番外 群像、あるいはいずれ交差する運命の風景
焚き火を囲むようにして四つの人影があった。赤く燃える焚き火の炎は夜の闇を抵抗するように、その四人を照らしている。
人影のうち、二つは既に寝ているのだろう。ときおり、かすかに身じろぎする以外は動く気配もなく、地面の上に横たわっていた。服装から若い男の兵士だということがわかる。
残る二人は女性だった。一人は粗末な麻の衣服、そして、もう一人は仏門の人間なのだろうか、袈裟を着ていた。
「明日にはいよいよ、滄州ね……」
ぱちぱちと小さく爆ぜる焚き火を眺めながら黒い袈裟を着た女性、魯知深はつぶやいた。 きれいに切りそろえられたおかっぱからして仏門に入った尼で間違いないだろう。が、彼女は普通の尼が身につけるような頭巾はかぶっておらず、頭髪を露出させている。普段は猫のようにくるくると回る大きな瞳は今はじっと、焚き火を見ていた。
「すまなかったな。ここまで手をかけさせて」
別の麻の衣服を着た女性は同じように焚き火をみつめながら魯知深の言葉に応じた。こちらの 名は林冲と言う。 肉食獣のような鋭い目とそれと対照的な柔らかな黒髪が特徴的な美人だった。両手には枷が付けられていることから囚人だとわかる。
「いいのよ、気にしなくて。好きでやったことだもの」
魯知深は自分が着ている袈裟の袖をなびかせるようにひらひらと手を降った。
「そんなことより、あなたこれから平気なの? 柴進は色々と助けてくれるつもりみたいだけど、いくらあの子でも城の牢の中では出来ることに限度があるのよ」
「大抵のことはどうにかしてみせるさ。腐っても禁軍の武術師範代を務めていた人間だぞ」
枷を持ち上げながらもその女性は薄く笑ってみた。
禁軍とは禁裏に属する軍、すなわち皇帝直属の軍隊である。高級官僚のぼんくらが幅をきかせている面も無くは無いが、優秀な面々ももちろん多い。この女性は後者だろう。さすがになんの能力もない馬鹿を武術師範代にするほど、この国の軍隊は腐っていないし、何より女性であればその力量は厳しめに見積もられる。
「あなたの腕っ節の強さは私も知ってるわ。でも、それだけでどうにもならないことがたくさんあるのはもう今回のことで身にしみたんじゃ無いの?」
「………」
林沖は反論できないのか、そこで黙った。
「だいたいあなたを嵌めたやつはまだのうのうと、開封府にいるんでしょ。今回だって、あたしが着いてこなかったらどうなってたか、わかりゃしないじゃない。そんなやつがあなたが滄州で獄に繋がれている時、何も手を出さないと思ってるの?」
「わかった。もうわかったよ。私が間違ってた」
林冲は両手を上げて降参の意思を示した。
「だがな、魯智深。昨日話したとおりだ。やつは今の所、私を殺す気はない。というより殺せるなら殺せてたんだ。刑罰を流罪ではなく死罪にする。それはやつにとっては息をするように容易いことのはずなのだから」
「それは聞いたわよ。でも殺さなくたって、あなたを苦しめる方法はいくらでもあるわ。あなた、女の子なのよ」
「繋がれている以上、抵抗できる手段は限られているさ。それこそやつが何が企んでいようとな」
と林冲は諦めるように笑った。
「そんなことより、だな、魯智深……」
「わかってるわよ、あの子の事でしょう」
別の話題を切り出した林冲に今度は魯智深のほうが少しばかりうんざりしたような顔になった。何せこの旅の間中、一日一回はこの話題が出ているのだ。
「心配なのはわかるけど、一応、私の寺で保護してあるから、これ以上できることは何も無いわ。実際、あなたの方が危ないと思ってる。他人より先に自分の心配をしなさい」
「………」
このセリフももう何回も言ってきたものだ。そしてその後の林冲の沈黙もまた。魯智深はあきらめたかのようにふうと息をつくと言った。
「とりあえず開封府に戻ったらあの子をつれて柴進の屋敷までいくわ。とりあえず、それまで待ってなさい」
「あ、ああ、頼む。正直、君だけが頼りだ」
何とはなしに、林冲は夜空を見上げた。星がまたたいていた。
「おかしら、何、ぼーっとしてるんですかい」
呼びかけられた声に史進は振り向いた。焦げ茶色の長い髪を頭の後ろで一括にした若い少女である。どこか幼さを残しながらもすらっとした目鼻立ちが目を引く。槍を肩にかけた彼女は不満げな様子で声のした方を振り返ると言った。
「あのさ、そのおかしらっていうのよせって言ってるだろ」
史進の目の前にいるのは桃色の髪の少女だ。肩までかかる程度に短く切った髪を揺らしてにやにやと笑っている。
「そんなこと言ったって、おかしらは正式にあたしたちのおかしらになったんですからおかしら以外にどう呼べばいいのかおかしらと違って学の無い、あたしにゃわからないですよ、おかしら」
「おい、陽春、おまえわざと連呼してるだろ」
「あ、ばれた?」
てへ、と悪びれなく舌を出したその桃色の髪の少女の脳天にどごん、と史進の槍の柄が容赦なく振り下ろされた。
「い、痛いですよ」
「普通に史進さんでいいだろうが、ったく」
「まあまあ、史進さん、それでどうしたんです? 気になることでも?」
陽春の後ろから声をかけてきた女性、朱武の問いに史進は答えた。
「大したことじゃない。ちょっと師匠のことを思い出してな」
史進の師匠は王進という名前だった。禁軍武術師範というこの国最高峰の武人と言っても過言ではない称号を得ていながら、何故かその職を辞し、旅をしている最中に史進に武芸を教えた人物である。職を辞した理由については結局最後まで彼は語らなかった。
「王進さんでしたっけ?」
自信無さげに頬に手を当てながら朱武がつぶやく。史進はこくりと頷くと、言葉を続けた。
「ああ、今どこにいるのかと思ってな」
そしてこうして、山賊に身を落とした自分を見て何を言うだろうか。だが、記憶の中にある師匠を再現してみても、彼はほとんど反応を見せなかった。山賊になったと言っても、そうか、と天気の話でもするような調子で相槌を打ってそれでお終いにする気がした。
「会いたい。史進の胸はあの男のことを思うと切なく揺れる。嗚呼、これは何? そう、これが恋なの……ってわひゅっ!!」
物語を語るように茶々を入れていた陽春が慌てて飛びのく。一瞬後に彼女のいた空間を史進のもった槍の穂先が獰猛に走った。
「ほ、本気だったでしょ、今の」
「あのな、あたしが本気だったら今頃お前の上半身と下半身がおさらばしてるからな」
「ええーでも、こんな可愛い陽春ちゃんをそんなひどい目にあわせたりしないよね」
「いつまでもそういう、ふざけた態度とり続けてたら殺す。何せ、今のあたしは『おかしら』だからなぁ」
しなをつくるように体をくねらせる陽春に対し史進は怒りの炎を燃え上がらせながら槍の切っ先を突きつけた。
「まあ、落ち着いてくださいな。史進さん」
だが、その背中にそっと朱武が近寄るとつーっとなぞるように指で摺り上げた。
「どわあああああああ!」
途端になんとも言えないぞわりとした嫌悪感が史進の全身を襲う。それに負けて、彼女はつい手に持っていた槍を取り落としてしまった。
「相変わらず背中が弱くていらっしゃるのね」
「しゅ、朱武! お、お前なあ!! そういうのはやめろっつってるだろ!!」
「だって反応が初々しくて可愛いんですもの、史進さんが悪いんです」
そう言って朱武は艶然と笑った。薄紫色のカールした髪がふわりとゆれる。
「可愛いとかそういうこと言うのもやめろー!」
「あれもだめ、これもだめ。厳しすぎますわ、おろおろしたり、あわあわしたりする史進さんを見るのが私の数少ない楽しみですのに」
「その爛れきった趣味をどうにかしろっつってるんだろうが!」
「それは仕方ない」
いつの間にか、第四の人物が史進の近くにぬっと現れた。
「陳達か、今度は」
うんざりしたように史進がうめいた。彼女の振り向いた視線のわずか三尺(約一メートル)先。そこに色素の少ない青い髪を短く刈った少女がいた。感情の薄い目でぼんやりと三人を見回している。
「史進は未熟なのだ。心に隙が多いからそうやって付け込まれる。私たちはいわば史進の修行のためにこうして心を鬼にしてつきあっているのだ」
「楽しんでやっているようにしか見えん。ところで持っている、それはなんだ」
「史進の寝床にあった毛布だ。いいにおいがする」
「即刻、手を離せ!!」
言うが早いか史進は彼女の手からばっとその布を剥ぎ取った。
「冗談。私もいくらなんでもそこまで変態的行為には及ばない」
陳達は顔色一つ変えず、毛布をあっさりと手渡した。
「な、なんだ……驚かすなよ」
「本物はきちんと欲しがっている部下に売り払った」
「は?」
「いい金で売れた。その金で酒買ってきたけど、半分飲むか?」
「お、お、お前ら……」
ごごごごご、と怒りのオーラが史進の体から膨れ上がるようほとばしった。
「あれ? ひょっとしてマジギレ?」
「いくらなんでもやばいよ、陳達ちゃん。おかしらの布団、売ったんならせめて八割ぐらいは酒を残しておかないと」
「そうよ、それにいい感じに酔いつぶれたらまた売り物が増えるし、思う存分いじり倒せるじゃない」
「む。すまない。次回から善処する」
「次回なんてものがあってたまるかーーーーー!!!」
木につるされた三人が見つかったのは翌朝のことだった。
「ああん、もう、やんなっちゃう!!」
そんな可愛らしい声の直後にずがーんとまるで隕石が衝突したような派手な爆発音が聞こえた。
「何やってんですか、総兵菅」
呆れ返った顔で邸内の窓から爆心地に声をかけたのは薄桃色の短い髪を後ろで大きな髪飾りで結っている小柄な女性だった。
「何でもないの、ちょっとしたうさばらしよ」
爆心地でそう応えたのは柔らかそうなウェーブを描いたロングヘアーの女性だった。少し朱色がかった色の髪で体の線も優美な女性らしいものである。
「うさばらしで庭石砕くって何事ですか。相変わらず馬鹿力ですね」
「ちょっと花栄。あなた一応、仮にも私の部下でしょう。上司の女性に対して馬鹿力とは何よ、馬鹿力とは」
「媚を売っても無駄な相手には媚を売らない主義なんです。手弱女とでも呼んでほしかっ
たら少し、私の仕事減らしてくださいよ」
「もう、口の減らない子」
困ったものだわ、と呟きながら彼女、秦明は手に持った狼牙棒を壁に立てかけた。長さ六尺(約180cm)、重量二十斤(約12キロ)を軽々と扱う彼女は誰が見てもただものではない。ついでに言うと手弱女にも見えなかった。
「それでね、花栄ったら聞いてよ」
「なんなんですか、もう」
書類から顔を上げた彼女がうんざりとした表情を見せた。小柄な体格に見合った可愛らしい目鼻立ちだったが今はその嫌気のさした表情がそれらを台無しにしていた。
「今日も政庁の知州に呼び出されてさ、後任をとっとと選び出しなさい、っていう例の話が出たの」
秦明は今年で二十二になる。現代の感覚で言えば、まだまだ花盛りの年頃だが、この時代においては若干異なる。つまり結婚適齢期、をすこし過ぎ始めた時で、上からいい加減そろそろ結婚して身を固めろ的な重圧が降りてき始めてきたのである。知州とは州の行政長官で現代の日本で手っ取り早く言えば、県知事のようなものである。
女性武官の結婚後は千差万別だが、秦明の様に総兵菅、州の軍事最高責任者、にまでなった人物となれば結婚して子供を産めばまた軍人として復帰する可能性も高い。最前線はむずかしいかもしれないが、何も先頭に立って戦うだけが軍人の仕事ではない。後方の事務作業や、輸送隊の守備など、二線級の仕事はいくらでもある。まあどうなるにせよ、一度任務を離れるわけで、その間の後任の選定作業は彼女の仕事だった。
「愚痴聞きは歩兵都管の業務範囲外なんですけど……」
「そんな冷たいこと言わないで頂戴よ。仕事は明日でも大丈夫でしょ」
「今日中に終わらせて、明日は思いっきり、寝ようと思ってたのにー」
ぐでーっと机の上に突っ伏しながら花栄は恨めしげな声をあげた。
「だめよ。そんな不規則な生活。きちんと決まった時間に寝て起きたほうが美容にもいいのよ」
「言ってること、相当ばばくさいっていう自覚あります?」
「ひどい! ひどいわ! ああもう、なんで私って部下に恵まれないのかしら」
「すいません。じゃあ、明日朝イチで辞表出しますんで」
「うそうそ! ごめん! 謝るから! 冗談だから!」
がたりと席を経った花栄に秦明はしがみついて哀れな声をあげた。
「二度目はないですよ」
「ごめんってばー。機嫌直してよ。明日、点心おごるから、ね?」
「そこまで言うなら付き合いますけど」
花栄はそう言うと腰を下ろした。彼女は別に冷たい人間ではない。ただ単に面倒くさがり屋なのだ。
「それで、後任の話でしたっけ? 黄信とかでいいじゃないですか。私と違って真面目でしょう?」
「ちょっと真面目すぎるけどねー、あなたが副総兵菅になれば釣り合いもとれて丁度いいと思ってるんだけど」
「あ、それは勘弁して下さい。もうこれ以上、出世する意味もないし」
だが、花栄の願いも虚しく秦明は指でばってんを作りながら答えた。
「却下しまーす。まあ、最終的に判断するのは私じゃなくて知州だけどね。私は人事案をあげるだけ。承認するのはあっち」
「ひどいですー、大丈夫、黄信、やれる子、ひとりでできる」
何故かカタコトで言いながら花栄は再び机の上に突っ伏した。
「まあ、黄信に話してもそう言うでしょうね。強情な子だし」
むう、と腕を組みながら、秦明は眉根を寄せた。思わぬ問題に直面した、という感じだ。だが花栄に話したかった問題はこれではあるまい。
「というか、何が問題なんです。もう、どの道、秦明さんの腹は決まってるんでしょう?」
「……これ、内緒よ」
どうやら今のは話の枕でここからが本題らしい。真面目な表情になった秦明は卓にぐっと身を乗り出してささやくようにその話を告げた。
「え? なんですか、それ? 本気ですか?」
今まで他人ごとだと思って聞き流していた、花栄に初めて焦燥の表情が浮かんだ。
「知州がそんなことを言ってきてね、どうしようかと思ってるのよ」
ほうっと秦明はつかれたようにため息を吐いた。
「ちなみに黄信には?」
「教えてない。あの子に教えたら、何をするかわからないもの」
黄信は決して悪い人間ではない。裏表なく一本気で少々自分とうまがあわない(と、花栄は思っているが黄信の方は少々どころではないと思っている)ところはあるが尊敬できる面も多い同僚だ。だがその一本気なところが今回のこの件では決して良い方向に働かないことは容易に想像できた。
「それでどうしようとしてるんですか?」
「だから知州が取り下げるまで、時間稼ぎできないかなーって」
「無理でしょ」
花栄は話題の本人である知州の顔を思い浮かべた。女性の官吏として知州にまで上り詰めた辣腕で有能な点は花栄も認めるが、今回それがいい方向に向かなかったようだ。そして彼女は他の多数の上司同様、一度言ったことを取り下げるような殊勝な性格はしていない。
「……ひょっとして秦明さんが結婚相手決まらないのもそのために?」
後任の話がおおっぴらとは言わないまでも、親しい人間の間では知れ渡っている状況で、その後の彼女の進路、この場合結婚相手のことだが、があまり話題になっていない事実に花栄は気づいた。ひょっとして時間稼ぎのためにお見合いをわざとご破算にしているのだろうか。
「え? ええ、ええ、そうよ。良さそうな人はたくさんいたし―、申し込んでくれた人もたくさんいるんだけどー、やっぱこういう状況だから、お断りしなくちゃいけなくてつらいのよねー」
そう言う秦明の目は泳いでいた。声もうわずり、話す内容もどこか空々しい。
「すみません。なんか聞いちゃいけないこと聞いて……」
「謝らないでよお! 余計惨めになるじゃない!」
まあ考えてみれば自分が男でも仕事のむしゃくしゃで庭石を破壊するような女房は遠慮したいよね、と花栄は思った。
「ねえねえねえねえ、楊志」
「なんなのよ、もう……」
しゃべりはじめの言葉をやたらと繰り返すのが楊志の友人、索超の喋り方だった。普段は気にもとめたことはないが、疲れているときはやたらとそれが能天気に聞こえて、楊志は少し不機嫌になる。
「あのさあのさ、あの話、本当に受けるの?」
立ち止まったこちらに追いつくように走り寄りながら索超は質問をしてくる。
「それはそうでしょう。私たちは梁知府の部下なのよ。命令を聞くのは当然じゃない」
「でもでもでもでも、そうは言ったって、あたしら一応、国のお金で雇われてる兵隊だよ。知府の私兵じゃないよ」
索超の指摘に楊志ははあ、と嘆息する。
「そんなこと、私だって十分にわかってるわ。でもだからと言ってそれを真正面から説けはしないわよ。私はあの人に拾ってもらったも同然なのだから」
苛立たしげに楊志は自分の青い髪の毛先をいじった。
「まあまあまあまあ、楊志の事情もわかるけどね」
「なら放っておいてよ。私も結構、ささくれだってるのよ、この件では」
そう言うと楊志は索超を置いてまた歩き出した。索超はすぐに横に立って歩き出す。
「確かに確かに、そうすべきなんだろうけど、そんな顔されてたら逆にほっとけないよ」
言いながら横を歩いていた索超はひょいっと前に一歩進んで下から見上げるように楊志の顔を見上げた。索超が悪い人間でないことは知っているのだが、その道化じみた行動に楊志はついいらだたしげに声を荒らげた。
「じゃあ、何してくれるって言うのよ! あなたが!」
「だからさだからさ、あたしもついていこうかと思って」
「え?」
そんな索超の申し出に楊志は不意を打たれたように立ち止まる。
その楊志の表情が面白かったのだろう、索超は口を横に広げてにひっと笑った。
「どうせどうせ、楊志以外は男の人ばっかでしょ。そんなんじゃ息詰まるし、何かと不便だよ。部下だから愚痴だってもらせないしさ」
「でもだからって、あなたが来ることは無いでしょう? 女性の武官が必要なら適当に見繕うわ」
なんとなく彼女の言いたいことを察して楊志は額を押さえた。
「だめだめだめだめ。みんな楊志の前じゃ萎縮しちゃうよ。そうじゃないのはあたしぐらいじゃない」
「………」
思わず反論できずに楊志は黙りこくる。
索超の言うことは不遜や誇張を含まぬ真実だった。自分にも原因があると楊志も自覚している。顔が少しこわい……らしいのは生まれつきだからしょうがないが、楊志は索超のように気軽に部下と話すということが苦手だった。命令するなら別なのだが。
つまりきちんと上下関係がはっきりしている状態でないとどんなことを話していいのか、わからないのだろう、情けないことに。向こうからも話しかけられても基本的に仕事中は事務口調なので冷たいと思われてしまっているらしい。いや、自分が優しい人間などと思いあがってはいないが、人並みに感情も慈悲も持ち合わせている、つもりだ。
「でも、ここの仕事はどうするのよ。私もあなたもいなくなったら残った人が困るんじゃないの」
それが大して有効な反論とは思わなかったが念のため、といった調子で楊志は尋ねる。
「そんなのそんなのそんなのそんなの、誰かに任せりゃいいよ。どうせ書類仕事とまだるっこしい調練の監督だけだもん。絶対、あたしじゃなきゃいけないってわけじゃないし、梁知府だって護衛の兵力が増えるんなら文句言わないよ」
はあ、と楊志は再度ため息を付いた。こうなったらこの子供のような勝手気ままな彼女は自分がなんと言おうとも考えを曲げたりはしないだろう。
「勝手にして。でもついてくるなら私の指示に従いなさいよ」
いいつつもどうせ聞かないのだろうな、と楊志は心のどこかで諦めていた。
「当然当然、やー、東京開封府、一回行ってみたかったんだよね」
やっぱその程度が本音か、と楊志は心のなかでつぶやいた。少し安堵している自分に気付かずに。
「燕青、まだあなた起きてたの?」
「お嬢様こそ」
燕青は自分の主、盧俊義の姿を認めて驚愕した。もうすでに子の刻、真夜中に近い時刻だ。だがそれは向こうも一緒だったようで盧俊義の眼が開かれているのがロウソクの薄明かりのなかでも燕青にははっきりわかった。
「一体、何をやってるの? こんな時間まで」
「はい、少々調べ物を。お嬢様は?」
「私は眠れないから白湯でももらおうと思ってたところよ」
そうはいうが使用人もこんな時間には起きていないのだから、自ら湯を沸かすつもりだったのだろうか。
「丁度いいわ、あなた、用意してくれる? 二人分よ」
「かしこまりましたが……二人分ですか?」
「あなたの分よ。なんだかわからないけど、少し休憩しなさい」
どの道、自分も一段落して休もうとしていた頃なので、燕青は主の言うことに素直に従うことにした。
燕青が湯を沸かして戻ってくると、盧俊義は自分が作っていた資料を興味深げに眺めていた。
「これは……」
「最近、酒や茶の交引を持ち込む人が多くて気になって調べてみたんです」
「ふむ……」
交引とは簡単に言ってしまえば商品券である。この時代、酒・茶・塩等は国の専売でそれを買うにはまず専用のこの交引を購入し、しかるのちに、この交引と商品を取り替える。持ち運びに便利がいいので有価証券、すなわち紙幣のように扱われることもあった。
盧俊義の商売は親から受け継いた質屋である。ものを預かり、あるいはそのまま買い取り、そして金を出す。買ったものはまた別の場所に売る。金が返済されないまま預けられたものも同様だ。そうした商売の中で交引はある程度、安定した価格で販売できるので、よく扱う商品の一つだ。
「偽物ではないのよね」
「それは調べました。おそらく問題無いと思います」
「じゃあ、どういうことだと思う?」
燕青は黙っていれば美少年ともとれる端正な顔立ちを少し曇らせて答えた。
「塩がまた値上がりするかもしれない、という噂を聞きました。今のうちに少しでも現金を手に入れて塩を買っておこうという人が多いんじゃないでしょうか」
塩・酒・茶。この中で生活に絶対的に必要な物が塩だ。酒や茶は水で代替できるが塩の代わりになるものはない。故に茶や酒は値上げすればそれなりに買うものも減るが塩だけはそうはいかず、庶民は泣く泣く、高い買い物をするしかないのだ。
「そうね、それでどうすべきだと思う?」
「我々も塩を大量に買うとかですか?」
「違うわ」
燕青の答えを盧俊義は即座に却下した。
「盧俊義様は塩の値下げはありえないと?」
「いいえ、交引を持ってきた客の記録を見るとほとんどが官僚や軍人の縁者よ。おそらくその噂は間違いないでしょう」
燕青が見ていた書類を手に取りながら盧俊義は言う。
「ならばなぜ?」
「残念だけど、既に私達は出遅れているのよ。今からでは大した儲けにならないわ。それよりも、この値上げの噂をもっと徹底的に広めなさい」
「広げるんですか?」
「そう。そして明日から買い取り基準も下げて多少質の悪い物も買い取りなさい。もちろん、相場よりかなり低い額でね」
つまり、今までは値が付けられないような粗悪品も買い取るということである。
「塩の値段があがるという事はね、物の値段が全て上がるということなのよ。つまり、今は塩でなく商品ならなんでも手に入れておく時期なのよ」
塩は生活に必要なものである。塩が値上げすればその分、給与を上げなければ人は生きていけない。給与を上げれば、商品の値段も上がる。経済用語でインフレ―ションと呼ばれる現象だ。
「そのために今、皆にはモノを手放してもらわなければいけないわ。だから噂を広めて焦らせるの。今急いで現金を手に入れて塩を買っておかないと、とね。中には財産を捨ててまで転売目的で塩を手に入れようとする人もいるかもね」
燕青はそこでようやく気づいた。盧俊義の狙いは塩でなくその次にあるのだ。
「結構じゃない。存分に儲けて貰いましょ。ただし、現金はいくらあってもそれだけではご飯を食べることも寒さに耐えることもできない。そうやって成功したこの街の人たちの何人かが私達のお客様よ。高い金で私達の在庫を買い上げて貰うの」
「な、なるほど……では早速」
燕青は即座に部屋の中から駆け出そうとした、が、それを留めるように盧俊義はまた声をかけた。
「ええ、明日の朝から動くために今日はもうやすみなさい」
「え? しかし……」
思わず反論しようとした燕青の額をとんと扇で軽くつつきながら盧俊義は厳しい顔で言う。
「あなた、ここ最近働き過ぎだわ。そんなんじゃ、いざって言う時に動けないわよ」
「ですが……」
「私の言う事が聞けないの?」
燕青の主は少しだけ視線を鋭くした。
「……わかりました」
その視線の強さに燕青は諦めたように引き下がった。
「それでは、明日、日の出と共に指示を出して街に向かいます」
「ええ、お願いね」
本当はそこまで早く動く必要もないが、それを言い出してももはや燕青はいうことを聞くまい。盧俊義はそう判断してあっさりと会話を終わらせた。
燕青が部屋を出てから盧俊義はもう一度、燕青の作っていた資料を眺めた。ただ、その内容は頭に入らず、思うのは別のことだった。塩の値上げは既に今年に入って二度目。今の皇帝になってから七度目だ。値上げの間隔も次第に短くなってきている。農民や市井の人たちがいったいいつまでこの状況に耐えられるだろうか。
(この傾向がこれ以上続けば……)
叛乱が起こる。その懸念を飲み込んだ盧俊義の氷のような表情ををロウソクが照らしていた。
血。次に血肉血血血肉血骨血血。さらに血血血槍血血肉血斧血剣血血。そして自分の拳。血。
違うんだ! 闇の中で自分がまくしたてるように否定していた。一体誰に向けた言い訳なのか、わからないまま。
違わない。返答はすぐ近くから聞こえてきた。足元に転がっている右半分が砕けたしゃれこうべがかろうじて無事な歯をカチカチと鳴らしている。
お前がやっただろ。お前が殺しただろ。お前が壊しただろ。
知ってる! それは認める! ボクが言いたいのは……!
ここまでやるつもりは無かったってか? 嘘だね。実にあんたは楽しそうだったよ、俺の眼球をえぐり出した時なんか満面の笑みをうかべてたぜ。
だからそれは……!
なんだ? 意識を失っていたか? 我を忘れていたか? だから自分とは関係ないと? 本当にいい切れるか?
………
そうだとして、だからなんだってんだ? お前が危ないっていう事実にはなーんの違いもない。みろよあいつらを。
え?
何故かしゃれこうべが言う対象がいる場所がわかって、武松は振り返った。いや、わからないはずはないのだ、だって彼らがそこにいることはわかっていたのだから。
怯えた目をした子どもたちがいた。顔を背ける老人がいた。震えて動けない女がいた。それを守る様に立ちはだかる男がいた。
ど、どうしたの? 悪い山賊はみんないなくなったよ。
自分がそう呼びかけても彼らの態度は変わらない。むしろ、逆に体を強張らせた。一体何に怯え、震えているというのか。
おいおい、冗談はよせよ、嬢ちゃん。決まってんだろ、あんたがこわいんだよ。あんたが。
そう言ったしゃれこうべはどこか、笑っている様に見えた。もはや笑みを形作る筋肉も皮膚も残ってないというのに!!
でも、ボクは君等みたいに他人のものを奪ったりしない!
かもな。でも普通の人間は殺す時に笑いながら耳ちぎったり、腕をもいだりもしないもんだ。
だから、それは……!
なあ、わかってるんだろ。
それは宣告だった。あるいは真理かもしれない。
お前もこっち側なんだよ。一緒に踊ろうぜ、化け物。
「違う!!」
がばりと寝台から体を跳ねる様に飛び出した武松はそう言って、不意に変わった周りの風景に目を瞬かせた。
「夢……?」
その事に少しだけ安堵を感じ、直後にそれとは比べならない程の絶望が彼女を襲った。夢だったのはいい。でもあの光景は、骸骨はしゃべらなくともあの光景は確かに過去にみた自分の記憶そのものなのだ。
「嫌だよう……もう、あんなのは、嫌だよう……誰か、何とかしてよう……」
彼女のか細い嗚咽に応えるものは誰もいなかった。
夜は嫌いじゃない。空にきらきらしたきれいなものがたくさん見える。星、というらしい。大きなのが、月。
でも残念なのはどれだけ高く飛んでも鳥やうさぎと違って捕まえられないことだ。ばあちゃんは、だからよけいに綺麗に見えるのかもね、と笑っていたけど、李逵にはよくわからなかった。
ぎゅっと星をつかむように手を握る。もちろん、手の中には何も残らない。今まで何百回と、あるいは何千回と繰り返してきた行為だ。
だが今回は何かが違う感覚があるような気がした。そう思って試しに手を開くがやはりいつものように、手の中には何も残っていない。
風が吹いた。李逵はその冷たさに体を震わせた。
「寒い……」
ぽつりとつぶやく。夜も昼のように暖かければいいのに。そんなことを考えながら李逵は自分のねぐらに戻るべく踵を返した。
というわけでばばっとキャラを色々出してみました。しかし、全員が本編に登場するのはいつ頃になるのやら……(執筆速度的な意味で)
次回より、第二話 蠢動編の開始です。ご期待ください。