その三十三 公孫勝、廃屋を調べるのこと
「むう……」
「うまく行かぬな……」
と宋江と公孫勝は二人して呻った。二人の視線の先にあるのは宋江が持つ何の変哲も無い小枝である。
宋江はこれを、手を使わずに、つまり気功で、切断しようとしているのだが、全くうまくいってなかった。何度試しても、切れると言うより折れるのに近い形になる。
「宋江、正直に言ってじゃな、おぬしの成長速度はわしの想像以上じゃ。おぬしが気功を習い始めてからまだ三ヶ月程度じゃぞ。死線ををくぐりぬけたとはいえ、ここまでの成長速度は中々希有じゃ。あせる必要は無い」
「それはそうかもしれませんけど……」
しかし、一方で宋江ができるのは地面から植物を生やすことだけなのだ。いくら成長速度が速くとも、現時点でやりたいことができないのならば、安穏とはしていられない。公孫勝がやって見せたように、木材を成形したり、それを自在に操ることが出来るようになれば、活躍できる場面は飛躍的に広がる。先日の戦闘だってもっと安全に事を運べたはずだ。
「まあ、もともと木というのは、他の水や土、金属に比べると遙かに変形させにくいからのう」
「やっぱり、そういうの関係あるんですか?」
「大いにあるとも。気功とて自然の摂理には逆らえぬよ」
何もないところか木を生やしている時点で大分自然の摂理に逆らっている気がするが、それは黙っておく。
二人がいるのはかつて晁蓋や呉用が住んでいた東渓村からほど近い場所にある草原だった。
今日の早朝に梁山泊を出発し、宋江は公孫勝らと共に晁蓋と初めて出会ったあの廃屋を目指している。とはいえ、実は正確な場所は宋江は覚えてなかったので、その道をかつて晁蓋とあの場に一緒にいた丁礼たちに尋ねるべくまず東渓村へと向かったのだ。
あの三人は宋江が無事帰還したことを素直に喜んでくれたが、最低限の情報を受け取ると、すぐに宋江は東渓村を出立した。明日の夕方までに梁山泊に帰る予定だったし、何より既に東渓村はあの晁蓋のいた村として定期的に官憲が立ち寄っているからだ。
かくして、宋江達は本日はこの何も無い原野で野宿ということになり、同行してくれた仲間が野営の準備をしてくれている間、宋江は自分の気功を公孫勝に見てもらっていた。
「ひょっとしたらおぬしはこういったことは向いておらんのかもしれぬな」
「やっぱりそういうのあるんですか?」
「うむ。というより『生成』にだけ異常に特化していると言った方が良いのかも知れぬが」
「生成?」
「外気功を使う上での能力の分類じゃな。実戦においてはさほど意味が無いが……まあ、良い機会じゃ、覚えておけ。外気功にはな、大きく『生成』、『変転』、『操作』の三種がある。おぬしのように単に対象を生み出すのが『生成』、自分の生み出したか否かにかかわらず、対象を作り替えるのが『変転』、そして自在に動かすのが『操作』じゃ」
「なるほど?」
よくわかったようなわからないような顔で宋江はうなずく。
「どれか一種しか使わんと言うことはあまりなくての。例えば楊志殿は、水を生成して、それを氷に変転し、それを操作して敵に向けて飛ばしておる。つまり、この三要素が全て入っておる。逆に同じ水外功でも阮小二なんかは生成はほとんどせぬ。じゃが、こういう偏った使い方の方がどちらかというと少数派じゃな。……おぬし、操作の方はどうじゃ、ちょっと試してみよ」
「操作……」
「その枝を指先に載せて動かしてみるとかじゃな」
公孫勝に従って、念じてみると、くるくるとそよ風が吹いたかのように枝が回転した。
「そうじゃな。こっちの方はそこそこできるようじゃが……まあ、馴れぬ内は無理するでない。変転にしても、操作にしてもなれぬ気功の使い方は体力を著しく消耗する」
「慣らさないといけないってことですね」
「あるいは生成の能力を徹底して育て上げるというのも一つの手ではある。おぬしはどうも、過小評価しとるようじゃが、あれはあれで立派な戦力じゃぞ。先日の巨木は見事じゃった」
公孫勝が言ってるのは気功それ自体の出来だろう。宋江からしてみれば、あの巨木の生成は結局の所、自分たちをさらに窮地に追い込んだだけでさほど意味はなかった気がする。
例えばだが、あのグライダーもどき。あれだってこの変転の能力があればずっとうまくできたし、操作の能力が使えれば敵を攻撃することだってできたかもしれない。
そう言うと公孫勝はやれやれといった調子で首を振った。
「そう、あまり自分にできないことばかりに目を向けるでない。それを言うなら、あの大樹を何十本も生成してそれを伝っていけば、より安全に移動できたという考えもある」
「それはそうですけど……」
「ちと、話は変わるがの、宋江、おぬしはこれからどういう人間になりたいか、考えたことはあるか?」
「どういう人間に? ですか?」
いきなり哲学的な話に飛んで宋江は少しうろたえた。
「そうじゃ。わしのように仙人を目指すならともかく、そうでなければ、気功というものはただの道具に過ぎぬ。どこまで行ってもな。おぬしは先日のわしの行動を見て変転と操作を覚えたいと言うたが……はっきり言うと、のこぎりと人力さえあれば、あんなものの、代わりは務まる。むしろおぬしの得意とする生成の方が替えは効きづらい」
「はぁ……」
「無論。それでもおぬしが覚えたいというのなら、教えてやるが、なにしろ時間は有限じゃ。あっちもこっちもと手を出して全部中途半端になっても困るじゃろ」
言って公孫勝は地面に枝でがりがりと字を書き始めた。
「大雑把に言うとおぬしにはこれから四つの道があると思う。一つ、生成の能力をひたすら伸ばす。二つ、生成に加えて操作と変転、あるいは操作だけを鍛える。三つ、木内功を覚える。四つ、火外功を覚える。どれか一つしか選択できぬ、ということではないし、後戻りができんということはないが、どれか一つに絞って上達したほうが効率的じゃ」
「別の属性を覚えられるんですか? でも火?」
木内功はわかる気がする。同じ属性の内外を両方使う人間は劉唐や秦明など、宋江の周りにも何人かいる。ただ、他の属性について公孫勝がそれを指定した理由が宋江にはわからなかった。
「五行相生と言うてな、木は火を生み、火は土を生み、土は金を生み、金は水を生み、そして水は木を生む。じゃから、おぬしの木の力を火の力にかえることは比較的簡単じゃ。逆に水の力に変えるのは極めて難しい。木を火にし、火を土にし、ということを続けねばならぬからの」
そう言われて宋江は自分の周りに居る複数の属性の使い手を思い浮かべる。秦明は火と土だと言っていたが、あれは実は元々の属性は火なのだろう。雷横は木と火だから、本来は木というわけだ。
「まあ言うといてなんじゃがな。火外功は勧めん。何故かというとな、属性を移すと力が大幅に下がるのじゃ」
「下がる?」
「そうじゃ。例えば、おぬしが木外功で百の力を出せるとしたら、火外功に変換すると、十とか五くらいに下がる」
「そんなに……」
「これの下げ幅を小さくする修行もないわけでないが、どうやっても百にはならぬ。九十とかそのくらいじゃな。それにもし、火外功が何らかの理由で必要となったとしても、おぬしのそばには大抵秦明殿がいるじゃろ」
「……それはそうですけど……ところで、木内功というのは?」
「こいつはちょっと扱いが難しくての。生命力を増す……つまり負った怪我を早期に治したり、疲れることなく動いたり出来るが、大怪我でもせん限り、いまいち効果がわかりにくい。しょっちゅう向こう見ずに突撃して怪我しとるおぬしには必要かも知れんがな」
少しからかうように公孫勝は言う。
「話を戻すとじゃな、おぬしが今後一人で生きていこうとするなら、操作や変転は学んでおくのも良いかも知れぬ。木内功や火外功もな。じゃが、そうでないなら生成一本で行くという手もある。他のことは全部他人に任せてしまって良い。幸いなことにお主の周囲には頼もしい人間が何人もおるじゃろ」
「それはそうですが……」
しかし、何でも他人任せというのもそれはどうだろう、と宋江は思う。
「どういう人間になるかという問いはそういうことじゃ。別に今すぐ決めねばならないということもないが、一回どういう方向に気功を伸ばしたいか、考える上でそういう視点も必要だとわしは思うぞ」
と、そこまで公孫勝が言ったところで、別の声が宋江にかけられた。
「宋江、公孫勝さんも。ご飯できたってさ」
花栄である。彼女と林冲は護衛のために宋江達に同行してくれている。今回、同行しているのはこの四人に宋清も加えた五名だ。彼女は無論、護衛ではないが、梁山泊に帰ってまた一日二日とはいえ離ればなれになるのは呉用が許さないし、宋江も事情が許すなら妹に不安をかけないためについてきてもらいたかった。
もっといえば、宋清以外にも宋江に同行を願い出たものは何人もいたのだが、あまり大人数でも目立つのでこの五人だけに今回は限定している。とはいえ、林冲や花栄、特に長身の林冲は一人でも相当目立つのだが。
「ふむ。きりもいいし、今日はこの辺りにしておくか」
「宋江」
夕食後、とっぷりと日が落ちてから、林冲が話しかけてきた。宋清はすでに自分の膝の上でぐっすりと寝ている。公孫勝も少し離れたところで横になっていた。林冲はそれを待って自分に話しかけたのかも知れない。
「君の村の人たちの話によれば、明日の朝、ここから二刻(一時間)もあれば、君の目指している廃屋に到着すると言うことだったな」
「はい」
ちなみに、林冲は村の面々と接触してない。さきほど言ったとおり、彼女自身が目立ちすぎるからだ。東渓村の人は悪人ではないが、さりとて、何の義理もない林冲のことを宋江の知り合いだからというだけで官憲に対して黙っていてくれるほどお人好しでもない。
「出発前に皆と一緒に聞いたが、もう少し詳しく聞いておきたい。君の今の考えを」
宋江は残る一人、花栄をちらりと見る。彼女は無関心にたき火に枯れ枝を差し込んでいた。
今までごく限られた面々にのみ伝えていた自分の素性を宋江は梁山泊の全員に伝えていた。もともと呉用にあまり多数に喋るなと言われて黙っていただけだったし、今回出かける理由を説明するに当たってそのことに触れないわけにはいかなかったからだ。
「正直に言うと今回のこの調査は、当てずっぽうに過ぎません。あそこに行ったら何か見つかるという保証は何もないですから。改めて考えるとこの状況はやっぱり非常識すぎて、とっかかりになりそうなものがあの廃屋しか無いんです」
宋江は一拍置いて続けた。
「ただ、はっきりしているのは、僕は本来ここにいるべき人間ではないはずです。出がけに皆さんにも話しましたけど、僕はこの国どころか、この時代、あるいはこの世界の人間ですらないんです」
根本的な疑問。あまりに大きすぎて、ふとすると見えなくなってしまうほどの問い。
そもそも何故自分はここにいるのか、
つい半年ほど前まで自分は二十一世紀の日本で一般人として生きていたはずなのに、なぜ、突如としてこの十一世紀頃の中国へ来る事になったのか。単なるタイムスリップともおそらくは異なる。自分の世界では気功なんていう超能力じみた存在は過去をどんなに見渡しても存在してないからだ。異世界、と言ってしまった方がいいのかもしれない。
さらに言うなら、自分のような存在は道士である公孫勝も他の誰も、そんな妙な話は聞いたことがないという。
つまり、仙人や気功使いが存在するこのファンタジックな世界においてすら、自分のこの状況は異常なのだ。
「帰るつもりはないんだな」
確認するように林冲に言う。実際それは確認の意味を込めた問いなのだろう。
「出がけにも言いましたけど、そのつもりはないです。たとえ、今を逃すともう二度と帰れないとか、そういう事態になったとしても」
それは宋江が調査を始めるにあたって最初に決めたことだった。向こうでもし、自分のことを両親が探していれば、それはとても申し訳ないが、かといって、自分についてきてくれる仲間と永久に別れるという選択肢は絶対にとらないと決めていた。
「例外として、何らかの方法で絶対にこの場所に戻ってくることが出来ると確信できれば一時的に帰る事はあるかもしれません。ただ、だとしても今回はしません。必ず明日中に梁山泊に戻ります」
言ってはみたものの、向こうとこちらを自由に行き来できるなどという、そんな都合の良い展開があるとは宋江はほとんど思ってはいなかった。だが、もし散々迷ったあげくにその都合の良い展開が出てきたとしたら、それは間抜けどころの話では済まないだろう。
ある意味、この調査の一つはそうした自分の淡い期待を断ち切ることが目的かも知れない。
あるいは仮にだが、もし手紙なり何なりを向こうにおくることができるというのであれば、それはそれで試す価値もある。
「それと、もう一つ。僕と皆さんの今後にも関わるかもしれない手がかりがあるかもしれないと、いえ、あればいいなと思っています」
自分は今、『宋江』と呼ばれている。だが、これは呉用が名付けた偽名に過ぎない。だが、自分が水滸伝の登場人物と同じ名前を与えられて目の前にいる林冲、公孫勝や花栄といった面々と知り合ったことは偶然の一言でかたづけるにしてはあまりにもできすぎている。呉用に一応念のため聞いてみたが、この名前も単なる思いつきにすぎないとのことだった。
もし仮に何かこの一連の流れに気功とも異なる超常的な何かが働いているとしたら、それはやはり、あの自分が現れた廃屋に何かあるという気がしてならなかった。他に思い当たるものがない、と言った方が正しいのかも知れないが。
「そうか。そうだな……君のその名前は本当の名前ではなかったのだったな」
「もう、本名で呼ばれる方が違和感がありますけどね」
と宋江は苦笑する。
「わかった。実を言うと君の口から帰る気は無いと一言聞ければ十分だったのがな」
林冲もつられたように笑う。
「私ももう寝ようと思う。花栄、火の番はまかせてかまわんな」
「そのために同行してるんだもの。仕事はするよ」
花栄のものいいに林冲は肩をすくめた。
「それではな。宋江、君も早く寝た方が良いぞ」
「ええ、わかってます。おやすみなさい」
とそれだけやりとりをすると、林冲もまた毛布にくるまって横になる。ほどなくして彼女らしい規則正しい寝息が聞こえた。
「……何か話でもあるの?」
と視線が自分に向いてることに気づいたのだろう。花栄はこちらに顔も向けずに言ってくる。
「急ぎではないんですけど……今までなかなか機会がなかったものですから」
「……あたし達以外はみんな寝てるよ」
狸寝入りを心配していたわけではないが、花栄がそう言うなら大丈夫だろうと、宋江は口を開いた。
「花栄さんは……今こうしてついてきてくれてる、ということは引き続き僕らに協力してくれると思って良いんでしょうか?」
その問いに花栄は少しの間、答えなかった。宋江がひょっとして何かまずいことを聞いたのかと思うほど長い沈黙を挟んでから、花栄は再び口を開いた。
「まあ、そうだね。この間の仕事では最後の最後で大ぽかをやらかした。しかもあんたはそれを他の皆に黙ってくれてる」
「意図して隠してたわけじゃないですけどね」
単に皆があまり突っ込んだことを聞いてこなかったので結果的にそういうことになっているだけだ、と宋江は思っている。唯一、呉用にはある程度話したが、花栄の名はあげなかったし、呉用もとやかく言いふらすような人間ではないので、実態としては花栄の言ったとおりになっている。
宋江も最近わかってきたのだが、花栄という人間は一見無気力でやる気がなさげだが、実はそれと裏腹に割と自尊心と責任感の強い人物らしかった。
自分の能力に自信がある。自信があるから責任感も生まれる。ただ、責任感が強いから、無理と判断したことは徹底して受け入れないし、やる気も無い。どうやら花栄はそういう人間らしかった。逆に、そういう人間だから引き受けたこと(つまり、花栄が自分自身で責任をとれると判断したこと)については自分にかなり厳しい。プロ気質とでも言えばいいのだろうか。
だからあの時のことについて花栄は周りが思うよりもずっと負い目に感じているのかも知れない。
「でも、理由はともかく花栄さんが協力してくれることは純粋に嬉しいです」
「……あんたの周りにはあたしなんかより頼りになる人間が掃いて捨てるほどいるだろ」
「花栄さんだって同じくらい頼りにしてますよ」
これは世辞ではなかった。花栄の卓越した弓の腕は間違いなく唯一無二のものだったし、それ以上に宋江は自分にはない彼女の現実的なものの見方が助けになってくれると思っていた。少なくとも先日の作戦で傷ついた秦明を前に朱仝を差し出すかどうか迫られた際に、自分を助けてくれたのは花栄の言葉に他ならない。
「まあ、そこまで言われりゃ悪い気はしないけどさ……あんまり期待しないで欲しいし、どの道そんなに長く付き合う気は無いよ。あんたにひとつ借りを返したらおしまいだ」
「それは残念ですけど、それでもうれしいですよ」
「無邪気に喜ぶなぁ……。話はそれで終わりなら、いい加減寝なよ。火の番はあたしがやっておく。あした肝心なときに眠っちまっても知らないよ」
「それもそうですね、おやすみなさい」
宋江は素直に花栄の言葉に従うと宋清の隣で毛布にくるまって目を閉じた。
「……おやすみ」
明くる日。宋江を含めた五人は目的の小屋がある広場のその入り口に立っていた。
「ここが、そうなんですか?」
「うん。懐かしい……って程の思い出があるわけでもないけど、なんだか感慨深いや」
言いながら宋江は馬から先に降りて続いて降りてくる宋清の体を受け止めた。改めて正面を見上げれば、高台の上に置かれた小屋のようなものが建てられている。風雨にさらされたぼろぼろのその小屋はもはやいつ崩れてもおかしくない様子だった。
宋江ははっきりとは覚えていないが、晁蓋の言う事を信じるなら、あそこから自分はこの国にやってきたらしい。
「ふむぅ……見ただけではよくわからんのう……」
続いて公孫勝がぴょこんと馬から地面に降り立ち、慎重に辺りを見回した。
「師匠でもわかりませんか」
「あまりわしに頼られても困る。何度も言うが、わしとて、いきなり人が、それも未来の異国から飛び出てくるなど、聞いたことも無い」
「……師匠でも聞いたことがないとなると原因はやっぱり仙人とかそういうのが原因じゃないという事でしょうか」
「そうとも言い切れん。わしとて全ての仙道がどんな事を行えるか全て把握しておるわけではないからの。所詮修行中の半人前の身分じゃ」
と言って公孫勝は数歩歩いてから振り返ると再び口を開いた。
「宋江、不用意に近づかん方が良いぞ。いきなりこの場でまた別の場所に飛んでしまうのはおぬしとて本意で無いのだろう」
「う……ですね……」
公孫勝に釘を刺されて宋江の足が止まる。その警告に宋清が敏感に反応して宋江の身体に抱きつくように掴まる。
「大丈夫だよ。宋清、言ったとおり帰ったりしないからさ」
「でも、元々は兄様だって自分の意思でここに来たわけじゃないでしょう?」
「まあ、それはそうだけど……」
「そうだな、こうしておくか。宋江、ちょっと両手を上げてくれ」
と今まで成り行きを見ていた林冲が宋江の腰にぐるぐると紐を巻くとそれを近くの木に結わえ付ける。
「そこまでします?」
「私は正直、これでも不安な位なのだが」
と林冲はいつも通りの口調で言う。ちなみに花栄は今はもう一頭居る馬の上で船をこいでいる。彼女は夜通し起きていたから今になって睡眠を取っているのだろう。
「まあ、あくまで念のためじゃ。万が一にもここでおぬしに行方不明になられたら、秦明殿達に申し訳が立たぬ。ちょっと待っておれ」
と公孫勝は言って、一人でとことことその小屋に近づいていく。そして、彼女は一通り周りを注意深く見渡し、さらに地面に奇妙な文様を描いたりしながらぶつぶつと呪文のようなものを唱えたりし始めた。
「来ても良いぞ。危険は無さそうじゃ」
30分ほど調べてから、公孫勝はようやくそう宣言した。
そう言われて、宋江達はおそるおそるその廃屋へと近づいて行った。それでも林冲と宋清は未だに不安なのだろう。宋清は宋江にしがみついたままだし、林冲も宋江の腰に巻き付けた紐を手に持ったままだった。いつの間にか起きた花栄も周りを油断なく見渡している。
「灯」
一言つぶやくと暗い廃屋の中に公孫勝のともした松明が中空にふわりと浮いた。外から入ってくる日光を補うようにその炎が小屋の隅を順に照らしていく。
公孫勝はその中をじっくりと観察しているようだった。
「危険はないとは思うが、念には念を入れてじゃ、おぬしらは外におれ。中には入るなよ」
とそう言い残して公孫勝はその小屋の中へ足を踏み入れた。小屋の外から宋江達はそれをじっと見守る。
公孫勝はやにわに床にぺたりと両手をつくとぶつぶつと唱え始めた。小さな声のため、聞き取れないが、明らかに宋江達が通常使う言葉とは異なるのだけはわかる。
やがて彼女の手元がぼうと赤紫色に光った。
「兄様……」
不安なのかぎゅっと宋清が宋江の服の裾を強く掴む。
「ケイメイレイメイジョウエンハダン、ケイメイレイメイジョウエンハダン……」
無理矢理文字にするとするなら、そんな言葉を彼女は繰り返し唱えていた。赤紫色の紐状の光がうねるように公孫勝の周りをくるくると回り始めた。
「顕ぜよ」
最後に公孫勝が一言呟くとその赤紫色の光が小屋の床にもぐり、ぶわっと、広がるように奇妙な模様を描き始めた。いや、描き始めたというよりもその光によってまるで隠れていた何かがあぶりだしによって現れたようだった。
「なっ!?」
宋江と宋清だけでなく、普段めったに動じない林冲や花栄までもが驚きの声を上げる。
それは複雑怪奇な文様だった。円がある。三角形がある。四角形が、台形が、直線が、曲線が、扇型が。そしてその隙間にびっしりと埋め込まれたように文字とも絵ともつかないような形が存在していた。それが廃屋の床だけでなく公孫勝を中心として中空にドーム状に広がっている。大きさはちょうど廃屋にすっぽりと収まる程度だった。
(なんだ、これ……!!?)
だが、ようやく宋江がその驚愕を心の中で言葉にした瞬間、その奇妙な文様はすっと何事も無かったかのように一瞬で消えてしまった。
「ふむ……」
後には少し前と同様、公孫勝がその小屋の中心で難しそうな顔で呻くだけの光景が残った。
「公孫勝殿、今のは?」
もっとも早く衝撃から回復したらしい林冲が公孫勝に尋ねると彼女はくるりとこちらを振り向いて口を開いた。
「この場に残っておった術式の痕跡じゃ。既に力を失って実害……というか効力は何も無くなっていたようがの」
「術式……」
宋江がその単語を意味することを察してオウム返しに呟く。それに対して、公孫勝は小屋から出てきて大きく頷いた。
「わしも正直言ってあの術式が何を目的としたものかはさっぱり理解できぬ。が、状況から考えて一つしか無かろう」
「それってつまり……」
「確証は無い……が、おそらくはそういう事じゃろうな……」
「あ、あの、どういうことです?」
話について行けない宋清がそう尋ねると公孫勝はゆっくりと全員を見渡した。そして今まで見せたことも無いような真剣な眼差しで宋江達を見据える。
「確証は無い」
公孫勝は同じ言葉をもう一度繰り返した。
「が、痕跡の規模から考えて、これだけの規模の術式を手慰みや暇潰しに行う事は考えにくいし、その効果も半端なものではなかろう。そして、この術式は既に発動を終えている。となれば答えは一つ」
ごくりと、宋江の喉が鳴った。
「宋江、この術式はおぬしをここに呼ぶためのものと考えて、間違いは無かろう」
表情を全く崩さずに公孫勝は言葉を紡いだ。
「つまり、お主がこの国に……この世界に来たのは、少なくとも単なる偶然や何らかの事故によるものではない」
その物言いに宋江は思わずぞくりとした嫌な予感を覚えた。
「何者か……何者かはわからんが……誰かが意図的におぬしをここに呼んだのじゃよ、宋江」
その後、公孫勝はさらに状況を調べたものの、結局それ以上の事はわからなかった。
「あまり深く考えんで良い」
と、公孫勝は不安げな表情で小屋を見つめる自分に気づいてか、声をかけてきた。
「何がどうであろうと、お主はお主自身じゃ。その何者かがとんでもない奴だったとしても、今のところ何かしてくる気配は無かろう」
ぽんと公孫勝は宋江の肩に乗ると頭を軽く叩いた。
「ええ……ありがとうございます」
宋江はそうは言いつつも嫌な予感が拭えなかった。
なぜ自分なのだろう。自分は特別な人間では無いはずだ。この世界に選ばれる理由など、何もない。この国に来て、宋江という名前を与えられたのもいわば偶然に過ぎない。その名付け親である呉用が何かこのことに関わっているというのも考えづらい。
あるいは逆なのだろうか。自分は特別な人間ではないけれど、ここで何か特別なことをするために呼ばれたのだろうか。しかし、だとしたら何故自分を呼び出した存在は何も自分に告げてこないのだ? それとも自分が好き勝手に動くことがその召喚者の思惑なのだろうか?
もし……もしそうだとしたら、自分の意思だと今まで思っていたものは、本当に自分の意思なのだろうか?
多少、経緯や順番の違いはあれど、自分の行動によって物語のキーパーソンはあの梁山泊に集まりつつある。いずれ過酷な戦いで命を落とすと語られた面々が。そのことが召喚者の目的なのだろうか。
「……兄様、帰りましょう」
「あ、う、うん……」
よほど深刻な顔をしていたのか傍らの宋清が心配そうに見上げながら手を引っ張ってくる。それでも嫌な予感は消えず、宋江は再び振り返って、その自分の現れたという小屋を眺めた。
誰が? なんのために? なぜ自分を?
答えの出ないその問いを抱えたまま、宋江はその場を後にするしか無かった。
2020/10/04
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