その三十五 宋江、晁蓋に挑むのこと
高唐市。この国第二の都市、北京大名府からほど近いこの町の一角には広大な屋敷がある。その屋敷の庭にある池のほとり、柳が垂れ、楓の葉が青々と茂る東屋で一人の少女が微かな微笑みを浮かべて手元にある紙を一枚一枚めくっていた。
「柴進」
と呼びかけられた少女は顔を上げて声の主に目を移した。彼女の視線の先にはこの屋敷の持ち主とその妻がいる。
「叔父様。もう起きて平気なの?」
「うむ。すまなかったな。わざわざ滄州から来てもらってまで」
と叔父が言うと後ろの叔母もふうと息を吐いて続ける。
「ごめんなさいね。私が取り乱してあなたに手紙なんか書いちゃったから……主人はいいと言ったのだけど、やっぱり心配で……」
「叔父様、叔母様、お気になさらないで。秋の収穫まではそんなに忙しくないですし、うちの使用人はみんな信用がおける人間ばかりですもの。ここまで来るくらいどうってことありませんわ」
そう言って柴進は立ち上がると睡蓮のような穏やかな笑みを叔父と叔母に向けた。父親を早くに亡くした柴進と子供のいないこの夫婦は叔父叔母と姪という関係ではあるものの実の親子以上に仲が良かった。
幸いにして叔父の病気はさほど大したことは無く、柴進が到着する頃には快方に向かっていたが、せっかく来たのだからと柴進は叔父の家にしばらく逗留させてもらうことになっていたのである。
「ところで、何を見ていたのかね?」
そう聞きながら叔父は柴進と卓を挟んだ正面に座る。
「……山東の方で少々、山賊が手配されたと聞きまして。その手配書を少し」
「山東? 随分と遠くの事なのにこんなところまで手配が……ああ、なるほど、この間の知府の件だからか」
「ご存じで?」
「あの宰相に宛てた贈り物のことだろう? 大名府とここはそう遠くないからよく知ってるとも。この手配されている楊志と索超という二人も実際にあったことはないが、噂は耳にしたことはある。お前にも話したことは無かったかな?」
「ええ。以前、手紙に書いてくださいましたね。だから、ちょっと気になって」
本人と会ったことはおくびにも出さず柴進は言う。
「もう、よしなさいな、柴進。こんなものに興味を持つなんて。だいたい、山東の山賊がこの辺りまで来るものですか」
叔母が眉をしかめてたしなめるように言う。
「ふむ。それにしても随分と若い女の子の多い盗賊団だ。手配書などと言うのは多少悪人面に描かれるものだから、この様子からするときっと美人揃いなのだろうなぁ」
「あなた?」
と冷たい妻の声に夫はびくっと背筋を伸ばすと、ごまかすかのように咳払いを一つした。
「と、ところでだな柴進。この盗賊団のこともそうだが、最近はどこもかしこも物騒だ。何やら最近北方の遼国も騒がしいと聞く。一応あの滄州の家が本家とはいえ、こっちに越してくる気は無いのか?」
「ええ、遼国の事は私も聞いております。女真族という方達といざこざが起きているとか……」
「さすがに知っておるか。そういう状況なら趙家の方とてうるさくは言わぬだろう。だからな……」
だが、叔父が全てを言う前に柴進はきっぱりと言い切った。
「いいえ、叔父様。私の居所は移せても、私の荘園の者たちまでは移動先は無いでしょう? それにあの土地は皆が何代もかけて開拓したもの。そうそう簡単に離れられませんわ」
「む……」
「柴進。あなたのその覚悟はとても立派だと思うけど、でも姪の身を案じる私たちのことも少しはおもんばかってくれないかしら」
「もう……そういう言い方は卑怯です。叔母様」
柴進は珍しく年相応に膨れて見せた。
「……そうですね。では荘園の子供達を何名かこちらに寄越しますから、行儀見習いとしておいてくださる? 自分は良くても子供はせめて、という家もあるでしょうし、こちらで商売できるようになればいざというときには生活の道筋もつくでしょうから」
「それぐらいならお安い御用だ。私とて伊達に税を免除されてる柴一族ではないとも」
はっはっは、と叔父は豪快に笑った。
「旦那様。お話し中のところ、申し訳ありません。少々よろしいでしょうか」
と、そこでいつの間にか近づいていた使用人が声をかけた。
「うん? どうした?」
「麒麟屋の廬俊義様が参られまして、お二人にお目通り願いたいと」
「麒麟屋の……ああ、あの子か」
「麒麟屋?」
と聞いたことの無い屋号に柴進は首をかしげる。
「そうだな。柴進は会ったこと無かったか。元々は大名府の質屋だったのだが、最近色々と手広く商売していてな。ちょうどよい。お前も会っていくか? 麒麟屋の主人はお前とそう変わらぬ年の女性だし、話が合うこともあろう」
「私と同年代?」
「あなた、会うのは結構ですけど、あまり余計なものまで買わないようにしてくださいね?」
「おまえ、まさかこの間買ったあの庭石を余計なものと思ってるのではなかろうな。あれは良いものだったではないか」
「だからといって、あの値段はちょっと……」
叔父夫婦の会話から柴進はおおよそ、何が過去にあったかを察した。叔父の趣味の一つは庭園造りで、そのためにまた高い買い物をしたのだろう。こういうのは適正価格などあって無いようなものだから、詐欺と断言はできないが、叔母の言うことを信じるなら、あまり油断してはいけない相手のようだった。
(その売り手が若い女の子となれば、叔母様が面白く思わないのも当然かしら)
だが、それはさておき、あの生き馬の目を抜くような大名府で自分と変わらぬ年の女の子が商売を軌道に載せていると聞けば、興味を引かれる。
「叔父様。私も喜んで同席させて頂きますわ」
「旦那様、奥様。お目通りかないまして恐悦に存じます」
叔父と叔母に続いて客間に入ると既に部屋で待っていたらしい若い女性が膝を折って頭を下げる。この女性が、あの話題に出ていた麒麟屋の主人なのだろう。まるで清流のようになめらかな金髪に嫌身にならない程度に豪奢な紅の着物をまとっている。確かに自分より数歳年上と言った雰囲気で、立ち振る舞いの洗練さからしても、ひとかどの人物なのはすぐにわかった。他に従者として一人、年若い少年とも少女とも判断がつかない、中性的な印象の人間が後ろに控えている。
「うむ。わざわざ済まないね。しかし、今日はどうしたのかね? 何も注文などはしていなかったと思うが」
「ええ。ですが、近くまで寄りましたところ、旦那様が病を患われたと伺いまして、少々薬の代わりとなりそうなものを持ち寄った次第でございます。燕青、お出しして」
「はい」
と燕青と呼ばれたその中性的な従者が後ろにある壺をすっと差し出してくる。鈴の転がるようなその声からすると、どうやら少年ではなく、少女のようだった。
「これは?」
「南方の果物を砂糖漬けにしたものでございます。薄く切って茶などと一緒に食すと非常に美味の上、滋養強壮にも良いと評判ですのでお納めください」
「それは気を使わせてしまったね。席を用意しているのだから座るといい」
「それでは失礼して」
と言って、廬俊義は深々と頭を下げてから席に着く。柴進たちも反対側に座る。
「ところでそちらの方は?」
「ああ、私の姪で柴進という。彼女も私が病気だと聞いてかけつけてくれてね。こう見えて、我が柴一族の正当な頭領にあたる人間だ。仲良くしておいて損はないぞ」
「柴進様……と。ええ、お噂はかねがね伺っております。こうしてお会いできるなんてうれしく思いますわ」
と恭しくその女性は頭を下げる。
「ええ。私もあなたのような方と知己になれるのはうれしく思います。それに叔父がお世話になっているようですし」
「お世話などととんでもございません。我々の方が旦那様のお慈悲に与っている次第でして……」
廬俊義は殊更に鯱張った言葉遣いをする。商人として常識的と言えば常識的な対応なのだが、ついこの間まで、魯智深のような規格外の人間を相手にしたせいか、柴進はなんだか物足りなさを感じてしまう。とはいえ、それを責めるわけにもいかないが。
「家の方に伺ったところ、既に快方に向かわれているとのことでしたが……」
「ははは、可愛い姪が来るとなれば、寝込んでばかりはおれんさ」
「叔父様。本当に無理してらっしゃらないでしょうね」
一応、柴進の目から見ても叔父が快方に向かっているのは確実だったが、そんなことを言われると、なんとなく不安になってつい尋ねてしまう。
「むう、そうだな。しかしお前が滄州に帰るとなったら寂しくて、また病が再発してしまうかも知れぬ」
「もう、ご冗談ばっかり」
柴進は叔父の言葉に困ったように眉根を寄せる。
「ところで、廬俊義殿。以前に君に尋ねた例の陛下がご執心という花石鋼という石のことなのだがね、どうかね? 手に入りそうかい」
叔父はおそらく、何気ない世間話のつもりでその話題を投げたのだろうが、その言葉に廬俊義の顔は露骨に曇った。
「それが実は……折を見て、そのことをお話ししようとしておったのですが、その花石鋼の産地である江南で問題が起こっているらしく……」
「問題?」
「ええ。まだ真偽ははっきりしないのですが、なんでも方臘という賊が反乱を起こしたとかで現地の流通が滞っているのです」
「なんと、反乱が」
「まあ、怖い」
叔父と叔母にとっては初耳だったのだろう。彼らは驚きの表情を浮かべた。
「申し訳ありません。ご要望にお応えできないこと、伏してお詫び申し上げます」
「いや、顔を上げなさい。君のせいではなかろう。それより、その反乱について知っていることがあれば教えてくれないかね」
「では……」
廬俊義はあくまで噂であるとした上で、既に方臘によって十数個の町が彼の支配下にあり、官軍も簡単に手を出せなくなりつつあることやそもそもの反乱の原因が花石鋼の運搬のための労役であることから特に方臘軍がそれを目の敵にしているらしいことを話した。
(あら……ただの商人にしては随分と良い耳をお持ちの方なのね。それだけ優秀、ということで良いのかしら)
柴進もふんふんと時折相づちを打ちながら、柴進は自分の手持ちの情報と付き合わせて、そう評価を下す。
「それは本当かね? ……いや、君を疑うわけでは無いが、今年の秋には陛下が江南地方に御巡幸される予定なのだよ」
「まあ、この時期にですか?」
逆にこの情報は廬俊義にとっては初耳だったらしく彼女は目を瞬かせる。
「反乱が起こっているまっただ中に向かうなど、普通では考えづらいのだが……」
「つまり方臘とやらの話は嘘かもしれないのね?」
叔母がほっとした様子を見せる。だが、柴進はそれよりも遙かにあり得そうな可能性に言及してみせた。
「あるいはまだ都に報告が届いてないのかも知れません。御巡幸の話は私も聞きました。中止するかも知れませんが、少なくともそういう計画があるのは事実です」
「そうですか。お話し頂いてありがとうございます。実は近々、情報の確認のためにもこの燕青が江南に向かうのです。よろしければ彼女が帰った後にお話し出来ると思いますよ」
「燕青君が?」
叔父が廬俊義の背後に控える中性的な少女へ思わず視線を移す。柴進も改めてその燕青なる人物を観察した。銀髪の髪を短く切ったその少女は一見するとまるで優美な少年のようにも見える。白い簡素な服を着ていたが、それでも廬俊義に勝るとも劣らない美しさを兼ね備えている。廬俊義が豪奢な大輪の牡丹だとしたら、この少女は小さく可憐な白梅の花と言ったところだろうか。
「この子が優秀なのは知っているが……大丈夫なのかね? まだ若いだろう」
「年はおいくつですか?」
「今年で十四になりました」
柴進が尋ねると燕青ははきはきと答えた。
「まだ、子供じゃない。人様のご商売に口を出したくは無いけど、やめた方が良いのでは無くて?」
という叔母の言葉に対して、廬俊義はにっこりと微笑んだ。
「確かに若いですが、燕青は私が最も信を置いている部下です。頭も良く、胆力もあり、山賊ならものともしない程度の腕は持ってます。それにさすがにこの子一人を行かせるわけではありませんから」
その言葉に対して、柴進は顔をあげて燕青に尋ねる。
「ひょっとして気功を?」
「自慢できるほどのものではございませんが」
燕青の言葉は控えめだったが、その声の響きには確かな自信があった。
「それにしたって、ねえ……」
「まあ、廬俊義殿の決めたことだから、我々が言うことではないが、心配でないといえば嘘になるな」
と叔母と叔父は言い合う。
「よろしければ、私の使用人を同行させましょうか?」
「柴進様の?」
思ってもみなかったのだろう。廬俊義と燕青は二人そろってぱちくりと目を瞬かせる。
「私の住んでる滄州はいざこざも多いところですから、荒事になれた人間が何名かいますの。それにその反乱については私も気になるところでして。……そう、だからこう言い直すべきですね。よろしければ私の使用人たちを同行させて頂けませんか? もちろん迷惑はおかけしませんので」
「それは……ありがたい申し出ですが、よろしいのですか?」
確認するように廬俊義はちらりと叔父にも視線を向ける。
「柴進の家の事は柴進が差配している。柴進が良いというのなら良いのだろう。まさか使用人を十名も二十名も同行させるのでは無いのだろう?」
「ええ、ほんの数名です。もちろん燕青さんに不埒な真似をするような人間ではありませんし、火事場でも自分の面倒はきちんと見れる人間ですから」
と柴進は扇子で口元を隠しながらそう答えた。
「呉用さんが最後ですか?」
第一次梁山泊内戦から三日後、宋江は呉用の部屋で対面に座る部屋の主ににそう問いかけた。左右には秦明と公孫勝もいる。今日はこの四人で小規模な作戦会議を行っていた。
「そうよ」
と正面に座る呉用が頷く。宋江は改めて自分と彼女の間にある紙片に目を落とす。
そこにあるのは呉用が作成した今後の大雑把な全員の予定を示したものだった。各人の怪我の状況などを勘案した上でおおよその出発時期とどういう経路で目的地の江南に向かうかが書かれている。
その予定表上、呉用は最後までこの梁山泊に残ることになっていた。
「あなたと公孫勝が先頭なんだから、殿は晁蓋と劉唐、それに私ですべきでしょ。元々この五人で始まった話なんだから。それに晁蓋は肝心なときに当てにならないし、劉唐もまだ怪我が治らない上に細かいところまで気を回せる人間じゃないから」
「でも……」
予定表上、呉用が出発するのはおおよそ二ヶ月後。一方、雷横はここに兵が向かってくるのは早くて一ヶ月後と言った。当然、最後までこの梁山泊に残るというのはそれだけ軍の襲撃にあう可能性が高いと言うことになる。
そして呉用は直接的な戦闘能力から言えば、下から数えた方が断然早い。端的に言って危険な場所に長い間いていい人間では無いのだ。
「あなたが言いたいことはわかるわよ。だからといって、怪我してるあなたのお友達やお嫁さんを晁蓋に任せっきりに出来る?」
そう言われると宋江は首を縦に振れない。晁蓋は強いことは強いのだが、およそ他人を顧みるなどということはしない。面倒見のいいところもあるから最低限のことはしてくれるだろうが、信頼がおけるかというとちょっとまた別だった。
「その晁蓋さんなんだけど、江南には来てくれるのかしら?」
黙ってしまった宋江の代わりに、というわけではなかろうが、秦明がそう言って別の話題をあげてくる。呉用の作った予定表の中に晁蓋の名前は無かった。
「一応、私がなんとか説得して引っ張っていくつもり。あれを連れてったらまた先々で問題起こしそうだけど……かといってここに一人放っておくのはさすがに寝覚めが悪いの。ごめんなさいね」
「いえ、謝られるようなことでは」
と秦明が慌てて否定するように手を振る。
「じゃが、呉用殿。晁蓋殿は果たして説得に応じるかのう?」
公孫勝の疑問は宋江も思っていたことだった。晁蓋は自分たちとは種類の違う人間だ。生きるために戦うのでは無く、戦うために生きる人間、それが晁蓋だ。
闘いを避けるために江南へ移動する等という計画に彼が賛同するとは思えなかった。おそらく、呉用が予定表に彼の名前を書かなかったのは、それを彼女自身、よくわかっているからだろう。
「……なんとかするわよ。最悪、禁気呪をどこかから手に入れて引っ張っていけば済むでしょ」
と呉用は言うが、それでも宋江は懐疑的にならざるを得ない。晁蓋をだまくらかして禁気呪をつけるところまではうまくいくとしてもその後、彼をずっと江南まで引っ張っていく、というのはかなりの大仕事のように思える。そもそも晁蓋は気功が使えなかったとしても、並の男なら太刀打ちできないほどの武術の腕を持っているのだ。その彼が絶えず脱出を試みてると言う状況で果たして彼を何事も無く江南まで運ぶなんて所業、少なくとも宋江なら途方にくれてしまう。
「……もし、それに失敗したり、途中で晁蓋が逃げ出したら?」
「……その時はその時よ。私もさすがにそこまでされたら付き合ってられない。阮小二さんや劉唐と一緒にあいつを放ってあなたと合流するわよ」
「本当に?」
「何よ。やけに念を押すわね。私がそこまであいつに尽くしてやる義理無いわよ」
と、呉用は言う。だが、それを言い出すなら、そもそも晁蓋のために言を尽くしたり、禁木呪を手に入れる義理もない。もっと言うなら、呉用がそこで晁蓋をあっさりと放逐するような性格なら彼との縁はとっくに切れているだろう。愛想を尽かす、という可能性もなくはないが、なんだかんだと言って面倒見の良い呉用の性格を考えると、そうなることは非常に考えにくい。
だが、それを問いただす事は宋江にはできなかった。問いただしたところで、呉用はきっと否定するだろうし、肯定されたとしても、それを自分が翻意させられる気もしなかったからだ。
「となると、林冲と魯智深さんには最後まで残ってもらった方が良いんじゃありませんか?」
宋江と呉用の間で微妙に走った緊張感を解きほぐすように再度、秦明が口を挟む。
「晁蓋対策に? さすがにもったいない気がするわ。多分、晁蓋以外では一番強い二人でしょ」
「それだけではありませんよ。二ヶ月も経てば近くの州だってここに兵を派遣してくるでしょう。晁蓋さん一人では何かと対応に困ることもあるのでは?」
秦明の言うとおり、晁蓋は無類の強さを誇るが、だからといって彼さえいれば安心というわけでは無い。特に今回想定されるような拠点防衛などと言う四方八方から敵が責めてくるシチュエーションでは彼一人がいくら強くてもどうしようも無いのだ。
「でも、宋江の方だって何があるかわからないのよ。朝廷の権力が届かない場所と私は行ったけど、それはつまり盗賊や夜盗が跋扈している地域って事でもあるわ。方臘軍だって基本的に食い詰めものの集まりだろうから、もめ事だって起こるでしょうし」
「呉用殿、忘れておらんか? 一応わしも途中からとはいえ、一緒に向かうのじゃぞ。そりゃ千や二千の集団に囲まれても平気とは言わんが、それはこちらとて同様じゃろ」
「ええ、それに雷横さんたちや楊志さん、秦明さんたちだって一月かそこらで僕と合流することになります。呉用さんや阮小二さんの方が心配ですよ」
「呉用さん。あの二人は確かに晁蓋さんに次ぐ、我々の最大戦力ですけど、私たちだってそこらの夜盗に遅れはとりません。宋江くんたちの事ならご心配なさらずとも私たちにお任せくださいな」
公孫勝と宋江、それに秦明に次々と言われて、呉用は少し天を仰いでから不承不承といった調子で口を開いた。
「……わかりました。林冲さんと魯智深さんが同意して頂けるならお願いすることにしましょう」
「つまり……君は晁蓋殿がここから動かない場合、呉用殿もここにいて脱出はしないつもりかもしれないと、そう心配していると言うことか」
「それでそうなったら、無理矢理ふん縛ってでもあの子を江南につれて来いって?」
「お願いできますか?」
場所を移して劉唐の部屋、宋江はそこに林冲と魯智深を呼んで、三人に胸の内を明かした。今のところ、この三人が最後まで呉用や晁蓋とともにこの梁山泊に残る面々という予定になっている。他に阮小二も残る予定だが、彼女は普段梁山泊にいないので、接触しづらい。
「それぐらい、良いけどさ……そこまでしなきゃいけない? 正直、あの子がどうしても、こっちに残りたいと言うなら、好きにさせてあげたら良いとあたしは思うんだけど」
「それは……」
と宋江は少し言いよどむ。確かにそんなことをすれば当然だが、呉用は怒るだろう。宋江が二の句を告げずに居ると魯智深ははあとため息を吐いて言った。
「……わかったよ。なんとかしてあげる。あたしだってあの男に付き合うのが良いこととは思えないしね」
「あたしも構わないぜ。というか多分、宋江が言わなくてもやってたよ。あの人にはあの人なりの事情があるんだろうが……晁蓋さんは自分が引きずり回してる人間に無頓着だからな」
魯智深に続いて劉唐も頷いてそう言った。
「一応、確認しておくが、晁蓋殿の事はいいのだな?」
と林冲が聞き返してくる。
「ええ。晁蓋の事はちょっと……本気で暴れ出したら皆さんも大怪我しかねませんし」
「まともな闘いになればな。業腹だが、私の実力は晁蓋殿に遙か及ばない。少なくとも正面からでは無理だな」
「あたしはまだ負けを認めてないわよ! この間は体調が万全じゃなかっただけだし!」
くわっと魯智深が目を見開いて叫ぶ。直に見たわけではないが、先日、晁蓋とやり合った際に、魯智深は手も足も出なかったらしい。その事実はこの女傑の誇りをいたく傷つけたらしかった。
ただ、策を講じるにしろ、体調が戻ってからにするにしろ、晁蓋を相手取るのはかなり危険なことになるのは確実だった。晁蓋が暴れるのを止めるのに林冲たちが怪我をしかねないリスクを負うのはさすがに馬鹿げている。
「林冲さん、ちょっと聞きたいんですけど、仮に禁軍の人たちがここに乗り込んできたとき、晁蓋って危ない目に遭うと思います?」
「一対一で彼に勝てる人間はいないだろう。集団で日夜攻め続ければ糸口が見えるかも知れんがな……」
「一人もいないってマジか。昔、禁軍にとんでもなくつえー爺さんがいるって聞いたけど、そいつは? もう死んだのか?」
「王進殿のことか? あの方なら既に禁軍を辞した。今どこにいるかは多分、誰も知らんだろう」
劉唐の言葉に林冲は即座にその名をあげる。どうやら抜きん出て優秀な人物らしかった。
「ふぅん。あの爺さん、元禁軍とは聞いてたけど、そんなとんでもない奴だったの」
「会ったのか?」
林冲はやや驚いたように魯智深に尋ねる。
「近くの町にいたから一回だけね。もっともそこもすぐに辞めてどっかに行っちゃったわよ。そのすぐ後だったかしらね、そいつの弟子がやって来たのは」
「弟子? 本当か? あの方は特定の弟子など持たない人間だと思っていたが」
林冲が少し考え込むように言うと、魯智深は肩をすくめた。
「そこまでは知らないわよ。あたしよりちょっと年下の女で史進ってやつよ。嘘つくようなやつには見えなかったけど……」
「史進……」
とぽつりと宋江が口に出すと、林冲がこちらを向いた。
「……っとすまない。話がそれてしまったな」
「いえ、色々と興味深い話をありがとうございました」
と宋江は謝る必要が無いというように首を横に振った。
「とにかく、晁蓋の事はなるようにしかならない、と思ってます。呉用さんと違って抵抗されたら皆さんも無事でいられる保証はないですから、気軽に頼めることでもないので」
と宋江が言うと、不承不承といった様子で三人は頷いた。
そう、晁蓋の事は他に頼めない。第一、晁蓋なんて放っておいても、だれも彼を傷つけられるものは居ないし、心配することなどい何もないだろう。自分の知識が正しければ彼は近い将来、死ぬことになるだろうが、宋江とて、あの晁蓋が簡単に死んでしまうとは思っても居なかった。
そしてそれ以上に自分が傷つく危険を冒してまで彼を止めたいと願う人間もこの梁山泊においてすらほとんど居ないはずだ。
だから自分がやるしかない。
「ふーん」
とりあえず、晁蓋にこれからの予定を大雑把に話したところ、彼の発した言葉はたった一言、興味の無さそうな相づちだけだった。
「……それだけ?」
「他に何を言えってんだ。好きにすりゃいいじゃねえか」
それはつまり、自分はその行動に加わるつもりは無いという意思表示だった。おおよそ、宋江の予測していた通りではある。
「じゃあ、晁蓋はこれからどうするつもりなの?」
「そうだな、お前が帰ってきた以上、俺がここで大人しくしてなきゃいけない理由はねえな。……どうせ手配された身だ。いっそ、ここを出て開封の禁軍に乗り込むか」
「やめて。お願いだから」
ここに残って朝廷の軍を撃退するくらいならまだしも、こちらから単身突撃する等という斜め上の回答に宋江は思わず頭を抱えてうめく。
林冲の言葉を信じるなら今の禁軍に晁蓋を一対一で倒せるような人材は存在しないらしいが、だからといって、晁蓋が禁軍をまるごと捻り潰せたとしてもそれはそれで、大いなる面倒事が始まる気がする。
「できれば晁蓋にもこっちに来て欲しいんだけど」
「その方臘ってのをぶち殺すのか? 所詮山賊だろ? 禁軍の連中の方が面白そうなんだけどな」
「話聞いてた!?」
間違いなく、聞いてなかったのだろう。そうとわかっていても思わず言わずにはいられなかったが。
「でも、晁蓋はいつまで戦い続けるつもりなのさ。ずっとこの国相手に喧嘩を続けるつもり?」
「そんな先のことまで考えちゃいねーよ。まあでもそれも悪くは無いと思うけどな」
「呉用さんはどうするのさ?」
「呉用?」
その名前が出てくると晁蓋は全く予期していなかったようできょとんと目を開ける。例えるなら英語の試験の最中にいきなり、漢字の書き取り問題を出されたような、そんな顔つきだった。
「呉用のことなら本人に聞けよ。俺は知らん」
「そういうことじゃなくてさ、呉用さんを、ほら、それに付き合わせるつもりなの?」
「んなこと一言も言ってねえだろ」
「だったらさ……」
「あのな、お前何か勘違いしてねえか?」
晁蓋は少し不愉快そうに眉根を寄せる。
「そもそもだな、俺は黄泥岡の件から、呉用に来て欲しいなんて一度も言った覚えはねえぞ。止めもしなかったけどな。今だってあいつが引き続きここに居るなら止めねえし、ここから出てくのも止めねぇ。名主だったときとは違うんだ。あいつが俺に付き合う義理も、俺があいつに付き合う義理ももう無いだろ。違うか?」
「晁蓋の理屈はわかるけどさ、なんとか、呉用さんの意見をくんであげてくれないかな」
「程度によるな」
あっさりと晁蓋は言葉を返す。
一瞬話し合いの余地はあるように聞こえる言葉だが、そうではない。晁蓋が言ってるのは俺の邪魔にならないんなら別にいうことは聞いてやるぐらいの心持ちであり、一方呉用からすれば、そこを聞いてくれなくては意味が無いのだ。
「それともなんだ? 俺から呉用に言えば良いのか? 『邪魔だからここから出てけ』って」
「絶対やめて。そんな事言うの」
渋面で宋江は再度頭を抱えた。頼めば間違いなく、あるいは頼まなくとも、晁蓋は呉用に今の台詞を言うだろうが、言ったところで、呉用が意固地になるだけなのは目に見えている。まさかさすがに晁蓋も力に訴えて呉用を追い出すような真似はしないだろうが。
「あのな、お前にしても呉用にしてもなぜそんなに俺にこだわる」
「なんでって決まってるじゃん。晁蓋に死んで欲しくないからだよ」
「俺の人生と命だ。俺の好きにする。……そうだな、良い機会だ。ここらで別れようぜ」
「別れるって?」
「お前が江南に行きたいなら行けば良い。気が向くんなら呉用も連れてけよ。俺は開封に行って適当に強い奴を探す。縁があったらまた会うだろうし、なきゃ会わん。お前も最初は身一つだったから面倒見てやったが、もう十分だろ」
「ま、待ってよ。もう呉用さんとも二度と会わないつもりって事?」
「おそらくそうなるな」
「呉用さんが許すと思うの?」
「許そうが許すまいが知らん。さっきも言ったが、前とは違う。以前はあいつは俺の村の住民で、俺は名主だった。だが今はそうじゃない。それにあいつが本気で追ってくるつもりなら俺は止めねえよ。そんな事しないと思うし、やめた方が良いと思うがな」
晁蓋の顔は冗談を言っているようには見えなかった。つまり、今言ってることを本気で実行するつもりなのだ。一人で勝手にここから出て行き、都で適当に暴れる。呉用のことも誰のことも知ったことではないとばかりに。
その果てに彼は何を見ているのだろう。いや、おそらく何も見ていない。晁蓋は戦うために生きる人間なのだから。人が何のために生きているのと言われても即答できないように、戦って何を得るかなど、彼にとっては二の次なのだろう。
「晁蓋。戦うなとは言わないよ。言っても無駄だと思うし。でも、そんな捨て鉢な行動はよしてよ。僕は嫌だよ。晁蓋と別れて、どっかで野垂れ死にされるなんて」
「さっき言ったとおりだ。俺の命と人生だ。俺が選択する。俺はお前の部下じゃない、むしろ元々の関係を言うなら俺がお前の雇用主だったんだからな。まあ、もうそれはどうでもいいけどよ」
平行線。二人の言い分が交わる気配はまるで無かった。だからといって宋江は自分のためにも晁蓋のためにも、そして呉用のためにも退く気は無かった。だが、宋江はこれ以上、晁蓋に対して、語るべき言葉を持ち得なかった。彼が彼のために彼の命を使って行動する。それに対して自分が何を言えよう。
「どうしても……行くつもり?」
自分は努めて平静に声を保ったままだったが、声は震えていた。できれば、これはもっとも採りたくない手段だったからだ。何せ、言葉を交わすよりずっと絶望的な選択肢なのだから。
晁蓋はこちらの雰囲気が変わったのに気づいたのだろう。彼は寝台の上に寝転がるのをやめて、座った。
「俺を止めてみるか、力づくで」
「それしかないならね」
言って宋江は立ち上がった。晁蓋は座ったままだ。
「勝てると思ってるのか?」
「晁蓋は勝てそうな闘いしかしないの?」
「言うねぇ」
晁蓋が獰猛に笑う。
「ある程度覚悟はしてたみたいだが、一人で来たってのはそういうことかい?」
「だって、晁蓋、女の人でも容赦なく殴るし」
先日の内戦のことを思い出して宋江は言う。幸い誰にも大きな怪我は無かったが、索超などあと少し間違ってたら怪我の完治が二ヶ月は遅れていた。
「武器持って襲いかかってくる連中に男も女もあるか」
正論だろう、と宋江は思う。魯智深や林冲は戦闘力で見ればそこらの男とは比べものにならない。それでも納得できないのは自分の元の世界の常識のせいだろうか。
「いいぜ、俺のことを打ち負かしたら、お前の言うこと聞いてやるよ」
「……約束は守ってもらうよ」
宋江がそういった直後、晁蓋が寝台の上からバネ仕掛けのように飛び上がり、宋江の側頭部に回し蹴りを放つ。
ズドン、とまるで大岩が落ちたような音が梁山泊に響いた。