その三十六 宋江、梁山泊を発つのこと
「今の本気で蹴ったでしょ!」
「ばかいえ、せいぜい半分ぐらいだ。そもそも、今回は手加減してやる理由なんかねえぞ」
宋江に言ったことは嘘ではない。だが正直なところ、晁蓋は今の一撃で終わらせる自信があったため、少なからず驚いた。自分の蹴りを防いだのは宋江の気功によって地面から生えてきた木。複数本あるから自分の蹴りの軌道を見抜いた訳ではないだろうし、偶然かも知れないが、
(良く反応したもんだ!)
それでも晁蓋は感嘆したし、自分の口角があがっていくのを押されられなかった。
「埋め尽くせっ!!」
相変わらず部屋の中心に鎮座している木の向こうから宋江の声が聞こえる。途端に部屋の各所から、無数の木が床から壁から好き勝手に生え始めた。それこそ、宋江が言うように埋め尽くす勢いだ。足の踏み場もない勢いで。
(何のつもりか知らんが……まあ、お手前拝見と行くか)
晁蓋は足を止めて宋江の生み出した木が何十本も部屋の床から生えていくのをただ眺めてる。
宋江は一瞬驚いた顔を見せたものの、すぐにきっとこちらをにらみ付ける。やがて、宋江と晁蓋の間には何本もの木で分厚い壁ができるだけでなく、晁蓋の周りにも彼の動きを制限するように木が生えてきた。
そのまま放っておいたら文字通り一歩も動けなくなる。さすがにそうなってはまずいので、晁蓋は自分の周囲に生えてくる木は蹴り倒していった。さほど太くないそれらの木はあっさりと折れるが後から後から生えてくるので次第に彼の周りは段々と細い枝が積み上がっていた。
「ん?」
と周りの樹木をなぎ倒しつつ、周りをふと見ると部屋の床に這うように草花が生えている。単なる木だけで無く、こんな植物も生み出せるのか、と晁蓋は素直に感心した。
(だが、何の意味があるんだ、これ?)
と思った直後に気づく。足下にあるのはその草花だけでない。うっすらとした白煙。そして数瞬後にと混ざり合うようにして赤い炎が、足下の草花を燃やしていく。
(火を点けたか!?)
鼻をひくつかせると油の匂いがする。どうやら自分の部屋に来るに当たって懐にでも隠し持っていたのだろう。
手持ちの水分は少量の酒しかないので、ふりかけたところでまさに焼け石に水である。すぐさま草花によって燃えさかる炎は自分の足下まで伝達し、自分が先ほど砕いた木の枝葉に移ってさらに白煙をあげる。だが、晁蓋は自分の周りの木を蹴飛ばす以外は相変わらずにやにやと笑いながらその様子を眺めているだけだった。
「いいね、いいね。こういうなりふり構わない感じなのは嫌いじゃ無いぜ、宋江。だが、まさか俺がこの火の熱さに負けて降参するとでも思ってるのか?」
「晁蓋じゃあるまいし、そこまで楽天的なもんか」
返事は期待していなかったが意外な事に白煙の向こうからふてくされたような宋江の声が返ってきた。
「いい答えだ。つまり続きがあるんだな。ほれ、やってみろよ。待っててやる」
「……じゃあ、せいぜいお言葉に甘えさせてもらうよ」
声と同時。さらに炎の最中に草と樹木が生える。生えた先から草は燃え、さらに大きな樹木に火を移してますます部屋の温度と白煙を上げていく。次第に晁蓋の視界は煙と樹木で完全に奪われてしまった。
(視界を奪われると、さすがにちょいと面倒だな)
自分の周囲に生えてくる木を蹴倒しながら、晁蓋はそう心中でごちる。だが、視界を奪われたのは向こうも同様だ。こちらの位置など正確には掴めない……
(いや違う!)
晁蓋が視線を上に向けたのは確たる考えがあっての事では無い。強いて言うのであれば、今まで闘いを重ねてきた彼の経験がそうさせたのだろう。あるいは、何か知覚できないほどの微少な音か匂いか、そういったものを捉えたのかも知れない。
見上げた先。そこにはいつの間に移動していたのか、上空から枝を持ってこちらに振り下ろしてくる宋江がいた。そう。よくよく考えてみれば、こちらは絶えず辺りに生える樹木を蹴倒して音を立てているのだから位置の特定は容易なはずだ。どうやって自分の頭上をとったかでは定かでは無いが。
「だが、遅い!」
だが、宋江は間に合わなかい。上空からの攻撃をあっさり避けると、お返しとばかりに当該は宋江の腹部めがけて拳を放った。
「うらっ!」
「っ!!!!」
息すら吐けず、宋江が吹き飛ぶ。ぶちぶちと宋江にまとわりついていたツタ状の植物があっさりちぎれ、宋江の身体が白煙の向こうへ飛んでいった。
「あん?」
とそこで妙な感触に気づく。今の宋江を殴った一撃。感触が妙におかしい、だけでなく、自分の拳にも違和感が残る。見れば自分の拳から血が垂れていた。
その状況を見て、何があったかはおおよそ察することができた。
(棘のある植物を服の下に仕込んでやがったか)
おそらくはそれも、宋江が気功で作り出したものだろう。もっともそうは言っても相手もただでは済まないはずだが……等と考えていると周囲から空気を裂く音が聞こえる。構えると同時、白煙の中から、燃えた木の破片が自分に向かって飛んできた
「はん、色々小技は覚えたみてえだが、まだまだだな」
その木片をぱんぱんぱんと両手で払いながら晁蓋は笑う。燃えた木片に直接触れるのだから、熱いことは熱いが、一瞬なので大した問題では無い。だが、これが続けば蓄積された負傷は馬鹿にならないだろう。まして、周囲の視界は未だ奪われたままである。
「ふっ!」
後ろに跳躍し、ごっと壁に拳を当てて破壊する。外と自分の部屋を遮っていた岩壁がガラガラと崩れ、外の景色が目に飛びこんでくる。それを確認して、晁蓋は自分の上着を脱ぐと力任せに二三度振るった。と、部屋を覆っていた白煙があっという間に消え去る。
「ぐっ!」
悔しそうなうめき声と同時、一瞬見えた宋江の影を彼は見逃さず、走りよる。宋江はとっさに遮断するように木を生やすが、晁蓋の拳であっさりとそれは折れた。
「このっ!」
肉薄された宋江は槍を突き出すようにして手に持った棒をこちらに向けてくる。誰に習ったのか知らないが、中々様になっていた。もっとも自分の前ではさほど意味をもたない。
「あらよっと」
パンと下から蹴りを跳ね上げるように放つと宋江の手からあっさりと木の棒が上空へ吹き飛ぶ。
「くそっ!」
「まあ、ここまで来て、闘志を失わないのは立派なもんだ」
と晁蓋は言いながらその場からさっと左に体を躱す。一瞬前まで彼が立っていた場所を燃えた枝が後ろから通過していった。
「なんで避けれるんだよ! 後ろに目でもついてるの!?」
「お前の視線かな? 俺の後ろを見ていた」
確たる答えを晁蓋も持っていたわけではないので曖昧に答える。いよいよ万策尽きたのか宋江は振りかぶってこちらになぐりかかってくるが、ただの悪あがきに過ぎない。その拳をばしっと手で受け止めると同時に、空いている方の片手で、宋江の襟首を掴んで持ち上げるとそのまま、ばんと彼を床にたたきつけた。
「あ、うううううう……」
「悪くないが、まだまだだな。俺に突っかかって来るにはよ」
そのまま痛みにうめく宋江をずるずると引きずって、晁蓋は先ほど砕いた壁の向こうに、宋江の身体を押し出した。窓の外には、当たり前だが何も無い。晁蓋が手を放せば宋江の身体は眼下の黄河に向かって真っ逆さまに落ちていくだろう。
「ぐっ、このっ!」
宋江にはまだ抵抗の意思は残っているようだったが、こちらの腕を叩いてくるが、痛みは無いも同然だった。もっとも晁蓋が痛みに耐えかねて手を放したところで彼のたどる運命は同じだが。
「まあ、まだまだ、この程度か。とはいえ、案外楽しめたし敢闘賞ぐらいは恵んでやるとするか」
呵々(かか)と笑って晁蓋は告げる。
「……そうだな。ここで一年待ってやる。よくよく考えたらここで暴れてりゃ禁軍もそのうち来るだろう。一年経ったら……ま、もう一回考えるか」
「ちょっと晁蓋、あんた何してんの!? 熱っ! 何これ! ちょっとあんた本当に……!?」
部屋の扉の向こうから呉用がわめいているその声を聞くと同時、晁蓋は宋江をぽいっと放り投げる。ふわりと小さな放物線を描いてから、重力のままに宋江は眼下の黄河へと垂直に落下していた。
「つ、次は覚えてろよ! こんちくしょおおおお!!!」
宋江の悪態が辺りに響き、ドボンという音とともに、宋江の身体が黄河の水の中へ消えていった。
そして、それから数日後。
「呉用さん」
と宋江は自室に居る彼女の背中に呼びかけた。
「どうしたの?」
「はい。これから出発するので、最後に少し、と思って」
「そう? 私なんかより、楊志さんや秦明さんとの時間ちゃんと取ってあげればいいのに」
「それはまた別にとってありますから」
宋江はごまかすように笑いながら、そう言った。
「だからって……いえ、ごめんなさい。わざわざ来てくれたのに、そういう言い方はなかったわね」
はあ、と自分を責めるようなため息をついて、呉用は立ち上がると部屋の戸口に居るこちらに歩いてきた。そして首をかしげて聞いてくる。
「ねえ。今さらなんだけど、ひょっとしてあなた、少し背が伸びた?」
「え?」
と宋江は自分の頭を確認するようにさする。もっともそうしたところで、背の高さなどわかるわけでもないのだが。
「ど、どうなんでしょう。自分では気づきませんでしたが」
「まあ、本人が意外と気づかないものよね、そういうのって」
言われて宋江は思い出す。そういえば、この世界に来て一番最初にあったのは晁蓋だが、次はこの呉用なのだと。二人と出会ってから半年弱、既に経過しているのだ。
「そういえば、こちらも今更ですけど、僕がいない間、清の事、色々と面倒見て頂いて、ありがとうございました」
「気にしなくて良いわ。あなたのためじゃないもの」
呉用はそういったものの、表情は言葉ほど突き放してはない。気にするなという言葉は文字通り受け取って良いようだった。
「それより、そんな事言うなら晁蓋の相手なんてしてる場合じゃなかったんじゃないの?」
「あはは……」
数日前の晁蓋との闘いは呉用にはただの喧嘩、と説明している。最初は呉用も若干いぶかっていたのだが、晁蓋は否定どころか例の調子で悪態をついたために、呉用の中では宋江は晁蓋に喧嘩をふっかけられたかわいそうな被害者ということになっているらしかった。もっとも、そのせいで呉用がまた怒髪が天を突く勢いで晁蓋を怒鳴り散らしたため、彼は再び、梁山泊から姿を消している。
宋江は悩んだあげく、呉用に晁蓋との会話の子細を喋らなかった。開封に向かおうとする晁蓋の計画を呉用に話せば呉用は自分に協力して晁蓋を引き留めようとしてくれるだろうが、おそらく成功しないだろうし、何か埋め切れない溝を晁蓋と呉用の間に作ってしまう気がしたからだ。
「向こうに着いて、ちゃんと落ち着ける場所を見つけたら危ないことはこれっきりにするのよ。宋清ちゃんや楊志さんや秦明さんと一緒に幸せに暮らしなさい」
まるで自分と金輪際会わないような言い方だった。だが、宋江はそれに気づかないふりをして、笑って答えた。
「ええ。みんながちゃんと落ち着けそうな場所、探します。呉用さんの分もちゃんと用意しておきますから」
「……ありがとう」
宋江はその顔に微かにごまかしの色を見た。やはり、呉用は晁蓋と同じく、自分たちとともに来る気は無いのかも知れない。
「………」
「………」
少しだけ沈黙が二人の間を支配する。
「呉用さん。最後に一つだけお願いしても良いですか?」
「内容によるわね、何?」
「もう一度、指切りしません?」
あの黄泥岡の事件の少し前、呉用と自分が最後に一緒だった夜。ともに生き延びようと宋江と呉用は約束した。根拠は全くないけれど、ひょっとしたら自分が今まで生きて来れたのはそれのおかげかもしれない、と宋江は思っていた。
「私と?」
「呉用さんと」
首をかしげる彼女に宋江は頷いた。
「良いけど……小指を出すんだっけ?」
「ええ。また必ず、生きて会いましょう」
「……そうね」
小指を絡める。
「なんて言うんだっけ?」
そう聞かれて、宋江はもう一度呪文を教えた。あの時は冗談で言い出したことだったけど、今回は違う。少なくとも宋江は真剣だった。なぜならこんな子供じみたおまじないだけが彼が呉用に対してできる精一杯の抵抗だったからだ。
二人の声が唱和する。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます、指切った」
「それで、どうだった?」
「……多分、僕が前に考えたとおりです。呉用さんは江南に来る気が無い……と思います」
劉唐の問いに宋江はそう答える。
「……わかった。兎にも角にも君の言ったとおりにしよう。最悪、意地でも呉用殿だけでも江南に意地でもつれていく」
「だな。晁蓋さんのことはともかく、呉用のことはなんとかする。安心してくれ」
林冲と劉唐は並んでそう請け負った。
「それよりそれより、お姉ちゃんは江ちゃんの方が心配だけどね」
と横にいる索超がぴょんぴょんと飛び跳ねながら言う。まだ解毒が完全に終わってないはずなのに、そんなに動いて大丈夫なのか、心配になる。
「……まだ、その呼び方続けるんですか?」
「だって、江ちゃん、まだこっちに残るって言ってくれないし。ねえ黄信さん」
「何? あんたもあの妙ちくりんなおままごとに参加してるの?」
「まあ、成り行き上、その……」
魯智深が興味深そうにのぞき込むと黄信は端で見ている宋江が哀れなほどに身を縮めている。
「あんたも大概にしときなさいよね」
「え? 僕が悪いんですか、これ?」
魯智深に責められて宋江は心外そうに己を指さした
「いいじゃないか。そうめくじらを立てなくとも。仲が良いに越したことはない」
はっはっは、と林冲は珍しく破顔する。魯智深は付き合いきれないとでも言うように肩をすくめた。
「それはともかく、道中お気をつけて。宋江殿に何かあっては悲しむ人が大勢いますから」
「そんな風にそんな風に、さも自分は違いますみたいな態度とるのはどうなのかなぁ」
黄信の言い方に索超が口をとがらす。
「いえ、そういうつもりはないのですが……というかですね! 索超殿が変なこと言い出すからこっちだって妙に気を使わなきゃいけなくなってるんですよ!」
「えー、そんなそんな、あたしのせいみたいに言われても」
「いや、きっちりお前のせいだろ、どう考えても」
と呆れたように劉唐が突っ込む。
「ま、とにかくだ。後の事はあたしらに任せてお前はお前の仕事してこい。頼んだぜ」
劉唐にそう言われて、宋江は頷くと、言った。
「はい、それではこちらの事はお任せします。行ってきますね」
「ええ、行ってらっしゃい」
「ああ、気をつけてな」
柔らかに微笑む黄信と林冲がそう言葉を返す。
「せいぜい、死なないようにね」
そして、最後に魯智深が不謹慎に付け加えた。
「心配だわ」
「不安だわ」
梁山泊の船着き場で秦明と楊志が声を重ねる。他の人間は気を使ったのか、ここまで見送りに来ようとはしなかった。
「はあ……納得したつもりだったけど……いざって時になると手配された自分の身が恨めしいわ」
「いい、宋江。知らない人にのこのこついてったりしたら駄目よ。あととにかく危険な道は避けて。渡し船や宿もちゃんと地元の人に聞いて安全なものを探すのよ。えっとそれから……」
まるで初めてのおつかいに出る幼児を心配する母親のような口ぶりで楊志は矢継ぎ早にそう言葉を投げてくる。ついでに言えば、すでに三度ほど宋江は同じ注意を楊志から受けていた。
「だ、大丈夫ですって。花栄さんもいますし」
「宋江、それはね、あんたが無茶しないっていう前提が成り立ってから初めて機能するものだからね」
背後に控える花栄が釘を刺すように言う。彼女は数少ない手配書が回ってないメンバーということで、今回、宋江とともに江南へ同行することになっていた。
「宋江くん。きちんと花栄の言うこと、きちんと聞くのよ」
「そうね、花栄さんなら判断誤ることないだろうし」
自分の判断はどうやら明らかに信頼されてないらしかった。だが、実はそれは宋江も同じだったので、反論も何もしないでおく。
「ええ、そうします」
「大将、大将。さすがに判断丸投げは困るよ」
花栄の抗議を宋江は無視した。
「宋江くん」
とまだ肩が完治してないか、若干不自然な動きを見せながらも、秦明が腕を広げる。宋江は自分でも少し驚くほど、素直に応じて彼女の身体を抱きしめた。ぎゅっと秦明の暖かい体温を全身で感じる。
「いってらっしゃい。私たちもすぐ追いつくけど、気をつけてね」
「はい。秦明さんもお体に気をつけて。無理はしないでください」
「ふふっ、その言葉、そのまま返すからね」
言って、秦明はひらりと宋江から離れるとちらりと横にいる楊志も目配せをする
「宋江……あの……私も」
と楊志が恥ずかしそうにしながらもこちらと距離を詰めてくる。秦明と比べると少し遠慮がちだが、それでも抱きしめると確かな温かみとともに、彼女はしっかりと腕を背中にまわしてきた。
「楊志さんも本当に色々とご迷惑かけました」
「お互い様よ。でも忘れないで。もうあなたの代わりなんてどこにもいないんだってこと」
そう言うと楊志は宋江の胸板をその細い指で撫でた。
「じゃあ、また会いましょう。必ず」
「ええ、必ず」
「そうね。きっとすぐ会えるわ。私たち、そうでしょう」
「はい、秦明さんも」
そして宋江は二人に背中を向けて船に乗った。船には江南まで一緒に向かう花栄と宋清の他、漕ぎ手の阮小五が乗っている。
「お待たせしました」
「もういいのか?」
「名残惜しいですけど、ここで引き返したらずっと出発できなさそうなので」
「そうか。んじゃ出すぜ」
阮小五が船をこぎ出す。そうして岸を離れてから、宋江は秦明と楊志の方を振り向いた。こちらの姿が見えなくなるまで秦明と楊志はいつまでも手を振っていた。
黄河の南側の岸。宋江達が到着したときには、そこにはすでに荷物を運ぶための二頭の馬と四人の人影がある。雷横と朱仝、そして阮小二ともう一人。
「あ、宋江、やっと来た」
「ん?」
それは消去法から言って阮小七に違いなかったが、一瞬それとわからなかったのは、彼女がツインテールにしていた長い髪をばっさりと切っていたからだった。ちょこんとおでこを出すように前髪をまとめた髪飾りが可愛らしい。
「へへー、どう、似合う? 雷横さんにもらったの」
「うん。似合うけど、どうしたの」
「変装だよ、変装!」
阮小七の立場はいささか微妙である。
彼女自身は手配書にその名も顔も載ってない。だが、姉妹である阮小二と阮小五の顔が手配書にある以上、阮小七の名が上がるのはそう遠いことでは無いと思われた。少なくとも村の人間に聞けば、阮小七の存在はすぐばれるし、顔も名前もわかるだろう。
だが、だからといって年少の彼女をこちらに残しておくのは阮小二と阮小五としては心苦しかったのだろう。かくして阮小七もまた宋江の先遣隊に加わることになったのだが、途中で阮小七が手配されたときを見越して、髪を切ったらしかった。
「髪は今ここで切りましたので、村の人も小七の姿が変わったことは知らないはずです」
と、ハサミをしまいながら阮小二が言う。そして彼女は宋江に向かって深々と頭を下げた。
「宋江さん。不肖の妹ですが、よろしくお願いします」
「いえ、そんな……こちらこそ……」
と、改めてこうして言われると宋江も緊張して不明瞭な言葉が口をついて出る。
「小七ちゃん。あなたも宋江さんのいうこと、きちんと聞くのよ」
「わかってるって」
軽い調子でそう返す阮小七に阮小二は露骨に不安そうな顔を見せた。
「妹さんのことは責任を持ってきちんとお預かりしますので」
それを少しでも安心させようと宋江はそう阮小二に告げた。もっとも自分で言ってて、頼りないなとつい思ってしまったが。
「お姉ちゃん、さよなら、あたし……宋江に幸せにしてもらうね」
「バカ言ってんじゃねえよ」
宋江の言葉を混ぜっ返す阮小七に阮小五がポカリと殴りつけた。
「いったーい! ぶつことないでしょ! お姉ちゃんのバカ!!」
「真面目な話してんだから、邪魔するなっつてんの」
その日常的なやりとりを見て、宋江の頬がつい自然と緩む。ある意味、こうした状況でいつも通り振る舞える阮小七はありがたかった。
「宋江さん」
とその一方で、阮小二がこちらに近づいてきてそっと耳打ちした。
「江ちゃんも身体に気をつけるのよ。お姉ちゃんも心配してるからね」
思わず、その言い方にどきりとする。今まで普通に接されていた分、余計に。
「げ、阮小二さんまでそんな呼び方……」
「あら、前のように姉さんとは呼んでくれないの?」
ふふといたずらっぽく笑みをもらす。その様子を見ているとこの人はやはり阮小七の姉なのだろうな、と思い知らされる。
「ほらほら、いつまでも、村を空けてちゃまずいでしょ、お姉ちゃん達は、もう帰った帰った」
いつの間にか阮小五との闘いを終えた阮小七が二人の姉の背中を船の方へぐいぐいと押す。
「おいこら、押すなって」
「もう。最後の最後まで……宋江さん、本当に申し訳ないですけど、よろしくお願いしますね」
最後まで落ち着かなそうにこちらを見ながらも阮小二と阮小五は妹に追い出されるようにして船を返していった。
「さて……それでは、我々はこちらですので」
河岸から十数分歩いて街道に出たところで朱仝がそう簡素な別れの言葉を告げた。
朱仝と雷横は一行の中で、数少ない目立った怪我をしていない面々であり、その上、この辺りで有名人なこともあり、すぐ梁山泊を発つことになった。とはいえ、手配されてない宋江たちと同行しては、意味が無いので別のルートで江南を目指すことになったのである。
「公孫勝さんとは後で落ち合うんだよね」
公孫勝もまた怪我もなく、手配もされてない人物だが、今は梁山泊に残っている。これは皆の怪我の治療のためで、それが一段落した時点で宋江達に合流する手はずになっていた。
「はい。ちょっと先で、ですけど」
「そっか……。公孫勝さんと花栄さんがいるなら、まあ大丈夫だよね」
「皆があたしに過剰な期待を押しつけていく……」
雷横の言葉に花栄が露骨にげんなりした顔を見せる。
「宋江さんはちょっと無茶をしすぎますからね」
「皆同じ事言いますね」
「カラスのことを白いと言う人はいませんもの」
くすりと笑いながら朱仝は言う。要は誰から見ても否定しようのない事実、ということらしい。
「ほら、雷横そんなことより……」
「うえ? も、もう!?」
「今渡さないでいつ渡すというのです?」
と若干呆れたように朱仝が言うと雷横は観念したように背負っている荷物から、包みを取り出した。
「宋江、その、これ……あげる」
「あ、ありがとうございます。でも、何ですか、これ?」
戸惑いつつも受け取ってから、宋江は尋ねる。それはちょうど三〇センチ定規ほどの長さの細長いものだった。大きさの割にはずしりと重い。
「護身用の短刀だよ。こんなものしか渡せなくてごめんだけどさ、旅に出るなら一本、そういうのを持っておいたほうが良いと思ってね」
「わあ、ありがとうございます。開けてみても?」
素直にうれしく感じてそう尋ねると雷横がこくこくと頷く。包みを開くと微かに湾曲した白木ごしらえの鞘が出てくる。武器の善し悪しなど宋江はわからなかったが、良く磨かれたその刃は美しく、しばし見とれた。
「なんか、ごめんね。こんなものしか無くてさ……」
「い、いえ、とてもうれしいです、ありがとうございます」
「そ、そう?」
宋江の言葉に雷横は少し意外そうに目を瞬かせた。
「ほら、だから言ったじゃないですか。男の人はああ言うのが好きだって」
「だって朱仝ってときどき、言ってることが本気かどうかわからないことがあるんだもん」
と雷横は口をとがらす。そこについては宋江も同感だったが、少なくとも今回、雷横にした助言は本物だった。
「あのさ、こんなもの渡しておいていうのもなんだけど、使いどころはよく考えてね。闘いが回避できるならそれに越したことは無いんだから。まあ、宋江ならそうそう喧嘩売ったりしないと思うけど……」
「ええ、わかってます。最後の手段ってやつですね」
言って、宋江はその短刀を鞘に納めた。
「ああ、すみません。僕、雷横さん達に何もお渡しできるもの無くて……」
「いや、良いの良いの。そういうつもりで渡したんじゃないから!」
雷横はぶんぶんと首を振る。
「ええ。その通りです、宋江さん。お返しはまた会ったときにお渡し頂ければ結構ですから」
「朱仝は余計な事言わないの!」
雷横はかみつくような勢いで言う。だが、それを無視して宋江は頷いた。
「ではお言葉に甘えさせて頂いて、お返しは江南で会ったときに」
「宋江!?」
自分を無視してやりとりされると思わなかったのか、雷横はバネ仕掛けのようにこちらを向く。
「朱仝さん、その時は相談に乗って頂けます?」
「もちろん。喜んで」
「ちょっと、二人とも!! あたしを無視して話を進めないでよ!」
雷横が子犬のようなうなり声を上げた。
「宋江、もてもてじゃーん。つまんなーい」
何がどうつまらないのか、わからないが、阮小七がそう口をとがらす。あの後、雷横達とは少しやりとりしてから別れ、今は宋江、阮小七、宋清、花栄の四人、それと荷物を積んだ馬が一頭とでとことこと街道を歩いている。この面々に公孫勝が後から加わって五人で、江南を目指すことになる。
「もてもて?」
「秦明って人と楊志って人に加えてあの雷横って人もそうなんでしょ」
「雷横さんはそう言うんじゃないよ」
先ほどの出来事を随分と拡大解釈されたらしいと思って宋江は笑った。
「えー、絶対そうだってー。あーあ、雷横さんかわいそー」
阮小七に言われて、そうかな、と宋江は考え直す。だがどのみち、彼女とはもう話せる場所にいないので確かめようも無い。というか隣にいたとしても確かめる術など思い浮かばない。まさか直接聞くわけにもいかないだろう。
(阮小七は十三歳だっけ?)
現代で言えば、中学一年生。ささいなことを見つけては誰それは誰それが好きなんだ、と言い出す年頃なのだろうと、とりあえずそう結論づけておくことにした。
と、そこで急に今まで騒がしくしていた阮小七が黙りこくっていることに気づく。見れば、視線を地面に落として、いつも朗らかな彼女にしては珍しく深刻そうな様相を見せていた。
「どうかしたの?」
と聞くと阮小七はごまかすように頬をかきながら口を開いた。
「あー……なんでもないよ。ただ、本当に旅に出るんだなーって思ってさ。ほらあたし、せいぜい近場に数日の遠出くらいしかしたことないからさ」
今更ながらに阮小七の顔に不安の色が見え隠れする。姉と別れるときには元気そうに見えたが、あれは不安をごまかすためのものだったのかもしれない。あるいはあの憎まれ口が、彼女なりの甘え方なのかもしれなかった。
「あ。そういえば、もう阮小七って名乗っちゃいけないのかな」
「どうなんでしょ」
宋江はなんとも判断がつかないので、早速花栄に判断を丸投げする。
「辞めた方が良いんじゃない。手配されるかどうかはわからないけど、偽名を名乗るなら馴れておかないといざって時に反応できないし」
「んー、じゃあ今日からあたしも宋江の妹って事の方が良いかな」
「ああ、その方が不自然無いかも」
周りに自分たちの関係を話すことの面倒くささを考えるとそのほうが通りが良いかも知れない。
「じゃあ決まり! よろしくね、お兄ちゃん! 宋清ちゃんはアタシより年下だからお姉ちゃんて呼ぶんだよ!」
「え、ええ、お姉ちゃんですか?」
「だってそーじゃん。名前は宋小七? ううん、不自然だね。宋七でいいかな?」
空元気かどうかわからないが、とりあえず再び騒がしくなった阮小七を見ているとこちらも少し安心できた。というより騒がしくない彼女は見ていて不安になる、と言った方がいいのかもしれないが。
「兄様、そういえば、結局晁蓋さんにはお別れを言えませんでしたね」
と手をつないでいる宋清が話しかけてくる。数日前のあの闘いの後、晁蓋とは二人で話す時間も全くなく、彼は呉用の雷から逃げるようにどこかに雲隠れしてそのままだった。
「……そうだね」
「やっぱり、最後に会ってからの方が良かったんじゃ……」
「それは……でも晁蓋いつ戻ってくるか、わからないからさ」
と宋江は苦笑しつつ答える。とそこで唐突に花栄が口を開く。
「宋江。あれ、噂をすればって奴じゃない」
花栄が指し示した正面。最初はわからなかったが、米粒のようなその人影が次第に大きくなるとそれが晁蓋だとわかった。
「なんだ、大荷物抱えて。どっか行くのか?」
酒の瓶を肩に引っかけた晁蓋は普通に、つまり昨日も顔を合わせたし、明日も顔を合わすような、そんな口ぶりで聞いてきた。
何を言おうか緊張していた宋江は思わず脱力する。
「この間、江南に行くって話したじゃん。覚えてないの?」
「ああ、そういやそうだったな」
ようやく思い出したようで晁蓋が頷く。一応は思い出してくれたようだった。もっともどこまで理解しているのかは、大分怪しいが。
「……待ってくれるんだよね、一年」
「吐いたつばは飲まねーよ」
念のため聞くと、疑われるのは心外だとでも言いたげに晁蓋は口をとがらす。
「わかった。また一年したら来るよ」
「おう」
こちらのやりとりを阮小七や宋清が不思議そうに見てくるが、宋江はあえてそれに応えないでおく。
「餞別だ。持ってけ」
晁蓋は肩にさげてた酒をこちらにぽいっと投げ渡してくる。宋江は慌てて受け取った。
「いいの?」
「別にそんない良い酒って訳じゃねーぞ」
「ううん、それでもうれしいよ。ありがとう」
晁蓋が渡してきた酒を素直に受け取って、宋江はそう言った。
「んじゃな。……そういや、呉用のやつ、少しは落ち着いたか?」
「うん」
と宋江は頷いたが、間違いなく呉用はまだまだ晁蓋に言い足りないことがあるだろう。もっともそれを正直に告げたら晁蓋がまた行方をくらましかねないので黙っておくことにした。
「一応、部屋は片付けておいたからね」
と背中を向けて歩き出した晁蓋に声をかけると彼は無言のまま、応答するように手を振った。
「………」
「良かったですね、兄様」
「え、あ、うん」
宋清に言われて、宋江は慌ててうなずき返す。
「よし、じゃあ本当の本当に別れを済ませたところで! 目指すは江南!! 行くぞー! おー!」
と阮小七の声があたりに響く。ややあって、宋江がかろうじてそれに反応した。
「お、おー……?」
「声が小さーい! あと、全員言う!」
「おー!」
「お、おー!」
「おー」
言い直させられた宋江の声と、戸惑った宋清の声と、投げやりな花栄の声が阮小七に応える。
夏が終わろうとしていた。
次回予告
安住の地を求めて少女はさすらう。東へ西へ、北へ南へ。だが、ひとりぼっちの自分に、厄介者の自分に、そんな場所など果たしてあるのだろうか。
だが、それでも旅は続けなければいけない。そうしなければ、背後から投げられる石に打たれることになるのだから。
そして、その旅路の最中に少女は少年に会う。
少女の名は武松と言った。
次回、流浪の果ての第六話、ご期待ください。
※2020/10/30追記
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