その三十二 宋江、公孫勝に依頼するのこと
「よう、宋江。聞いたぜ。大活躍だったらしいじゃねぇか」
「劉唐さん。……もう動いてて丈夫なんですか?」
向かった食堂、もともと大部屋と呼ばれていた場所には先客がいた。赤くて短い髪を乱暴にまとめた彼女はのんびりとした様子で茶をすすっていた。
「足の骨以外は何の問題も無いからな」
言われてみれば、彼女の横には杖らしきものがたてかけてある。それさえあれば、どうやら日常生活に支障は無いらしかった。
「あ、兄様。いらしてくださったんですね」
と自分の声を聞きつけてだろう、宋清が奥から現れた。今朝方、ここに到着した際はわんわんと泣いていた彼女も今は大分落ち着いている。
「うん。朱仝さんから伝言を聞いてね」
「ああ、伝えてくださったのですね。ところで、その……呉用さんのところで、えっと……大分長くお話しされていたみたいなのですが、大丈夫ですか?」
宋清は何が宋江に起こったのか察してか、あるいは予測でもしていたらしく、心配げな顔でこちらをのぞき込んでくる。
「うん、大丈夫……かな?」
心配させたくはなかったが、宋清の質問に対し、断言できずに宋江は曖昧に頷いた。
「ああ、そうだ。私お茶と……何か食べるものをもってきますね。兄様、少しお待ちに鳴ってください」
と言って宋清がまた慌ただしく奥へともどっていく。
「呉用に絞られたのか。けど、説教されてるうちが花だと思うぜ、あたしは。お前の事がどうでもよかったらあいつもお前にそんなに時間かけねえよ」
「そう思って良いんですかね……」
宋江はごまかすように苦笑いを浮かべた。そういった面はあるだろうが、しかし、呉用の言い方はやはり基本的に宋清を気遣ってのことだと思う。宋清は性格上、自分に強く言うことはないから、呉用が彼女の分を代弁しているのかも知れなかった。
「そりゃそうだろ」
「……ですか」
何の気負いもなく言う劉唐に宋江は曖昧に頷いて腰を下ろした。劉唐がこちらの態度をどう思ったのかわからないが、彼女は言葉を続ける。
「あたしは肝心なところで役立たずだったからあんまり偉そうな事は言えないけどよ、遅れるなら遅れるってちゃんと連絡しとけよ、阮小五のやつは怪我も無かったんだから、こっちに先行してよこしゃ良かったんだ」
「劉唐さんまで勘弁してくださいよ。さっき呉用さんにも散々言われたんですから」
「だろうな。それでも、ここ数日の呉用や嬢ちゃんの様子を目にしてたら、一言二言、言いたくならぁ。それでも、お前はまっすぐ帰ってきた分だけましだ。晁蓋の旦那はちょっと擁護できねぇぞ……」
自分が呉用に話している間に他の人間から大体の状況を聞いたのか、劉唐は渋面を作って言う。劉唐は晁蓋と同じく割と自由人気質なところがあるはずだが、それでも今回に限ってはどうやら呉用の味方のようだった。
「劉唐さん、そのくらいでお願いします。兄様も大変だったし、悪気があったわけでもないので」
いつの間にか、宋清が盆に茶と果物……杏を載せてもどってくる。引っ込み思案な彼女にしては珍しく、若干まなじりをつりあげていた。
「やれやれ、一番苦しんだ当事者がそう言うなら、あたしからはこれ以上言う資格はねえな」
劉唐は肩をすくめて軽く笑った。
「あの……兄様、呉用さんのこと、恨まないであげてくださいね。数日前から兄様の事も皆さんの事も、すごく心配されて朝から晩までずっと悩んでましたから」
「大丈夫。恨んだりなんかしないよ」
と宋江は宋清の頭をなでて言う。少しばかりもやもやとした気分はあるが、仮に頼まれたとしても恨む気も無かった。
「清にもごめんね。心配かけて」
「私は、その、兄様を信じてましたから。……寂しかったですけど」
「うん、本当にごめんね。埋め合わせ、これからしていくから」
「……約束しましたからね」
宋清は頭をなでていたこちらの手をとると自分の頬にぴとっと当てて、そのまま愛おしむようにすり寄せた。
「宋江、こっちにいたの?」
としばらくそうしていると、背後から声をかけられる。振り向けばそこにいたのは楊志だった。
「あ……ごめんなさい。お邪魔しちゃったかしら」
彼女は宋清に気づいてそう口を開く。彼女の位置からは宋清は自分の影になっているから見えなかったのだろう。
「いえ、邪魔だなんて、そんな。どうかしたんですか?」
そう言う一方で宋清の頭を撫でると彼女はこちらへと体重を軽く預けてくる。
「ううん。特に何か用事があるというわけじゃないのよ。ただ……」
と楊志はそこで言葉を止めてしまう。少し待ったが続きの言葉は出てこなかった。
「兄様」
とその沈黙を産めるように今度は宋清が声を上げた。
「清はそろそろ夕食の準備にかかろうと思います。良いでしょうか?」
「それはもちろん構わないけど……手伝う?」
「いえ、兄様は今日はお疲れでしょうから、お手を煩わせたくはありません。それに後で阮小七さんが来てくれる約束になってますし」
と言って、宋清は宋江から身体を離した。
「夕食、楽しみに待っていてくださいね」
「あ、うん」
と間抜けな返答をして宋清を見送る。
「あんまり女に気を使わせんなよな」
劉唐にそう言われて、やはりそういうことか、と思って宋江は少し苦い気持ちになった。むろん楊志にでも宋清にでもなく、そうさせてしまった自分自身に。
「なんだか、申し訳ないわね」
と楊志も自分と同じような表情になる。
「そう暗い顔すんなって。せっかく妹殿から許可が出たんだ。せっかくなら思いっきり満喫してこい。ああ、ここ以外で頼むな。宋清も出入りするだろうし、何より落ち着かないと思うぜ」
と劉唐に言われ、半ば追い出されるように宋江と楊志は連れだって食堂を後にした。
「ええと、どうする? あたしの部屋来る?」
「良いんですか?」
「い、一応言っておくけど、変なことはしないわよ。秦明さん達と朱仝さん達の部屋に挟まれてるし、索超と同室だし」
「ええ、わかってますよ」
「……葛藤もなく、さらっと言われるのも複雑だわ」
楊志が言った言葉にどう答えたらいいかわからないので、宋江は無言で彼女の後についていった。
「あ、宋江くん!」
そして、部屋が隣にある以上、ある意味当たり前なのだが、部屋の前で秦明と出会う。
「ひょっとして、私に会いに来てくれたの?」
「えーと、それは、その……」
隣にいる楊志にちらりと目をやってどう答えたものか、逡巡すると、秦明がくすりと笑った。
「ふふっ、冗談冗談。邪魔するつもりは無いわよ」
「秦明も来る?」
「良いの?」
「追い出すのも悪いし、隣の部屋にいたらどのみち丸聞こえでしょ。それに何か特別なことをするつもりじゃないもの」
楊志達の部屋も秦明達の部屋も今朝新たに公孫勝によって作られたばかりで扉もない。一応、入り口の前に衝立があるので中が丸見えというわけではないが、小さなものなので、声はもれてしまうだろう。
「じゃあ、せっかくだし、黄信も呼んでこようかしら。花栄はどっかまたほっつき歩いているし」
と言って、秦明は奥の部屋へ入っていく。そこがどうやら彼女と黄信の部屋のようだった。
「宋江、こっちよ」
「お、お邪魔します」
と言いながら衝立の横を通る。ここは先ほど、楊志が言ったとおり、彼女一人ではなく索超と相部屋のはずだった。
「いらっしゃいいらっしゃい。あたしは席外す?」
「そんなんじゃないし、せっかくならいたら? 後から秦明と黄信さんも来る……ってどうせ廊下で喋ってるの、聞こえてたでしょ」
「それはそれはそうだけど、一応聞いといた方が良いかなって」
「あなた、いつもは傍若無人なくせに、変なところで気を回すわね……まあいいわ。宋江何もない……のは知ってると思うけども、その辺に座ってちょうだい」
と、楊志はいつの間に手に入れてたのか、部屋の奥から白湯の入った竹筒を持ってくる。手持ち無沙汰なので、言われたとおり、座っていると、やがて秦明と黄信も部屋に入ってきた。
「私もお邪魔して良いのでしょうか?」
「いーの、いーの。もう少ししたら帰還記念の宴会って聞いてるから、ちょっとした前祝いみたいなものよ。本当は林冲や朱仝さん達も呼ぼうと思ったけど、どっか行っちゃったし」
と、遠慮しきりの黄信を秦明が手を引いてつれてくる。黄信は珍しく、いつも結い上げている髪を下ろしていた。そうしていると顔かたちはおろか、なんだか纏う雰囲気まで柔らかくなるから不思議なものだ。
「宋江、ところであなた、なんだかやつれた顔してるけど、平気?」
「うん。実は私もそれ気になってた」
と楊志と秦明から同時に指摘される。
「そんな顔してます?」
「昼過ぎに別れたときも疲れた様子だったけど、そこまでひどくなかったわ。何かあったの?」
と言われてしまうと思い当たるのは呉用から二時間かけて絞られたことしか思いつかない。
「あの、そんなに僕やつれてます?」
あまり素直にそのことを告げたくなくて、宋江は黄信と索超に聞く。
「ど、どうなんでしょう……」
「朝の朝の時点でもうだいぶ疲れてたように見えるけど」
「そう言うって事は何か思い当たる節があるのね」
さすがに付き合いが長いせいか、楊志にはぴたりと言い当てられてしまう。
「まあ、ちょっと……」
と、宋江はそれでも最初は言葉を濁そうとしたのだが、そうもいかない事情が現れた。
「あら、阮小二さんじゃない」
と秦明が声を上げる。彼女が声を上げた方先、つまり、戸口にある小さな衝立の向こうの通路に彼女の言うとおり、阮小二の姿があった。
「どうも、こんにちは」
「阮小二さん、家に帰られたのでは?」
「さっき、こちらにもどってきたところです。阮小七が早く行こうと言ってうるさいものですから」
「阮小七さん、寂しくされてませんでした?」
「憎まれ口を叩いていたくらいですから、大したこと無いと思いますよ。宋江さんこそ、先ほどは最後までお付き合いできなくてごめんなさいね。大丈夫でしたか、呉用さんの事は」
阮小二に無邪気にそう言われて、結局、宋江は洗いざらい喋ることになった。
「あのあの呉用さんていうひと、思ったより子供っぽいね」
「あなたにだけは言われたくないと思うわ」
と索超のコメントに楊志がツッコミを入れる。
「確かに気持ちはわかりますし、連絡は時に重要なものですが……」
「待つものには待つもののつらさがあるのよ、黄信。出てるものには出てるもののつらさがあることもわかって欲しいとは思うけどね」
「ある意味、呉用さんはまだ晁蓋を待ち続けているわけですしね」
宋江達が晁蓋の事をすっかり忘れているかというとそう言うわけでもないのだが、しかし実際に会った自分たちと、伝聞形式でしかその存在を伝えられない呉用ではおそらく雲泥の差がある。しかも短期的にとはいえ、晁蓋はまたも行方不明状態だ。
「妹も言ってましたけど、ここ数日、大分追い詰められてるような雰囲気だったらしいですし」
と、話の流れで同席することになった阮小二もそう言って心持ち固い表情を浮かべる。
「ごめんなさい、宋江さん。私も気づけば良かったんですけど、つい我が家を基準に考えてしまって問題なかろうと……」
「いえ、阮小二さんが謝るようなことでは」
そう言って、宋江は頭を下げようとする阮小二を両手で制した。
「とにかくとにかく、それで宋江は落ち込んでたわけだ。しかしよくわかったね、二人とも」
「愛の力!」
索超の言葉に秦明が自慢げに胸を張る。
「落ち込んでたってほどじゃないですけどね。他に色々あって元気出てきましたし」
と、宋江はごまかすように笑った。
「そうねー、事前にちょっと言ってあげれば良かったかしら。宋江くん、とっても頑張って大活躍だったのよって」
まるで学校の様子を両親に報告するような口調で秦明は言う。
「大丈夫ですよ。結局のところ、呉用さんも許してはくれましたし……。それに確かに僕ももうちょっと頑張ってみるべきでした。ついつい目の前のことに追われてしまって」
「そんな風に言わないで、宋江。阮小二さんもちらっと言ってたけど、ある意味私たちみんなの責任だわ。黄信さんが言うように確かに連絡は大事なものよ。あなた全部任せにせずに誰かが気づいて動けば良かったのよ」
「でもさでもさ、正直、あの状況で誰かこっちに一人送るってほぼ不可能でしょ。船は一隻しかないんだし。これだから後方にいる連中ってのは……」
索超は不機嫌そうに顔をゆがめる。どうやら現場指揮官一筋だった彼女にとって、呉用の宋江に対する態度は何かを思い出させたらしかった。
「まあまあ、索超さん、その位に。宋江くんにとって呉用さんはお姉さんみたいなものらしいし」
「そういやそういや、そんなこと言ってたね。ごめん、宋江。あんたの身内に悪く言うつもりは無かったんだよ」
「いえ、そんな風に頭を下げて頂くほどのことではないですよ」
と、宋江が慌てる羽目になる。少しポイントは違うが、少なくとも彼女はこちらの悲しみに寄り添おうとしての言葉だったのだろうし。そしてそれよりも宋江には気になる単語があった。
「ところで『お姉さん』て……」
「出かけに呉用さんだってあなたのこと、弟みたいなものって言ってたじゃない。違うの?」
と楊志がきょとんとした顔で尋ねてくる。
「……いえ、まあ確かにそんなものですね」
それを認めてしまうと、呉用に対する精神的な劣位が一生固定化されてしまうような気がして、宋江は一瞬思い悩んだが、結局認めた。
「あの人があの人が、楊志の小姑……」
「変な言い方よして」
「仲良くやっていかないとね、妹さん同様」
にこにこと秦明がいまいち感情の読み取れない笑みを浮かべて言う。
「そういえば、宋江殿」
と今まで口数が少なかった黄信が声を上げる。
「なんでしょう?」
「一応これで一段落したわけなので、そろそろはっきりさせておきたいのですが、今後その辺りはどうなさるおつもりで?」
「その辺り?」
「婚礼関係のことです」
さらっと黄信は宋江がもっとも触れて欲しくない部分に突撃をかましてくれた。
「あ、えーと、それは、その……」
とわかりやすく宋江はしどろもどろになる。
「黄信さん、それはその、宋江にも色々と事情があって……」
「そ、そうなのよ、黄信。あなたの気持ちはありがたいけど、ちょっとまだ時期尚早というか……」
と楊志と秦明がかばうように口を挟む。宋江はこの二人には自分の来歴を包み隠すことなく披露していたせいかもしれない。
「いや、時期尚早と仰いますが……」
と珍しく黄信が秦明に抗弁する。
「まあまあまあまあ、黄信さんちょっとまった」
と索超が彼女の手を止める。
「索超殿?」
「とりあえずとりえあえず、話が進まないからお二人はこっち」
と言って索超はずるずると楊志と秦明を手を引っ張って戸口に連れてく。
「さ、索超?」
と楊志は未だ理解できてないようで、狼狽を見せるが、秦明は観念したかのように大人しくついていった。
「えーと、ごめんね、宋江くん。黄信も君の敵って訳じゃ無いと思うから」
「いえ、そんな……」
それを言ったら秦明など追求の急先鋒に立ってもおかしくないというのに、自分をかばってくれさえしたのだ。このままここに残って弁護を続けて欲しいというのは、虫が良すぎるし、宋江としてもいたたまれない。それに本音では秦明がこちらに対し、期待を持っていることは明らかだった。
「林冲さん林冲さん」
と戸口にまで引っ立てた索超が廊下の向こうに向かって声を上げる。
「うん? 索超か?」
「このこの二人、食堂に軟禁しといて」
「索超!?」
「よくわからんが……食堂まで連れて行けば良いんだな?」
「よろしくよろしく」
と林冲の姿は見えないが、そんなやりとりが聞こえて鬼に袖をひかれるように楊志と秦明の姿が消えていく。
「えーと、私、この場に残ってて良いんでしょうか」
「むしろ、是非残ってて欲しいです」
阮小二に聞かれて宋江はそう答えた。彼女の立ち位置からして少なくとも黄信や索超のようにこちらを責め立てはしないだろう、という期待があった。
「さてさてさてさて、宋江くん」
と、部屋の中心にもどってきた索超が芝居がかった声で話かける。
「うちのうちの娘のことをどう考えているのかね、おおん?」
結局、宋江は自分の経歴をある程度ぼかして伝えることにした。はっきりと明確に説明しなかったのはあまりに正直に言ってしまって、冗談を言っていると判断されても困るからである。
「なるほど。つまりまとめると、宋江殿は遠い国の生まれで場合によっては一人でそこにもどらざるを得ないかも知れない、とそういうことですか」
黄信達の理解はおおよそ、そのようにまとまったようだ。
「ご両親のことがあるならあまり無理強いはできない、と常識的には言うべきなのでしょうが……」
「今の今の宋江の状態を考えるとそれは悪いけど、すっぱり諦めた方が良いんじゃないかな」
「それに宋清ちゃんのことはどうするんです? 宋江さんが死んだと思ってたときの宋清ちゃんたらこの世の終わりみたいな顔をしてましたよ」
だが、結局、索超や黄信だけでなく阮小二までこうして敵に回られてしまい、宋江は完全に孤立無援に陥ることになった。
「一応、お伺いしますけど、ここから宋江殿には円満に解決できる道筋が見えてるのですか?」
「……見えてないです」
黄信の質問に宋江は不承不承、そう答えざるを得なかった。厳密に言えば宋清と楊志と秦明全員に手ひどく当たって、愛想を尽かしてもらえば、というのはあるかもしれないが、出来る気がしないし、それを円満な解決とは呼ばないだろう。
「そうだねそうだね。ご両親には悪いけど、宋江は諦めてこの国で人生終える決意をしたほうがいいんじゃないかな」
「う、うう……」
それは確かに宋江がわずかながらも考えてきた結論の一つではある。宋江も良くも悪くもここまで多数の人間の人生に影響を与えておいて、それを放ってさよならするのはあまりにも不義理だと思っていたし、実際に、ここから自分がいなくなっても収拾がつくような状況へもっていける自信は無かった。
ただ、それはわかっていても、その選択は宋江には軽々にできなかった。ここでそうですね、と答えられているようならそもそもこんな葛藤を抱いていない。
「じ、時間を、時間をください」
「無理強いするわけにはいきませんが……秦明様のことを考えるとあまり待たせないでくださいね」
「むしろむしろ、適当にはっぱかけてやらせちゃえば諦めもつく? ……それをそれを考えるとこの間のあれは大失敗だったなぁ」
「この間のあれ?」
と阮小二が不思議そうに聞く。
「宋江が楊志と秦明さんに手を出す一歩前まで行ったんだけど、黄信さんがさ……」
「ひ、人に責任を押しつけないでくださいよ! あれは索超殿が全然動こうとしなかったからじゃないですか!」
黄信が珍しく慌てたように言う。
「あの、あんまり過激なことはやめて頂けると……」
「そうはそうは言うけど、宋江みたいな人間てさ何かきっかけがないとずっとずるずる行きそうだし」
宋江も自覚があっただけに、索超の言葉にはぐうの音も出ない。
「十年も経ってから決断を下されても困りますからね。しかし、宋江殿。こう言ってはなんですが、秦明様も楊志殿も見目麗しい方です。あの妹御もあなたに良くなついている……だからといってご両親や故郷のご友人をすっぱりすてるような非情な方とは思いませんが、心動かされませんか?」
「あまり態度には出さないけど、呉用先生も公孫勝さんもあなたがいなくなったらきっと悲しむわよ。秦明さんや楊志さんほどではないでしょうけど……」
と、阮小七がさらなる追撃を放って外堀をどんどんと埋められていく。大坂夏の陣の豊臣家ってこんなかんじだったのだろうか、等と益体もない感想が宋江の頭に浮かんできた。
「過激なのが過激なのが駄目なら、増やせばなんとかなったり?」
「増やす?」
「二人の二人の美人の妻と可愛い妹が一人、それに姉と師匠がいてまだふんぎりがつかないっていうならこっちの重りをどうにかして増やすしかないかなって」
「いや、しかし、それは……秦明様的にはどうなんでしょう」
「いなくなられるよりはいいんじゃないかしら。宋清ちゃんもきっとそうよ。けど増やすって一体どうやって?」
「妻で妻である必要は無いと思うんだよね。実際、妹の事も姉の事も大事にしてるみたいだし」
「あの、皆さん……?」
何やら恐るべき計画が練られているのを察し、宋江はおずおずと声をかけたが、時既に遅し、というやつだった。
「というわけでというわけで宋江の新しいお姉ちゃんその一の索超です」
「同じく、その二の阮小二です。よろしくね」
「そ、その三の黄信です」
ちなみに年齢は番号順と逆である。
宋江はもともと一人っ子で、小さい頃は確かに兄弟姉妹というものに憧れたこともあったし、実際、宋清がいる生活は楽しかった。が、ここまで雑に増やされても困惑するしかない。
「盲点盲点だったね。妻と違って姉妹は何人いても問題ない」
なぜか、ふふんと自慢げに索超が言う。
(まさか百人以上に増えたりしないよな)
一応水滸伝では百八人の英雄は義兄弟のちぎりを結びました、などとかいてはあったので、少し心配になる。
「ちなみにですけど、拒否は?」
「すぐにすぐに宋江が決心してくれるなら、あたし達もこんな茶番はしなくて済むよ」
「いや、こんな形だけの名乗りなんの意味も無いと思うのですが……」
と黄信は言う。宋江も聞いた当初はそう思っていたが、こうして宣言されると確かにこの世界への重しが増した気がしたから不思議だ。少なくともこんな茶番に(特にあの生真面目な黄信が)参加してでも、宋江を元の世界へ返したくないという思いは伝わってくる。
「ふふ、私は宋江さんみたいな弟なら大歓迎ですよ。うちの子達はどうも意地っ張りだったり生意気だったりですし」
意外と、というべきか一番ノリノリの阮小二がそう言ってくる。
「しかし、姉弟といっても具体的にはどういう?」
「さあ」
黄信が尋ねると索超が短く答えた。すっとぼけているわけではなく、真実何も考えてないらしかった。
「索超殿、もう少し何というか……」
「宋江宋江、お姉ちゃんを助けてぇ。黄信お姉ちゃんがいじめるよぅ」
「ええ!?」
断っておくと黄信の表した態度は呆れであって怒りほどネガティブな感情ではない、それでも索超は大げさに言って、宋江の身体を盾にして隠れようとする。
「あなたの姉になった覚えは……いや、なったのか? ええい、面倒な」
「ふふ、意外とこういうのって形から入るのが重要かも知れませんね」
言って阮小二はこちらを振り向いた。
「というわけで、宋江さん……じゃなくて宋江」
「な、なんでしょう」
「お姉ちゃんって呼んでみて」
「ええ!?」
と宋江は思わず後ずさろうとして、背後に索超がいるために一歩も下がれないことを再確認する羽目になった。
「呼んで呼んでくれないの? 悲しいなぁ。小さいときにはおしめだって取り替えてあげたのに」
「さらっと過去を捏造しないでください」
索超にそう抗議してみたが彼女はまるで動じていなかった。
「いいからいいから。姉と認めるか、覚悟決めて楊志達を幸せにするかのどっちかだから」
「どういう脅しですか」
と言って宋江は改めて正面を見る。いつになくノリノリの阮小二とそれから居心地悪そうな黄信がいる。
「お、お姉ちゃん……ですか?」
「なぜなぜ疑問形になるのかな?」
「この状況で断言できるような人間の方が異常だと思いますけど」
「でも『お姉ちゃん』だけじゃどっちのこと言ってるかわからないよね、お姉ちゃん」
「え? お、お姉ちゃんて、私の事ですか?」
阮小二に急に話を振られて黄信がうろたえる。
「ほらほらほらほら。さっさと覚悟を決めた決めた」
「あ、うう……」
と宋江は次第に追い詰められていく。
「げ、阮小二姉さん?」
呼び方を変えたのは精一杯の抵抗だった。
「はい、よく言えました」
許してくれたのか、もとよりこだわっていないのか、阮小二がぱんと手を打つ。
「あのう……索超さんもいい加減、放して頂けると」
「索超索超お姉ちゃんでしょ」
「放してください。索超姉さん」
「若干若干棒読みだが、まあよしとしてやるか。でも最後にもう一人残ってるぞ」
残る一人と言われると黄信しかいない。だが、黄信は明らかに残り二人より抵抗がありそうだった。呼ぶことにも呼ばれることにも
「宋江殿……その、できればこういう茶番を続けるよりもさっさとこちらに残ることを決断して頂きたいのですが……」
「すいません。なんか二重三重に迷惑かけてしまって」
割と本気でそう思う。主犯は索超なのだが。
「……いえ、よくよく考えてみれば故郷を、残した父母や友人を捨てるのは簡単ではありますまい。それを軽々に求めた我らが誤りだったのでしょう……」
と黄信は少し真面目な雰囲気になると、こほんと咳払いして続けた。
「こういう形が適しているかどうかはさておき、あなたが故郷に戻らぬ事で失うものを、我々が少しでも埋め合わせできるのならば、積極的に協力すべきでしょう」
真面目くさった顔で黄信は言う。姉は元々いないんですけど、とはいささか言い出しにくくかった。
「宋江殿……いえ、宋江。細かい言い方は任せますが、私を姉と呼んでもらえるのなら、そのどうぞ」
「う、うん。えーと黄信姉さん?」
三人目ともなると、いささか馴れだしたのか、宋江は意外とあっさりと言葉を口にする。だが、馴れているのは宋江だけで、黄信はそうではない。彼女は明らかにおちつかなげな表情になった。
「……い、意外と、なんかこう、むずがゆいですな」
「わかるわかる。あたしも一人っ子だったから」
そう言ってようやく索超が宋江を拘束から解いた。
「というわけでというわけで姉……姉同盟でいいか、がここに結成されたわけだ。宋江が早いとこ決断しないとどんどん増えていくからよろしく」
何やら恐ろしい宣言を索超がしてくる。
「善処します」
と、宋江がようやくそれだけ言ったところで、戸口に人影が現れた。
「なんか珍しい組み合わせだね」
花栄である。一時は宋江に離脱する宣言をしていた彼女だが、今のところまだこうして自分たちと行動をともにしてくれている。
「何のようだ」
直前の恥ずかしさを隠すためか、もとより相性のよろしくない黄信が花栄をにらみつけるようにして言う。
「とがらないでよ。宴会の準備ができたから呼びに来たの。まさかこの面々が同じ場所にいるとは思わなかったけど」
「色々あってな」
「そうだそうだ、花栄さんも」
「待て、索超殿。本当待って、お願いだから」
と敏感に索超の意図を感じ取った黄信が索超の手を掴む。本気で取り乱しているのか、普段の固い口調も崩れていた。
「そこまでそこまで言うならいいか。他に協力してくれそうな人はいるし」
と索超が気楽に言う一方で花栄は少し不機嫌そうに言葉を続けた。
「とにかく集まってよ。食堂に。と、それから、宋江」
「何でしょう」
と宋江は立ち上がって花栄に答えた。
「公孫勝さんと呉用って人、呼んできてくれない。あたしが頼まれたんだけど、特に呉用さんとはろくに話したことないからさ。あんたの方が適任でしょ」
「呉用殿、ほれ。そろそろ皆集まる頃合いじゃから行くぞ」
「私はいい……」
呉用の部屋に近づくと、そんな声が開けっぱなしの戸口の向こうからしてきた。呉用と公孫勝の声である。同じ部屋にいるらしい。
「しかしのう、みんなが帰ってきて最初の晩じゃし……」
「晁蓋はいないじゃない」
拗ねたような呉用の声。
「そりゃそうじゃが……」
「それにさっき宋江に散々八つ当たりしちゃったし……ちょっと顔合わせづらい……」
そういう自覚はあったらしかった。
「そっちが本音か。あいつは気にしておらんと思うぞ」
「でも……」
「それに、そういうのは間を置くとどんどん会いづらくなるものじゃぞ」
「………」
「宋江は馬鹿ではない。確かに八つ当たりも含まれてたのかも知れんが、おぬしが自分のことを心配しているからこその言葉じゃというのはわかっとるはずじゃ」
なんとなくその場に居づらくなって宋江は数歩後退してこそっと廊下の角に隠れた。
「しかし、なんじゃなぁ。おぬしも心配するのは良いが、それが憎まれ口や説教という形でしか出てこんのはちょっと反省した方が良いかも知れぬな。宋清の素直さをちょいと見習ったらどうじゃ」
「………」
「……それにじゃ、どうも足音から察するに当の宋江がこっちに向かっておるようじゃし。晁蓋殿に対するよりは言いやすいじゃろ?」
(……ばれてる?)
さっきから自分は静止したままで足音を立ててないのだから、多分そういうことなのだろう。と、同時にそんなところで様子をうかがってないでとっととこっちに来いというメッセージにも受け取れた。
しかたなく宋江は心持ち大きな足音を立てて、呉用の部屋へと向かった。
「ご、呉用さーん、清がご飯の支度できたって言うので、呼びに来たんですけどもー……」
「おお、宋江。ちょっと話がある。入ってこい」
戸口からそう声をかけると公孫勝が白々しくそう声をかけてくる。
「あれ? 師匠もこっちに居たんですね?」
なるべく不自然にならないようにそう言って宋江は呉用の部屋に入る。中には部屋の中心に立った公孫勝とその後ろで明後日の方向を向いている呉用がいた。
「えと……それで話というのは?」
とこれは芝居では無く、真に緊張して宋江は言う。
「呉用殿、ほれ」
と公孫勝は呉用を促すと呉用はようやくこっちを向いた。と言っても視線はさすがに会わせづらいのか、顔はうつむきがちのままだった。
「ええと、その……さっきはごめんなさい、宋江。あなただって大変だったのに……私、言い過ぎたわ」
「いえ、呉用さんの方が正しいと思うので、これから気をつけます」
これは合わせたわけでもなんでもなく真にそう思っていたので宋江は素直に言う。
「……ありがとう、そう言ってくれると、少し救われる……。その……言うの遅れて悪かったけど、あなたたちが無事に……まあ、怪我はしてるけど、概ね無事に戻ってきて……うれしく思ってるわ……」
「あ……えへへ、はい」
確かに、と宋江は思う。呉用が自分を憎んでいるなどと思っていたことは無いが、やはりこうして気持ちを言葉にされるとうれしいものだった。
「ほれほれ、それだけでないじゃろ。言いたいことは」
「そうね。と言ってももう散々言ったんだけど、最後にもう一回だけ。……宋清ちゃんだけじゃなくて私もすごく心配してたから、できれば次からは知らせを頻繁にくれるとありがたいわ。……実は三日くらい前から眠れてなくて……」
「なに?」
とこれは公孫勝も知らなかったことらしく、彼女は目をむいた。もちろん宋江も初めて知ることだった。
「おぬし……そりゃだめじゃ。心配なのはわかるが……」
「だって誰も戻ってこないし、全然連絡も無いし……予定が多少伸びたってもう戻ってきたって良いのに……宋江だけじゃ無くて無関係な人まで巻き込んじゃったのかと思うとどうお詫びしたら良いのかとか、色々考えちゃって、晁蓋も全然どこ行ったかわからないし……ぐずっ……」
寝不足で情緒不安定になっていたのだろう。話している途中で呉用は涙目になる。
「す、すみませんすみません! 本当にすみません!」
宋江はもう土下座せんばかりの勢いで頭を下げた。心配させているだろうとは思っていたが、まさかここまで深刻だとは思っていなかった。
「やれやれ。そこまでとはのう……こりゃ今日は休んでた方が良いな。飯は食べられるなら持ってきてやるがどうする?」
「いえ、行くわ。宋江が世話になった人達だもの。一言くらい挨拶しないと」
今度は逆に呉用が食堂に行くことを主張して部屋から出て行く。
「い、良いんでしょうか?」
「良くはないが、呉用殿の性格じゃと無理に寝かせたところで眠らんじゃろ。適当なところでさっさと引き上げさせるのが良かろうな」
顔をつきあわせてそう言ってから宋江と公孫勝は呉用の後を追った。
呉用は別に走っているわけでは無いので、部屋を出てしばらくしたところで、すぐに呉用に追いつく。呉用はそれを確認してかどうかわからないが、歩きながら独り言ともなんとも判断のつかないことをしゃべり出した。
「わかってるのよ、頭では。どんなことがあったってあいつは平気な顔して、帰ってくるんだから何も心配なんかする必要ないって……でもあいつだって人間なんだし……」
「そう考えるのが自然だと思います。それに晁蓋は強いですけど、ちょっと自信過剰で、危ういところもあるんで……」
「そう。そうよね。けど、あいつは全然そのことに無自覚だし……」
宋江が同調すると、そう言葉が返ってくる。どうやら独り言ではなかったようだ。
(ひょっとして)
と、宋江は思う。この中で宋江と呉用だけが知っている。自分たちの選んだこの道がやがて破滅につながっていることを、そして、晁蓋がその途上で自分たちよりはるかに早く命を落とすことを。水滸伝によれば、それはもっと先の話のはずだが、既に話の流れと現実の流れはかなり異なる。晁蓋が今回死んでいるかも知れないと、呉用が心配したのも無理からぬことかもしれない。
そんなことを考えていると公孫勝の声が彼を現実に引き戻した。
「まあ、とりあえずじゃな、今日は全部、晁蓋殿が悪いとそういうことでかたをつけんか?」
「かたをつけるというか……」
「実際に晁蓋が元凶なんですけどね」
はあ、と宋江と呉用はため息をつく。
「いえ、でもそうしましょう! そのぐらい言って良いはずだわ! このイライラも、みんなが怪我したのも、宋江の帰りが遅かったのも、雨が降ったのも、昨日皿が割れたのも! 全部全部全部! 晁蓋が悪いのよ!」
「そうです! 呉用さんの言うとおりです!」
「そうよ、その通りよ!」
その声は宋江達の視線の先の食堂からだった。いつの間にか、すぐ近くまで来ていたために、呉用の声に対して、応答が向こうから返ってきたようだった。声からすると、魯智深だろう。
「あいつがあたし達に何してくれたと思う! いきなりあたしたちをまとめて、河の中に放り込んだのよ! それしかないからって、普通躊躇無く実行する!?」
「おぬしがそれを言うか……」
魯智深に河に投げ込まれた公孫勝が呆れたように呟くが、この距離ではとうてい魯智深には届かないだろう。そうこうしているうちに、呉用が食堂に突入していった。
「本当に晁蓋ったらどうしようもないんだから、大体昔から名主の仕事も全部私におっかぶせて……」
据えた目のまま、呉用が大部屋に入っていくと、すぐさま賛同の声が部屋の中から上がり始めるのが聞こえた。
「あたしもあたしも決めてるもんね! いつか絶対、吠え面かかせてやるから!!」
「本当にさ、済州の時から考えても、晁蓋さんがいて、何か無事に終わったためしがないもの。最近ようやくわかったけど、あの人、悪意がない時の方がかえってたちが悪い……」
雷横の声だった。彼女もいつの間にか来ている。というより自分たちが最後なのだろう。
「そういや、あいつが済州に行ってたときの話、聞いたことないわね」
「そのまま聞かないで居ることをおすすめしますよ」
既に皆酒が入っているのか、言いたい放題である。仕方が無いのかもしれないが。
「……やれやれ、傷口の事もあるし、あまり酒は良くないのじゃが……まあ、今日ぐらいは見逃すか。話題が仮にも仲間の悪口というのは何ともいえんところじゃが」
と呆れたように公孫勝が言って中に入っていこうとする。
「あの、師匠。その前にちょっと良いでしょうか?」
「うん? 何じゃ?」
「その、状況が落ち着いたらで良いんですけど、師匠に一つお願いがあるんです」
宋江はそこで一旦呼吸を整えた後、公孫勝の目を見ていった。
きっかえは間違いなく先ほどの索超達との会話だった。とはいえ、前々から頭にはあったことではある。目を背けていたわけではないが、緊急事態が続いてつい後回しにしていたことに、宋江は手をつけようと決心した。
そろそろこの問題について、無知なままでいるのを、正確には無知であっても構わないと許すのを止めなければいけない。公孫勝への依頼がその突破口になるかはわからないが、現状答えを探すに当たってもっとも可能性が高いのは間違いなく彼女だろうし、他に手がかりのようなものは何もなかった。
「僕と一緒に来てもらえませんか? 僕がこの国に来た最初の場所。晁蓋と最初に会った廃屋に」
なぜ、自分はこの国へ、この世界へ来ることとなったのか、宋江はそれを探ることにした。




