その三十一 雷横、逃げ出すのこと
「それで」
と宋江から報告を聞き終えた呉用は、当然の質問を宋江に投げかけた。
「あの晁蓋はどこにいるの?」
「あ、いや、それは、ですね……」
梁山泊の呉用の部屋。そこで宋江は冷や汗を流していた。確かに立場から行っても関係性から言っても呉用にこれを告げるのは自分以外に居ない。それは理解している。ただ、理解はしていたとしても、それに覚悟がついているかどうかはまた別の話だった。
(せめて……せめて、阮小二さんが一緒にいてくれたら……)
実のところ、阮小二はついさっきまで宋江の苦境を察して一緒に着いてきてくれた。だが、呉用の『話を聞くだけなら宋江だけで良いし、阮小二さんは留守番していた阮小七のために早く帰ってあげて欲しい』という真っ当な言い分には抗えず、この部屋から出て行かざるを得なかった。
「その……三日前のことなんですけど……」
「………」
沈黙がひたすらに怖い。
「……お酒買いに行くって言って、そのままどっか行っちゃいました」
ばぎゃん! と音がして呉用の掴んでいた木製の文机がもぎ取られた。厚さ20ミリはあろうという木製の板がまるで蒸しパンか何かのように。
「………………ふーん」
「ぼ、僕は止めたんですよ! せめて一回呉用さんのところに顔出してからにしてくれって!!」
「あらそう。止めてくれたの? ありがとう」
穏やかな笑顔で呉用は応じる。もっとも、笑っているのは口元だけだったが。
「そ、そうなんです! そうなんですよ!」
「……全く本当に、どうしようもないやつなんだから。いいわ、帰ってきたら今度こそ、みっちり言って聞かすから」
「え、ええ、お願いします……」
ふふふ、と笑う呉用に宋江も引きつった笑みで返す。
(というか! よくよく考えたら、これ一方的に悪いの晁蓋だよね! 僕が怒られる筋合いは何も無い! ……はず!)
「じゃあそういうことで僕は……」
「待ちなさい」
宋江がそう言って辞そうとしたときに声が飛ぶ。
「……なんでしょうか?」
「宋江。あなたにはあなたで言いたいことがあるの、私」
「えーと……それは……」
明らかに剣呑な雰囲気を察して宋江は立ち上がりかけた状態のまま、凍るように停止した。
「座りなさい」
「はい」
穏やかであったが、まるで巌のような圧力を持った言葉にあらがえず、宋江はまたその場に座る。
「……宋江、出かけに私があなたに言ったこと覚えてるかしら?」
「えっと……ちゃんと戻ってこなかったら許さない、でしたっけ」
「そうね、よく覚えてたじゃない」
「で、でも、ぼくほらこうやってちゃんと戻ってきましたよね! ね!?」
「あら、あなた何を言ってるの、宋江」
「へ?」
「私、確かに戻ってこなかったら許さない、とは言ったけど……戻ってきたら許すなんて一言も言ってないわよ」
「ひどい! 詐術ですよ! そんなの!」
「じゃああなた、自分がだるまみたいに両手両足もぎとられて帰ってきても、今みたいに主張するつもり?」
「いやでもいちおう、五体満足……」
「傷だらけよね? 公孫勝からも聞いたけど、背中にも割と深い傷があるんですって?」
「………」
「それにね、宋江」
「はい……」
「まさかとは思うけど、その怪我がどうしてできたのか、さっきの話の中であなたがさっぱり話さなかったこと、私が気づかなかったとでも思ってるの?」
「え、えーと、それはえーと、えへへへへ……」
「あらあらうふふ……」
ごまかしの笑いを宋江が浮かべると呉用も応じるように笑った。が、次の瞬間呉用はいきなり真顔になってバン! と傍らの文机に手をたたきつけた。
「何がそんなに面白いのか説明してくれる?」
「絶対八つ当たりだよ、あれ……」
約二時間後、呉用の元からようやく解放された宋江はぶつぶつと文句を言いつつ、梁山泊の自室の寝台にうつ伏せで転がっていた。
既に、あの長かった一日から十日あまりが経過していた。そして、梁山泊に帰還したのは今朝のことなのだが、実のところ、この旅程には予定の倍以上の時間がかかっている。
遅れた理由はいくつかあるが、一番の原因は怪我した皆の治療のためだ。命に関わるような怪我はしてないものの、それでも、全員何も無く動けるというわけでも無いし、梁山泊に到着するまでの間、何もしなくて良いと言うことにはならない。船の上ではできることは少ないため、自然と宋江達の移動速度は遅くなっていた。
そこに晁蓋という余計なトラブルメーカーを抱えたせいで、いざこざが発生しきりだった、という事情もあったりする。
(晁蓋があんなにバカスカ食わなきゃあと二日は早く来れてたのに……)
一方で梁山泊では中々帰らない自分たちの事を不安に思っていたらしく宋清には今朝方、到着するなり、また泣き付かれてしまった。先ほどの呉用の説教に八つ当たりが含まれてるのは間違いなかったが、さりとて、自分の行動になんら落ち度が無いかというと、そうも言い切れない。
(けど、すぐ二言目に『宋清ちゃんがどんな思いで居たと思ってるの?』は反則でしょ。何も反論できないじゃん)
宋江も宋清や呉用の事を考えないわけでは無かったのだが、何せ連絡の手段も無いのでどうしようもない。いや、そこで怪我のしていない阮小五を使いとして寄越すなり何なりしろというのが先刻、呉用から言われた小言の一つではあったのだが。
ちなみにその宋清は今は部屋に居ない。宋江が呉用の部屋に行く前に台所で作業していたのは知っているが、まだ戻ってきてないのだろう。もうそろそろ夕方になろうという頃合いなので晩ご飯を作っているのかも知れなかった。
「宋江さん、お邪魔してもよろしいかしら?」
とそこに部屋の外から声がかかる。朱仝の声だった。
「朱仝さん? ええ、どうぞ」
寝台の上から起き上がって、そう応える。すぐに朱仝が椿のかぐわしい匂いとともに部屋に入ってきた。
「こんにちは。あら、ひょっとしてお疲れですか? 今日も朝からお忙しくしてらっしゃいましたものね」
「あはは……」
呉用に説教食らったせいです、とはさすがに言いがたく、宋江はごまかすように笑った。
「ねえ、宋江が疲れてるって言うんなら、出直した方が良いんじゃない?」
と朱仝の後ろから雷横が珍しくおずおずとした様子で顔を出してくる。
「雷横さんもご一緒でしたか」
「やっほ。ごめんね、お疲れのところ。急ぎじゃ無いから出直してもいいんだけど」
「あ、いえ、そんな。わざわざ来て頂いたのに二度手間になってしまうのもなんですから、どうぞどうぞ。疲れてたって言っても、そんな大したことじゃ無いですから」
宋江は部屋の隅に置かれている座布団を取って二人の前に並べる。雷横と朱仝は少しだけちらりと視線を交わしたものの、結局こちらが勧めるままに腰を下ろした。
「それで、どういったご用件でしょうか?」
「用件というか、まだきちんと今回のことで宋江さんにはお礼を言ってなかったので」
「お礼だなんて、そんな……元々は僕らのしたことが原因ですから」
「それはそれ、これはこれ、ですよ。動機と原因はどうあれ、あれだけ我々のために汗をかいて頂いたのに、何も言わないわけにはいきません」
「うん、そうだね。ありがとうね、宋江。それに基本死にかけたのは河清のやつと晁蓋さんのせいだし。宋江が原因の一部だってのは理解はできても中々そんな風には思えないかな」
「そういうことでしたら、その……どういたしまして、でいいんでしょうか」
「ええ、もちろん」
宋江が居心地悪くも二人の礼に応えると朱仝はそう言ってにっこり笑った。
「それとさ、今日ここに来たのは、それだけじゃなくて、今後ここで世話になるんだから大将にその挨拶に来たってのもあるんだよね」
「ですね。わざわざ、新しい部屋まで作って頂いて、家具も宋江さんがそろえて頂いたとか」
「いえ、僕がやったのは材料の木材を用意しただけですよ。後は師匠が全部やりましたから」
本当は公孫勝に言われて気功で木をきれいに分断したりしようともしてみたのだが、中々うまくいかず、結局全部彼女に任せる羽目になった。
「今は簡単な最低限のものしか揃えてませんけど、要望があれば伺いますので」
「あはは、ありがと。まあ、大将を使いっ走りにするのも気が引けるし、その辺は適当に自分たちでやるよ」
「そんな大層な立場じゃ無いですからお気軽に言いつけて頂いて結構ですよ」
雷横の言葉に宋江は思わず苦笑して答える。
「ところで、こちらは宋江さんとあの妹さんのお部屋だとか?」
と朱仝は言ってあたりをきょろきょろと見回す。
「ええ、清……妹は多分今台所に行ってますけど」
「私も先ほどお見かけしました。楊志さんから伺いましたけど、本当のご兄妹では無いというのは本当ですか?」
「はい。ちょっと……主に晁蓋のせいで、故郷にいられなくなったんで、僕が引き取ることになりまして……」
「ふーん……」
と雷横が興味があるのかないのか、なんとも判断のつかない声をもらす。
「慕われているようですね」
朱仝が言ったのは宋江が岸に到着するなり、宋清は突進するように抱きついてきた今朝の光景を指しているのだろう。
「もったいないことに、そうみたいです」
「宋江さんのような人格者ならば不思議なことでは無いと思いますよ」
「人格者だなんて、そんな大層なものじゃないですよ、僕は……」
朱仝の過剰な言葉に宋江はまたも苦笑せざるを得なかった。
雷横は朱仝としゃべる宋江の顔をじっと見ていた。普段はどちらかというと朱仝よりも、雷横の方が口数が多いのだが、今回、雷横はそれよりも気になることがあった。実を言えば、朱仝が彼としゃべっている内容も、色々と人から聞いて既に知っていることだったりする。朱仝もそれは同じはずだが、確認でもしているのか、わざわざ聞いていた。
と、それはさておき、雷横は改めて宋江のことを眺める。
顔はまずくはない。むしろ整っていると言っても言い部類だ。とは言え、町中ですれ違って振り返るほどでもない。まとめて言うと中の上。強いて言うなら、宋江の癖っ毛は減点材料のような気がした。
(まあ、あたしはそんなに気にならない……かな)
あくまで一般的には減点材料、と若干評価を修正する。
背は若干低くて、体も全体的に華奢と言える。この辺りはまだ十六歳なので大きくなる可能性はあるから何とも言えない。ただ、苦労……というか割と色々な災難に巻き込まれたせいか、見た目から受ける印象よりかは身体能力は高い。
性格はちょっと後ろ向きなところもあるけど、落ち着いていて責任感が強く、他人への配慮ができる人間だ。あと個人的にはあの晁蓋に物怖じせずに意見できるのは結構すごいと思う。意外と肝の据わった人間なのかも知れない。いや、実際に肝の据わった人間なのだろう。でなければ、自分たちを助けに大軍に飛び込もうなどとまず思わない。
(……あれ、宋江ってこれといって欠点無くない?)
いやいやいや、と雷横は思い直す。一方で特筆すべき長所があるわけでもない。そりゃまあ、世話になったし、何かと優しくしてくれたし、見た目のわりに頼りがいもある。顔かたちもほめるほどじゃないけど、合格点。
(ってそうじゃなくて!)
彼の魅力を再発見してどうしようというのだ。自分がすべきことはそうではない、と雷横が思って、改めて宋江の顔を見る。と、
「雷横、どうしたの、めずらしく、ぼーっとして」
こちらの思考に突然、朱仝の言葉が入り込んでくる。
「ふひゃっ! な、何?」
思わず変な声が出てしまった。
「何じゃ無くて、今あなたの話をしてたのに……」
「雷横さん。ひょっとしてまだお疲れなんじゃ無いですか? 今朝、ここについたばかりだし……」
と朱仝と宋江から顔をのぞき込まれて雷横は思わず後ずさる。
心臓が早鐘を打つ。大丈夫だろうか。長旅の汗は既に落としてきている。髪型も衣服も、ここに来る前に何回も見直して、朱仝にも意見を聞いた。特に変なところはないはずだ。それでも、宋江が近くで見れば何かおかしな印象を持たれるかも知れない。
彼は面と向かってずけずけと欠点を指摘するような人間でないのは知っているけど、だからこそ怖い。自分に失望したとしても多分表面上何も変わらないだろうから。ただ、彼の様子を見るに、今のところは純粋にこちらのことを心配してくれてるようにか見えない。
「う、ううん! 平気平気! 全然平気だから! そ、それで何の話だっけ?」
まだ心配そうな顔をしている宋江を振り払うようにして、雷横は話題を戻させる。
「えっと、それは……」
「あなたが作ってくれた食事、宋江さんとても気に入ったんですって」
「え? 本当?」
「いえ、あの、気に入ったというか、純粋に美味しかったという話で……」
宋江が言ってるのはあの再会した日から今朝、この梁山泊に着くまでの間のことだろう。食事当番がきちんと決まっていたわけではないが、雷横からすると、調理を任せるには不安な人間が多く、結果として雷横が食事を作ることが多かった。思い返せば、確かに宋江は美味しそうに食べてくれていたと思う。ただ、その隣に居るのはいつも自分ではなかったけど。
「同じ意味じゃありませんか」
「『気に入った』ってちょっと傲慢な言い方のようなきがしません?」
「そうでしょうか? どう、雷横。また機会があったら作ってあげたら?」
「あんなのでいいならいくらでも作ってあげるよ。でもどうせなら、宋江の好みとかもっと教えてくれたら、それを作ってあげるよ。お肉とお魚どっちがいいとか、しょっぱいのと辛いのだったらどっちが好きとか言ってくれればさ」
「本当ですか? なんか申し訳ないですけど」
「お安い御用だって。宋江には世話になってるから全然気にしなくて良いよ。なんなら早速、明日にだって作ってもいいくらい」
「じゃあ、後でちょっと清にも相談してみますね。人数も増えたし、ひょっとしたら手伝いを必要としてるかも。僕も手伝ってますけどね」
(……あれ?)
と雷横はそこで気づく。
(なんか、あたし……なんで? すごく楽しみにしてる。食事を作ることを)
雷横は自分の料理の腕についてことさら誇るほどのものでは無いと思っていた。特に料理が好きというわけでは無い。ただ、雷横は他の人より少し美味しいものを食べたいという欲求が強くて、そのために自分で今まで色々と工夫していたという自覚はあった。
つまり、雷横にとって料理とはあくまで、食事という目的を得るための通過点に過ぎない。それを殊更に、こなしたいなどと思ったことは無かったはずだ。
そしてさらに気づく。宋江が最後に言った言葉によって、ほんの少しその楽しみが減ったことを。
(いや……まあいいか。別に妹さんの手伝いでも、宋江一人のための料理じゃ無くても……今まで作ったのだってそうだったし。それでもまた今みたいに宋江が美味しいって言ってくれ……れば……)
とそこで気づく。自分が本当に楽しみにしてたのは何だったのか、気づいてしまう。
(ち、違う、違うよ、これは違う。そうじゃない!!)
誰からも聞かれてないのに雷横は必死に否定する。知らず知らずのうちに自分の手が暴れる心臓を押さえつけるように、胸を押す。
駄目なのだ。それを認めてしまったら駄目なのだ。だから必死になって忘れて、否定しようとして、だというのに自分のそんな誓いは、彼の二言三言であっさり砕け散ってしまった。
彼は自分の何でも無いのだ。助けてくれたそれだけの人。それ以上を望むのは贅沢……違う、それ以上は望んでも決して手に入らない。絶対に絶対に手に入らないもの。雷横には確信があった。
(あたしはなれない。楊志さんや秦明さんのようには……なれない)
雷横の脳裏にはこの梁山泊に来るまでに見た宋江と二人のやりとりがいくつもよみがえる。それは本当に幸せそうで、自分なんて比べものにならないほど輝かしくて、そしてそれを思い出すたびに雷横の心がひび割れていく。
「雷横さん?」
とそこである意味、もっとも注目して欲しくない人物がこちらに注意を向けてしまう。いや、冷静になってみれば、今まで自分と喋っていたのだから当然と言えば当然なのだが。
「本当に大丈夫ですか? 体調、悪そうですけど……」
「ち、違う、違う違う違う! ほんと、ほんと平気だから! だからこっちに顔向けないで! ってそうじゃなくてー!!」
「まあまあ、雷横ちょっと落ち着いて。ここで仮に逃げ出したりなんかしたら、さらに変な雰囲気なるわよ」
と自分の行動を制するように隣の朱仝が釘を刺してくる。
「宋江さん、雷横はちょっと照れて混乱してるだけですから、ご心配はいりませんよ」
「えっと……いえ、はい、わかりました」
いろいろなものを飲み込んでというような調子で宋江は頷く。
「話は変わりますけど私、私宋江さんと雷横ってちょっと似てるところがあると思うんです」
と、本当に唐突に朱仝は話を切り替える。
「へ?」
「どんなところがです?」
雷横は当然として宋江も疑問符を浮かべている。
「ズバリ言ってしまうと、自分の価値を低く見積もりすぎてるところですかね」
「自分の価値、ですか?」
と宋江が単語を反芻する。
「言葉通りの意味ですよ。宋江さんは自分を死んでも良い人間、とまでは思ってないでしょうけど、いざとなったら何かを自分の命と引き換えにしても良いと思ってる人間でしょう?」
「そんなことは……」
「ありますとも。つい先日、秦明さんや私を助けるために自分を危険にさらしたのがまさにそれですから。それが悪い、というわけでは無いですよ。晁蓋さんみたいに『俺以外は全員無価値』みたいなのはそれはそれでどうかと思いますし」
「晁蓋もそこまでひどくないと思うんですけど……」
と宋江が弱々しく反論する。
「でも、あの日も似たようなこと言ったかも知れませんけど、宋江さん、私を見捨てなかったときに妹さんがどう思うかまで、きちんと考えてました?」
「えっと……考えて無かったです」
宋江は渋々といった様子で認めた。
「それで救われた私が言うのもどうかと思いますけど……いえ、だからこそいうべきですかね。宋江さん、何が何でも自分を優先しろとまでは申し上げませんが、あなたが命をかけるというならそれ相応のものにすべきだと思いますよ」
とそこまで言って朱仝はにこっと表情を変えた。
「……とまあ、ちょっと説教くさくなってしまいましたけど、実は私はあなたのそんなところ、気に入ってしまってるんですけどね」
朱仝の最後の何気ない一言に雷横の心臓がドキンと跳ね上がる。朱仝も? 朱仝までそうなの? いや、ちょっとさすがに深読みしすぎだろうか。
「ど、どうも……」
宋江もちょっと照れたようにはにかんで笑う。うれしいのだ、朱仝の言葉が。
「で、雷横も同じようなところがありまして……」
と朱仝は何事も無かったかのように言葉を続けるとやにわに手を伸ばして、自分の両肩を抑えるように手を添えた。
「しゅ、朱仝……?」
「雷横。自分では気づいてないみたいだけど、あなたとても魅力的なのよ」
「うえっ!」
朱仝の予想外の台詞に妙な声が喉から飛び出る。
「宋江さんからも一言、言ってあげてくださいな」
「しゅ、朱仝。止めようよ、そういうのは……宋江だって困るでしょ?」
「僕なんかの言葉で良ければ、いくらでもあげられますけど……」
「効果抜群ですよ。さっき雷横が宋江さんに料理の腕褒められたとき、すごくうれしそうに喜んでたのを見たでしょう?」
「ええっ!? あたし、そんなんだったの!?」
「あなた、自分のいろいろなところに無自覚なのね。いえ、普段はそこまででもないのだから、何か他に気になるものでもあったのかしら?」
「ち、ちが、そんなんじゃ……」
と朱仝に反論しようとしたところで、唐突に別の声が飛び込んでくる
「雷横さん」
宋江だった。そっと朱仝が自分を押さえつけていた方から手を外す。
「な、なんでしょうか」
雷横は緊張のあまり、声どころか、口調までいつもとは別人のようになってしまう。
「雷横さんを困らせたくは無いんですけど……でも多分言った方が良いと思うんで言いますね。ここに来るまでに雷横さんが振る舞ってくれた料理、とっても美味しかったです。ありがとうございます」
「う、うん。どういたしまして」
こくこくと最低限の言葉と反応を雷横はようやくのことで返す。
「それと、雷横さんが自分のことをどう思っているか、僕にはわかりませんが……少なくとも僕はとても頼りになって、その、ええと……綺麗な人だと、思っていますよ」
「へ……あ……う……」
宋江の言葉に自分の顔が真っ赤になっていくのがわかる。もう駄目だった、限界。
「しゅ……」
「しゅ?」
「朱仝の……バカーーーーーー!!!」
かろうじてそれだけ言い残して雷横はその場から逃げるように走り去った。
「やっぱこういうこと言っちゃまずかったでしょうか」
自分も結構勇気を出していったのだけど見事に裏目に出てしまったようだ、と宋江は反省する。
「いえ、是非どんどん言ってあげてください。毎日言ってれば、そのうち、雷横もなれるでしょうから。悪いのは耐性のなさすぎる雷横の方ですよ」
と朱仝が言う。彼女は思いっきり雷横に怒鳴られた後もどこ吹く風と言った調子で動じていない。
「実際、どう思います? 雷横のこと」
「先ほどの言葉通りです。頼りになって……その、綺麗な方だと思いますよ」
「楊志さんや秦明さんより?」
「……そういう、どう答えても火種にしかなりそうにない問いをぶつけてこないでくださいよ」
「きっと雷横は楊志さんや秦明さんの方がずっと上、と言ったところで怒りませんけども?」
「朱仝さんが怒るでしょ」
「起こるだなんてそんな。不機嫌になるだけです」
言って楽しげにふふっと朱仝が笑う。朱仝に会話の主導権を握られているとなんだか危険な気がして、宋江はこちらから話を振った。
「雷横さんは昔からああだったんですか?」
「気づいたのはつい最近のことなので断言できませんが、恐らくは」
「そうなんですか」
そう短くない付き合いと聞いていただけに宋江は朱仝の答えをに意外に思いながら首をかしげた。
「私も実は雷横にあんな一面があるとは知りませんでした。大抵のことには物怖じしない人間なのに、まさかこういった話だとあんなに臆病だなんて」
「こういった話?」
「聞き流してください」
すっぱりと断ち切るように朱仝は言う。
「僕もさっき、ああは言いましたけど……無理に矯正する必要は無いんじゃないですか? それこそ、こう言うのって他人が言っても簡単に変わるものじゃないでしょうし」
と宋江が尋ねると朱仝は珍しく少しの間、沈黙した後に口を開いた。
「例えばですが……そうですね。肉を食べようとしたら、火を通さないといけないでしょう。そうでないとおなかを壊しますからね」
「ええ、まあ」
「だからです」
「さっぱりわからないんですけど」
「物事には順序というものがあってそれを無視するとろくなことにならない、ということですよ」
宋江の頭の中は相変わらず疑問符で埋め尽くされていたが、朱仝はそれ以上、説明してくれる気配はなかった。
だから推測することしかできないが、要は雷横のあの悪癖を直してもらわないと、何かが始まらないということなのだろう。その何かがなんなのかは全くわからなかったが。
「さて、私一人がお邪魔してるのも何ですし、そろそろおいとまします。ああ、それと妹さんから言づてを預かってます。私たちとの話が一段落したら食堂に来て欲しいと」
「食堂に? わかりました。ありがとうございます」
「雷横もですけど、宋江さんもさっき私が言ったこと、忘れないでくださいね。ご自分を安売りするのは相手にとって迷惑なことだってあるんですよ」
朱仝は立ち上がって部屋の出口に歩きがてら、そう言ってくる。
「朱仝さん、僕のそういうところ、気に入ってくれるって言ってませんでした?」
「……だからこそですよ」
朱仝はこちらを振り向いてくすりと笑うと、部屋から去って行った。
(……ひょっとして、雷横さんがああなったのって朱仝さんのせいじゃないかな)
朱仝が何か悪いということでは無い。ただ、朱仝は雷横に比べると目を引きやすい人物である。
頭の回転が速く、美しく長い黒髪に流麗な顔の造形。すらっと背が高く、女性的なしなやかな曲線も持ち合わせている。雷横の能力がそれに劣るというわけではないのだが、どちらが目立つかと言えば、朱仝に軍配が上がってしまうのは致し方ないことなのかも知れない。
雷横と朱仝がそれぞれ自覚しているかわからないが、雷横は朱仝のそういう部分を自分と比較してしまっているのかもしれない。雷横にあの場で言ったのはお世辞でも何でも無いのだが。
そして、朱仝もなんとなく言葉の節々から雷横は自分よりもずっと優秀な、あるいは少なくとも自分が逆立ちしてもまねできないものを持っている人間だと見なしている節があった。だからこそ雷横の状況にいらだっているのかも知れない。
(あなたも自分の価値を低く見積もりすぎてるんじゃないですか、朱仝さん……)
宋江は朱仝が去った後の空間を見ながら心の中でそう呟いた。




