その十 宋江と宋清、新しい生活を始めるのこと
「つーわけで、ここが貴様らの新しい家だ!」
村に帰ってきた次の日、つまり丁礼達から結婚報告を聞いたり宋江が呉用と色々話したりした次の日、昨日の状況が嘘のように元気を取り戻した晁蓋は宋江と宋清を晁蓋の屋敷の隅にある小さな小屋へとつれてきた。ぼろぼろの小屋である。長い間、使われていないのか損傷が激しい。
「誰も手入れしてないみたいだね」
「そうだなー、ここ十年くらい使われてないぞ。俺も来るのは久々だ。まあ、あんまりひどかったら引き続きうちで居候してけ」
そういいながらがちゃがちゃと鍵らしきものを晁蓋はいじっていた。ややあってカチャンと音がする。
「おーし、開いた」
がらりと開けると室内はほとんど物も無く整理されていた。だがやはり長期間放置されただけあって濃厚にほこりとかびのにおいがした。
簡素な部屋だった。土間とそこから一段上に上がった板張りの床があるだけで部屋の仕切りのようなものは一切無い。奥にあるさらに一段上の台はおそらく寝台だろう。広さは土間の部分を含めて15平方メートル程度、すなわち、六畳分ぐらいの面積しかない。
「わあ、いいんですか、こんないい場所使わせてもらって」
いい場所? と宋江は内心つぶやいたが、宋清が喜んでいる手前、あまり表にだすわけにもいかず、黙っていた。
「誰も使ってねえからな、遠慮なく使え」
「ありがとうございます」
宋清に対して晁蓋は気にするな、とでも言うように手を振ると今度は宋江に向き直った。
「んじゃ、宋江。お前には仕事の説明ついてきな」
「あ、うん。清。一人で大丈夫?」
「は、はい。がんばります!」
「掃除道具はばあさんに言えば貸してもらえる。宋江はこっちきな」
そう言って晁蓋は宋江を伴って家の門へと移動した。
門の近くで九頭の馬たちはもそもそと草を食みながらやや窮屈そうにしていた。周りには村の人たちもいる。昨日、晁蓋が馬を大量に連れ帰ったことは知れ渡っていたので、呉用の提案通り、借りに来たのだろう。今は田植えの前の土作りの時期なので馬は貴重な労働力だ。
晁蓋は意外にもまめに誰が借りに来たのか、記録をつけていた。馬は一日あたりで十文で貸し出すらしい。日雇いの労働者の給与が百文だというから、おおよそ千円弱くらいだろう、と宋江は思った。金は貸すときに受け取る。
「これが明日からお前の仕事な」
帳簿を宋江に向かって放り投げながら晁蓋はそう言った。
「で、ここからが本格的な仕事だが、まず新しい馬小屋をつくってやんなきゃな。とりあえず雨よけのひさしから始めるか」
「念のため聞くけど、木材は?」
「あ? そんなの近くの山から取ってくればいいだろ」
「ですよねー」
ここでも晁蓋は超人っぷりを発揮した。素手で木を切断すると次々に山から一人で運んできた。もう、あいつ一人に任せればいいんじゃないかな状態である。一応、その間、宋江は柱を埋めるための穴を掘っていたのでいるのが全くの無駄と言うわけではなかったが。
「なんでぇ、まだこんだけしか掘ってなかったのか」
「晁蓋と一緒にしないでよ」
スコップも木製の出来損ないのようなものしかないのでひどく効率が悪い。晁蓋の指示によれば、一尺(30cm)ほど掘っておけばよいということであったが、晁蓋が必要な木材を全て山から持ってきた頃、ようやく、二つの穴だけが完成していた。夏になりかけの日差しはぎらぎらと照っていて宋江の体は既にあせだくだった。
「おいおい、こんな割合じゃ屋根つけるのに三日はかかるぜ。どーすんだよ雨が降ったら、馬が病気になっちまうじゃねーか」
「だ、大丈夫だよ。多分、雨は四日ぐらいはふらないから」
「はあ? なんだそりゃ」
宋江は水を一口だけ飲んでから回答した。
「なんとなくそう思うんだ」
「手抜きしたくて、言ってるだけだろ」
「そうじゃないよ」
口を尖らす宋江を見て晁蓋はまあいいか、と言った。
「四日も先は知らねーけど、少なくとも今日は雨が降らなそうだからな」
そう空を見上げて言った。宋江も釣られて見上げる。本日は快晴で雲ひとつ無い青空が広がっていた。
「ま、とりあえず、午前はこんなとこでいいか。おい、穴後二つ開けときな。俺は昼飯くったらまた戻ってくる」
晁蓋はそうとだけ言って宋江を残していった。晁蓋の言うとおり、穴をさらに二つ作ってほっと一息いれているところで、宋清がちまきをもってきてくれた。
「お昼にしませんか。おばあさんが兄様に持っていけって」
「あ、ああ。ありがとう、かく……じゃないか清」
この新しくできた妹に宋江はいまだに距離感を測りかねていた。同年代や親戚の小さい女の子なら相手にしたことあるが一人っ子だった宋江は四歳年下の宋清に対してどうしたらいいか、わからなかった。
「午前中は何をされてたんですか?」
「晁蓋が新しい馬小屋作るって言ってね、その柱を埋めるための穴を掘ってたんだよ。そっちはどうだった?」
幸いにも宋清が話題を振ってくれたのでそれに乗っかることにした。
「あ、はい。大体お掃除は終わったんですけど、ところどころ、ねずみに食われてたのか、壁に穴があいてまして……とりあえず応急措置で藁を埋め込んでいます」
「そう、ごめんね。何もかもやらせちゃって」
「そんな、兄様はお仕事をされてるのですから、このくらい私にさせてください。午後にはお屋敷の方から荷物を持っていこうかと思っております。兄様の荷物も動かしておきますね」
「いいよいいよ、悪いし。自分でやるから」
大した量ではないがそれでも女の子に荷物を運ばせるのは抵抗があった。
「そうですか?」
「清は僕が雇ってるお手伝いさんじゃないんだからそんなことはしなくてもいいんだよ」
「そんな……家族なら助け合うのは当然ですよ」
少し宋清は語気を強めた。
家族。日本にいたときは空気のようにほとんど意識したことが無かった言葉だ。そうか、自分とこの子は家族になったのか、と思いながら宋清を見下ろした。握りこぶしを作って彼女もこちらをじっと見上げている。その必死さがどこか愛らしいものに見えた。
「じゃあ、甘えようかな。お願いね」
「はい。兄様は午後も馬小屋作りですか?」
満面の笑みをたたえて宋清はそう聞いてくる。
「そうだね。後は多分、馬を借りていった村の人たちがまた返しに来るからその記録もしなきゃいけないけど」
「記録? 兄様は字が書けるのですか?」
「ま、まあ少しくらいは」
宋江はこの世界の中国語を読むときにはほとんど問題ない。だが書くほうは一から本などを読みながら独学で覚えている状態で、最近ようやく、いくつかの単純な文章がかけるくらいだ。もっとも馬屋番の仕事は相手の名前と日付の書き方さえわかれば大した問題ではない。
「すごいですね、兄様は」
「清は書けないの?」
「えっと百までの数字と自分の名前だけです……あ、でも私、苗字変わったんでした」
少し恥ずかしそうに宋清は答えた。この時代、文字が読めない・書けないというのは珍しいことではない。
「兄様、私の新しい名前、どう書くのか教えて頂けませんか」
「え、えっとこうだね」
地面の上に枝で、宋清と書く。
「えっと……こうですか」
宋清がまねるようにして同じ字を地面に書く。
「うーん。あってるけど書く順番が違うかな。この字は一番上の縦線を最初に書くんだ」
「は、はい」
もう一度、宋江は『宋』の字をゆっくりと書いた。
「わかった?」
「はい!」
今度は宋清も間違えなかった。正しい順番で『宋』の字を書く。
「これでもう大丈夫だね」
「はい。あ、そういえば兄様の名前もどう書くのか教えてください」
「あ、うん。こうだよ」
今度は宋江と地面に書く。宋清は今度は一度でちゃんと書いた。
「これ、どういう意味なんですか」
江の字をさして宋清は聞く。
「川って意味かな。すごく大きな川のことだね」
「川……ですか?」
きょとんとした顔で宋清はこちらを見上げてくる。
「長江っていう川知らない? ええと南……のほうかな? そこにある大きな川の名前とかに使われているよ」
「南……ですか。いえ……知らないです」
「僕も行った事無いけど、かなり大きいらしいよ。晴れてないと向こう岸が見えないんだって」
「ええ! そんなにですか!」
「本当かどうかしらないけどね」
あまりの宋清の驚きように苦笑しながら答える。
「でも兄様にぴったりの名前です」
「はは、ありがとう」
何を以って彼女がそんな感想を抱いたのかはわからないが、宋江はとりあえず、礼を言った。
「よう、楽しそうだな」
ぬっと兄妹の間から顔を突き出したのは晁蓋だった。
「あれ? どうしたの?」
訝しむように言った宋江に対して、晁蓋は呆れたように言った。
「『どうしたの』じゃねーよ。飯食ったんなら仕事に戻るぞ」
「あー、はいはい。じゃあありがとね、清」
「いえ、私も兄様とお喋りができて楽しかったです」
午後はそのまま馬小屋作りの続きだった。晁蓋は宋江が掘った穴にひょいひょいと柱を突っ込むといった。
「んじゃ俺が柱の上で梁になる木材、おいていくから、お前、釘打ってけ」
「はーい、ってどうやって登るの」
足場らしきものは無い。
「んーじゃあおれが蹴っ飛ばすからなんとか掴まれ」
「あの、もう少し体に穏やかな方法、無いですかね」
宋江の希望もむなしく五秒後に尻を蹴っ飛ばされた彼は宙に浮いていた。
「おし、とりあえずはこんなとこかな。不恰好だがなんとか一応馬小屋の枠組みだけはできたしな、微調整が必要だろうがおいおいやっていけばいいか」
晁蓋は満足げにうなずく。が、宋江は感想など述べる余裕など無く、地面に突っ伏して息も絶え絶えに叫んだ。
「誰かー、労基所に通報してくれー」
当たり前だがそんなものはない。
「何、ぶっ倒れてんだよ」
「うるさい! 十回も蹴っ飛ばしやがって! 死ぬかと思ったわ!!」
「お前が一度できちっと柱にしがみつかないからいけないんだろ」
「できるかー!!」
まあ、二回目からは晁蓋のけりにあわせて飛んでいたし(というか晁蓋があわせてくれたので)、地面にまともに激突する前に晁蓋が止めてくれたので言うほど痛み自体はあまり無い。
「んじゃ、道具片付けておいてくれ。明日も使うから、お前の家に持っていけばいいよ」
「はーい」
短くそうやり取りをしていると村の人たちが馬を返しにやってきた。
「あ、記録……」
「あー、今日は俺がやっておく。お前、明日に備えて寝てろ」
「いいの?」
「まあ、初日だからおまけだ。明日からはやってもらうからな」
「うん、ありがとう」
素直に礼を言うと宋江は使った道具を集めて、家に帰った。
「ただいまー」
「あ、おかえりなさい。兄様」
家に帰ると土間のかまどで宋清が火を起こしていた。
「待ってくださいね。今日は晁蓋様のお屋敷から卵を頂けたんです。それで湯を作ってますから」
にこにこと笑う宋清が言葉を続ける。
「あ、後、水汲んでおきましたから。体拭くのに使ってください」
「うわ、何から何まで……なんかごめんね」
「気にしないでください。兄様の世話になっているのですからこれくらいはさせて頂きます」
「うーん、それこそそんなに気にしないでいいのに」
新鮮な気持ちだった。晁蓋と生活しているときはほぼ一方的に世話になる立場だったし、その前は親と暮らしていたから対等の立場の共同生活など初めてだった。
夕食は簡素なものだった。卵と塩のスープに雑穀のおかゆ、それと漬物がいくつか。この漬物も晁蓋の家にいるおばあさんからわけてもらったらしい。
「そういえば、なんでしたっけ、兄様のいたところでは食事前に呪文をとなえるのでしたっけ?」
「え、いや、呪文じゃないんだけど……言われてみればなんなんだろうな、挨拶?」
「挨拶? 誰にですか」
「食材に、かなぁ」
「はあ、変わった風習ですね。でも今日から兄様と一緒に住むのであれば、私にも教えてください」
「あ、うん。いいけど、えーとこうやって両手をあわせて『いただきます』って言うんだ」
「『イタダキマス』ですか」
「うん。じゃあやってみようか」
「は、はい」
なんか改まってやろうとするとちょっと恥ずかしい。宋江は背筋を伸ばすと手を合わせた。
「頂きます」
「イタダキマス……なんだか不思議です。どういう意味なんですか」
「ん? ご飯になってくれてありがとうっていう意味かな」
そういいながら、れんげをつかって卵のスープを飲む。
「うん、おいしいね」
味付けは塩だけだが、疲れた体とからからの胃袋にはそれで十分おいしさを感じられた。
「えへへ、よかったです。もう少したくさん、準備できたらよかったんですけど」
「気にしなくていいよ、本当に。自分でいうのもなんだけど、あんまり稼ぎがあるわけじゃないしさ」
ちなみに宋江の給与は一日六十文らしい。もっとも現金で払われるのは三十文くらいで残りはこうした食材でもらうことになっている。給与は相場より安いが住む場所をただで使わせてもらえているという状況を見れば、妥当かもしれない。
食事は三十分程で終わった。この時代は電灯等無いので、明かりといえばろうそくぐらいしかない。それにしたって、貴重品だからあまり使うわけにもいかず、結果として夕方の食事が終わればほとんどやることもなく、寝る羽目になるのだが……
「あれ?」
「どうしたのですか?」
「いや、清。君の布団は?」
「え? それですよ」
といって清は平然と毛布を指差すがひとつしかない。自分が居候時代に使っていた奴だ。
「いや、一つだけ?」
「はい」
おかしな話である。昨日は別々の部屋で寝ていたのだから、その分の毛布くらいは晁蓋からもらってたっていいはずだ。
「ちょ、ちょっと待って。晁蓋のところに聞いてくるから」
「はあ」
宋清は何がなんだかわかっていない様子だったがとりあえず膳を下げ始めた。
宋江は月明かりを頼りに晁蓋の屋敷へと向かった。このくらいの明るさならなれた道なので問題なくあるける。
「晁蓋、いる?」
「おう、なんだ? こんな時間に?」
晁蓋は屋敷の前で棒をふっているところを簡単に見つけることができた。今まで気づかなかったがひょっとしたら毎日やっていたのかもしれない。
「家財道具のことなんだけど……毛布が一枚しかなくてさ、もう一枚もらえないかな?」
「ああ、そりゃかまわな……」
とそこで晁蓋の言葉がとまった。
「いや、一枚ありゃ十分だろ?」
「何言ってるの。二人で暮らしてるんだから二つ必要なのは当たり前じゃない」
「一緒に使えばいいじゃねぇか」
「何、言ってるの。清はもう十二歳だよ。いくら兄っていう立場だとは言え、一緒に布団に入るようなのは問題じゃない」
「おいおい、そりゃちょっと無いんじゃねぇか、お前。俺が結婚しろって言った時は十二だからまだ早いって言って、毛布は一緒に使えって言った時には十二なんだからもう別だって言ってるスジがとおらねぇじゃねえか」
「いや、結婚するのと一緒に寝るのじゃ、全然違うし」
「大体な、おれもあんましけち臭いこと言う気はねぇが、おまえらが持ってった食器やらなんやらはただでくれてやったんだぜ、この上、毛布までよこせってのはちょっと図々しすぎるんじゃねぇの?」
それ自体は正論だ。正論なんだが、
「晁蓋」
「おう」
「めずらしく正論っぽいこと言ってるけど、僕を困らせて楽しみたいだけでしょ」
「よくわかったな」
晁蓋はあっさり認めた。わからいでか、と心の中で宋江はつぶやく。さっきからにやにや笑ってるし。
「まあ、意図はともかくとして俺の言ってること、間違いじゃねえだろ。がんばって金ためて毛布買いな」
「くっ……」
だが、こう言われては引き下がるしかない。
「そんなわけでこの話はおしまいだ。言っとくが村にはほかに余分な毛布なんかねーぜ」
「わかってるよ」
嘘だとしても今から村にいこうとすれば結局、明かりが必要になり、それは即無視できないレベルの出費となる。仕方ない。宋江は敗北を認めるしかなかった。
「というわけで毛布はもらえなかった」
「でも一枚あれば十分じゃありませんか?」
妹よ、お前もか。
「その、大丈夫なの?」
「何がですか?」
言われて見れば何がなんだろう。むしろ自分にこそ、問うべき質問なのかもしれなかった。
「まあ、いいか。清が毛布使いなよ。僕はいいから」
「だ、だめですよ、そんな。兄様は明日も朝から仕事なんでしょう? まだまだ夜は寒いのですからカゼをひいてしまいます」
「いや、でも、僕が使ったら清だって風引くし」
「ですから一緒に使えばよいではありませんか」
何を言っているの? という調子で清が言ってくる。
「ひょっとして、兄様のいたところではあまりこういうのは一般的ではないのですか? 私、昔はよくお父様やお母様、弟と寝てましたけど」
「うん、まあ小さいときはね」
「でしたらよろしいじゃありませんか。私、兄様と一緒にお話しながら寝たいです」
無邪気にそういわれてしまうとなんだか自分がひどく汚れた人間のように思えてしまう。それから似たような問答を続けたが結局最後は宋江が根負けすることになった。寝台も一つしかないので自然とそこに二人でならんで寝ることになる。
「こうやって誰かと一緒に寝るの、久しぶりです」
宋清はただただうれしそうだった。宋江も覚悟を決めると毛布にもぐりこむ。幸か不幸か、寝台と毛布は大きく、密着するほどの距離感ではない。
「兄様はこうやって寝たことはないのですか」
「うん。一人っ子だったから、兄弟もいなかったしね」
「そういえば、兄様ってこの村の方ではなかったですね」
「うん、そうだね。ずっとずっと遠いところから来て、もう帰れるかどうかもわからない」
「そうなんですか……」
「清には話しておくべきかな。僕のこと、全部」
「全部?」
「うん、ふわぁ……」
「あの、兄様。別に一度に全部話して頂かなくても大丈夫ですよ。お疲れのようですし」
「そう?」
なぜか宋清は焦ったように言ってくるので宋江もまあいいか、と思い直した。宋清の言うとおり、少し疲れているというのもある。
「ねえ、兄様」
「ん?」
「兄様は私の兄様でいてくれるんですよね。ずっと」
「……うん、そうだね」
宋江は少し、言いよどんでしまった。自分がもしある日突然日本に帰ることになったら清はどうなるのだろう。帰れる方法はまったくわからないが、それは帰れないことが明らかになったわけでもないのだ。逆に仕組みがわかっていない以上、いつどんな状態で帰ることになるのか、予想がつかない。極端な話、数分後にいきなりふっと元の世界にいるということもありうるかもしれないのだ。
宋清も宋江が即答しなかったことには気づいただろうがそこに言及してくる様子は無かった。代わりに宋清は震える手で宋江の手を取った。二人の距離が少し近づく。
「一つだけ約束していただけませんか。私の兄様で無くなられる日が来るなら、きちんとその前に言ってください。突然いなくなるのは、嫌です」
「わかった。約束するよ」
今度は宋江も即答できた。安心させるように笑ってみせる。
「兄様のことも少しずつ、教えてくださいね」
「うん。清のこともね」
「じゃあ、毎晩一個ずつ、質問に答えていきませんか?」
名案といった調子で笑いながら宋清は語りかけてくる。
「そうだね。じゃあ清は何が知りたいの?」
「そうですね……じゃあ兄様のお父様とお母様ってどんな人たちなんですか」
「んと……父さんは公務員……役人だね、それをやってたよ。大体仕事が急がしそうであんまり話したことは無いな。釣りが趣味でたまに連れてってもらってた。母さんはスーパー……ええと市場みたいなとこだね、そこで惣菜……料理かな、それを作ってた」
「そうなんですか。お役人様の奥様なら働かなくてもよさそうなのに」
うまく説明できたか不安だったが宋清はすんなりと理解してくれたようだった。
「あんまり稼ぎがよくないって父さんも自分で言ってたし、そんなに偉い役人じゃないんじゃないかな、よくわからないけど」
「うーん、色々気になるんですけど、質問は一つって決めましたし、次は兄様の番ですよ」
「そうだね、じゃあそうだな……」
と聞こうとして弱った。何を聞いたらいいのだろう。家族のことを聞かれたから家族のこと? いや
いや宋清の昔の家族は死んでいるのだ。その話題はタブーである。
(過去のことを聞けないなら未来だろうか……)
「清は将来の夢とかってあるの?」
「夢……ですか?」
「偉い役人になりたいとか、晁蓋みたいに強くなりたいとか」
言ってから晁蓋みたいにはなって欲しくないと切に願う。
「あ、えっと……考えたこともないです」
「そっか」
よくよく考えてみたら今までは明日をも知れぬ生活をしていたのだ。将来のことに考えをはせる暇などなかったのだろう。
「すみません。兄様がせっかく聞いてくださったのに」
「そんなこと、気にしなくていいよ」
「……でもそうですね。できるなら兄様とずっとこうして一緒にいたいです」
「そう……」
宋江はすっと宋清に手を伸ばして頭を軽くなでる。
「兄様?」
「僕も自分がどうなるかわからないから何ともいえなけどね、でも、ここでの生活は嫌いじゃないよ」
細かく見ていけばもちろん不満点はたくさんある。トイレの設備とか、シャンプーはおろか石鹸すら中々手に入らないとか、晁蓋にこき使われることとか。
でも同時にいいこともある。晁蓋はやる事なす事めちゃくちゃで厳しいところもあるけど、結局なんだかんだで優しいところもあるやつだ。呉用も頼りになる人で、それにこんなに自分を慕ってくれる妹もいる。
「兄様」
「なに?」
「そのままなでていてくれませんか」
「うん、いいよ」
宋清の髪の感覚が気持ちいい。その感触と毛布の暖かさに包まれて宋江はいつの間にか眠っていた。
(やはり、疲れていたんですね)
すぐに眠りに落ちた宋江に宋清はそう思う。
(兄様は何者なんでしょう……?)
じっと寝顔を見つめながらふと宋清は疑問に思った。それは不信感ではなく好奇心からくる問いだった。
自分の兄となった人物が何か自分にはよくわからないものを持っているのは気づいていた。それはしぐさとか、ものの考え方とか、そういったところでにじみ出てきている。彼は自分や他の村人や、さらに言うなら晁蓋や呉用にもない、何かがあった。
おそらく、兄が先ほど話そうとしたこともその辺りの事だったのだろう。だが宋清は兄を止めてそれを話させなかった。それを聞いた途端に兄が自分からひどく遠いところに行ってしまう気がしたのだ。宋清はこのぬくもりを少しでも長く近くに感じていたかった。
(兄様)
今日の出来事を色々と思い出す。字を教えてもらった。料理をほめてもらった。掃除もほめてくれた。父母のことを教えてもらった。自分といるのが楽しいと言ってくれた。
闇の中で宋清はそっと手を伸ばした。すぐそこに兄の体がある。幸せで暖かいと言うのにどこか落ち着かない。
(あったかい……)
兄の体は暖かかった。その暖かさにもっと触れたくて体を近づける。嫌がられはしないだろうかと不安になりながらも手が止まらない。開いた袖口から兄の衣服に手を入れ、上腕の辺りまで差し込んだ。
(兄様……ずっとは無理でも、たくさんたくさん一緒にいてくださいね)
顔を兄の胸元に寄せていく。いいにおい。落ち着くにおい。でもなんだか落ち着かないにおい。自分の好きなにおい。
宋清もまたその心地よさと暖かさの中に意識を落としていった。
北京大名府。この国の第二の都市の夜は長い。日が落ちて六刻(三時間)ほどたっても酒場にはこうこうと明かりがともり、人々の楽しそうな声が聞こえる。ちなみに『北京』の名がつくが現在の北京とは全く異なる場所にある。
そんな酒場のうちの一つに珍妙な客が居た。せいぜい10歳程度の幼子のように見えて、髪は緑色の長い髪をいくつもの房で分ける奇妙な髪型をしていた。だが、それ以上に奇妙なのは彼女が座る卓上だった。卓の上には空になった酒瓶がいくつもあり、ほとんど料理はおかれていない。そしてその少女は周りの目をはばかることなくぐいぐいと酒を飲み続けている。周囲の客はその妙な光景を唖然としてみていた。
「こんなところにいたのか」
そこに新たなる客が現れ、その少女の前にどかりと腰をおろした。背は高く、こちらは赤い髪の持ち主だ。短く無造作な髪が体格と相まって一瞬男のようにも見えなくないが、胸部の二つの豊かなふくらみがそれを否定していた。
「おお、ようやく来おったか」
「『来おったか』じゃねーよ。散々探し回らせやがって、おい、 こっちにも酒とそれから蒸し鶏でももらおうか」
赤い髪の女は店員を捕まえて注文を言いつける。その店員は言われた注文を書き留めると奥へ入っていった。
「生臭はいかんというに」
「酒をそんなにぐいぐい飲んでる奴に言われても説得力ねぇよ」
「酒はいくら飲んでもよいのじゃよ。米や麦で作られておるから殺生ではないのじゃ」
見た目のわりに老人のようなしゃべり方を緑色の髪の少女はした。
「身を清めるときには普通、酒も絶つものだろ」
「そういうのはただ単に楽しみを我慢してがんばってる振りをしとるだけじゃ、我らが肉を食べないのは別に楽しみを捨ててるからではない」
「えらく都合のいい話もあったもんだ」
そんな風に言い合ってるうちに大柄な女の注文が届いた。
「全く、こっちに近づけるな、気分が悪い」
しっしっと少女が鶏肉を見て追い払うようなしぐさをする。
「あーはいはい。悪かったね」
大柄な女はおざなりに対応すると鶏肉に箸を伸ばした。
「んで、どうだったんだよ。首尾は」
「うむ。なかなか面白い話が聞けたぞ、耳を貸せ」
少女はそう言って卓の上に女を乗り出させその耳元でこそこそと何事かをささやく。
「ふうん、そりゃ確かに面白そうだ」
赤毛の女がニヤリと笑う。
「じゃが、それだけのものじゃ、警備もかなりのものじゃろう」
「んなもん、俺とお前で吹き飛ばせるだろ」
「無茶を言うな。さすがに二人ではどうにもならんわい」
緑色の髪の少女は呆れ返ったように言った。
「じゃあ人数増やすか」
「誰ぞ、いいあてでもあるんか?」
「ここから東京開封府まで運んでいくんだろ。だったら濮州は通るだろうな」
赤毛の女の言葉に少女は地図を頭に描きながら応える。
「まあ、そうじゃのう」
「会った事は無いが、あの辺にめっぽう腕が立つやつがいるってのは聞いたことがある」
「そやつの名前は?」
「晁蓋。なんでも軍の上官を殴ってくびになった奴らしい。良さそうな奴だろ?」
「それはいいが……おぬし、まさかそいつと腕を競いたいだけじゃなかろうな」
「ま、それもあるけどな」
赤毛の女は隠すつもりも無いようでにやりと笑ってみせる。
「……まあ、よいわ。それでは明朝、早速出発しておくとするかの、劉唐」
「ああ、善は急げって言うしな、公孫勝」
二人はそう言って軽く杯をあわせた。
第一話完! です。
嘘です。ちょこっと挿話的なものを入れてそれで第一部完としたいと思います。
第二話から本格的に水滸伝っぽくなって登場人物もいっぱい出てきますんで、今後もお付き合い頂ければ幸いです。
お気に入り登録してくれた方、評価してくれた方、ありがとうございます。励みにさせて頂いております。