江は質問した。
「今までの話からするとその十種類全部を使える人は珍しいってことですか」
「そうじゃの、普通、十種類のうちの二つから四つ、多くて五つ程度じゃろうな。内気功はちょいと外からの判別が難しいので確信はもてんが、おそらく晁蓋の力は内気功のうち、火と土と金じゃな。ちなみに劉唐は火属性を内外両方使っておる」
「じゃあ僕はどれが使えるんでしょう?」
「そう急くでない。それはおいおいわかってくるじゃろう。まずはおぬしの体に気功というものを理解させねばならぬ。これは、どの力を使おうと必要となる最初の修行じゃ」
そういうと公孫勝は宋江に床の上であぐらを組むように命じた。
「目をつぶれ」
言われたとおりにする。
「大きく息を吸い、大きく息を吐け。自分のへその下、丹田になにかがあるのを意識せよ。息を一息吸い、一息吐くごとにその何かが体中を駆け抜けるのを感じよ」
一瞬それは酸素のことでないかと思ったが、考えてみたらへその下に酸素はない。
とりあえず言われた通りに深呼吸をしてみる。
「体を動かすのは最小限にせよ、肩や胸、口も含めてな。だが、それを意識して体をこわばらせるな。自然にできるようにせよ」
「ただ息を吸って吐くのではない。そのたびに自分の内部と世界が繋がっていることを感じるのじゃ」
「体の外に意識を向けるでない。全神経を体の中に集中せよ」
動作としてはひたすら息を吸い、吐くだけだが時折そのようにして公孫勝が指摘してくる。三十分ほど経つと足がしびれてきた。
「よし、それまで」
するとそれを見抜いたかのように公孫勝が声をかけた。目を開き、体を崩す。
「うむ。まあ初回じゃし、こんなもんじゃろ」
「これが修行ですか?」
想像していたよりずっと地味である。何せいろいろと頭や神経はつかったものの、動作としては呼吸してただけだ。
「まずは、な。じゃがこれがある意味、一番つらい」
「そうなんですか?」
「そうじゃ、おぬしはこの動作を毎日毎日続けるのじゃ。じゃが、今の内に言うておくと、ある段階になるまで成果は全く感じられぬ。自分が確かに前進しているという手応えが全くないのじゃ。自分が無意味なことをしているのではないかと疑問を思うときもある。だがそういう雑念を生じさせるな。ただただ体の中に意識を集中させよ」
「はい」
「うむ、素直でよろしい。ちなみにこいつが最も個人差の現れる修行でな、早い奴なら一月ほどで次の段階にすすめるが、遅い奴は十年経っても無理と言う場合もある」
「え? 十年?」
「まあ、おぬしはわしがわざわざ弟子に取ったくらいじゃ。そんなに時間はかからぬ。わしの言うことさえ守っておればな」
「は、はい。よろしくお願いします」
「うむうむ。それでは明日に備えて寝るとするかの」
宋江の修行一日目はこうして終わった。