その三十四 呉用、方針を示すのこと
sui5
「大変、大変、大変だよぉ!」
宋江が例の廃屋から帰ってきてから更に三日後。その日、そう言って梁山泊にに駆け込んできたのは阮小七だった。両脇に阮小五と阮小二も着いてきている。
「大変って何が?」
たまたま、戸口にいた宋江が三人を出迎える形となり、そう問う。すると阮小七は紙の束を差し出していった。
「これ、みんなの手配書!!」
「まあ、あれだけ暴れ回ったのです。手配されない方がおかしいと思いますけど」
自分が手配されたと聞いた朱仝は落ち着き払ったものだったし、おおよそ他の面々も似たような反応だった。
「みんな、驚かないの?」
「覚悟はしてたからね」
阮小七は皆が落ち着いていることに不満そうだった。せっかく掴んだ衝撃の情報が、実はそうでもなかったのが面白くないのだろう。
「それよりそれより、あたしが晁蓋の部下扱いになってるのがすっごく納得いかないんだけど」
実際に、財宝を守るために晁蓋と戦った索超からすれば納得できないのは当然だ。おそらくだが、黄泥岡の一件は晁蓋によるものと判明していて、その情報を元にアップデートされたためにそういうことになっているのだろう。ちなみに、索超だけでなく朱仝や雷横、林冲、秦明にいたるまで同じ扱いである。
それはそれとして宋江も阮小七が持ってきた手配書には疑問を呈さざるを得ない箇所があった。
「……僕の手配書が無い」
「良いことじゃないの」
こちらの声に不満の色を感じ取ったのか、呉用が窘めるようにそう言ってくる。確かに呉用の言うとおりなのだが、なんとなく無視されたようで宋江は面白くなかった。
「こちらの男性が宋江殿ではありませんか? 名前は無いですけど、木外功使いと書いてありますから」
「完全に別人じゃん。誰だか知らないけど、また適当な仕事したね」
黄信の指摘に雷横が呆れたように言う。確かに手配書には自分とは似ても似つかない三十代程度の痩せほそったネズミのような男が描かれている。
他の面々はおおよそ特徴を捉えているから、単に絵の巧拙という感じでは無さそうだった。
「顔を知ってた人がいないから想像で書いたんじゃない? 宋江は実際、ほとんど敵兵に顔を見られてないんだから。唯一の情報があの巨木の件なんでしょ」
と花栄が指摘する。そう言われてみれば確かに面と向かって相対した人間はほとんど死んでいるし、他の面々のように元から知られていたと言うことでも無い。とそこまで考えて思い出す。
「河清は僕の名前も顔も知ってるはずですけど……」
「そういえば、あいつどうなったの?」
魯智深に聞かれて宋江は記憶をほじくり返す。
「晁蓋がどっか引っ張ってってそのまま行方知れずです」
「晁蓋殿がとどめを刺したのかな?」
という林冲の言葉に宋江は首を横に振った。
「多分ですけど、してないと思います。晁蓋は河清にあまり興味を持ってませんでしたから。あの交引を取り戻したら、あとはもう気にしないんじゃないかな?」
「……つまり、宋江くんの事は河清から報告されてない?」
「あいつも逃げたのかも。あのまま帰ったら責任を負わされかねない立場だったし」
と楊志が意見を述べた。
「一度整理しましょうか」
やや混乱してきた場を見て、呉用は手配書を食堂の卓の上に並べていった。
「全く手配のかかってないのが公孫勝と花栄さん、それからこっちに残っていた阮小七、宋清ちゃんと私の五人。顔だけで名前が明らかになってないのが、阮小二さんと阮小五、劉唐、それに魯智深さんと黄信さん。あと例外として一応顔はでてるけど、完全に別人の宋江」
と言いながら、呉用は手配書を卓の上に並べていく。
「そして名前も顔も明らかにされているのが、楊志さん、索超さん、朱仝さん、雷横さん、林冲さん、秦明さん、それと当然ながら晁蓋」
呉用はそういったところでその情報が全員に浸透するのを待つかのように少し時間を空けて話を続けた。
「さて……おそらくですが、ここが突き止められるのは時間の問題だと思っています。我々が黄河の下流側に逃げたことは前の黄泥岡の時から明らかになってますし、晁蓋はこの辺りでは有名人なので、どうしたって目立ちますから」
それ居続けて阮小五が口を開く。
「そうだな、俺たちの顔も出てるから、誰か知っている人が見ればこの辺りに軍を派遣してくると思うぜ」
「突き止められたからと言って、すぐに軍隊が派遣されるわけとは限らないんじゃない?」
花栄がその辺りの事情に最も詳しそうな人物、すなわち雷横に尋ねる。
「そうだね。仮にだけど、ここが現時点で突き止められているとしても、兵が派遣されるのはどんなに早くても一ヶ月は先だと思う。ここから一番近い済州軍はこの間の闘いでボロボロだし、晁蓋さんのこともよく知ってるから、派遣にはそれなりに慎重になるはずだよ」
その雷横の言葉を皮切りにまた各々が意見を言い始めた。
「防御拠点としてここは悪くないと思うの。河の中州だから大軍が展開できないし、水攻めをするには黄河をせき止めなきゃ行けないからそう簡単にはできないはず。攻城兵器だって展開させるには手間がかかるわ」
「でも長期戦になったら厳しいわよ。食料もそんなに無いし、昼夜を問わず攻め込まれたら、そんなに長く保つとは思えない。こっちは二十人もいないんだから」
「中州に安定的に展開できるのはせいぜい二百名が限度だろ。怪我してるあたしが言うのもなんだが、その位なら蹴散らせるんじゃねーの?」
「楊志が楊志が言ってるのはそれが百日続いても大丈夫かということだよ。あたしは自信ないな」
「まあ、それなりの兵士を長期間展開するのはこの辺りの州では難しいでしょうけど……こういうのは銭計算というより面子の問題になってきますから、無いとは言いきれませんね」
「さすがに禁軍は派遣されないでしょ、と思いたいけど、どうかしら、林冲」
「被害者はあの蔡京なのだろう? 十分あり得るさ。正直言ってあの老人からすれば百万貫程度の金はさほど必死になって取り戻すべきものでもないだろうが、取り巻きが余計な気を回すさ」
「禁軍ですか……となると、やはりどこかに逃げ出すことも視野に入れるべきなのでしょうか」
「ですが、ここ以外にこれと言って良さそうな場所に心当たりのある方はいらっしゃるのですか。この人数ですと逃げるにしても目立ちすぎます」
「それに、現実的な問題としてまだこちらは怪我人・病人も多い。予定通りに移動ができるとは思わんでくれ」
しばらくわいのわいのと、そんな風に皆が意見を言い合う。宋江は話に参加できるほどの予備知識も無いので、とりあえずは黙っていた。
「私から一つ、提案させてもらっていいかしら?」
ある程度話が煮詰まったところで、呉用がそう言うと皆が一旦言葉を止める。
「まず、最終的にはここを捨てるべきだと、私は思ってます。確かにここは防御拠点として悪くないのだけれど、今皆さんが言ったとおり、問題点も多い。それに何より、朝廷が本気を出したらとうてい耐えられる場所ではありません。それならどこに逃げるべきか、という事なんだけど……江南が良いと私は思ってます」
「江南?」
と宋江はいぶかしげに声を上げる。江南、すなわち長江の南。ここからは大分遠い場所だ。ざっくり言って札幌から東京ぐらいの距離がある。
呉用は宋江にうなずいて言葉を続けた。
「皆さんがここに戻ってくる少し前に阮小七が同じように町から聞いてきた情報があります。それによると、江南では既に大規模な農民反乱が起こっていると。その首謀者の名前は方臘。宋江の言うことが正しければ、いずれ私たちと殺し合う間柄になるそうです」
「……どういう意味だ、そりゃ」
と宋江に聞いたのは劉唐だが、思いは全員一緒なのだろう。ほぼ全員の目が宋江を向く。宋江は自分の素性については話していたものの、自分と彼女たちの今後については話していなかったことを思い出した。正確には、素性について質問が集中したために、そこまで話す余裕がなかったというべきか。
「この間話しましたけど、僕は遠い未来からやってきました……多分ですけど。そこで皆さんのことが物語になっていて、詳細は省きますけど、最終的に僕らは罪を赦される代わりに朝廷の命令で方臘と戦い、その過程で多くの人が命を落とします。ここにいる人たちも含めて」
「補足しておくとあくまで宋江が言ったのはあり得る未来の一つと思ってください。現時点で既にいくつかの点で宋江の知る情報と現実の流れは変わってきています。そうよね? ただ一つ言えるのはこの方臘の反乱というのは今後、そこそこ巨大な勢力になり、というより噂を信じるならもうなっているのですが、そして、朝廷が簡単に手を出せなくなる、ということです」
「なるほど、いっそのこと、もう今の朝廷の権力の届かない範囲に行ってしまおう、ということなのだな」
林冲が納得したように頷いた。
「けど、大丈夫なの? 宋江の知る流れが正しいなら、結局そこに行ってもその方臘と戦う羽目になるんじゃ……」
何かにつけて慎重な楊志が不安そうに声を上げる。
「そのときはそのときじゃ無いかしら。少なくともこの場に留まったらいつかは禁軍との戦いに発展しかねないけど、方臘とはまだ和解なり協力なりの道がのこされているでしょ」
「わしも呉用殿の言うことに賛成じゃ。少なくとも、現地の官憲どもは反乱に追われて盗賊などおいかけてる場合ではあるまい。まあ、戦乱地は戦乱地でまた別の問題が起きそうじゃがの」
秦明と公孫勝がそれぞれ賛意を示した。
「断っておきますけど、方臘の軍に加わるつもりはありません。加わりたい人がいるのなら止めはしませんけど……最終的に方臘軍は討伐されることも考えられますから。私たちの目的はあくまで、朝廷の取り締まりが厳しくない場所に行って、追われる心配の無い生活をすることです。奪った金を方臘軍なり、地元の有力者に差し出せば、新しい生活の場は確保できるでしょう」
呉用はこの事態にどう対応するかと言うよりももう少し長いスパンで物事を考えているようだった。仮に朝廷を撃退できても最終的に方臘と闘い、命を落とすという結末を避けるためにはもういっそ敵側にすり寄ってしまった方が良いというわけだ。
「滅びちゃうんじゃ意味ないんじゃ無いの?」
「ここにいるよりはいいと思うのよ。そのうち恩赦とかもあるだろうし」
阮小七の疑問に呉用は答える。
恩赦は皇太子が生まれたとか、あるいは逆に皇帝が死ぬとかそういった国のイベントに合わせて数年に一度行われる。それで晴れて無罪放免とまでなるかどうかは微妙なところだが、すくなくともこのままここにいては数年を待たずして、全滅の憂き目に遭う。
(それに……)
明言しなかったが、呉用はひょっとしたらずっと前に自分が話したこの国が早晩滅びるという可能性を念頭に置いているのかも知れない。もし、そうなれば、それこそ、朝廷は自分を追いかけている暇など無いだろう。
「確かに、それは良いかも……」
ぽつりと宋江が漏らすと次々に彼に同調して賛同の声が上がる。
「実際には公孫勝の言ったとおり、まだ怪我人の人も居るし、ばらばらに別れて江南を目指すことになると思います。どのみち、ここにいる全員がひとかたまりで動いていたらどうしたって目立ちますから」
「う。それじゃあ、また宋江くんと離ればなれ?」
「どのみち、秦明様はお怪我されてる身ですから、養生してからにしてください」
秦明の言葉に黄信が冷静に言う。まあまあ、と宋江は黄信をたしなめてから言う。
「僕もここに残りますから」
「……できれば宋江には一番に先行して欲しいのだけど、実質的に手配されてない中である程度対外的に代表になれるのあなたくらいだし。怪我はそんなにひどくないんでしょう?」
と呉用から言われて宋江は改めて周りを見回す。
確かに先行して拠点を確保するとなったら色々と動き回ることになるし、外部の人とも話さなければならないから、手配されてない人間が良いと言うことになる。ところが、阮小七と宋清はまだ子供だし、公孫勝は実態は違うといえど、見た目は同じく子供だ。花栄は宋江よりも年上だが、彼女は外部の協力者なので、責任者にはなれないだろう。というより本人から拒否される。つまり、この中で外部の窓口となれるのは宋江かあるいは呉用くらいしかいない。
「呉用さんじゃ駄目なんですか?」
「宋清ちゃんは行くのだから、あなたもついていくのが自然でしょう? まさか離ればなれになるわけ?」
「あの、呉用さん、私、兄様が一緒ならここに残っても……」
「駄目よ。あなたと宋江はまだまともに市井で生活できる可能性はあるのだから、それを棒に振るような真似は私が許さないわ。それに、あたしがいなくなったら晁蓋がまた好き勝ってやるに決まってるし……いや、いたところでするんだけどさ、あいつは」
「俺がどうかしたか」
ぬっと出し抜けに晁蓋が通路から首を伸ばして部屋の中をのぞき込んでくる。
「晁蓋!? いつ帰ってきたの!?」
「たった今だ」
晁蓋はがじがじと干し肉をかじりつつ答える。微妙に酒臭い。
「……この場所は中州だったはずだが、どうやって? 何か秘密の通路でもあるのか?」
「いえ、晁蓋さんはこのくらいの河幅なら飛び越えられますから」
林冲の質問に阮小二が答える。林冲はその答えを聞いて目を白黒させる一方で、阮小二も未だに信じられないのか、自分で言っておきながら顔が微妙にひきつっている。
「あんた……ようやく帰ってきたのね。人の気も知りもしないで、好き勝手やってくれて……」
「別に良いだろ。何の問題も無かったんだから」
「あ?」
「ご、呉用さん、抑えて。ここは抑えて、ね。まだ話の途中だから。皆いるから場だしさ」
「そ、そうじゃぞ、呉用殿。どっちが悪いかと言えば晁蓋殿の方が間違いなく悪いがだからといってどなったところでどうにもならんのはわし以上に知っておるじゃろ」
晁蓋と額に青筋が浮かべた呉用の間に宋江と公孫勝が慌てて割り込む。
「なんだ、相変わらずかりかりしてんのか、生理か?」
「晁蓋! もう良いから黙ってどっか行って!!」
あんまりといえばあんまりな晁蓋の言葉に宋江は珍しく声を荒げて彼を食堂から追い出しにかかった。
「どうどう、呉用殿、どうどうじゃぞ……」
そう言って公孫勝が呉用を抑えている間に、宋江は晁蓋の背中をぐいぐいと押す。
「ほらほら。もう邪魔しないで」
「わかったわかった。興味も無いし、盗み聞きの趣味もねえから、そう押すな」
と晁蓋はさして抵抗もすることなく食堂から出て行く。丁寧に扉を閉じてからしばらくの間、部屋の中には呉用が獣のようにふーふーと荒い息を吐く呼吸音だけが響く。
「……失礼しました。話を続けましょう」
ややあって、平静を取り戻した呉用がそう言葉を発する。
「あのさあのさ、蒸し返して悪いんだけど、あの男に一泡吹かせたいって言うなら協力するよ」
と索超が物騒なことを言う。魯智深を初めとして何人かが同調するように頷いた。
「ありがとう。それは後で改めて相談させてください。えーと、どこまで話したんだっけ?」
「宋江が一番に出発するかどうかと言う話じゃな」
「そうだったわね。というわけで宋江、なんか言い分があるなら聞くけど?」
「えーと……」
冷静に考えれば、呉用の言い分に理があることは明らか、というよりそれに対抗できるほどの説得材料を宋江は何も持ち合わせていなかった。
とはいえ、である。劉唐や阮小二と言ったもともと関わってた人間、あるいは楊志や雷横のように巻き込まざるを得なかった人間はまだしも、魯智深や秦明といった面々は完全に宋江がこの厄介ごとに引きずり込んだ人間だ。それを置き去りにするという案にあっさりと頷くのはやはり感情的に抵抗があった。
呉用の雰囲気からしてもとてもそんな主観的でふわふわした理由では受け付けてもらえないことは明らかである。宋江はあーうーとしばらく意味の無い言葉を発するのが精一杯だった
「宋江」
と声がかけられる。見ればそれは魯智深だった。
「あんたに任すわ。新しい居場所作り。手配のこととか抜いてもあたしはあんたが一番適任だと思う。だから、頼んだわよ」
借りを一方的に作っている魯智深にそこまで言われて嫌と言えるわけも無く、宋江は首を縦に振るしかなかった。
「わかり……ました」
「よし! じゃあこれからあのでくの坊をコテンパンにする作戦会議の開始よ!」
と魯智深が再度宣言をする。まるでその話をしたいがために宋江にさっさと決断を促したかのようだ、というか真実そうなのだろう。
「どうしよっか。火で燻す?」
「有りと言えば有りと言えば有りだけど、あたしとしてはどっちかっていうとやっぱり直接ぶんなぐりたいよね」
「今更なんじゃがな、呉用殿。弱点とか無いのか、晁蓋殿には」
「どうかしらね。禁気呪をどこかから手に入れた方が確実だけど、そこまで待てないわ。私のこの怒りが。強いて言うならあいつの部屋の酒瓶くらいかしら」
途端にわいわいと先ほど以上の熱量で会議が始まる。この梁山泊の中心である呉用と公孫勝が参加しては、もはや止めるものは誰もいない。
(劉唐さんとか魯智深さん、怪我人のはずだけど、いいのかな……)
等と考えていると、宋清がつんつんとこちらをつついてくる。
「あの、兄様。止めなくて良いのですか? 多分ですけど、もう兄様でないと収拾つかないと思うんですけど」
「無理だよ。こうなったらもう一旦暴れないと収まんないよ、きっと」
「でも……」
「まあ、みんなさすがに本気じゃ無いだろうから、大したことにはならないと思うよ、多分……」
幸いにして宋江の予言通り一時間後に起こった梁山泊の内戦は最終的に宋江の「そろそろ晩ご飯できますよ」という呼びかけで終わりを告げた。
「お待たせして申し訳ありません」
申し訳なさのかけらも感じさせない声で、この国の禁軍総司令官は自分たちに深々と頭を下げた。
「そう、気にすることもありますまい。高俅殿が兵馬の調練でお忙しくされているのはわしも童貫殿も承知しておる」
それに対し、蔡京もまたねぎらいの色など毛ほどもみせない声をあげる。要は虚礼のやりとりだ。だが無意味とは思わない。それは例え刃物を持っていても攻撃はしていないと表明する行為だ。少なくとも蔡京はそう思っている。
「さて、私めが呼ばれたということは此度の陛下の御巡幸の件でしょうか」
「さよう」
お前が吹き込んだ件だよ、と蔡京は心の中で憎々しげに付け加える。もちろん、顔にはちらりとも出さないが。
ことの起こりは今年の春先。皇帝が突如として遠く江南の地に行きたいと言い出したのだ。理由は表向き、昨年冷害にあった江南地域を見舞うため、と言っているがそれが建前であることはわかりきっていた。
今代の皇帝は良くも悪く政治に関心が無い。冷害を見舞うなどという事をわざわざ言い出すはずもなく、思いつきすらしないはずだった。皇帝の本当の狙いは間違いなく花石鋼だろう。江南地域で取れる奇妙な形をした石。皇帝はこれがたいそうお気に入りで今まで軍などを使って運ばせているがついに自分で現地にいきたいと言い出したのだろう。そこに余計な知恵をつけたのがこの高俅だ。
蔡京は反対である。理由はいろいろだ。まず、第一に金の問題。皇帝がいく以上、ぶらりと一人旅、などというわけには行かない。護衛の兵士。お世話をする女官、宦官。資材を運ぶ馬等がそこには同行する事になる。さらにそれだけの大軍が通るための道や舟、食料の確保等を考えるとどれだけの金が吹き飛ぶかわかったものではない。もし、それらに手落ちがあり、陛下の勘気を被れば、比喩でなく担当者の首が飛ぶ。
次に安全の問題。他の場所ならまだしも江南というのは非常にまずい。江南では今、大規模な反乱が起き始め、既にいくつかの町が支配下に置かれ始めた。皇帝や高俅を含め、軍部の人間はまだ地方軍にまかせておけばいいだろうと高をくくっているようだが、蔡京の経験上、この都にまで反乱の報が届いているということは実際には報告の数倍、下手をすると数十倍の規模の反乱が起きている可能性もある。
護衛付きとは言え、そんな場所に皇帝を出すのは危険だったし、代替わりなどという事になれば有象無象が権力闘争に参加する隙を与えることになる。これは現在、少なくとも公的には皇帝に次ぐ権力を保持している自分の立場からすると、絶対に避けたいことだった。
最後にこれを発案したのが間違いなく目の前にいる政敵だというのが最高に蔡京の心を逆撫でていた。だが認めねばなる無い。自分は長年の経験と忠義、そいて実務能力でもって皇帝の信任を得たが、この男はその人柄のみでたやすくそれを飛び越してしまった。そして今、この男はそれだけを武器にこの国で皇帝に次ぐ権力を持つ自分の牙城すら崩し始めている。
しかし、老獪な蔡京は今回においては自分の敗北を素直に認めていた。皇帝が決めた以上そこに是非はなく、彼に協力するしか無い。今日集まったのはそのための定例的な会合だ。
「して、高俅殿。そなた、護衛の兵士は何名程度率いるつもりなのだ」
童貫が今日の一番の話題を口にする。
「はい。二万ほどかと」
「二万?」
蔡京は思わず訝しげに顔を曇らせた。皇帝の同行に兵が二万というのはかなり少ない。通常ならば場合によるが最低でも五万程度。今の江南の状況を見れば十万人の動員がされていてもおかしくない。そもそもこの開封には三十万の兵が駐屯している。出し惜しみする理由がわからなかった。
「それは全員で、かね?」
「……少なくはないか?」
自分と同じ事を思ったのだろう。隣に居た童貫が口を挟んだ。枢密院大使。地方軍も含めたこの国の軍事の頂点に座る人間である。名目上は高俅の上司に当たるが、その力関係は単純ではない。高俅は皇帝が直々に任命した人間であるから、童貫は高俅の不始末を皇帝に報告することは出来ても、人事権は童貫には実質的にはなかった。
だが、だからといって童貫が弱いと言うことではない。彼もまた自分や高俅とは違った意味で皇帝の信頼厚く、またその信頼に応えて実績を積み重ねてきた人間である。
実際、蔡京は高俅がこれほどまでに権力を握っても自分の地位を脅かすものとして、最も警戒すべきはこの童貫だと信じて疑っていなかった。
「はい。しかし、陛下は昨今の宮中や民の事に慈悲を示され、護衛も含め、極力随員は少なくするようにとの仰せでございましたので」
(……こいつ、何をたくらんでおる?)
今の皇帝がそんなことに気を回すはずも無い。重ねて言うが良くも悪くも政治や下々の事には無関心な方だ。まず間違いなくこの目の前の男が吹き込んだのだ。
しかし、そんなことをして何になるのだろう。高俅の立場からすれば、護衛の兵数は多い方がいいはずである。彼だって万が一にも陛下が崩御されるのは自分以上に、いや誰よりも困るはずだ。彼の最大の武器は陛下からの信任なのだから。
財務を預かる蔡京は正直、今日のこの会合で高俅とその護衛の数について、多い・少ないといった論議をすることになるだろうと思っていたがこれではあべこべだ。
「貴殿はご同行されるのかね」
「もちろんでございます。皇帝が赴かれるのにその護衛の任に当たる禁軍の長が都でじっとしているわけにもいきますまい」
童貫の問いに高俅は恭しく答えた。
「ふむ。……蔡京殿、陛下の御意思もあるのであれば、私としては特に問題は無いと思うが。高俅殿は優れた指揮官であることは貴殿も承知のはず。少ない兵で陛下の護衛をこなして頂けるというなら、これに甘えさせてもらっても良いのではないかな」
「……確かにそうですな」
三人のうち、二人が是というのであれば自分がそこで反対する意味も無い。万一、陛下の身に何かあったとしても、責任を問われるのは警備責任者であり、兵数を提案した高俅で、自分ではないのである。
もちろん陛下に亡くなられては困るが、蔡京はここで大軍を引き連れるよう主張する方がかえって立場を危うくすると判断した。童貫の言うとおり、陛下がそれで納得されているというのならそれに反対意見を公然と述べることはよほどのことが無い限り、避けるべきだろう。
「では二万ということで、詳細を詰めて参りましょう」
「蔡京殿」
会議が終わり、高俅が二人の前を辞してから、唐突に童貫が自分に話しかけてきた。蔡京は大柄な彼の横顔を見上げる。いつもの通りの豊かなひげを蓄えた横顔だ。
その風貌は宦官という彼の出自を考えると異様だった。一般的に、宦官となり、男根を切り取られた人間はまるで女性のように声が高くなり、体毛も薄くなる。だが、この男にはそうした兆候が全く見られなかった。
彼はじっと高俅が去った扉を見つめたまま告げる。
「自分は貴殿が嫌いです」
蔡京は驚いて目を丸くした。驚いたのは発言の内容ではない。この男が自分の事を嫌いなことくらいはわかっている。自分と同じように。蔡京が驚いたのはそれをわざわざこの場で言い出したことである。
「だが、自分が貴殿を嫌うのは儒学者が法学者を嫌うようなものです」
「貴殿が儒者ですと?」
「ご不満なら別に逆でも結構。ただのたとえ話ですので」
童貫はそこで初めてうるさげにぎょろりと目玉を動かした。蔡京は話の腰を折ったことを自覚し、こほんと咳払いをして、話の先を促す。
「同様に、自分はあの高俅も嫌いです。しかしそれはあなたに対する感情と同じではない。人が毒蛇に抱くような感情に近いもの、といえばよろしいか」
法学と儒学は簡単に言えば、相反する政治思想だ。つまり、童貫と自分が敵対しているのは政治信条や派閥抗争のためであり、一方で高俅と敵対するのはそうではなく生理的な嫌悪だということらしかった。
毒蛇という例えは言い得て妙なものに蔡京は思えた。本能的に嫌悪感を感じさせ、その上、油断すればこちらもどうなるかわからない、そんな存在。
「なるほど」
「問題は、毒蛇が何を狙っているかです。ああ、なるほど、その不明瞭さがますます奴を畜生のように見せるのだな」
未だ高俅が閉じた扉を見据えたまま、童貫は低い声でうなる。後半はどうやら独り言らしかった。
「まさか、皇帝に害をなそうとしていると?」
もしそうならあの兵数の少なさには納得できる。ただ、そんなことをして高俅が無事に済むとは到底思えないし、何の利も無いだろうが。
「それが目的ならとっくに果たせるでしょう」
童貫はあごひげをしごきながらそういう。
「では、誰を狙っていると?」
童貫は答えなかった。おそらく、それは殊更に秘したのではなく彼自身も明確な回答をもっていなかったからだろう。
「もし何か、奴が企んでいることがわかれば、教えて頂きたい。私も、何か掴めば連絡いたしましょう」
少し沈黙を置いた後に童貫はそう言ってきた。要は共闘の申し入れである。
「……良いでしょう。私も十分注意し、何かありましたらご相談させて頂きます」
正直に言えば、蔡京は童貫ほど強く高俅を意識した事は無い。油断ならない相手だとは思っているがそれでも今まで同じような人間は何人も叩き潰してきた。唯一警戒するとしたら、皇帝をほぼ完全にとりこんでいることだが、さりとて、皇帝といえども自分をないがしろにするようなまねはよほどの事が無い限りできない。
一方で蔡京は童貫には敵というだけでなく同僚としても一目置いていた。
前述したとおり、蔡京は童貫が嫌いだ。が、それは彼の人格よりもむしろ立場や政策に対する態度がそうさせるのである。 その意味では確かに、なるほど自分たちの関係は儒学者と法学者に近いものだろう。
なんだかんだと言っても宦官の身でありながら枢密院の長にまで上り詰めたその手腕は伊達ではない。それは官僚として試験を受け、着々と出世の道を歩んできた自分よりもはるかに難しいことだ。その人物が政敵である自分にわざわざ警戒しろという。これはつまり、童貫は高俅のことを今までに無い脅威だと見ているということだ。
蔡京は童貫と同じように高俅が閉めた扉を見つめた。そうしていると、突然また高俅がその扉を開けてでてきそうなそんな妄想に囚われた。
「江南か……何事もなければ良いのだが」
「ええ、全く」
それは権謀術数がうずまくこの宮中において、その権化とも言える二人が宋朝の臣下として本音を吐露した珍しい瞬間に違いなかった。