その二 武松、虎に襲われるのこと
「女将さん。これ預かってもらえませんか」
「なんだい、これ。……手紙かい?」
「ええ、表に書いてあるの僕の名前です。ここに僕のことを尋ねに来た人がいたら渡してください」
「……しばらくしたら捨てるよ」
「構いません。でも、渡したらきっとその人からお礼もらえると思いますよ」
宋江がそう言うと女将は少し疑わしげな視線をこちらに投げつつもその手紙を後ろの棚へとしまった。
宋江が書き残したのは秦明や楊志に当てた手紙である。と言っても盗み見されても困るので宛名も書いてなければ書いた内容も簡素なものだった。書いてあるのはこの宿に到着した日と出発する日の日付。それと特に問題は起きてないの一言だけ。
とは言え、この手紙が楊志達に無事届くかどうかは未知数である。楊志たちがルートを変更するかも知れないし、そもそも手紙が無事に保管されているかどうかの保証も無い。それでも宋江は(前回その辺りで呉用に大目玉を食らったことも有り)こうした書き置きを各所でまめに残していた。
「宋江、そろそろ出るよ」
「わかりました」
花栄に声をかけられ旅籠を出る。最初にこの宿についたときに女将が言ったとおり、三日後になって旅籠に泊まる面々は自分たちを含めて十数名となり、虎が出るという問題の景陽岡を超えることになったのである。
「七も清も忘れ物無いよね」
「はい、兄様」
「だいじょーぶ、むしろお兄ちゃんのほうが心配だけど、お金忘れてたりしない?」
「うん。平気だよ」
宋江が持ち歩いている金はその気になれば一家族が一生遊んで暮らせるほどの代物である。だから宋江は携帯しやすいように、交引(紙幣)や金銀と言ったものに変えた上で、常に肌身離さず、身につけている。
「武松も大丈夫?」
もう一人の同行者、ではないが、ほとんどそれに近くなった人物に声をかける。すっぽりと外套をかぶった彼女はこくこくと無言で頷いた。自分たち以外の同行者は彼女の事をうさんくさげに見ているが、それでも武松は外套を取る気は無いようだった。
「おーし、これで全員だな。出発するぜ!」
自分たちの後に数名旅籠から合流すると年かさの男が声を上げた。今日一日だが年長の彼が一応この集団のリーダーと言うことになっていた。
こうして、朝早く、宋江たちを含めた一行は人食い虎の住まう山を目指して出発した。
水滸伝は後半は宋江という梁山泊の頭領を主軸に語られるが、前半は色々な人物が登場し、代わる代わる主人公を務める群像劇の物語となっている。その中には魯智深、林冲、楊志といった面々がおり、その中でももっともページを割かれているのが武松という人物である。
水滸伝によれば、武松、あるいは行者武松と呼ばれるこの人物は大変な豪傑で、素手で人はおろか、猛獣ですら殴り殺せるような人物だった。そしてその強さに見合った気性の荒さ、大胆さ、そして勇猛さを兼ね備えた人物である。
ちらりと宋江は背後を振り返る。この一団の最後尾、そこにはその『武松』がいる。目深に外套をかぶったままで表情はわからない。
もちろん、今述べた宋江の知識がまるであてにならないという事に驚きはしない。そもそもこの世界が一体何なのか、自分の世界にあった水滸伝という物語とどう関係しているのかさっぱり不明なのだから。
ただ、今まであった面々、林冲や魯智深、花栄などは性別こそ違えど、皆、どこか物語の片鱗を残していた。端的に言うとべらぼうに強い。だがこの武松という人物にはそうした雰囲気がまるで見えない。これは宋江の独断では無く花栄も同意した。
「騙ってるわけじゃないと思うけどね。特にあの腕の細さはごまかしようがない」
というのが彼女の意見である。
花栄の言うとおり、武松は全体的に華奢な体つきをしている。言葉を選ばずに表現すると欠食児童のような体つきだ。宿にいる間は宋江が金を出して多少無理にでも食べさせたので今は多少ましになっているが、それでも手首の細さなどはこの中でもっとも小柄な宋清とそう変わらない。
「そろそろ、鳴り物を鳴らすぞぉ!」
先頭の男が声を上げ、同行している面々は手に持った太鼓や鐘を派手に鳴らし始める。音で驚かして虎が近づいてこないようにしようという意図だろう。宋江も宿で購入させられた小さな銅鑼をジャンジャンと鳴らした。
「来ますかね?」
「こういう時は、来ると信じることにしてる」
花栄に聞くと彼女はこちらに顔を向けること無くそう答えた。
先程述べた武松が猛獣を素手で殴り殺す場所。それがまさしくこの景陽岡なのだ。
物語では武松は複数人で行った方が良いという宿の忠告を無視して、たった一人で景陽岡に登り、そして見事これを打ち倒す。つまり、武松という名前の人間がここを通っている以上、人食い虎が出くわす可能性は非常に高い。もちろん、この辺りの事は事前に花栄や宋清たちにも説明していた。
もっとも、そういう意味では既にこうして集団で登っている時点で物語の流れとは異なる。だから虎がこのまま姿を現さないということも十分に考えられる。もちろんその方が良いに越したことは無いのだが。
「けど、こっちはこんなに大勢なんだよ? 本当に来るの?」
と鐘や太鼓の音がうるさいせいか、阮小七が声を張り上げて花栄に尋ねる。
ちなみに花栄だけは楽器の類いを持たず、弓に矢をつがえた完全な戦闘態勢だ。周囲の人間が何か言いたげに花栄を見ることもあるが、花栄の雰囲気におされてか、実際には口には出してこない。
「何度もこんな事をやってたら、虎だってそのうち音には馴れてくる。もし、虎が怖がらないなら、この鳴り物は逆にこちらの位置を教えるだけだ。それにどのみち、おなかをすかせてたら、いくら危険とわかってても、襲ってくる時だってある。虎に限らず、動物ってのはそういうものだからね」
花栄は油断なく辺りを見回しながら淡々と答えた。その様子に宋江も緊張して、彼は思わずごくりとつばを飲み込んだ。
まただ。またあのうるさい音がする。ジャンジャンドンドンと騒がしい大きな音。
彼の世界には獲物と同族と自分しかいない。それは不完全な世界だが、彼にとってはそれは必要十分な世界だった。故に、それ以外の何か得体の知れないものを受け入れる必要は無い。未知なるものはすなわち危険な代物だった。
だが、彼は腹が減っていた。ここのところ、あの美味しそうな毛の無い猿のような獲物が現れない。鹿や鳥は嫌いでは無いが、ここ最近は数が少ない上に、同族との取り合いになることも多いので成功率が高くないのだ。
ひくり、と彼の鼻が動く。あの猿のような獲物の匂いだ。あのわけのわからない大きな音の方から匂いが流れてくる。獲物をとるか、不可解な音をさけるか、彼はしばらく悩んだ後、そっと、脚を動かした。
「ねー、まだ太鼓ならしてなきゃ行けないの? 疲れちゃったー」
「そう言わないで頑張って。もうあとちょっとで頂上らしいから、そこを超えたら後は下り坂だしね」
太鼓をたたきながらも、ぐずり始めた阮小七を宋江はそう言ってなだめる。この景陽岡の道は大きな岩がいくつもごろごろと転がっていて、歩きやすいとはお世辞にも言えない。そこを両手を鐘なり太鼓なりを叩きながら歩くのだから普通に歩くよりもずっと体力を消耗する。夏は過ぎたとはいえ、気温もまだまだ高い。宋江は既にじっとりと全身に汗をかいていた。
「ぶー。今日は山を下りたらすぐ休めるんだよね」
「そうだね。最初の村でどこかに泊まれるようにお願いしよっか」
宋江はそう言ってから周りを見回す。阮小七はああは言うものの、文句を言うだけ元気だ。宋清は割と余裕を無くしているのか、さきほどからはあはあと息が荒い。とはいえ、虎が出るかも知れない山の中で休憩などとれないのだから、頑張ってもらうしか無いのだが。そして、そのさらに後方。
「は……はひ……。お、おなか、おなかいたい……」
武松は宋清以上に余裕が無かった。荷物を馬に乗せてる宋清と違って、自分で荷物を背負っているというのもあるだろうが、外套のせいで熱がこもっているのだろう。それでも彼女はかたくなに外套を脱ごうともしなかったし、こちらが申し出ても荷物を馬に乗せようともしなかった。
「ぶ、武松さん。大丈夫? 水飲む?」
と何度目か、宋江は尋ねるが彼女はふるふると首を横に振る。こちらの話に応じることすら億劫そうなので、宋江もそれ以上何も言えず再び馬を引きながらジャンジャンと鐘を鳴らす。
一方、花栄はこの最中に汗一つかいてない。鐘を叩いていないと言うだけでなく、やはりこの集団全体を見回してみても抜きん出て体力があるのだろう。そのまま、辺りを油断なく見守っている。
「よ、よーし、みんな。ここを登れば頂上だぞ」
と隊の先頭に居る男が声を上げる。聞いた話だと彼は既に何度かこの道を往復した経験があるらしいので、その言葉は信用して良いだろう。
低木に囲まれた道からぱっと視界が広がる。だが、最後のいやがらせとでも言いたげに目の前には今までと比較にならない急勾配の山道が続いていた。おまけに左手は崖になっていて危なっかしいことこの上ない。当然、手すりなどと言った親切なものは用意されてないので、落ちれば崖まで真っ逆さまだ。ちなみに右手は宋江の背丈ほどの岩壁が並び、そのせいで道は非常に狭い。
「嫌な地形だね」
「え?」
と花栄の言葉に思わず反応する。
「上からは丸見えでしかも逃げ場がほとんどない。左手は崖だし、道は細い」
「確かに」
と宋江は答える。ついでに言えば頂上の直前ということは、つまり体力的にも消耗しきっていて一番つらい場所だ。
とはいえ、できることは少ない。引き返したところでどうにもならないのだ。強いて言うならなるべく短時間で駆け抜けるぐらいだろうか。
だが、先頭の男たちはわかっていないのか。わかっていてても実行できるだけの体力が無いのかゆるゆると登っている。花栄が何も言わないということは後者だと判断したのだろう。となれば、宋江にできるのは精々、今まで以上に鐘を激しく鳴らすのと、周りの面々に気を配ることくらいだった。
「清、七、二人とも大丈夫?」
「は、はい。大丈夫です」
「お兄ちゃん、おんぶー」
二人の言葉を聞いて大丈夫そうだと判断して宋江は馬を引く。問題は残る一人、武松。
「武松さんも大丈夫ですか?」
「………」
こくこくと無言で頷く。もう答える元気も無いのだろう、と宋江が思ったその時、
「全員下がって!!」
花栄の鋭い声が響き渡る。何が起こっているのかはわざわざ問い返す必要も無い。顔を少し上にあげれば十分だった。自分たちの行き先である山の頂上。そこにこの山の主は自分だと言わんばかりに、一頭の虎が頂上からこちらを睥睨していた。
「清、七、二人は馬に乗って!」
宋江はそう叫ぶとあらかじめ簡単にほどけるようにしていた馬の荷物をその場に落とす。最悪この二人はこの場から馬に乗って脱出してもらうしか無い。とはいえ、この山道で馬が虎に追いつかれないかどうかは不安だったが。
「ひっ! ひぃっ! 虎! 虎だ! 逃げろ!」
一方残る面々は慌てて背を向けて押し寄せるようにしてこちらに向かって逃げてくる。
「馬鹿! 背を見せるな!!」
花栄が叫ぶがもう遅い。虎は耳を塞ぎたくなるようなうなり声を上げて、頂上から一直線にこちらに向かって走ってくる。
「ど、どけっ!」
「きゃっ!!」
と男の一人が宋清を突き飛ばす。
「危ないっ!」
と宋江が慌てて倒れそうな彼女を支える。この状況で転んだりしたら冗談で無く命に関わる。
「兄様。ご、ごめんなさい」
「謝らなくて良いから! それより速く馬に!」
「宋清ちゃん、こっち!」
既に素早く馬に乗っていた阮小七が手を伸ばす。彼女も余裕が無いのか、呼び方が普段のものに戻っている。もっとも宋江とて、それを指摘する余裕は無い。宋江は宋清を持ち上げて彼女を馬に乗せた。
「宋江! 虎がそっちに!」
花栄が矢を放ちつつ、叫ぶ。虎には既に花栄の矢が何本か刺さっているが、虎はそれをものともせず、右手の岩壁の上を飛ぶように走りつつ、こちらに向かってくる。
「ぐわおおおおおお!!!!!」
「こっち来るな!!」
虎と自分たちの間に宋江は即座に木を生やして突進を防ぐ。だが、虎はもとからこちらを目指していなかったのか、無視して自分たちのさらに背後に回る。その先には先ほど宋清を突き飛ばした男たちがいた。
「七! このまままっすぐ上に行って」
「わかったけど、宋江は!?」
「後から行く!」
宋江の視線の先、そこには足場の悪い山道を必死に逃げる男たちもいるが、それとは別にどうやら同じように押し倒されたらしい武松もいる。どちらにしても見捨てるのは寝覚めが悪い。
男の一人が足下の岩に足を取られて転ぶ。先頭を走っていたその男に虎は猛然と襲いかかった。
「近づくなってば!!」
宋江は再び、木を虎の突進する進路上に生やすことで犠牲者を出すのを防いだ。即座に花栄の何本目かわからない矢が虎に突き刺さる。
「上に登るんだ! 早く!!」
花栄の性格からして、それは全員にというより宋江に投げかけられたものだったのだろう。だが、その声は宋江以外の全員に届いたし、どの道、退路を断たれてしまえば、男たちに選択肢は無い。男たちは再びきびすを返して頂上へ走る。その途中で再び武松が突き飛ばされた。
「ああもう!!」
男たちがわざとかどうかはわからなかったが、それを追求する余裕も無い。宋江は唯一逆に虎に近づくようにして、武松を助け起こした。
「宋江!!」
「花栄さんは二人をお願い!」
非難の色がわずかに含まれた花栄の呼びかけに宋江はそう返す。
「立てる!?」
「………」
武松には何かしら言葉を返す余裕は全く無いようだった。黙ってこちらを泣きそうな顔で見上げてくるだけだ。だが、少し観察すれば彼女が既にまともに歩けそうに無いのは明らかだった。おそらく腰が抜けたのだろう。
「ふんっ!」
宋江はそう気合いを入れて彼女に肩を貸して立ち上がらせた。腰が抜けた彼女の体重がこちらにもろにかかってくる。
(虎は!?)
武松を支えつつ慌てて左右を見渡す、必要は無かった。虎はすぐ目の前にいて、今まさに自分たちに襲いかかろうとしていたからだ。
「ぐっ!」
足下に即座に木を生やし、三度、虎の突進を防ぐ。わずかな時間すら稼げそうになかったが、虎は先ほどから植物に妙に邪魔されているせいか、警戒の色を露わにしていた。ただし、その目はこちらをしっかりと捉えている。
「このっ!」
花栄の矢が虎に刺さるが、虎はびくともしない。
(まさか、こんな早々に使うことになるなんて!)
と宋江出発の際に雷横からもらったあの短刀を懐から取り出して片手で握った。虎相手にこれがどれほど役に立つかはわからないが、丸腰よりはましだろう。
(来てみろ。差し違えてでも喉にこいつをお見舞いしてやる)
そんなつもりで虎をにらみ付けると虎はゆっくりと宋江の周囲をうろつき始める。距離を広げようとして足を後方に動かすとカラカラと石が落ちていく音が聞こえた。
(まずい……)
そういえばこの道の片側は崖になっていた、と思い出す。それを背後にするようにして自分は立っていた。いや、立たされていたという方が正しいのかも知れないが。
「あ、あ、あ、ご、ごめ、めんな、め、め……」
なんとなく横の武松が謝罪を述べているような気がするが、それに応える余裕は宋江には全くない。代わりに宋江は叫んだ。
「しっかりつかまってて!!」
片手は短刀を持っているため、今、宋江は片手を武松の腰に回して彼女の身体を保持していた。
ビスビスビスと立て続けざまに虎に花栄の矢が刺さる。虎が宋江と花栄の両方をちらちらと見る。
(清と阮小七は逃げられたのかな)
ちらりと宋江は花栄の背後を見る。阮小七がこちらに走ってこようとする宋清を必死に止めているのが見えた。
不意にどんと軽く身体を押された。何が起こったのかと押された方角、すなわち、自分の右手を見ると武松が自分から離れた場所で、倒れ込むようにへなへなと座り込んでいた。そしてその唇が、わなわなと震えながら動く。
「に、げ、て……」
「武松さ……」
「だめ!」
手を伸ばしかけた宋江を走ってきた花栄が即座に後ろに引き倒す。めまぐるしく変わる視界の中で宋江は虎が武松に襲いかかるのをはっきりと見た。そしてそのまま一人と一頭は谷底へと転落していき、宋江の視界から消える。
「くそっ、武松さん! ……花栄さん、二人をお願い!」
「ああもう、だから嫌なんだ! あんたとつるむの!!」
と言いつつも花栄は即座に宋江の上からどく。宋江は崖に枝を生やすと、すぐさま転がり落ちるように崖から落ちていく武松と虎の後を追った。
「ご、ごわ、ご、ご、ごわがったよぉーーーー!!!」
結論から言うと、武松は無事だった。若干顔やそこかしこに擦り傷はあるようだが、それでも虎と一緒に崖から落ちたという事件の結果としてはほぼ無傷と言って差し支えないだろう。
「よしよし、大丈夫、大丈夫。もう怖い虎さんはいないからねー」
とその武将を阮小七が赤子をあやすように頭を撫でて慰めている。案外、面倒見の良い人間なのかもしれない。
(そういえば、阮小二さんの妹さんなんだよね)
ふと、宋江は彼女の姉のことを思い出す。彼女の姉もまた面倒見の良い人物だった。
「兄様。兄様はお怪我はないのですか?」
「僕は何とも無いよ。ごめんね、心配かけて」
「い、いえ、よ、良かったです。兄様が無事で……」
ほっとしたのか、宋清は倒れ込むようにこちらの胸元に顔を埋める。それをよしよしと撫でてから、宋江は残る一人に声をかけた。
「花栄さん、どう?」
宋江の視線の先で元狩人の彼女は虎にぐさりと剣を刺してから顔を上げた。彼女の背後で虎の身体からぶびゅっと勢いよく血が吹き出る。
「今、喉を刺した。まあ、ほぼ間違いなく元々死んでたけどね。……何があったの?」
「さあ。僕が来たときにはもうそんな状態でしたから……」
と宋清の頭を撫でながら宋江は答える。
宋江が崖底に降り立ったのは武松と虎が落ちて間もなくのことである。だが、その時には既に恐怖で泣きわめく武松と死んだように(実際死んでいたのだろう)動かない虎の身体だけが残されていた。そこで武松の面倒を見ていたところ、別のルートを通ってこの谷底に降りてきた花栄達と合流したのがつい先程の事である。
「崖から落ちて頭を打ったとか」
「虎が?」
宋江の思いつきに花栄が疑わしげな声色で答える。
「考えにくいですか?」
「少なくともあたしは見たことも聞いたことも無い。確かにあんたの言うとおり、頭蓋がぱっくり割れたけどね」
「武松さんと一緒に落ちて、不自然な体勢になったせいで虎もうまく動けなかったとかでしょうか」
「それで代わりに武松はうまいこと虎が下敷きになったせいで、大けがを負わずに済んだって?」
あり得ないでしょ、と言いたげな視線を花栄は向けてくる。が、それは可能性が極めて低いというだけで何か別の仮説を提示できるわけでも無さそうだった。
「原因はとにかく、幸いにして、全員大した怪我も無く済みましたし……早々に山を下りませんか」
「……だね。これ以上時間かけると野宿になりかねないし。虎が居なくとも、こんな山の中はごめんだよ」
だが、結局のところ、宋江も花栄もさほど虎の死因に興味があったわけでは無い。終わりよければ全て良し、ということで、宋江は未だ腰が抜けたままの武松を馬に乗せると全員そろって山を下りていくことにした。